104 誘拐事件
「マリート、剣のコレクションを少し減らさないか?」
神殿での仕事を終えて家へ戻り、キーレイはこの日も「ああ、そうだった」と思った。
前日もその前の日も思った。
なにひとつ変わっていない、つまり、解決していない。
その原因を少しでも解消したいが、出せるのはだいぶ控えめな問いかけだけだ。
「わかってる」
キーレイはこれまでに二度同じ提案をしているし、その度にマリートはこう答える。
自分の荷物にちらりと目をやったり、少しくらいは確認をしたり、触れたりして、結局こう呟く。
「いや、どれもいい物だから選べない」
白と黒の摩訶不思議なスカウト兄弟に連れられて、マリートは短い迷宮の旅をした。
どこか呆然とした様子の友人が夜遅くにやってきて、なにがあったのか、キーレイが全部聞き出すのに結局二日もかかっている。
あの家に一人でいるのは嫌だと剣士が訴えるので、仕方なく、とりあえず、キーレイの部屋の隣にある倉庫に荷物を運んだ。
荷物は倉庫からはみ出すほど多くて、屋敷で働く者たちには迷惑をかけている。
そんな倉庫では寝泊りはできないし、そもそも一人では怖いという理由で、マリート自身はキーレイの部屋に泊まり込んでいた。
「そうは言うけど、結局いつものしか使わないだろう」
仕事帰りのキーレイがため息をつくと、マリートはじろりと友人の顔を睨んだ。
早く引っ越し先を決めなくてはと薬草業者の息子は手を尽くしたが、友人の剣士は注文が多い。そして細かい。
ニーロかキーレイ、どちらかの家の近くで、あまり人が多く住んでいない通りにあって、住宅街ならば並びの一番端でなければ嫌だ。
そんな物件は滅多にないもので、どれか一つくらいは諦めろというのに、マリートはぶすっとして話さなくなってしまう。
食事も大勢いるところでは食べたくないというし、時間も合わせないし。けれどキーレイ坊ちゃんの御友人で高名な探索者だからと、屋敷で働く者たちは気を遣ってあれやこれやと準備してしまう。
「我らの導き手たる、樹木の神よ」
しかも、祈りにもまったく付き合おうとしない。
そんなマリートの態度に慣れてはいるのだが。
けれど、少しくらいはなにか進展があってもいいのではないかとも思ってしまう。
なのでキーレイはこの日、神官らしからぬ狭量さで祈りの最後にこんな言葉を付け加えた。
「高い理想を持ち、自らの信念を貫き通す剣士に、新しい家をお与えください」
寝床でごろんと横たわったまま、マリートは不満を口にする。
「おい、それが神官長の祈りか?」
キーレイはなんと答えようか悩んだが、結局友人には答えずに立ち上がった。
「もう夜も遅い。寝よう」
「俺は眠たくない」
こんな返答も予想通りだし、実際にマリートはなかなか寝ない。
こっそりとあかりをつけて、夜中じゅうごそごそとなにかをし続ける。
友情という名の試練に耐える神官長のもとに、次の日の朝、いい知らせが届いた。
できるだけ条件通りのものを探してくれないか。
キーレイ・リシュラのお願いとあらば、と動いていた不動産業者は何人かいて、そのうちの一人が掘り出しものの物件を見つけてきてくれたのだ。
「さあさあ、こちらです。ご要望通り、住宅街の端にあるんですよ。少しばかり小さいですが、お一人で暮らすには充分かと思います」
さすが家を扱う業者の中では最大手というべきだろう。
バルシュートの店では一番のやり手であるザントラ・コリンは感じの良い笑顔を浮かべて、街の有名人である二人を案内している。
建物はかなり前に建てられたようで、外観はあまり良くはない。色褪せているし、古びている。
たが、マリートが一番重視しているであろう、「人通りの少ない」ところに建っている。
「樹木の神殿にも近いし、いいんじゃないか、マリート」
