103 渇きの原
全身にビリリと痛みが走って、ガデンは目覚めた。
目の前はやけに暗い。体は寒くて暖かい。
重たい手を動かすと、体の上に布がかけられていたのがわかった。
布の色は緑色。周囲にも緑が広がっている。
迷宮の中にいる。「緑」の迷宮の通路の上に、ひとり。通路の行き止まりを背にして、座り込んでいるのだとやっと理解していた。
「なんだ……?」
そう呟いたつもりだが、声は掠れて、ほとんど音になっていない。
どうしてこんな状態になっているのかがわからない。
頭を振ってみたが、うまく動かせなかった。
喉がひどく乾いているし、目が霞んでいる。
腹が減っていたし、体が重たくて仕方がない。
わかるのは、迷宮の片隅に一人でいるということだけ。
孤独だけが理解できて、ガデンは震えていた。
ただでさえよく見えないのに、涙が溢れてきてますます景色が歪む。
どうしよう、どうしよう。
頭に浮かぶのはこれだけで、動けない。
いくら思い出そうとしても記憶は曖昧で、混乱しすぎたせいなのか、気分が悪くなってガデンは嘔吐していた。
喉がカラカラになって、痛みが走る。
嫌な臭いがして、また吐きそうになるのを、なんとかこらえて。
動けない。かすかな物音がたまに聞こえるだけの無為な時間が、ただただ過ぎていく。
魔法生物が現れたら終わりだ。
今、何層にいるのかもわからない。
どうして迷宮にいるのか。
管理人に言われたから?
だけどあの探索は、終わった気がしている。そうだ、大勢から不興を買った。行って戻ったから、あんなに嫌な思いをしたのだった。
その後は?
今の状況の恐ろしさから逃れようと、ガデンはひたすらに記憶を探った。
誰も彼も冷たい視線を向けてきて、協力者などいないのだとわかった後。
迷宮の入り口までひとりぼっちで進んで、力なく座り込んだ。
その後は?
喉も痛むが、胸のど真ん中あたりも酷く痛くてガデンは呻いた。
体にかけられていた布をどけて、おそるおそる、手で痛むところを触れてみる。
探っていると、服に穴があいているのがわかった。
手袋をしているせいでよくわからない。けれど、濡れているような感覚があった。
怪我をしたのだろうか。
わからない。とても幸せだったように思う。けれど、痛い。
傷があるとわかってしまって、不安が膨れ上がっていった。
こんなところで一人で死に、そして消えていくのかと思うと、たまらなく悲しかった。
「橙」も「緑」も、初心者たちが行くところ。
地図もある、敵も弱い、罠もたいしたことはない。
お前らにだってそりゃあ行けるところさ。よほどの間抜けじゃなきゃ、大怪我なんてしないぞ。まあ、「緑」で毒を受けちまった場合はわからないかもしれないがな。
迷宮都市に来たばかりの頃、魔術師の産んだ悪意の渦に入る時は、慎重に慎重に、注意深く仲間と声をかけあって進んでいたのに。
その先に進むほどの仲間を集められなくて、ガデン自身にもたいした剣の腕もなくて、そのうち「橙」と「緑」ばかりの日々に飽きてきて。
そこからなにも起きなかった。どこにも進まず、初心者の集う屋敷に居座って、夢見る少年たちの導き手になった。
心の底から後悔が湧き出し、粒になって、目の端からぽろぽろと落ちていく。
痛みが少しずつ薄れてきて、ガデンははっとしていた。
ぼんやりとした影が、ひとつ、ふたつ、浮かんでくるのが見えたから。
アルテロか、カランか、それともヨンケか。
少年のような形のぼんやりとしたものが近づいてくる。
迷宮で消えた魂はこんな風に彷徨って、自分を陥れた者を探しているのかもしれない。
「ごめん……、ごめん……」
ガデンは目をきつく閉じて、呻くように謝罪の言葉を繰り返した。
見たくない。もう、静かなばかりの迷宮の通路も、自分に引導を渡しに来たであろう彷徨える魂も。
怖いし、考えたくない。
なにもできなかったと、これ以上思いたくない。
自分のせいで命を失ったとしても、許してほしい。
「ごめんよ……」
「生きてるねえ」
少し高い声が聞こえ、誰かが近づいてきたような気配がしていた。
すぐそばにやって来たものの正体がわからず、ガデンはまだ目を閉じている。
「運がいいんだな。おい、聞こえるか」
