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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
  X9_Still staring at me

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116/244

111 てのひらに赤い痕(上)

「これはなかなか美しい剣ですねえ」


 まだ若い道具屋の主人は、のんびりとした口調で言った。

 

 王都から派遣されてきた調査団の一員が持ち込んだ一振りの剣を、じっくりと隅から隅まで眺めて、人の好さそうな顔に笑みを浮かべている。


 熟練の探索者たちが使う店を避けるために、新たに出来たという道具屋へやって来たのだが。

 剣を眺める店主の様子には鋭さがなく、頼りなさそうとしか思えなかった。


「美しい造りですけど、使い込んでありますから」


 五百シュレールでどうか、と店主は言う。

 どんなものも高値で買い取ると看板を掲げているくせに。そんなに安いはずがないと、女は持ち込んだ剣を奪うように取り返して、店を後にした。




 迷宮都市の西側をとぼとぼと歩きながら、チェニー・ダングは深々とため息をついている。

 胸に抱えているのは、あの時持ち帰ってしまった、ベリオの使っていた美しい剣。

 一人深い層に取り残されて、なんとか生きて帰らねばという思いから奪ったものだ。

 帰還の術符が見つかったのだから、必要なくなったのに。

 けれどこの剣と、ダンティンの荷物から取り出した橙色の石のついた腕輪を、どうしても手放せずにいる。

 

 自分の手元に置いておきたくなくて道具屋へ行ったくせに、不当に安値をつけられたと怒っているのは何故なのか。

 本当はもっと、もっともっと高価なはずだろうけれど、そんなことは「関係ない」のに。

 手放す為に持ちこんだのに、どうして?


 自分の心がわからなくて、女兵士は震えながらのろのろと歩いている。



 あれから。

 「橙」の二十一層で五人組がばらばらになってしまってから、嫌な夢ばかりみていた。

 高揚のままに犯した罪と、その結果繰り広げられた残酷な光景が頭から離れない。

 そのあと投げつけられた酷い言葉の数々は心を切り裂いてチェニーを痛めつけているのに、ジマシュにずっと焦がれ続けている。

 なにを言われても、どんな態度を取られてもいい。会って弁解して、理解されたい。見直してもらいたい。

 けれど、わかっているのだ。そんなことはできない。決してさせてもらえないのだと。


「聞いているのかね、ダング調査官」

 急に大声が耳に届いて、チェニーはびくりと体を強張らせていた。

「なにがあった? ずっと様子がおかしいが、病気なのかね」

 調査団長のショーゲンが目の前にいる。団長室の奥、執務用の立派な机の前に、チェニーは一人で立たされている。

 道具屋へ行って、帰って、それから? 眠って起きて、着替えをして、それから?

「医者には診てもらったのか」

「いいえ」

「君にこの話をするのは何度目だろうな」


 そんな話があっただろうか?

 わからない。あった気はするけれど。

 たくさんの叱責を受けてきたし、反発したり、無視をしたこともあった。

 けれどよくわからない。今が一体いつなのか、どのくらいの時間帯なのか、どうやってここにやってきて、いつショーゲンと向かい合ったのか、チェニーにはなにもかもがわからないままだ。


「調査団の者が向かうからよろしく頼むと、随分前に伝えているのだがね」

 ショーゲンの嫌みはいつものことで、女兵士の心にまでは響かない。

 耳を素通りしていった話は、予定には組み込まれない。

 だからチェニーは、自ら医者のところへ行ったリしない。


 あまりにもおかしいと判断されたのか、次の日の朝、チェニーの部屋を他の団員が訪れていた。

 虚ろな女兵士を医者のもとへ連れて行き、診てもらうよう手配がされたようだ。


 そこでの話も、結局覚えていない。

 顔色が悪い、痩せている、生気がない。

 夜眠れているのか問われ、それには答えたように思う。

 嫌な夢を見続けていて、苦しいのだと。

 よく眠れるようになる薬を処方されて、付き添いの手を借り、チェニーはまた今日もとぼとぼと歩いている。


「もう実家に戻ってはどうかね、ダング調査官」


 そんな言葉ではっと意識を取り戻していた。

 チェニーの前にはまたいつの間にかショーゲンがいて、渋面を作って役立たずの部下に向けている。


「そんな状態で居座られても迷惑だ。確かに調査団など、もう名ばかりの存在ではあるがね。だが、君のその腑抜けた姿を、この街の住人達にいつまでも見せ続けるわけにはいかないのだよ」

