98 嘘が導く(上)
通りには大勢の声が響き渡り、白昼の迷宮都市は人が溢れて活気に満ちている。
だが、物珍しそうな顔の若者たちがぞろぞろと歩くところを好まず、建物裏の狭い路地をひとり進む者もいる。
重たそうな荷物をぶら下げ、のろのろと、虚ろな瞳で。
青白い顔が近付いてきて、建物の隙間に隠れていた男はさっと足を出して転ばせ、腕を捻り上げ、手早く口を塞いだ。
荷物は地面に落ち、なにかが割れた音が響いた。
けれど表通りは喧騒に満ちていて、気が付く者などいない。
「大声を出すなよ」
ヌエルがゆっくりと手を離すと、倒れた時にぶつけたのか、チェニー・ダングの頬は真っ赤に染まっていた。
「ヌエル……!」
「本当に調査団に戻っているとはな」
「恥知らずが」と囁くと、チェニーは激しく暴れた。
だが、共に探索をしていた頃に比べて随分痩せたようだし、力が弱い。
男には敵わないと悟ったのか、女の顔は地の上に落ちて、観念したようにこう呟いた。
「なんの用があって来た?」
「あの神官がいなくなったんだよ」
眠っていると思っていたのに。
ほんの少し目を離した隙に、デルフィの姿は消えていた。
ジマシュの怒りは相当なものだった。
顔には出さなくても、ヌエルにはわかる。
もう一度探して来てくれるかな。
微笑みを浮かべ、優しく髪を撫でて。
いいね? と念を押された。
「お願い」などではなく、「命令」だ。探し出すまでは戻れない。
あんなに幸せだったのに、今はどん底にいる。
だが組み伏せられている女も、それは同じだろう。
「はっ、逃げられたのか!」
地に這ったまま笑う女の背中を、ヌエルは思い切り殴りつけた。
チェニーは苦しげに呻き、咳き込み、目だけをギラつかせて男を睨む。
「あいつはこの辺りに現れた。見かけていないか」
監視の協力をしてもらっていた脱落者から、西の広場に姿を現し、すぐに去っていったと聞いている。
なにが起きて西側まで逃げられたのかわからないが、とにかく、姿を消したことだけは確かだった。
もっと薬の量を増やすべきだったし、無理にでも飲ませるべきだったのに。
他に見かけた人間がいないか西側を歩き回り、雲の神殿も見張った。
チェニーにも早いうちに確認にしておきたかったが、この調査団員が一人で出歩くことはなかったから。
今日、ようやく。女が一人で外出したとわかり、路地裏で待ち伏せていた。
「知らない」
「有用な話があるなら言え。些細なことでも、ジマシュは喜ぶ」
チェニーの体がびくりと震える。
けれど女は結局、力なく、なにもないとしか答えなかった。
げっそりとこけた頬に、ほらあなのような暗い瞳。チェニーの顔色は悪く、ぐったりとしていてもう逆らう気はなさそうに見える。
裏切られ、捨てられ、抱えていた希望をすべて絶たれたのだから、仕方がないだろう。
けれど念には念を入れるべきであり、反撃をされないよう、ヌエルは女のベルトをナイフで切り裂いて剣を奪った。
奪って、驚き、思わず投げ捨ててしまった。
「あいつのものじゃないか!」
見覚えのある剣は、建物の隙間から細く差し込んだ日の光を受けて輝きを放っている。
ベリオ・アッジが大切にしていた、美しい細工の、いつでも腰から提げていたものだ。
あのおぞましい景色。
デルフィを眠らせた後、細い通路の先で起きた残酷な一部始終は、脳裏に焼き付いたまま消えずに残っている。
「恐ろしい女だ」
最後に背中を蹴りつけ、唾を吐き。
ヌエルは足早に暗い路地裏を後にした。
夜になってから、ヌエルはある酒場を訪れていた。
かつてはよく出入りしていたところで、ジマシュに出会ってからは一度も来ていない。
故郷では誰にも受け入れてもらえなかった。
ヌエルは男に生まれたが、どうしても女を愛せない。女を愛せないだけではなく、心が男に向いてしまう。
