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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
21_Self‐Reliance 〈雛鳥の巣〉

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97 青雲の志

 レテウスがシュヴァルを連れて戻ってからさほど時間は経っていないのに。

 なぜか、家事のひとつもまともにできないこと、日常生活に必要な知識がまったくないであろうことは少年にバレていた。


「あいつ、料理がどうやったらできるかすら知らないんだぜ」

 シュヴァルは視線を髭の戦士にじっと向けたままで、レテウスを見ようとしない。

「俺、あんなやつと暮らさなきゃならないのか」

 こう問われて、ウィルフレドはやっと三男坊へ視線を移した。

「散々な言われようですな」


 戦士は微笑みを浮かべている。

 それ以上の言葉はないが、どうするつもりなのか問われているのだとわかった。


「私は……」


 一人になった途端、すべてがまわらなくなってしまった。

 寝るところに迷い、着るものに困り、食事は見当たらず、他人には気を遣われるか、無視されるか。


 シュヴァルの言う通り。

 クリュが呆れるのも当たり前。

 なんとかなると思っていた。なんの根拠もないのに。


 父がいて、金の心配はなく。

 母がいて、身の回りのありとあらゆる心配は取り除かれ。

 メイドたちがいて心が癒され、欲求は満たされていた。

 料理人たちがいて、いつでもいくらでも好きなものが食べられた。

 下働きの者たちが衣服をきれいにし、馬の世話をしてくれていた。

 王城での勤めについては、兄がなにもかも教え、導いてくれていた。


 自分の生活を成り立たせていたのは、周囲にいる人々の力だとわかってしまった。


「なにもできない人間だったようです」


 心が砂になって崩れていくようだった。

 認めるのが嫌でたまらない。情けなくて仕方ない。

 声に出したらもう終わりで、レテウスはがっくりと肩を落としている。

 

「二人とも、ここで少し待っていてもらえますか」


 戸惑うシュヴァルと失意のレテウスを残し、ウィルフレドが去っていってしまう。

 髭の戦士はしばらくすると戻ってきたが、もう一人、誰かを伴っていた。


「レテウス殿は会ったことがありますね。彼の名はギアノと言います。明日の昼まで手伝いをしてもらうよう頼みました」

 貸家に現れたのは「なんでもできる親切な若者」で、困惑した表情で貸家の中を見渡している。

「なんだ、こいつ。どこかで見た顔だな」

「あの屋敷から出てしまった以上、君の居場所をどうにかして用意しなければならない。本当はこのギアノに世話を頼みたいと思っていたのだ」

「初耳なんだけど、ウィルフレドさん」

 ギアノは首を傾げ、戦士は急な話で申し訳ないと謝っている。

「シュヴァルをカッカー様の屋敷に置くわけにはいかなかったので、他に誰か頼めればと考えていたんだ。そこにレテウス殿が現れた」


 けれど、無理なようなので。

 ウィルフレドは髭を撫でながら、こう続ける。


「ギアノならあの屋敷ででも、この子を保護できるのではないかな」

「え? いや、どういう事情があるのかよくわからないんだけど」

「話すと少し長くなる。明日詳しく説明するので、とりあえずしばらくここで暮らせるよう、準備を手伝ってもらえないだろうか」

「俺もここで寝泊りを? アデルミラに明日までのことは頼んできたけど」

「いや、少しの間暮らせるようにしてくれればいい。それで、レテウス殿」


 ギアノ相手には和やかに語っていたのに。三男坊へ向けられた視線は鋭く、厳しいものに変わっている。


「できないのであれば仕方がありません。あなたが引き受けてくれて嬉しかったのですがね」

「あの」

「家を用意するのに金もかかったことでしょう。お返ししますが、この事態を収めるためには少し時間がかかります。ひと月ほどは使わせて頂きたい」

「なんだよ、勝手に話をすすめやがって」

「シュヴァルだっけ。二人の話はややこしそうだから、こっちを手伝ってくれ」

「はあ? なんで俺が?」

「早くやらなきゃ、固い床の上で寝る羽目になる」

 そんなの嫌だろうと笑いかけられ、納得がいったのかシュヴァルはギアノの後についていってしまった。


「いくらかかりましたか」


 愛馬を手放して作った資金のうち、半分くらいを使っていた。

 今いる貸家は、この通りでは大きい方だし、比較的新しいもので高かった。引き取り代行料という謎の支払いもついていた。

 家の中にはテーブルと椅子、ベッドはあったが、その他についてきた物はない。

 着替えだの、寝具だの、クリュに言われて様々なものを買い込んだ。


 使った資金はすべて返してくれるらしい。

 貸家の主と話をつけてくれるとも。

 