 解雇の通知を作るから待っているといい。

 ショーゲンは小声でそう言って、人員の補充をかけなければと続けて呟いている。


 チェニーは震えながら団長室を出て、部屋に戻ると長いコートを身にまとい、外へ飛び出していった。

 剣の腕を磨き、兄と一緒に騎士になりたくて体を鍛え、兵士として採用された。

 解雇などという不名誉に、怒り、抗議し、耐えられないと考えるのが本来のチェニー・ダングのはず。

 ならば今、足早に東へ向かう女は一体誰なのだろう。

 彼女の頭によぎったのは、憧れていた兄の背中でもなく、ぼろぼろになるまで振った思い出の木剣でもなく、金色の波打つ髪を輝かせ、冷酷な光をその目に宿したジマシュ・カレートの横顔だった。

 

 彼女の主であるジマシュが使っていた隠れ家へたどり着いたが、当然、誰もいない。

 近くには宿屋街があって、通りかかる者も大勢いるから。

 チェニーが下手を打ったからだ。血だらけで、疲れ果て、焦った様子で駆けこんだ。

 決して警戒を怠るな、人目につくな、目立つな、知られるな。

 彼の命じたすべてに逆らったのだから、あの廃宿は使われなくなって当たり前。もぬけの殻になっていると、わかっていたのに。


 気分が悪かった。

 なにか食べたのか、飲んだのかすらわからない。

 女の中にあるのは、容赦のない美しい若者の姿ばかりだ。

 彼から与えられた情愛がすべて幻だったとは信じられなくて、最後に残されたのは酷い言葉ばかりなのに、それすらも失いたくないし、捨てられずにいる。

 心の片隅では、底抜けの愚かさに気付いているのに。

 自分だけが受け取ったはずのものは、ヌエルにも同じように与えられていたというのに。


 掌にのせられた思い出と、優しい囁き。すべて、あまりにも美しすぎた。

 神々しいほどの煌めきが忘れられない。

 崩れて色を失ってしまった宝石を、また輝かせてもらえるのではないかと考えてしまっている。

 