頭を軽く叩かれて、おそるおそる目を開けていく。
ガデンが震えながら視線を向けると、二人の男がいて様子を窺っていた。
「怪我、は、してるか。ここ?」
小柄な男はガデンの体を足の先まで確認して、胸にあいた穴の辺りを指さしている。
「で、助けるの?」
もう一人は、ひょろひょろと細長い。なにも言わないが、小柄な男の確認に頷いている。
「あんたら……」
「あれに襲われたらほとんどの奴が死ぬって聞いてたけど。ルンゲさんのお陰だな。良かったね。ガデンだっけ?」
ルンゲの名前に、覚えがある。
そこからゆっくりと記憶が繋がっていって、落とし物を探すのに付き合ってくれた業者たちのことを思いだしていった。
目の前にいるのはメハルとオーリー。一緒に後列を並んで歩いたでこぼこの二人組だ。
「水を飲ませてあげて」
「あいよ」
メハルは水袋を取り出し、ゆっくり少しずつ、ガデンの唇の端に注ぎ込んでくれた。
からからに乾いた喉に、水がじんわりと浸み込んでいくのがわかる。
「腹も減ってるだろうけど、そこまではね。出たら自分でなんとかしてくれよ」
メハルの顔が遠のいて、かわりにオーリーが近づいてくる。
おしゃべりで落ち着きがない男はそこにはいなくて、穏やかで真摯なまなざしがぼさぼさの髪の隙間から覗いていた。
「じっとして」
枯れ木のような細い腕が伸びてきて、ガデンの胸に触れる。
ぼそぼそと小さな声が聞こえた。鍛冶の神に捧げる祈りの言葉で、優しくあたたかな光が癒してくれたのがわかった。
「『緑』で長い時間倒れてたから、念のため」
口の中に、苦いものが注がれる。なにもかもが二人の為すがまま、ガデンは受け入れるしかない。
薬の瓶がしまわれて、ぼんやりとしていると、また光を感じた。
音が聞こえてきて、ガデンははっと気づく。
外に出ている。迷宮の入り口のそばに必ず備え付けられている、「帰還者の門」にいるのだと。
「ここからは自力でね」
メハルが囁く。
「もう探索はしない方がいい。諦めも肝心です」
オーリーがゆっくりと首を振りながら、遠ざかっていく。
ガデンは横たわったまま、空を見上げていた。
二人の姿はなくなり、ただ、夜空だけが見えている。
意識が途切れるたび、空が少しずつ明るくなっていった。
夜空にはたくさんの星が瞬いていたのに、いつの間にか太陽が近づいて来て、街が目覚めていくのがわかった。
帰還者の門の上で、どのくらい倒れていたのだろう。
ざわめく声に包まれているような気がして、ガデンはようやく、はっきりと意識を取り戻していた。
腹が減っていて、喉が渇いていて、体が重くて、頭が痛い。
けれど、起き上がることができた。
なんとか体を起こしてみれば、迷宮の入り口には初心者たちの行列ができている。
はしごの上にも大勢がいるようで、ああだこうだと言い合う声が響き渡っていた。
入り口前に並ぶ初心者たちは、訝しげな顔でガデンを見つめている。
なんだあいつは、と思われても仕方がない。
服はぼろぼろで、業者のような装備を中途半端にしていて、虚ろな顔でぼんやりと座り込んで動かないのだから。
やっとそこまで意識が及んで、気恥ずかしくなってきてガデンは立ち上がろうとした。
足に力が入らず、なかなかうまくいかない。
初心者たちは心配そうに見ているけれど、手を貸すつもりはないらしく、近づいてはこなかった。
薄情者たちへの怒りを力に変えて、なんとか立ち上がる。
それで周囲の者もガデン自身もほっとしたのだが、迷宮探索で受けたダメージが大きかったのか、くらくらとしてよろけた挙句、穴の底で盛大に吐いてしまった。
「うわあ」
迷宮の入り口が騒がしくなり、穴の上から大勢が覗き込んでいる。
あいつをどうにかしなければという声が聞こえてきて、ガデンはまた涙ぐんでいる。
「ごめん、ごめん、ちょっと通して」
「なんだお前ら。順番を守れよ!」
「あの人知り合いなんだ。引き上げるから」
それなら仕方ない、と穴の底へ続く道が開かれる。
ガデンのもとへやって来たのは五人の初心者たちで、カッカーの屋敷に滞在している面々だった。
「なにしてんの、ガデンさん」
「いや」
「立って」