 レテウスは座ったままうつむいているが、視界の端にシュヴァルの姿が見えていた。

 悪態をついてはいるが、ギアノに指示された通りに手伝いをしているようだ。


「では明日の昼頃でよろしいか」

「私は、いつでも」

 なんの予定もないのだから、頷くしかない。

 レテウスはますます深くうなだれていく。


「レテウスさん」

 ぐったりと頭を垂れていた三男坊へ声をかけてきたのはギアノで、ぼんやりと見上げた先には穏やかな微笑んだ顔が見えた。

「夕食と、明日の朝食の材料を買いに行くよ。良ければ一緒にどうかな」

「買い物?」

「道具はあるけど、材料がなにもないから」

「なんだよ買い物って。俺も行かなきゃならねえのか?」

「ん? じゃあ、レテウスさんと二人で留守番してるか」

「嫌だ!」


 レテウスと残るくらいなら、ギアノと一緒に行った方が良い。

 シュヴァルにはっきりと意思を示され、三男坊は胸のうちに残っていた最後のかけらが破裂したように思った。


 いつの間に去っていったのか、ウィルフレドの姿ももう見当たらない。

 椅子の上でぼんやりしていると、入り口の扉がゆっくりと開いた。


「レテウス。あの子、出ていったけど」

「サークリュード」

「なんで管理人が一緒だったの?」

「買い物に行ったんだ」

「買い物に?」

「食料がないとかで」

「あの子になにか、よっぽどひどいことでも言われた?」


 確かにその通りだが、それだけではない。

 情けなさの極みといって良い一日だった。

 結局レテウスは自分の心のうちを伝える言葉をまったく見つけられなくて、起きた出来事の一部始終をクリュに話して聞かせていく。


「ブルノーって人の頼みを引き受けるって言ってたのに」

「そうなのだが」

「そうなのだがじゃないよ。なにしたらいいのかわかんないって、なんなんだよ」

「わからないのだ。なにもかもが! 私には!」

「はあ?」

「なにもできない男なのだ!」


 大きい声を出すな、とクリュは顔をしかめている。


「自分でやらなくてもいい御身分だったんだろ。それを捨てたんじゃないのかよ」

「捨てたとも」

「帰るところはないとまで言っておいて、なんで諦めちゃうんだ」

「諦めるもなにも、できないのだから」

「ええ?」


 白金の長い髪がふわりと揺れたのがわかった。

 煌きが目に入ってきて、思わず顔をあげると、クリュの美しい青い瞳がレテウスをまっすぐに見つめていた。


「やれるようになればいいだけだろ」


 クリュの麗しい表情に浮かんでいるのは驚きのようだが、言われたレテウスも相当驚いている。


「なんだと?」

「なんだとって……、そのまんまだよ。やれるようになればいいじゃないか」

「やれるように」

「料理とか、片づけとか。自分でやればいいんだよ」

「自分で?」

「やめろよ、その、言葉をそのまんま繰り返すの」


 誰だって最初からなんでもやれるわけではない、とクリュは話した。

 教わったり、真似をしたりして、少しずつ上達していくものなのだと。


「剣なら使えるんだろ。誰かに教わったんじゃないのか?」

「父上に教えて頂いた」

「馬に乗れるのもそうだよな。同じようにやればいいだけだよ」

「だが、料理だの洗濯だのは女の仕事だろう」

「もう、レテウスは!」


 クリュに頭をぽかんと殴られて、レテウスは思わず立ち上がっていた。


「なにをするんだ!」

「馬鹿! 俺も馬鹿だけど、レテウスはもっと馬鹿だ!」


 自分よりもずっと背が低くて、体も細いクリュには迫力がない。

 白い頬を紅潮させていても可愛らしさが際立つばかりで、恐ろしさは皆無だった。


「男も女も関係ない。みんなやらなきゃいけないことをやってるんだ。そのくらいもわかんないのか、貴族ってのは」


 胸をぽかぽかと叩かれ、特に痛くはないのだが、やめるように言う。

 だが攻撃は止まらず、仕方なくレテウスはクリュの腕を掴んだ。


「痛い、やめてよレテウス!」


 青い瞳に涙が浮かんだのと、扉が開いたのはほぼ同時。

 シュヴァルとギアノが戻ってきて、目に入った光景に顔を歪めていた。


「なにをしてるんだ。喧嘩はやめろ」


 ギアノが間に入ってきて、レテウスは慌てて手を離した。

 クリュはめそめそと泣いて、痛い痛いとギアノにもたれかかっている。


「クリュだっけ。どうしてここにいるんだ?」

「おい、眉毛。とんでもない奴だな、お前。まだ真昼間だぜ?」


 シュヴァルが新たな火種を撒いたが、有能な管理人がさっと消して、三人を順に椅子に座らせていった。

 少年には人を罵るなと注意をして、クリュには泣き止むよう肩を叩いている。


「この子は今日からこの家に来たんだろ? で、レテウスさんはこの街というか、庶民の暮らしに慣れていなさそうだよね。クリュはどうして一緒にいるのかわからないけど、まあ、今はいいや」