 決して手に入らないものなのに、再び手にしたくてたまらない。

 自分は強欲なのか。それとも、ただ純粋なだけなのか。

 左手に真実、右手に願いを乗せて、どちらも捕らえようとしているうちにこうなってしまった。

 今ではどちらの手になにがのせられているのか、目が曇って見えなくなってしまった。


 東門近くの安宿街を抜けようと、必死に歩く。

 けれど、もう歩くことすら難しい。

 いつの間にか涙をぼろぼろと流しながら、よろよろふらふら彷徨って、倒れて地面に手をついている。


「ねえ、大丈夫?」


 あたりを歩く人影はいくつもあったのに、ほとんどが無情に通り過ぎていく。

 そんな中、一人の若い男が膝をついて、チェニーへ問いかけて来た。


「ええ」

「そうは見えないなあ。肩を貸してあげるよ。俺はまだあんまり背が高くないから、うまく支えられるかわからないけど」

 若い男は慣れない様子ながらも、チェニーの体を支えて立たせてくれた。

「近くに車輪の神殿があるから、休ませてもらったらいいと思う。困った時は助け合うもんだって、俺の父さんもよく言っていたしね」


 男の声はまだ若くて、十代半ばくらいではないかとチェニーは思った。

 肩を借りて歩きながらなんとか顔を上げると、まだ幼さの残る横顔が見える。

 肌はよく日に焼けていて、髪は黒い。瞳は黄土色で、ぱっちりとした目が可愛らしかった。


 長いコートを着ているせいで、調査団の制服は見えないのだろう。

 少年はなにも言わずに、ただチェニーを近くの神殿へ連れていってくれた。

 神官へ声をかけて、長椅子に座らせ、具合が悪そう、歩くのも大変そうだったのだとかわりに話してくれている。


 長椅子の上にだらりと座り込みながら、神殿へ来たのは久しぶりだとチェニーは思った。

 王都では兄と一緒によく鍛冶の神殿へ行って、強い心身を与えてくれるように祈っていたのに。

 そんなことを思い出したせいで、デルフィの顔が心に浮かんだ。

 ジマシュと一緒に故郷から出て、探索者として活躍していた鍛冶の神官。

 彼は悪い男にあれこれ吹き込まれて、幼馴染を置いて去ってしまったのだという。


 いかにも気弱そうな男だった。上背はあるのに、ひょろひょろと痩せていて。

 神官であることを隠していた。脱出の魔術の使い手だからと、ベリオにいいように使われていた。

 彼自身は優しい人間だったと思う。ダンティンの手当を快く引き受けて、薬を塗り、包帯を巻きつけ、破れた服を繕って直してやっていた。


「ダンティン……」


 一番思い出したくなかった男の顔がはっきりと脳裏に浮かび上がってきて、チェニーは両手で顔を抑えた。

 明るくて単純で、嘘も、疑いも持たない青年だった。

 利用するのにちょうどいい、愚かな若者。

 計画を立てた後は、素晴らしい出会いだと思っていた。

 そう思った過去の自分が、チェニーにとって今一番許せないものだ。


 けれど怒りは悲しみに飲み込まれて、兵士はぽろぽろと涙をこぼしている。

 悲しくて苦しくてたまらない。

 両手で抑えていても、とめどなく溢れる涙は止められるものではなくて、袖や膝の上に次々に落ちていく。


「どうなさったのですか、そんなに泣かれて」

 ふいに温かい手が肩に乗せられて、チェニーは声をかけてきた人物を見上げた。

 車輪の神殿に仕えている神官なのだろう。穏やかな顔をした女性は、青銅の車輪が描かれた神官衣を身に着けている。

「どなたか大切な方を見失ったのですか」


 チェニーは震えながら、こくりと大きく頷いて答えた。

 神官は隣に腰をおろして、涙に暮れる女兵士の背中を優しく撫でていく。


「みな、大切な人を探しに来られます」


 車輪の神殿には、探索者たちの残した物が保管されているから。

 迷宮へ行ったきり戻って来なかった誰かの荷物のうちの一部が、宿屋から運ばれてここに集められている。

 なので大切な誰かを探しにやって来た家族や恋人は、手がかりを求めてここにたどり着く。

 なにかが見つかれば、探索から戻って来なかったということ。

 なければ、希望を繋げられるようになる。もちろん、なにも持っていなかっただけで、とうにこの世から消え去っていることもあるのだが。


 車輪の神官は親切にあれこれと説明してくれたが、チェニーの心は再び激しく動揺していた。

 ダンティンやベリオの家族もやって来るかもしれないと考えたからだ。

 ベリオについてははっきりとわからないが、ダンティンは宿になにも残していなかった。

 俺は身一つでやって来て、これから成り上がっていく男だからな、と聞いてもいないのに大声を張り上げていたから。


 だからここには、ダンティンの物はない。

 居た堪れなくて、チェニーはよろめきながらも立ち上がり、車輪の神殿を後にする。



 調査団の寮へ向かって歩く道の上で、大勢の若者とすれ違った。

 彼らは毎日どこからかやってきて、迷宮に飲まれて消えていく。

 少しくらい、なんだというのか。チェニーはそう考えていたし、考えようと決めていた。

 けれど。

 あんな裏切りは、起きない。滅多に起きるものではない。


 わざと、罠にかけた。


 「橙」の二十一層に、二人以上で行かねばならない細い道があると、そこに大きな刃が飛び出してくると知っていた。


 どうなるか知っていて、あのスイッチを押した。



 不安でたまらない。

 正しいと信じていたのに。

 ああするしかないと決めていたのに。


 