午前中から連れ回されるのをマリートは嫌がったが、午後から勤めがあるキーレイには関係ない。
「物をしまうための棚もたくさん備え付けられています」
「それはありがたい。剣もかなりの数があるし、しまう場所があれば片付くだろう」
「剣専用のスタンドもございますよ。必要ならご用意致しますが」
中の確認や業者とのやりとりなど、キーレイがやればいい。
ニーロやキーレイが行き来しやすい場所なら、中がどんな風でも構わない。
扉にしっかり鍵さえかかれば、あとは自分の好みにしていけばいいし、住んでいれば自然と馴染んでいくだろう。
神官長に気に入られようと業者は張り切っており、決して悪い条件にはならないはずで、剣士は家から出たところでぼんやりと佇んでいる。
「ありがとうございます。こんなにややこしい条件を満たせるとは思いませんでした。さすがはバルシュートの店ですね」
「とんでもございません。いやしかし、少しばかり古い建物でして。修繕が必要ですが、いや、もちろんこちらでしっかりと請け負いますが、本当によろしいでしょうか」
勢い余って「もちろん」と答えそうになったキーレイだったが、決断を下すのはマリートでなければと、友人の姿を探した。
「どこにいったのかな。申し訳ない、少し待ってもらえるでしょうか? はっきりと決めるのが苦手な男でして」
「当然でございます。慧眼の剣士様の新居の候補として、他の方には案内しないでおきますよ。良い返事をお待ちしております」
「ありがたい。なるべく早く結論を出すようにしますから」
後日店に伝えに行く約束をして、キーレイも家を出る。
ザントラ・コリンは戸締りをする為に残っており、すぐにマリートが「ここでいい」と言ってくれればいいのに、と思っていたのだが。
「え?」
家を出てすぐのところに、マリートはいた。
だが、真っ白い髪に真っ白い服の大男にしがみつかれ、口を塞がれて暴れている。
「なにをしているんだ、離しなさい」
異様な光景に慌てるキーレイにも、長い腕が伸びてきた。
真っ黒い長い髪の大男には見覚えがあるが、その名前を口に出す前に、神官長も捕まって引きずられてしまう。
キーレイは必死になって暴れたが、ジャグリン・ソーの馬鹿力には勝てず、結局は抱えられたままあれよあれよと連れ去られてしまった。
おそらくは街の北東方面だろうとキーレイは思っている。
知らない家の中でマリートと並んで座らされており、背後には白黒の大男。
目の前には石の神官衣を纏った男が笑っていた。
「ああ、ああ! お会いできて光栄の至りです、不死の冠を戴く無敗の探索者、忠実なる樹木の神のしもべ、リシュラ神官長様!」
石の神官は、ザッカリン・ソーと名乗った。
ジャグリンとファブリン、世にも珍しい双子のスカウトの弟なのだと。
ぱっと見ただけの印象だが、どうやら二十歳前後といったところか。
若いように思えるが、それ以上に一筋縄ではいかなさそうな、曲者の気配がするとキーレイは考える。
「弟がいたとは」
「言っただろう」
呆然と呟くキーレイに、マリートもぼそぼそと囁く。
「言ったかい?」
「言った」
ジャグリン、ファブリンに連れていかれた話は聞いていた。
マリートの話は混乱していて、もう一人妙な人物が紛れていたことだけはわかったのだが、二人の弟だとは伝わっていなかった。
「神官長、我々は三人そろって剣士様とは懇意にさせていただいております」
「懇意?」
「ええ、次の探索にはリシュラ神官長も一緒にとお願いしておりました。約束を守って頂けて本当に嬉しいです」
強引に連れて来ておいて、こんな台詞を言えるのだから大したものだ。
懇意にしてもいないだろうし、約束の話も本当かどうか怪しい。
呆れてなにも言えないキーレイに満足げな笑みを向けると、ザッカリンはマリートにこう言い放った。