それが人間として不自然なのだと理解してからは、隠そうとしてきた。だが、どうしても隠しきれない時もあった。
追われるように故郷を出て、迷宮都市へ流れ着き。
故郷と似たような出来事も起きたが、人の多い場所だからなのか、同じような人間を見つけられた。
「仲間」が集う店はいくつかあって、ようやく迫害を受けずに済む安息の地が見つかったのだと思った。
「ヌウ。久しぶりだな」
街の南の片隅でひっそりと営業している「ゾースの小瓶」で、店主であるゾースに声をかけられ、ヌエルは手を挙げて応えた。
「元気にしてたか」
よく頼んでいた飲み物を振舞われ、世間話をひとつふたつと交わし、ヌエルは店の中の様子を探る。
店の中は薄暗く、店主の好みの香が焚かれていて、客の顔ははっきりと見えないようになっている。
「ジャファトは?」
ゾースは奥の席を指さし、ヌエルは頼んだ酒を手にして立ち上がる。
「ジャファト」
「あっ、ヌウ!」
奥の席にいたのは確かにジャファトだったが、ヌエルの知っている姿とは随分違っていた。
顔には化粧をしているし、女物の服を身に着けている。
ジャファトはヌエルとは違い、心は女なのに、間違えて男の体に生まれてしまったのだという。
「生きてたんだね!」
「ああ。その服、よく似合ってるな」
「ありがと」
背の高いジャファトは嬉しそうに笑みを浮かべて、ヌエルを抱き寄せ、頬にくちづけをした。
かつて一緒に暮らし、寂しさを埋め合った相手で、この挨拶はジャファトにとっては「当たり前」だ。
他愛のない話を少しだけ交わして、ヌエルはジャファトへ頼みごとを切り出していた。
「今、住む場所がないんだ。少しだけでいいからお前の家に置いてもらえないか」
「ああ……。ごめん、ヌウ。今、一緒に暮らしている子たちがいて」
「もう部屋はいっぱい?」
「ううん。その、女だけで暮らしてるんだ」
「女だけで?」
では、ジャファトはよほどうまくやっているのだろう。
同居していた頃はまだ、化粧に慣れていなかったし、体型を隠すのも随分下手だったのに。
それとも、異端の存在であっても受け入れられる、心の広い女が見つかったのだろうか。
「ごめんね、ヌウ。なにか協力できることがあれば、あたしでよければ力になるよ」
「ああ。今、人を探しているんだ。背の高い、鍛冶の神に仕える神官をね」
デルフィの名前と特徴を伝えてみたが、「親友」には心当たりがないようで首を傾げている。
「見かけていないか。そいつだけはどうしても探し出さなきゃならないんだ。ジャファトは背の高い男が好きだろう?」
「やせっぽっちなんでしょう? あたしが好きなのは、鍛え上げた体よ。がっちりした人」
「相変わらずだな」
「悪かったわね。でもとにかく、そんなにひょろっとしたのっぽは、見かけてないよ」
ジャファトはヌエルよりも秘密を隠すのが得意で、人懐っこい性格をしている。
他人によく話しかけるし、おせっかいを焼くから、たくさんの友人を作ることができる。
寝泊りする場所も欲しかったが、顔が広いジャファトならひょっとしたらという思いがあって、わざわざここまで来ていた。
「じゃあ、もう一人だ。ギアノって名前の男、知らないか」
「ギアノ?」
「ギアノ・グリアドって名前の男だ。どこにでもいそうなよくある顔をしていて、料理が上手いらしい」
「よくある顔って、どんな風?」
「髪と瞳はこげ茶で、……話が上手くて、誰とでもすぐに打ち解けられる、快活そうな奴だよ」
ジャファトの表情には、うっすらと困惑の色が浮かんでいる。
ギアノの見た目については説明が難しい。目立つ特徴がなくて、ヌエルの記憶の中の顔もぼんやりしている。こんな話を聞かされたところで、イメージはし辛いだろう。