 その日もまた、嫌な夢にうなされて何度も目を覚ました。

 深夜に汗だくで目覚めて、祈るような気持ちで睡眠薬に手を伸ばす。

 独特の匂いが鼻をつく。水も用意しないままぐいっと飲み込んで、再びベッドへ倒れこむ。


 気が付いた時には、朝が訪れていた。

 夢は見たような、見なかったような。記憶はふわふわとしていて、ぼんやりとしたまま朝礼に参加していた。

 解雇の通知はまだ出ないようだが、なんの仕事も割り振られなかった。

 見回りだの、探索者の相談受付だの、団長のお使いだの、なにかしら命じられるのに。


 自分はもう、この場所には不要な存在だ。

 いや、ずっと前からそうだった。

 勝手に寮を抜け出し、美しい男に誑かされて夢中になり、目をかけてもらいたい一心で罪のない青年の命を奪うような人間に、一体なにを任せられるというのだろう。


 そんな女の居場所など、この世のどこにもないのではないか。

 あの「橙」の二十一層までいって、あの罠で、同じように命を捨てるべきなのではないか?


 絶望が押し寄せて来て、チェニーはまた震えている。

 自分の命に価値はないと考えているくせに、思いの隙間にまだ美しい横顔を潜り込ませて恋焦がれている。

 浅ましい。けれど、求めたい。

 

 形の崩れた景色の中を彷徨い、チェニーは医者のもとにたどり着いていた。

 診療の時間ではなかったのに扉を激しく叩いて、大声で喚いて、中に入れてもらった。


 初老の医師は戸惑いながらも、様子のおかしい女の話に耳を傾けてくれた。

 チェニーは必死になって、辛いことがあったのだと訴え続けている。

 けれど、真実は口に出せない。それだけは言えない。言ったら最後、壊れた心はとうとう砕けて、なくなってしまうだろうから。


「なんの夢も見ないで眠れる薬があるのなら、それを下さい」

「悪夢に悩んでいるんだね」

「もう、あんな夢を見たくない。ただ静かに眠って、そのまま記憶をすべて消してしまいたいのです」


 取り乱したチェニーの様子から、医師はなにかを感じ取ったらしい。

 少し痩せて骨ばった手で女兵士の手を取り、辛かったね、苦しい思いをしただろうと深刻な表情で語りかけている。


「ここは男性ばかりの街だから。女性が危ない目にあわなくなるような仕組みを作ろうとはしているんだけれどね。それでもどうしても、あなたのような酷い経験をさせられる人は、いなくならないんだ」

 同じ男性として申し訳ない、と医師は頭を下げている。

「辛い思いをしたところからは、離れた方が良いんだよ。だからね、あなたにちゃんと故郷があって、家族が待っているのなら、戻って安心できる人たちと暮らしていくのが一番だと思うよ。必要ならば、家族に伝わるような手紙を書いてあげるし、薬も用意してあげられる。心配しなくても、そんな事情のある患者からはお金は取らないから」


 心底気の毒そうな顔で話し終わると、医師は優しげに微笑み、チェニーの背中を撫でた。



 結局なにひとつ解決しないまま、チェニーは再び道の上にいた。

 「よく眠れる薬」が薬がもう一種類増えただけ。

 医者は勘違いをしてあんな助言をしてくれたのだろう。

 確かに、男に暴力を振るわれ欲望のはけ口にされることの方が、殺人を犯してしまうよりは多いに違いない。


 自嘲気味に笑って、チェニーは空を見上げている。

 ここから逃げて、結婚でもしたらいい?

 兵士をやめて王都の実家へ戻れば、両親は大慌てで娘の結婚相手を見つけてくるだろう。

 やっと諦めてくれたかと、喜ぶのではないかと思える。


 けれど。


 彼との思い出を心から消し去ることはできない。

 それに、罪も。


 犯した大罪に震えているくせに、心の底では浅ましく男を求め続けている愚かな女が、親元に戻ったくらいでまともに暮らせるはずがなかった。


 寮に向かって戻る間に、古い宿屋街だった区画に行き当たった。

 石や木材は一か所に集められ、積まれていて、職人たちが忙しそうに走り回っている。

 近くに調査団の建物があるんだから、気を抜いては駄目だと大声を張り上げている男がいた。


 ベリオとひとときを共にした廃屋も、幸運の葉っぱという名の宿も、もう残っていない。

 散々通った安食堂も、すべて解体されて消えてしまった。

 あそこで起きた出来事は、いつ消えてなくなるのだろう。


 店の主人や客たちが、みんな死んでいなくなってから?