肩を貸してもらい、上から引っ張られ、下から押されてなんとかはしごを登りきる。
五人は降りてくる前に話し合いを済ませていたようで、ガデンは「緑」に一番近い避難場所である、雲の神殿へ送り届けられた。
薄情な屋敷の仲間はガデンを「行き倒れ」だの、「探索で失敗して座り込んでいた」だのと言い、手当をしてもらえたものの、厳しい神官にこってりと説教される羽目になった。
食事と寝床、着替えまで世話をしてもらって、ようやく回復したガデンは街の南に向かって歩いていた。
借りた業者用の装備を、脇に抱えている。
ペンダントを探すのを手伝ってもらったのは確かだし、おそらくメハルとオーリーの二人に助けてもらった。
自分になにが起きたのかはよくわからなかったが、とにかく大きな恩ができたのは間違いない。
礼を言いにいくべきだと考えて、ミッシュ商会へと向かう。
入り口で声をかけて事情を話すと、ルンゲは仕事で不在、ミンゲは休暇でおらず、メハルとオーリーは店内で作業中だとわかった。
命を救ってもらったと話すガデンに店員は首を傾げていたが、二人を呼んでくれると言う。
店の裏口で待っていろと指示をされて、籠が大量に積まれた裏路地を抜けていった。
しばらくすると、小柄なメハルと、ひょろ長いオーリーが姿を現した。
「なんだいなんだい、忙しいってのに。葉っぱを摘んで、籠に入れる仕事が山のようにあるんだぞお」
赤茶色の髪をもさもさと伸ばしたオーリーはこんな風にぺらぺらとしゃべり、メハルはちらりと視線を向けるだけだ。
返事はなくとも気にしないようで、ひょろ長の多忙アピールは続いている。
「ん、誰だいあんたは」
「ガデンだよ。『緑』の迷宮で落とし物を探すのを手伝ってもらった」
「ああ、ああ! あの言うことを聞かない!」
「そんな言い方をしなくてもいいじゃないか」
「いいやあ、言うぞ。ルンゲさんが何度注意したか忘れちまったのかあ? 群生地帯は危ない、集中しろ、こっちへ来いって、何度も何度も言ったってのに。……んん? いや、よく無事だったなあ」
「あんたらが助けてくれたんだろう」
ガデンが礼を言おうとすると、オーリーはきょとんとした顔をして、なにを言っているんだと首を傾げた。
とぼけた表情は腹立たしいものだったが、命の恩人相手におかしな態度はとれない。
「二人で来てくれたじゃないか」
「二人って?」
「あんたらだよ。メハルと、オーリーって名前だよな?」
「確かに俺はオーリーだし、こいつはメハルだけど。メハルはなあ、きれいな目をしているだろう? まだ若いけど、親切で気の利くいい子なんだよ。なあメハル」
「やめてよオーリー。そんなのどうでもいいでしょ」
オーリーは構わずに仲間を誉め続けており、メハルは肩をすくめている。
だが、ガデンをまっすぐに見つめると、オーリーと同じ言葉を口にした。なんの話かよくわからない、と。
「お母さんの形見探しは手伝ったよ。その話じゃなくて?」
「それも感謝してる。あのルンゲとミンゲって二人にも礼を言いたい。だけどそれだけじゃなくて、俺は『緑』の通路の端に一人で取り残されていたんだ。そこに来て、迷宮から連れ出してくれたよな?」
メハルは大袈裟に手を振って、馬鹿を言うなと大声をあげた。
「そんなことするわけないだろ。なんであんたのためにそんな危険な真似するんだよ。……本人にこんな風に言いたかないけどね、あんた、とんだ足手まといだったよ。指示を無視して、正直あんたがアレを呼び寄せたって思ってる」
「アレって……?」
「群生地帯にしか出ない、おっかないヤツがいるんだ。まともにやって勝てるモンじゃないって話で、俺たち業者は遭遇しないように気をつけてる。いつも通りにやっていたら、危ない目にはあわないで済むのに」
「俺、なにをしたんだ」
「覚えてないのか。仕方がないやつだな、迷惑ばっかりかけて。そりゃあ一緒に行く仲間も見つからないはずだよ」
まだ若いメハルにズバズバと言われて、ガデンの心は大きく傷ついていく。
「でもまあ、アレに会って生きて帰った奴は貴重だって言うからさ。ルンゲさんがもうすぐ戻ってくるから、どんな風だったか話して」
「貴重なのか」