「そいつは西側の食堂で働いてたんだが、いつの間にか店が潰れていてな。まだ街のどこかで働いてるんじゃないかと思うんだが」
「そのギアノって男、なにかしたの?」
「俺の探している神官が、訪ねる可能性がある」
「そうなんだ。……ごめん、ヌウ。心当たりはないよ」
「そうか。じゃあ会ったり、名前を聞くことがあったら教えてくれ。神官の名前はデルフィ・カージンで、もう一人はギアノ・グリアドだ。これからちょくちょく、この店に寄るようにするから」
「わかった」
二人はしばらく酒を飲んで、旧交を温めてから別れた。
夜はすっかり更けていて、酒場の周辺を歩く者はいない。
ヌエルは店主の厚意で泊めてもらえることになり、ジャファトは一人、暗い道を小走りで進んで家へ戻った。
「ねえ、マティルデ」
次の日の朝、迷宮都市の南側にある、女だけの部屋で。
部屋の主であるマージは目の下に大きな隈を作っていて、ユレーが心配そうな顔で見つめている。
「なあに、マージ」
朝食に用意されたパンをかじりながら、まだ魔術師志望どまりの少女は首をちょこんと傾けている。
「あんた……、さ。最近、ギアノに会った?」
「ギアノなら、三日前に来てくれたけど」
「変わった様子はなかったかい」
「別に。いつも通りのギアノだった」
どうしていきなりそんなことを聞くのか、マティルデは問う。
マージは眉間に皺を寄せて、あうあう唸り、しどろもどろになってこう答えた。
「いや、なんだか忙しそうじゃないか。いろいろとほら、人と会ったりなんかもするんじゃないかなあって思って」
「確かに毎日誰かしらとは会ってるだろうけど」
「おやおやマージ、もしかして、王都からきた坊ちゃんの話を聞いたのかい?」
いまだに一人で自由に歩き回れないマティルデのために、ギアノは時々マージの家を訪れてくれていた。
いつでも美味しいものをお土産に持ってきて、最近ではユレーに家事の手伝いの仕事を依頼していた。
家のことはてんでできないお坊ちゃまと子供が住む家のあれやこれやを引き受けて、放っておいたらとんでもないことになりそうだからという理由で、ユレーは定期的に顔を出してやっているらしい。
「あんた好みの大男だよ」
「背が高けりゃいいってもんじゃないよ。男ってのはね」
「わかってるよ。それにあのお坊ちゃん、たぶん相当な面食いだ。マージには落とせないだろうね」
明らかにブスが来たという顔をした、という話は聞いていた。
ユレーはぶつくさと文句を言っており、マティルデはなんと声をかければいいのかわからず、話題はそのまま流れていってしまったのだが。
「よくも言ったね、ユレー。そんなの会ってみなけりゃわかんないだろう?」
「フラれて泣くのがオチだよ」
「紹介して! ユレー、今日は仕事はないから! 連れていってよ!」
のんきにパンをかじっていたマティルデにも「行くよ!」の号令がかかり、三人でのおでかけが決まってしまう。
だが、マティルデはお坊ちゃんとやらに興味はなく、それよりも行きたいところがあった。
「ねえ、わたし、ギアノのところに行きたい」
「ああ、そりゃそうだろうね。じゃああのお屋敷まで一緒に行こう。坊ちゃんの家はそんなに遠くないからね。用が済んだら戻るから、それで一緒に帰ろうか」
「うん」
話の早いユレーの案にマティルデが頷くと、マージの表情がみるみる曇っていった。
「どうかしたの、マージ」
「いや……。あの、さ。マティルデ」
「なあに?」
「ギアノに、そのう……。最近、神官が訪ねてこなかったか聞いてくれないかい」
「神官?」
「いや、神官って言わなくていい」
「え? じゃあ、なんて聞けばいいの?」
「ううん。もう、いいや。なんでもない。忘れておくれ」
すっきりしないやりとりは終わり、朝食をおなかに詰め込んで。
着替えを終えると、三人は揃って家を出た。