 ジマシュもヌエルもデルフィも、全員が命を終えれば手についた血は消えてなくなるのだろうか。 


 髭の親方が空を見上げて号令をかけると、労働者たちは休憩に入った。

 その場に座り込んだり、水をもらいにいったり、体を大きく伸ばしたり。

 チェニーはぼんやりと佇んだままでいたが、ふと、一人の男の視線に気が付いた。


 遠くからでもわかる。まっすぐに女を凝視していると。

 西の空き地で暮らしている脱落者だった男だ。

 どこでどう声をかけられ、どんな協力をしていたかは知らないが、ジマシュの為に動いていた男だった。


 男は口元をにやりと歪めて、チェニーに向かって歩み寄ってきているようだ。

 恐ろしくなって、女兵士は慌てて逃げだしていた。


 再開発中の地区を離れ、路地を飛び出し、誰かとぶつかる。

 驚きの声があがり、なにかが割れる音が派手に響いていた。


「うわあ、わあ、落とした、割れた!」

 少年が悲鳴のような声を上げて天を仰いでいる。

 地面には無残に砕けた瓶が散らばり、中身は地面に浸み込んで消えていく。

「ごめんなさい」

「ああ、なんてこった。参った、困った」

「本当に申し訳ない、ぶつかってしまって」

 チェニーがなんとか大きな声を絞り出すと、少年はぶつかってきた相手に気が付き視線を向けた。

「謝って済む話じゃないよ。まだ働き始めたばっかりなのに、クビにされちまう」

 

 頭を抑えたり、額を掻いたり、少年の様子は落ち着かない。


「配達の途中だったんだよ。高価な薬なんだ」

「高価な?」

「そうなんだよ。それに、なるべく早く持ってきてくれって頼まれたのに」

 

 急いで店に戻らなければならないと少年は呟き、女へ鋭い視線を向けた。

「ねえ、一緒に来てよ。そっちがぶつかってきて割れちゃったんだって、店に説明してくれないか」

「もちろん、弁償させてもらいます」

「本当に? 払えるの?」

「なんとかします」


 高価な薬とやらは、一体いくらなのだろう。

 最近まともに働いていないチェニーの懐事情は厳しい。だが、逃げるわけにはいかない。

 黙り込む女兵士をまじまじと見つめて、少年はあることに気が付いたようだ。


「その服ってもしかして、王都の調査団?」

「ええ、そうです。チェニー・ダングといいます」

「女の人だよね? 調査団には女の人もいるのか」


 まだあどけなさの残る少年はメハル・イスパストと名乗った。

 大手の薬草業者のひとつであるミッシュ商会で働くために、迷宮都市へやって来たのだという。


「良かった。こういう厄介ごとが起きた時って、みんな逃げちまうもんだと思っていたから。さすがだな、王都から来た調査団っていうのは。逃げ隠れしないで、ちゃんと謝るんだから」


 メハルは調査団の公平さに感心したらしく、落とした瓶のかけらを集めて袋に入れると、すぐに店に来てもらって大丈夫かチェニーへ尋ねた。

 急ぎの用事もない女は頷きながら、メハルが昨日、道の途中で親切に声をかけてくれた若者だと気が付いていた。


「俺らの指導役の人はね、すごく厳しいんだ。薬を扱うんだからもちろん、丁寧にやらなきゃいけないのはわかってるんだけどさ。だけど、おっかない人なんだよ。ありがとう、一緒に来てくれて。俺の話だけじゃ嘘ついてるんだろうって言われちゃうかもしれないからさあ」