「貴重だよ。だけど死なずに済んだのはルンゲさんとミンゲさんの力だから。二人が気が付いて、命がけであんたを救いだしたんだ。たまたまうまくいっただけだよ。二人になにかあったら、店にどれだけ影響があったかわかんないんだからな」
「だけど俺、よくわからないんだ」
「よくわからなくなったって話でいいんだよ。アレに襲われた時に、なにが起きるかがそもそもわかってないんだから」
メハルがぷんぷんと怒る度に、メハルが怒ってる、とオーリーが笑う。
ガデンはひょろ長が気になって集中できず、小柄な少年はますます怒った。
「あんたねえ、こっちは命掛けでやってるんだぞ。本当にわかってんのか?」
「わかってるよ」
「舐めてんだろ。『緑』ごときって考えてるからそんなにヘラヘラしてられるんだ」
「メハルが怒ったー!」
「なにを騒いでるんだ、うるさいぞオーリー!」
背後から鋭く声をかけてきたのはルンゲで、ガデンの姿を見て目を丸くしている。
「お前、よく無事に戻ったな」
絶対に死んだと思ったと呟かれ、さすがにガデンもしゅんとしてしまう。
早く仕事に戻れとメハルとオーリーが戻され、ルンゲに招かれるままにガデンは進んだ。
店の奥にある小部屋に通されて、まずは抱えてきた業者用の装備を返却していった。
「こういうのはよ、普通は洗って戻すもんだぞ」
「ごめんなさい」
「俺たちに限らずだ。借りたモンはできるだけきれいにしろ」
椅子をすすめられて座ると、ルンゲは水を汲んできてガデンへ出してくれた。
ありがたく喉を潤し、ふうと息を吐く。
「本当によく戻れたな。驚いたよ」
「さっきの二人が助けに来てくれたんだ」
「はあ? さっきの二人?」
「メハルとオーリーが」
「馬鹿言うな。いつ? どうやって?」
ガデンは自分の身に起きたこと、記憶の中にあることをゆっくりと語っていったが、ルンゲは首を傾げるばかりで、まったく納得がいかないらしい。
「深夜に出て来たってことか、夜空を見たなら」
「そうなるかな」
「俺らが店に戻った後、すぐに助けに行ったことになっちまう。そんな真似をあの二人ができるとは思えねえな。あいつらはすぐに寝る。寝たら起きねえ。働きモンだからよ、全力で働いて夜はこてんと寝ちまうんだ。だから採集に連れていける。つまり、無理だ。あいつらは昨日も今日も、全力で働いてるんだからな」
ひとしきり首を傾げたあと、その前について話すようにルンゲは言った。
その前。とても曖昧な、幸福感に包まれた時間があった。通路の端で倒れていた時には覚えていなかったが、今ならわかる。
「群生地帯に入った後のことだ」
薬草採集の手伝いを始めた後。
正直、ガデンとしては「なにかが起きた」あとにみた夢だと思っていたのだが。
「おかしな記憶があるなら言ってくれ」
「……昔、母親と薬草を摘んだなあって、夢をみたような気がしているんだけど」
「その話を聞かせてくれ。どんな内容でもいいから」
記憶を探り、深く掘り起こしていく。
母のことを思いだして、優しい声を聴いて、そして、ふるさとへ戻った。
「ペンダントをかけてやったんだ。なくしたものの代わりに、もっといいやつを」
母は黄色い花が好きだった。優しい黄色の服をよく身に着けていた。
だからきっと、黄色が好きなのだと思う。
秋の実りの季節には、故郷には黄色が広がっているから。
黄色い宝石をちりばめたペンダントを、村で息子を待ち続ける母にあげたいと思ったのだろう。
ガデンは熱っぽく語っているのに、ルンゲは鼻に皺を寄せている。
「お前の母ちゃん、生きてんのか?」
「え? ああ、まあ、たぶん……。死んでなければ」
「形見って言ったじゃねえか!」
「言ってない! そっちが勝手に勘違いした、だけ」
ルンゲの怒り顔には迫力があり、ガデンは口を噤んだ。
業者のリーダーは「ふん」と鼻を鳴らしたが、怒りの感情は引っ込めたようだった。
「そういう時は正直に、そうじゃないんですって言え」
「ああ」
「嘘はあとから絶対にバレる。バレた後は、もう信用してもらえねえ」
覚えておけよと呟いて、ルンゲは立ち上がった。
話はこれで終わりらしい。
「お前、本当に運が良かったな。どうやったか知らねえが、アレに出会ったっていうのに生きて戻ったんだから」