「慧眼の剣士マリート様、今回は『白』に行きましょう。あちらにも例の行き止まりがあるのです」
二人は了承しない。するはずがない。
そしてソー兄弟は、了承しようがしまいが関係ない。
「さあ、準備をしなくては!」
ソー兄弟は順番に、あっという間にそれぞれの支度を済ませた。
終わるやいなやザッカリンの号令で二人の兄が動き出し、キーレイとマリートは揃ってリシュラ家の屋敷へ連れていかれてしまう。
神官長と剣士がどこで暮らしているのかなど、すべて把握されていたようで、無敵の兄弟は勢いよくキーレイの部屋へなだれ込んでいた。
性質の悪いことに、ザッカリンは石の神官の格好をしている。
声は大きいが礼儀は正しく、屋敷の従業員たちは戸惑いつつも道を開けてしまう。
リシュラの屋敷の離れの一番端、樹木の神殿の神官長の私室にて。
ザッカリンはああだこうだとしゃべり倒して、部屋の主へにやりと笑いかけている。
「大丈夫です。地図はあります。ファブ兄は『白』の達人ですからご安心ください」
圧倒されてしまったのか、マリートは探索の装備を身につけている。
ザッカリンは言葉とは裏腹に支度とは関係ない私物を漁っており、キーレイはまったく落ち着かない。
「その箱には触らないでくれ」
「不死の神官長! ああ、生まれも育ちも迷宮都市のあなたのすべてが、この部屋の中に詰まっているのですね!」
「そんなことはない。この屋敷は……」
なにを言おうと無体な三兄弟の振る舞いには変化がない。
困り果てるキーレイを、一足先に準備を終えたマリートが見つめていた。
逆らっても無駄だとでも言いたいのか、冷めた瞳を向けて黙っている。
漁られた結果出て来た神官衣を手渡され、仕方なくキーレイも着替えていった。
着替えを終えたら、いつもの荷物を腰につけて、靴を履き替える。
自分を見張り、時には取り押さえているのはジャグリンの方。
マリートを急かしているのは白い髪の大男で、まさかとは思っていたのだが、じっくりと眺めてキーレイは確信を得ていた。
準備を終えた二人に満足したのか、ソー兄弟は集まってひそひそと話しているようだ。
「あれはファブリンなのか。どうしたんだ、彼は。なにかあったのか」
「俺を『黒』に連れていった時もああだったよ。元気がある時とない時があるらしい」
「元気? 元気の問題なのか、あの変わりようが」
キーレイの疑問は解消されない。
マリートは諦めてしまったようで、こんなことを言いだしている。
「あいつらからはもう逃げられない。前も行くしかなかった。ああ、新しい家も駄目だ、バレた。もう住めない」
「戸締りをちゃんとしたら大丈夫さ」
「待ち伏せされたら意味がない。キーレイ、お前の体は無駄に大きいのに、あっさり抑え込まれちまっただろう」
「無駄に大きいとはなんだ」
「もう行くしかない。あいつらは多分、一緒に行けば満足するんだ。……行き止まりは本当にあったんだからな」
迷宮に時々存在する、行きついたのに決して戻れない一方通行の罠。
ニーロが探し求めているものが潜んでいるかもしれない、貴重な場所だ。
「あの行き止まりが他にもあるなら、ニーロは知りたいだろう」
「確かにそうだが……」
ひそひそと言葉を交わす二人のもとへ、ザッカリンが兄を引き連れてやってきて、ぱっと顔を輝かせた。
「さあ、行きましょう。伝説の探索者になるであろうお二人と迷宮へ向かえる日が来るとは! なんという光栄でしょう」
「こんなやり方は良くない、石の神官ザッカリン。探索に行こうというが、まずは互いに信頼があってのものだろう」
キーレイが抗議をすると、ザッカリンは一瞬だけきょとんとした表情を作ったものの、すぐにぱっと笑顔を浮かべると樹木の神官長の手を取って強く握った。