 ギアノは三人の様子を見守りつつ、火をおこし、鍋に湯を沸かし始めた。

 シュヴァルはちらちらと大人たちを見つめており、クリュは瞳を潤ませたまま動かない。

 レテウスは「なんでもできる若者」の様子を見つめていた。

 

 ギアノは持ち帰った荷物の中からあれこれ取り出したり、鍋の様子を見に行ったり、シュヴァルやクリュの背中を時々ぽんと叩いたり、とにかくずっと動き続けている。

 いつの間にかテーブルの上には良い香りを漂わせるカップが置かれていたし、クリュの涙は引っ込んだし、ずっとばたばた揺れていたシュヴァルの足も止まっていた。


「さてと」

 お茶でも飲みなさい、とギアノは言う。

 自分も椅子に座り、カップを手に取り、ちびちびと飲んで、息を吐いて。

「悪いモンは入ってないから」


 これで、混乱の時間は終わった。

 シュヴァルはベッドの準備をするように指示が出され、おとなしく部屋へ向かっている。

「クリュ、手伝ってやってくれ」

 三人目の住人も、素直に少年の後に続く。


 残った一番の問題児であるレテウスに、ギアノは穏やかな表情で語りかけてくる。


「詳しいことはわからないけど、ここであの子を引き取って暮らす予定だったんですよね」

「ああ」

「ウィルフレドさんに明日説明してもらうけど、もう断れないみたいだし、なんとかしますんで」

「なんとかできるのか」

「事情が複雑そうだけど、仕方ない。あの子はまだまだ子供だし、守ってやらないと」

「仕方ない?」

「仕方ないでしょう。身寄りもないみたいだし。ちゃんとした、落ち着く場所を探すまでの話だろうから」


 なにか準備があるなら手伝うとギアノが提案してきて、レテウスはまた困っていた。


 ブルノーの言葉は本当だった。


 あれだけ態度の悪いシュヴァルに動じないどころか、注意をして言うことを聞かせているし。

 空っぽだった鍋の中には、いつの間にやら美味い飲み物が入っているし。

 勝手に子供の世話を引き受けさせられたというのに、仕方がないからとあっさり了承しているし。

 ギアノの表情からは余裕の気配が漂い、不安や弱音とは無縁のように見える。


「荷物、あります? もうまとめたのかな」

「いや……。大丈夫だ」

「そうですか。二人に話すことがあるなら、ゆっくりどうぞ」


 寝床の支度が済んだのか、シュヴァルが出てきてギアノのもとへやってくる。

 夕食の準備をするから手伝えと言われ、少年は頬を膨らませたものの、なにをすればいいのか尋ね、芋をひとつ受け取っている。


「皮を剥くの、やったことあるか?」

「ない」

「ナイフは使える?」

「うん」


 椅子を運んで、二人は並んで座って野菜の皮を剥き始めたようだ。

 その様子をぼけっと見つめるレテウスのもとにクリュがやってきて、ちょっと、と小部屋へ引きずりこまれてしまう。


「レテウス、王都へ戻るの?」

「そうなるのだろうか」

「本当に諦めちゃったのかよ。この家はどうするんだ」

「代金も返してくれるし、あとのことは引き受けてくれると、ブルノー様が」

「嘘だろ。じゃあもう、ここには住めないのか」


 クリュは顔をくしゃくしゃに歪めて、悔しそうに強く床を蹴った。


「せっかく頼れる人を見つけたと思ったのに」

「確かにあの管理人は頼れそうだ」

「なに言ってんの。レテウスのことだよ」

「私を? こんな私にどう頼るのだ」

「はあ。もう、まあいいか。俺、安眠できる場所が欲しかったんだ」

「安眠と私がどう関係するんだ」

「レテウス、女好きだろ。男でもいいかなんて、絶対に考えないよな」


 宿屋はどこも相部屋ばかりで、個室などない。

 仲間探しで苦労するだけではなく、見知らぬ誰かと相部屋になった時、ちょっかいを出されることがあるのがクリュの一番の悩みなのだという。


「男だってわかった途端ガッカリしてたもんな。レテウスみたいな生粋の女好きが一番安心なのに」

「サークリュード……」

「本当に下手打ったよ。あの時、アダルツォに食ってかかるんじゃなかった」


 そんなことまでお見通しだったとは。

 かなり情けない話ではあったが、クリュが自分に頼ろうとしてくれたことに気が付いて、レテウスはなんとか気を取り直している。


「この家で私と暮らせれば、安心できるのか」