アレの正体がさっぱりわからず、ガデンはなんと返したらいいのかわからない。
「あんまりしょっちゅう出てこないって話だったんだけどな。だけど最近、見たって報告が多い。まだ探索を続けたいなら、『緑』と『紫』の群生地帯には入るなよ」
「わかった」
「じゃあな、ガデン。一度故郷に戻って、母ちゃんに元気な顔を見せてやれよ」
こうして、謎に満ちた迷宮行きは終わった。
メハルとオーリーが助けに来てくれたのかどうか、真偽はわからないままだ。
けれどなにやら物騒なものに遭遇して、大変な目にあったのは間違いない。
慣れない街の南側の道を通り抜けていくと、樹木の神殿が見えてきた。
普段はなんとも思っていない。ただ、随分金をかけて作るものなのだな、と考えるだけの大きな建物だ。
通路の端っこで命を落としかけながら、神への祈りに救われたと思う。
鍛冶の神など、ガデンの人生とは無縁だった。
けれどオーリーらしき誰かは、戦士の護り手である、父なる鍛冶の神への信仰でもって、ガデンの受けた深い傷を癒してくれた。
破れてしまった服の上から、胸に受けた傷あとをそっと撫でていく。
もう痛みはない。
雲の神殿にも世話になって、体を洗わせてもらった時に、黒ずんだ傷のあとを目にしていた。
いつでも大地の女神が救ってくれると考えていた母のことを馬鹿にしていたけれど。
今日は神殿に寄って、感謝を捧げようかとガデンは考える。
樹木の神殿へ足を踏み入れると、ロカがいて目があってしまった。
神官がじっと見つめてきて、迷いながらもガデンは自分の不甲斐なさ、身勝手さを詫びた。
年若い神官は黙ったまま頷いて、隣にやってきて、一緒に祈りを捧げてくれた。
礼を言って神殿を出て、お隣へと向かう。
「緑」の迷宮へ向かってからどのくらい時間が経ったのか、よくわからなかった。
業者たちに付き合ってもらって、何者かに救われて、雲の神殿へ担ぎ込まれて。
三日か四日、留守にしていたのだと思う。
今は昼過ぎで、屋敷の中にはあまり人が残っていないようだ。
扉を開けても誰の姿もないし、廊下も無人。
食事の匂いもしなければ、訓練の声も聞こえない。
静寂に満ちた屋敷の廊下を進んで、ガデンは二階へと上がっていった。
自分に割り当てられた部屋へ入ると、ロッカーの前にはギアノがいた。
「ギアノ、なにしてる?」
「ガデン」
ベッドは片付いてすっきりと整えられているし、ロッカーの中は空。
ささやかなガデンの持ち物は床の上に並べられている。
「おい、ギアノ! なにやってんだ!」
「ああ、ははは。こんなこともあるんだな」
「なにを笑ってんだ」
「帰ってこないから、片づけてたんだ」
「勝手なことすんな! たいして留守にしてないのに!」
迷宮前で助けてくれた五人組は、ガデンが無事で、雲の神殿で休んでいることを管理人に伝えなかったのだろうか。
ぷりぷりと怒ってみせたガデンだったが、床に並んだ荷物の少なさを目の当たりにして、みるみる勢いを失っていった。
たいした価値のない、着古した服と、短剣くらいしかない。
しまい直しても時間はかからないだろう。
ベッドには新しい寝具がかけられていて、見違えるほどきれいに整えられている。
ひどく気恥ずかしくなってきて、ガデンはしょんぼりと萎れていく。
「良かったよ、無事で」
更にはこんな言葉をかけられてしまう。
屋敷を出るよう促してきたギアノだが、おそらく本心なのだろう。
「探索に行ってたのかな」
「迷宮には行った。探索と言っていいかは……、ちょっとわからないけど」
「ふうん」
会話はそれで終わり。なんのために、どうして、誰と行ったのかなど、ギアノに詮索するつもりはないようだ。
「なあ、ギアノ」
「なんだ」
「俺さ」
ここで決着をつける必要がある、とガデンは思った。
屋敷で暮らし続けてきて、できあがった「今」の自分。
この数日で、どんな状態かわかったのだから。
探索に挑むための力がどの程度か、周囲からの評価がどんなものなのか。
思い知ったのだから、決めなければならないだろう。
管理人と二人で向かいあっており、邪魔は入りそうにない。
散々な旅を終えたタイミングで、ちょうどいいとガデンは思う。