「素晴らしい! 素晴らしいお言葉です、さすがはキーレイ・リシュラ!」
「では」
「どうかご安心を! 迷宮都市でスカウトとして名を馳せるファブリンとジャグリン、世にも珍しく得難い特技を持った双子が共に行きますから。私は『生き返り』も『脱出』も、どちらも使うことができます」
そういうことではない、とキーレイは言いたい。
ところがどんなに頑張っても、ザッカリンの言葉を遮ることはできなかった。
目は爛々と輝き、『白』の迷宮に挑まなければならないと繰り返し、キーレイはやっと、マリートが何故めちゃくちゃな探索に付き合わされたのかがわかった。
会話は成立しているようで、成り立っていない。相手に話し合う気がないのだから、まともな方が損をする仕組みだ。
三人を追い返す方法は、きっとある。どうにかできるはずではある。
ところがキーレイには守りたいものが多い。
神殿も、家族も、実家の商売も大事だ。
そんな事情はきっと、ソー兄弟もわかっているだろう。
「何層まで降りる探索なのかな」
「ああ、リシュラ神官長。そんなにお時間は頂きません。少し上下を行き来しますが、上層と呼ばれるところまでなのです」
「行き止まりに行ってどうするつもりなんだ」
「そこにしか現れないなにかを突き止めます」
そのなにかに、キーレイもマリートも会っている。
いや、同じものとは限らないか。
「慧眼の剣士様はいち早く出現に気が付かれておりました。不肖の兄たちは失態を晒しましたが、剣士様は無事でございました」
あの時。「黄」の行き止まりでも出会ったもの。
キーレイとマリートだけは無事だった。
けれど今回も無事に戻れるかどうかはわからない。
かなり危険な賭けだとキーレイは思う。
「この五人では万全とは言えないのでは?」
「そんなことはございません。生き返りも脱出の方法も用意されています」
「同じタイミングで全員が命を落とせば、取り返しがつかなくなる」
「さすがに考えすぎではありませんか」
説得はいつまで経ってもうまくいかない。
だが、危険極まりない挑戦にこんな形で駆り出されるのはどうにも納得がいかなくて、キーレイは粘った。
「わかりました。では、行くだけ。その地点に行くだけというのはいかがでしょう」
「行くだけ?」
「その場に行って、なにかいないか確認して頂いて、いれば戦いになるでしょうが、いなければ諦めて帰る。それならよろしいですか」
「そんな探索を望んでいるのか?」
「いいえ、とんでもない。もちろん、未知の魔法生物について知りたいと思っておりますよ。ですが神官長、不死とまで呼ばれるあなたと共に歩くだけでも充分です。我々兄弟にとってはこれ以上ない光栄なのですから」
誉め言葉として受け取るには、経緯が悪すぎる。
キーレイは渋い顔をしたまま、浮かんできた疑問をぼそりと漏らした。
「ファブリンとジャグリンは随分ニーロにこだわっていたが、呼ばなくていいのか」
ザッカリンから熱が一気に抜けて、感情のない声でこう答えた。
「無彩の魔術師殿には用はありません」
キーレイが思わずマリートへ目を向けると、剣士も同じように神官長を見つめていた。
話題にされた双子のスカウトはじっと床に目を向けたまま黙っており、ファブリンの変貌ぶりがあまりにも激しくてキーレイは落ち着かない。
「私などより、ニーロの方がよほど得難い探索者だと思うんだが」
「いいや、キーレイ、そんなことはないぞ」
なぜか仲間から邪魔をされて、キーレイは黙る。
これで話は終わった。気は進まないが仕方がない。今自分が行かなければ誰かに迷惑をかけてしまう。
近くを通りかかった下働きの者に声をかけて、午後行けなくなったことを神殿へ伝えるように頼む。
強引なソー兄弟に連れられて、キーレイは「白」の入り口に立っていた。