カッカーの屋敷に行くのは久しぶりだ。
一人で出歩けるようになろうと何度も試していたが、どうしても男性の集団に出会ってしまうと駄目で、マティルデの試練はまだまだ乗り越えられそうにない。
仲間に守られ道を進んで、ユレーとマージに見送られ、屋敷の中へ。
ギアノの名を呼びながら廊下を歩いていると、管理人の部屋から女の子が出てきて、マティルデの前に進み出てきた。
「こんにちは。ギアノさんに御用ですか? 今、留守にしていて……」
赤い髪に白い花を飾った優しげな可愛らしい女の子は、マティルデの顔を凝視したままぴたりと止まる。
「ギアノは留守なの?」
「ええ、すぐに戻ると思うんですけど。それよりも、もしかしてあなたは、ティーオさんの助けた方ですか? 『緑』の迷宮で」
「え? うん、そうだけど」
「まあ! 元気になられたんですね。良かった、良かった!」
女の子はマティルデの手を取り、力強く握ってぶんぶん振った。
けれどすぐにお客の戸惑う表情に気が付いて、ぱっと手を離した。
「ごめんなさい。私はアデルミラ・ルーレイと申します。前にもこの屋敷に滞在していたことがあって、フェリクスさんたちと一緒に探索をしていたんです」
ティーオがマティルデを助けた現場に居合わせ、癒しの力で助けてくれたことが明かされていく。
言われてみればアデルミラの名には聞いた覚えがあって、マティルデは手を握り返し、礼の言葉を伝えた。
「私、故郷に帰らなければならなくなってしまって。あなたのこと、とても気になっていたんです」
アデルミラの胸には雲の神官のしるしがぶらさがっており、幼い顔は優しく微笑んでいる。
廊下で二人で騒いでいると、樹木の神殿からやってきたのかララが姿を現し、マティルデとアデルミラに声をかけてきた。
「あっ、マティルデじゃない。久しぶりだね。元気だった?」
「うん」
「アデルミラ、お疲れ様。ギアノは?」
「出かけているんです」
「そうなの? お菓子は?」
「今はなくって」
「本当に?」
「あるはあるんですけど、使う予定があるみたいで。戻るまで触らないようにって言ってましたよ」
ちょっとくらいいいんじゃないかとララは言う。
アデルミラも笑っているものの、それは駄目だとはっきり断っている。
「二人は仲良しなのね」
「前にもいたのよ、アデルミラは」
「そうなんです」
マティルデとララは同い年であり、アデルミラは二、三歳ほど年下くらいに見える。
神官同士でキャッキャと笑い合っている様はなんだかうらやましくて、マティルデは口をとがらせている。
「ただいま。ララ、また仕事をサボってるのか」
そこに管理人が帰ってきて、廊下の先で騒ぐ集団に気が付いて声をかけている。
「アデルミラ、留守番ありがとう。ララにつまみ食いされてない……?」
きっとしょっちゅうサボりにやってくるであろうララと、留守を任せていたアデルミラ。
その奥にもう一人乙女がいることに気付いて、ギアノは優しげな顔をして笑った。
「マティルデ! よく来たな!」
魔術師志望の少女は心を一気に弾ませて、管理人のもとへ急いだ。
「ギアノ!」
「ごめんな、留守にしていて。保存食の売り込みに行ってたんだ」
「売り込み?」
「旨い保存食ってやつを作っててね。どこかで取り扱ってもらえないか、交渉してるんだ」
そんなことより、とギアノは目を細めている。
「ユレーもマージもいないみたいだけど。もしかして、一人で来たのか」
「うん。うん、そう。一人で来たの」
「なんてこった。なにか、いいものを用意してやらなきゃいけないな」
ギアノはアデルミラに留守中のことを聞き、ララにもついでに用意してやると声をかけ、三人に食堂で待つように話した。
これまでにない楽しげな様子で食堂と厨房を行き来して、ギアノは四人分のデザートとお茶を用意すると、乙女たちの待つテーブルにきれいに並べてくれた。