「これからまた頑張る。初心者としてさ。いちからやり直すよ。訓練して、みんなとうまくやる。これから本当に頑張るからさ!」
誠実に、精いっぱいに宣言をした。清々しさ、初々しさに溢れた宣言をしたとガデンは思っていたのだが、目の前に立つギアノの表情から読み取れるのは「呆れ」だけ。
「なんっだよその顔は! 真剣に言ってるんだぞ!」
「いや、ガデン。ごめん。もう帰ってこないと思ってね。このスペースにはもう新しいやつが来るって決まっちゃったんだ」
「はあ? はあー? どこにいるんだよその初心者は!」
「カッカー様のところに挨拶に行ってるんだ。今ちょうど、新しい家の現場に来ているから」
「……はあー?」
「ちょうどいいじゃないか。新しいスタートを切るなら、新しい場所から始めたらどうかな」
「ふざけるなよ、ギアノ!」
「なにも言わずに三日以上戻らなかったら片づけるって決まりだ。忘れたのか」
「ア」
アルテロたちはもっと待ったのに。
そう言いそうになったが、ガデンはこらえた。
「ア?」
「いや……。ああ、そうだったなーと思って」
アルテロたちのことに言及すれば、ギアノはきっと態度を変えるに違いない。
お前のせいだろうと言われてしまったら、もうおしまいだとガデンは思う。
「前に俺も世話になった宿が北の方にあるんだ。気のいい親父がやってるところでさ。良かったら紹介するよ。あの辺りは初心者だらけだし、ガデンがいろいろ教えてやって、協力しあったらいいんじゃないのかな」
「ギアノも探索をしてたのか」
「まあね。今はここで働いているけど、探索者になるつもりで来たんだ」
どこで暮らしていても、訓練には参加していいとギアノは話した。
屋敷にやってきて、剣や罠について学ぶのは自由なのだと。
「仕事だっていろいろとあるだろう。稼ぐのに困らないのが迷宮都市のいいところだよな。俺も故郷では家族の手伝いしかしてなかったけど。その他にも人の役に立つことはたくさんあるってわかった」
なにもかも器用にこなせると思っていたギアノだが、田舎から出てきて、迷宮都市であれこれと経験を積んだのは同じ。
なんとなく苦手に思っていた管理人が急に近しく思えてきて、ガデンはじっとギアノを見つめた。
「そうだ、これ、ガデンのかな。ベッドを片付けていたら出て来たんだけど」
ギアノの握った手から掌の上にころんと落とされたのは、なくしたはずのペンダントだった。
「……見覚えない? 他の誰かのかな」
「いや違う。俺のだ」
思わず「なんてこった」と呟くガデンに、ギアノは首を傾げている。
「どうかしたのか」
「これがここにあるなら、『緑』に行ったのは間違いだったってことだろう?」
「間違い?」
「今回のはミスだ。本来なら起きなかったことだ。つまり、本当なら俺は留守にしてなかった!」
「なにを言ってるんだ」
「ここ、俺の場所に戻してくれ!」
いろいろと喚いてみたが、ガデンの主張は当然、通らなかった。
荷物は小さくまとめられ、噂好きで知られる男はひとり、迷宮都市に放り出されている。
ほとんど無一文だったガデンは唯一の売れるものである短剣を道具屋で処分して、手に入った金を掌に載せたまましばらく悩んでいた。
故郷へ帰るための乗合馬車の代金と、ほとんど同じ額だったからだ。
街の北側にある狭い路地の途中で、どこかの店の木箱の上で足を揺らしながら考える。
この数日の間に起きたさまざまな出来事を思い出しながら、今日、この後自分が進むべき道について。
目の前を、まだあどけなさの残る顔の少年たちが歩いて行く。
街に来たばかりの新米探索者たちは、きょろきょろと視線を彷徨わせながら、おっかなびっくり人通りの多い道を進んでいく。
流れていく人波を見つめながら、故郷の小川を思い出し、ガデンは心を決めると立ち上がった。
向かうのは西の門。スアリア王国との境に近い、ふるさとへ向かう馬車の乗り場だ。
「絶対に戻る。俺はあんなところで終わる男じゃないんだからな」
久しぶりに思い出した母と家族に、顔を見せに行くだけだから。
夕暮れの光を浴びながら強く決意をすると、ガデン・アンスクは馬車に乗り込み、迷宮都市から去っていった。