マリートもこんな風に無理やり連れてこられたのだろう。
「白」はあまり大勢が挑む場所ではないし、周囲には探索者が使う店もない。
ウィルフレドが通りかかって話をつけてくれたらいいのに、とキーレイは思う。
ニーロでもいい。きっとこの光景を見たら、声をかけてくるだろうから。
もちろん、髭の戦士も無彩の魔術師も通りかかることはなくて、「白」の入り口は開かれてしまった。
ジャグリンとファブリン、マリートが前を。
キーレイとザッカリンが後列を歩くように決められている。
双子のスカウトの腕は良いし、「白」と「黒」を専門に歩いているのだから、あまり心配はしていない。
自信があるからこんなに無茶な探索を始められるのだろうと、キーレイは考えている。
前回の「白」、酷い傷を負って途中で打ち切られた探索の時のことを思い出しながら歩く。
あんなに嫌な思いをした探索はなかった。これまでの二十年以上の探索者暮らしの中で一番だったと思う。
その理由は主に止まらないファブリンのおしゃべりにあったのだが。
元気がない、とマリートは言った。
元気がある時と、ない時があるらしいと。
そんな単純な話なのだろうか。
キーレイは慎重に進みながら、ファブリンの様子を窺っている。
ふわふわと広がっていた白い髪はぺたりと頭に張り付いており、落書きをしたようだった顔は隠れてしまって見えない。
服からも色が抜けて、ただただ白だけを身に着けている。
動いてはいるが、以前に見た時ほどの俊敏さはない。
スカウトの仕事はできているのかよくわからなかった。どうやらジャグリンが手を貸す時もあるように見受けられる。
妙な「白」の道を歩いて、あっという間に六層目までたどり着いていた。
泉の水を飲んで、休憩をとることになり、キーレイはマリートのもとへ向かう。
樹木の神に祈りを捧げるからとザッカリンを退けて、キーレイはいくつかの言葉を口にした後、こっそりとマリートへ問いかけていった。
「彼らと探索に行った時も、ファブリンはあんな風だったのか」
「あんな風だったよ」
「一言もしゃべらないじゃないか」
「ああ、そういえば、話はしていたな。ニーロたちと一緒に行った時みたいじゃなかったが」
「どんな風だった?」
「小さな声でぼそぼそ、なにを言ってるんだからわからないような感じだった」
元気がないどころか、生気がない。
もともと真っ白で、生命力を感じさせるような容貌ではなかったが。
二度と一緒に探索はしたくないと思っていた相手だが、それでも余りの変わり様が気になってしまう。
ファブリン・ソーとジャグリン・ソー。
世にも珍しい双子のスカウト。
二人は揃って大柄で、だけど手先はとても器用で、白と黒の二色の兄弟だという。
妙な二人組のスカウトがいることは、噂に聞いていた。
あまり詳しい話が聞こえてこないのは、付き合いが難しいタイプだからなのだと思っていた。
実際に隣を歩いてみて、本当なのだとわかった。
再び「白」の迷宮を歩きながら、キーレイは周囲の様子を気にしつつ、記憶を探っている。
いつか誰かが話していたような気がする。
あの二人、腕は確かなのだから、馬の合う誰かが現れれば、あっという間に「底」にたどり着くんじゃないか?
どんな風に技術を磨いたのかはわからない。けれど、腕前については認められていた。
付き合いにくい性格、振る舞いをするが、最初からああだったわけではないのかもしれない。
ロビッシュのように、何度も死んでは戻されるうちに、変わってしまった可能性もあるのではないか。
マリートが無理矢理探索に連れていかれた時、あのスカウトたちは命を落としたという。
ファブリン自身も、腕の良いスカウトだから何度も蘇ったと話していたはずだ。
今日までの間に、更に何度も命を落としていたとしたら?