ララは早速お菓子を頬張り、アデルミラはその様子を見て笑っている。
マティルデも遠慮なく匙を手にとって、ユレーたちに付き合わなくて本当に良かった、と思っていた。
「ギアノさん、保存食を扱ってくれるところは見つかったんですか?」
「ああ。まだ試しになんだけど、七日間置かせてくれるって話になった。売れ行きが良ければ、正式にってことでね」
アデルミラは良かったと微笑み、ギアノも満足そうに頷いている。
アデルミラはどうやらこの屋敷に住んでいるようで、マティルデは二人の親密さが気になって仕方ない。
「なあ、マティルデ」
「ギアノ! なあに?」
ご機嫌なギアノは、楽しげな笑顔のままマティルデへ振り返ると、こんな話を持ちかけてきた。
「実は、菓子と乾燥果実も店に置いてもらうことになったんだ」
「あの美味しいやつを?」
「そう。グラッディアの盃って店を知っているか。女性客ばかり来るところなんだけど」
「マージたちと行ったことがあるわ」
「そうなのか。試しに三日だけなんだけど、あそこの軒先を借りて甘いものを売らせてもらうんだ。マティルデ、店番を頼めないかな?」
試験販売は明日からで、ギアノとアデルミラで売りに行くつもりだった。
だが、女性客ばかりの店が売りのグラッディアの盃としては、店の前に男が立っているのはちょっと、と考えているらしい。
「結局俺でもいいって話になったんだけど、女の子の方がいいと思うんだ」
「そうなの」
「来てもらえたら嬉しいんだけどな。俺の作ったものを一番おいしそうに食べてくれるのは、やっぱりマティルデだからさ」
ギアノはにこにこ、アデルミラもその隣で微笑んでいる。
「もちろん、給料も出すよ。ひとつも売れなかったら少なくなっちゃうけど、その時は許してくれよな」
「売れるわ、ギアノのお菓子はおいしいもの」
「ありがとう。店番っていっても、たいした仕事ではないよ。正直に味の感想を伝えてくれたらいい」
それとも他の仕事があるかと聞かれて、マティルデは慌てて首を振った。
毎日続けている仕事は今はないし、それに、自分が行かなければどうなる?
これから三日間、ギアノとアデルミラが二人で一緒に仲良くお菓子を売ることになる。
「やるわ」
「ありがたいな。都合は大丈夫?」
「大丈夫」
店が混むのは昼間で、周囲の店で働いている若い娘たちが食事にやって来る。
甘いものを食べて、午後からの労働を頑張ろうと思ってもらえれば、とギアノは考えたらしい。
「一人で来られるか」
ギアノは優しい顔でマティルデを見つめており、今更出来ないとは言えなかった。
快諾した少女に時間などの詳細が伝えられて、臨時販売所での仕事は決まった。
ほんの些細な出来事なのだと思う。それはわかっている。
彼らは歩いているだけ。目的地に向けて移動しているだけ。つまり、マティルデとなにも変わらない。
それがたまたま、三人だとか四人だとか、五人だとか。増えただけで駄目になってしまう。
彼らのたてる足音の響きに体が震えて、突然怒りを向けられるのではないかと恐れている。
建物の影に隠れたマティルデの横を行きすぎて、しっかりと離れてからでなければ進めない。
気持ちは前向きになったものの、体がついてきていない。
自分の状態はわかっているが、そこから先に進めない。
グラッディアの盃に行かなければならないのに。
通行人を避けながら、じわじわと進んでいく。
進んでいるけれど、時間がかかりすぎていた。
売り物の準備はもう終わっているだろうし、お店が一番賑わう時間に差しかかっている。
強がってユレーとマージの手助けを断ってしまったことを、マティルデは後悔していた。
「もしかして、マティルデ?」