「もう帰るんだろ? 誰か良い奴がいないかまた探すよ」

「待ってくれ、サークリュード」

「待ってどうなるんだ」

「男も女もないのはわかった。いろいろとやらねばならないようだが」

「無理だよ、レテウスには」

「なぜそんなことを言う」

「だって馬鹿なんだもん。全然自分で考えようとしないし」

「これからは考えるし、全部覚えていく」

「できないよ」

「できる。いや、やる。約束を果たすために、わざわざ馬まで売ったんだ」


 自分とバロットの名にかけて誓うとまで言ったのに。

 何故諦めようなどと簡単に考えてしまったのか。

 クリュの言う通り、自分は馬鹿だとレテウスは思う。


 部屋を出て、ギアノのもとへ急ぐ。

 シュヴァルは一生懸命ナイフで野菜を削っており、管理人は穏やかな瞳を三男坊へ向けた。


「どうかしました?」

「私は王都へ帰らない。この家でこの子の面倒を見る」

「はあ? なに言ってんだ、この眉毛は」

「人を眉毛なんて呼ぶな、シュヴァル」


 少年を黙らせ、ギアノはレテウスの話をじっくりと聞いてくれた。

 伝わらない部分もあったようだが、大体は理解してもらえたようだった。


「明日の昼までは手伝ってもらえるのだろう? 私にも料理などを教えて欲しい」

「もちろんいいですよ。クリュはどうかな、基本的なことができるんなら、一緒にやってもらえばいいと思うけど」

「そうか。確認してみる」

「そういや、どうしてクリュが一緒にいるんですか」

「偶然出会ったんだ。道案内などをしてもらった」


 ギアノは「へえ」と呟き、いいところがあるんだなと漏らしている。

 クリュは文句を言っていたが、笑顔は優しげだし、意地悪な男には見えない。

 





「本当に引き受けられるおつもりですか」


 次の日の昼。戦士の問いにレテウスは覚悟を持って頷き、隣の少年に顔をしかめられている。


 こうしてシュヴァルの預かりは、二日目以降も続行が決まった。


 もちろん、生活はちっともうまくいかなかった。

 物は壊すし、部屋は乱れるし、料理もちっともうまくいかない。

 教わった通りにやっているはずなのに、できない。


 クリュは寝泊りの為の場所が欲しかっただけのようで、日中は留守にしていることが多かった。

 探索の仲間を探しに行ったり、見つかった時には迷宮へ向かっているようだ。

 なので普段の暮らしはレテウスとシュヴァルの二人だけ。

 家に篭りきりでは良くないだろうと二人で家の周囲を歩いたり、必要なものを買いに行ったり、家事をこなそうとしたりして過ごしていた。


 あまりに困った時には、カッカーの屋敷を訪れギアノの助けを借りに行く。

 有能な管理人は忙しいらしく、毎回助けに来ることはできない。

 かわりに知り合いの女性を一人、レテウスの家へ寄越してくれた。

 女の名はユレーといい、顔立ちは地味、体つきも魅力的とは言えず、三男坊は内心がっかりしている。

 だが、家事をてきぱきとこなしてくれたし、二人に有用なアドバイスをくれた。

 ユレーは本来は探索者なのだが、副業として家事代行を引き受けているのだという。

 ギアノに頼まれたからと時間がある時には顔を出してくれるようになり、それでレテウスたちの暮らしは少しずつ改善されていった。



 不安と苛立ちの中にいたであろうシュヴァルの様子も、少しずつ落ち着いていった。

 この暮らしに慣れてきて、レテウスもようやく気が付いたが、同居人の少年は口が悪いだけで、怒ったり暴れたりすることがない。

 

 夜遅くにクリュと二人で話している時に、シュヴァルの言葉遣いについてこんな風に言われたこともあった。


「ああいうしゃべり方なだけなんだな、あの子は」

「そうだな、まったく、荒々しい言葉ばかり使う」

「シュヴァルは、あんな風に言い合うのが普通のところにいたんじゃない?」

「あんな風に言い合ったら喧嘩になるだろう」

「言われた方も似たような言葉で返すんじゃないかな。遠慮なく言い合って仲良くなるのかも」


 クリュが本気で嫌だと訴えた次の日から、シュヴァルは女呼ばわりするのをやめた。

 それからはリュードと呼ぶようになった。クソリュードの時もあり、苦情は出るが、争いまで発展したことはない。


「そういう人たちもいるよ」

 