 コートを着ていたから、制服は見えなかったのだろう。

 少年は神殿へ送ってやった行き倒れの正体には気付いていないようで、チェニーは黙ったまま南へ向かって歩いていく。


 通りを行きすぎる人々が入れ替わっていく。

 迷宮が近くなれば探索をする若者たちに。それを過ぎれば商いの者たちに。もっと進めば、店の従業員たちや買い物客が多くなっていった。


「ここだよ」

 街の北側から南までずっと歩いたせいで、息があがっていた。

 体力が落ちた。汗がとめどなく溢れて、顎の先から次々に落ちていく。

 こんなことで兵士の務めなど、果たせるはずがない。

 ショーゲンが厳しい言葉を投げてくるのは当然で、チェニーの心は暗く染まっていく。


「どうしたメハル。いやに早いな」

「それが、ちょっと事故があって」


 少年はまっすぐに店の「指導役」とやらのもとに行ったのか、うんと年上の男と話している。

 袋の中に入れた割れた瓶のかけらを見せて、チェニーを指さし、事情を説明しているらしい。

「ああ、こりゃどうも。王都の調査団のお方で?」

「そうです」

 チェニーが名乗ると、男はぺこりと頭を下げた。

「メハルが言うには、調査団さんがぶつかってきたって話ですが」

「間違いありません。慌てていたせいで、よく確認をせずに道へ飛び出してしまったのです」

「そうですか。いや、正直にどうも。あれは高価なもので、代金を払っていただけると助かるんですが」

「いくらなのですか」


 女の問いに、男は少し悩んだようなそぶりを見せた。

 だがすぐに大きくひとつ頷いて、代金についてこう説明をした。


「調査団さんが相手なら仕方ありません。原価で結構です。売値は随分高いんですが、内緒にしておいてくださいよ」


 恐縮した様子ながらも、二千シュレールの支払いを要求された。

 メハルが慌てたのも仕方がない。たかだか薬の瓶ひとつ、そこまで高額だとは思わなかった。

 もちろん、そんな大金を持ち合わせていない。

 寮に戻ってかき集めたら、ぎりぎり足りるかもしれないが。

 けれどそんな真似をしたら、明日からの暮らしに困ってしまうだろう。


「持ち合わせはないのですが」

 チェニーがこう切り出すと、男の顔はわかりやすくどんよりと曇った。

「お支払いいただけないんで?」

「いえ、払います。今は持っていないので、用意をします」

「本当ですか?」


 逃げるつもりはない。証文を書けば良いだろうと女は考えたが、昨日のショーゲンの言葉を思い出し、口を噤んだ。

 ひょっとしたらもう既に、調査団を解雇されている可能性があるのではないか。


「これを預けます。売ればそれなりの額になるものですから」

 悩んだ末に、チェニーは腰から提げた剣を外した。

 美しい鞘に納められた剣を受け取り、業者の男はぱっと顔を輝かせている。

「おお、なんと立派な剣だ。さすが、王都から派遣されてきた人は持っているものが違う」

「これを預けますから、訪ねて来るのはやめて頂けませんか」

「なぜです?」

「急に王都へ戻ることになるかもしれなくて」

 二千シュレール用立てるには、誰かからいくらか借りなければならないだろう。

 給料の前借りができれば一番良いが、現状ではそんな頼みごとを聞いてもらうのは無理だと思えた。

「それじゃあ、もしも調査団さんと連絡がつかなくなっちまったらどうしたらいいんです? そんな場合はこの剣は売ってしまうことになりますけども」


 あの剣は手放すつもりでいたのだから、戻って来なくても構わない。

 戸惑いながらも、自分に言い聞かせるような思考の末に頷き、チェニーは答えた。


「それで結構です」

「え? こんな立派なモンを。へえー、それはそれは。わかりました、いいでしょう。お預かりします」


 男はご機嫌な顔でメハルを呼び、剣を保管しておくように命じた。

 少年は剣を受け取ってくるりと背を向けたが、しまい終わったらすぐに新しい物を届けに行くよう言いつけられている。


「今日割れちまった薬は結構な品物でしてね。支払いが待てるのはせいぜい二日程度です」

「……わかりました」

「じゃあ、交渉は成立ということで。問題があるなら、早めにいらしてくだせえ」


 去就や支払いの可否について、できる限り連絡をするという約束を交わすと、チェニーはミッシュ商会を後にした。

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