建物の裏の樽にしがみつくようにして落ち込んでいた少女に声をかけてきたのは、近くの武器店で働いているキャリンで、マティルデは思わず久しぶりに会えた友人に飛びついていた。
「キャリン!」
「どうしたの、大丈夫? 困っているの?」
「グラッディアの盃に行かなきゃいけないのに」
マティルデが鼻をぐずぐずと鳴らすと、キャリンは優しく背中を撫でて、一緒に行こうと申し出てくれた。
「今からお昼の休憩だから」
「キャリン、なんて優しいの」
無断で寮に侵入したマティルデを受け入れてくれただけあって、キャリンはとても親切だった。
店に向かっている理由を聞いてくれたし、ギアノの菓子のおいしさについても興味を示してくれた。
「そんなに美味しいお菓子があるの?」
「そうなの。甘くって、でも甘いだけじゃなくって」
友情パワーのお陰ですぐに店には着いた。
グラッディアの盃は今日も盛況で、店の中からは女性たちのおしゃべりが聞こえてくる。
そのおかげか、そのせいというべきか。ギアノの出張販売所の仕事は既に終わっていた。
「マティルデさん。良かった、道に迷われたか、具合が悪いのかって心配していました」
もう一人の店員のアデルミラは、真摯な眼差しで相棒を見つめている。
自分よりも年下だろうに、やはり神に仕える人間だからなのか、しっかり者のようだ。
マティルデの心配をしつつ、声をかけてきた客にも答えている。
「お菓子はないの?」
「売り切れちゃったみたい」
「そうなのね。残念だわ」
しゅんとしたキャリンに気付いて、アデルミラはにっこりと微笑んでいる。
「マティルデさんのお友達ですか? 明日と明後日も売りに来ますから、良かったらいらして下さい」
「わあ、それなら良かった。ああ、でも早い時間に来ないと、なくなっているかもしれないよね」
早めに休憩に入る同僚に頼む、とキャリンは笑う。
アデルミラはぜひと返して、売り場の片付けを終わらせていく。
雲の神官は店の主であるリティに声をかけに行き、そこにちょうどギアノが姿を現していた。
「もしかして完売したのか?」
「うん」
「ありがとうな、マティルデ」
また明日も頼むよと笑いかけられ、マティルデの胸はちくちくと痛む。
大好物の干した果実の詰め合わせを手渡され、今日の「仕事」は終わり。
給料は三日目に支払われることに決まっており、片付けの済んだアデルミラはギアノと屋敷へ帰っていってしまった。
「マティルデ、良かったらご飯を一緒に食べない?」
しょぼんと萎れた少女の背中を、キャリンが優しく撫でてくれた。
気の利くキャリンは楽しい話題ばかりを振ってきて、食事は和やかな空気で進んでいく。
一緒に歩いてくれた礼もしておくべきで、マティルデはギアノからもらった今日のボーナスを半分にわけて、優しい友人に渡した。
「わあ、すごくおいしい! 明日、絶対に買うわ」
キャリンはにっこりと笑って、マティルデが一人で帰れるか声をかけてくれた。
いくらなんでもこれ以上は頼れない。シュルケーの工房の南門店のそばまでは一緒に歩いて、そこからは一人。
建物の影に隠れながら進んでいって、少女は夕方頃にようやく帰宅できていた。
マージの家の、いつもの場所に座り込んで、果実を齧った。
甘くて酸っぱくて、おいしくて。大好きな味だが、これはズルをして手に入れた物だ。
ギアノに本当のことを言わず、自分を責めないアデルミラに甘え切ってしまった。
キャリンと会えて嬉しかったが、心は晴れそうにない。
「ただいま。マティルデ、今日はどうだった?」
仕事を終えたユレーが戻ってきて、マティルデが握りしめている袋を見て、ふふっと笑う。
「良かった、無事に行けたんだね」
ひとつおくれよと手が伸びてきたが、マティルデはさっと袋を後ろに隠して、減ってしまった大好物の残りを死守した。