元気がなくなって、語ることすらできなくなったのではないか。
「ファブリンの様子が以前と違うように思うんだが」
敵の見えない通路の上で、キーレイは隣を歩く石の神官に問いかけた。
ザッカリンはきょとんとした顔をして、小さく首を傾げている。
「ファブ兄は元気のある時とない時で様子が変わるんです」
「今は元気がない時だと?」
「ええ、そうですよ、リシュラ神官長」
「昔からそうなのか」
この質問に、ザッカリンはすぐに答えなかった。
視線をキーレイ以外の方向へ彷徨わせ、最後に目を閉じて、少し唸ってからこう答えた。
「最近なのです、一緒に暮らし始めたのは」
「最近?」
「ええ、ええ。……そういう兄弟も珍しくはないのですよ」
キーレイ自身も弟妹とは別々に暮らしていた。
母は基本的には迷宮都市で父の仕事を手伝っていたが、しょっちゅう王都へ行って子供の様子を確かめていた。
母が留守の間は、父と仲間たちと一緒に過ごした。
神官になると決めるまでは、ひたすらに迷宮と薬草に塗れた日々を送っていたものだ。
独特の香りと、危険な採集の旅の繰り返し。あの日々の中に弟と妹の姿はない。
「ファブ兄のおしゃべりは凄まじいですから。あれを御覧になったのですね、リシュラ神官長」
「ああ」
「自分で止められないのか、ものすごいエネルギーを使ってしまうんです。しゃべってしゃべって、その後はしばらく何も言わなくなります」
ザッカリンはこう説明すると、ニッと笑ってみせた。
その表情にはぎこちなさが漂っていて、キーレイは暗い物を感じている。
なにか、大きな偽りが紛れている。
ファブリンとジャグリン、二人のスカウト。
様子が変わってしまった理由は? ザッカリンの言う通りなのか。
白と黒の大きな後ろ姿がぴたりと止まった。
どうやら敵が現れたようで、マリートも剣を抜いている。
「なにか出たようですね」
ザッカリンが呟き、キーレイも通路の先へ目を凝らす。
出てきたのは石を積み上げた不格好な人形のような魔法生物で、苦い思い出が蘇る。
ジャグリンとファブリンの様子も気になるが、マリートも平静でいられるか心配だった。
石の人形は、間をあけて連続で現れることも多い。
もたもたしているといつの間にか増えているという、戦いは早めに終わらせておきたい「嫌な敵」だ。
ジャグリンは分厚い刃の大剣を振り回し、石の人形の動きを止めている。
ファブリンも動いている。弟と共に前に出て、剣を振り、人形を砕いた後は戦利品を拾い集めて袋に入れている。
ただ黙っているだけ。
今日は話さないだけ。
そうかもしれない。けれど、そうではないかもしれない。
キーレイが気を引き締めなおしていると、前を行くファブリンの手がゆらりと動いた。
「この通路を左に曲がるようですね」
下層への最短ルートから外れるようだ。
これまでに何度も通って来た道とは違う。
景色はずっと真っ白で、キーレイは一度立ち止まるよう頼んだ。
近くにある短い行き止まりで、目を閉じ、ゆっくりと深呼吸を繰り返していく。
白であふれた迷宮は、段々と歪んで見えるようになってくる。
本当はまっすぐ。床も壁も天井も直線だけでできているのに、ゆっくりと感覚が捻じれて正常ではいられなくなる。
単純に景色がそうさせるのか、それとも未知の魔力が満ち溢れているせいなのか、それはわからない。
どんな仕掛けがあっても不思議ではない。ここは、誰も正体を知らない古代の魔術師たちの遊び場なのだから。
キーレイがそうしたからか、マリートもすぐそばにやってきて、同じように深い呼吸を繰り返した。
ジャグリンとファブリンはなにも言わない。様子も変わらない。
ザッカリンは興味深げに樹木の神官長の様子を眺めて、最後にこう言って笑った。
「そんな風に整えるのですね、リシュラ神官長は」
「ここはとても危険な迷宮だから」
石の神官は口の端をほんの少しだけ持ち上げて、こくりと頷いてみせた。
そんな必要はないと思っているのだろう。
「自信がなければ探索などできるものではないが、過信は禁物だ」
「あなたも『緑』を歩く時、そんなに慎重に行かれるのですか」
「もちろん」
いや、徹底はできていない。
「紫」にふらりと入って、危うい探索に仲間を巻き込んでしまった。
反省はある。だが、この非常識な三人組に正直に話す必要はないだろう。
キーレイは改めて大きく息を吐くと、再び「白」の迷宮の道を歩き始めた。