 信じられない話ではあったが、レテウスはただ頷くのみにとどめた。

 自分のいた世界の狭さを認めたら、次は知らない文化の理解をしていかねばならない。


 認識を改め、シュヴァルの言葉にいちいち怒らなくなると、家の中の空気は穏やかになった。




「なあ眉毛。お前、字が書けるんだよな」


 迷宮都市では珍しい雨の降った、ある日の午後。

 少年はぼろぼろになった薄い本を持ってきて、レテウスに差し出していた。


「これ、ヒゲにもらったんだ。字がわかるようになるって」

「懐かしいな。私も昔、これで文字の練習をした」

「自分の名前は書けるようになったんだぜ」


 本の裏側やページの余白に、へたくそな「シュヴァル」が並んでいる。


「なあ、オンダってここに書いてくれよ」

「オンダ?」


 言われるまま、レテウスは「オンダ」の見本を書いていった。


「オンダというのは、誰かの名前か?」

「……うん」


 シュヴァルは本を抱きかかえると自分の部屋に戻っていってしまい、オンダの正体はわからない。


 だが、本にはもう書き込める隙間がほとんど残っていなかったようで、次の日になるとシュヴァルは外へ出て、地面を削って文字の練習をし始めていた。


「うまく書けているな」

 声をかけられて、シュヴァルはしゃがんだまま、レテウスの顔を見上げた。

「本当?」

「ああ」


 地面にいくつもの「オンダ」が並んでいる。

 その辺に落ちていた棒を使ったにしては、きれいに書けていた。


 野菜を切るのは、シュヴァルの方がレテウスよりも上手い。

 生活のために必要なことをたくさん教わっているが、すべて、少年の方が早く覚えて上達している。


 器用なのだなとレテウスが感心していると、シュヴァルは地面を削りながら、小さな声でこう呟いた。


「俺の子分なんだ」

「子分?」

「オンダは、俺の一番の子分だった」


 唐突に始まった迷宮都市暮らしは、日々のことで精いっぱいで、シュヴァル個人の事情についてはまだなにも聞けていない。

 

「子分がいたのか、シュヴァルに」

「お前みたいな眉毛だった」

「そのオンダは、今はどうしているんだ?」


 枝を動かしていた手が止まり、シュヴァルはしばらくの間なにも言わなかった。

 その後用意した昼食を食べて、二人で買い出しに行って、戻って。

 夕方になり、背中を流してやっていると、ぼそりとこう呟いた。


「オンダは、死んじゃったんだ」


 シュヴァルとその子分が迷宮都市へやって来た経緯はわからない。

 だが、盗みを働き、その後。商人たちから制裁を受けたことを聞かされ、「一人で歩かせてはならない」理由がわかる。


 とんでもない話だとレテウスは思ったが、樹木の神官長の話が思い出されて、言葉を飲み込んでいた。

 シュヴァルとオンダは盗みを働いたから、罰を受けることになったのだろう。

 これが迷宮都市のやり方なのだと、理解していくしかない。


「お前の眉毛を見ると、オンダのことを思いだすんだ」

「そうだったのか」

「オンダに会いたい」


 まだ小さな体が震えて、レテウスはシュヴァルの抱えていた悲しみを知った。

 少年は涙を見せなかったし、着替えを終えた後はいつも通り、生意気なことばかり言い続けている。

 帰って来たクリュをからかい、今日は何をしてきたのか聞いて、眠りに就いている。


 

「シュヴァル」


 考えることは山のようにあった。

 生活で精いっぱいの状態からようやく抜け出したのに、新たな悩みが山積みになっている。

 金は減る一方だというのに、シュヴァルから目を離さずにどうやって稼いだらいいのかわからないし。

 本当に王都へ戻らなくて良かったのか、家族や友人たちがどう思っているのかひどく気になってきたし。

 この暮らしがいつまで続くのかもわからないし。


「オンダがどうなったのか、聞きに行ってみないか」

「聞きにって、どこへ?」


 けれど、小さな頼りない背中を見てしまった。

 子供は守ってやらなければならないと、ギアノは話していた。

 まったくその通り。その気になれば、自分はどうとでもなる。たとえ嫌でも迷宮に潜ったり、建設現場に雇ってもらえれば金は手に入るし、どこにでも一人で行ける。

 だが、シュヴァルはそうではない。たったの十一歳なのに、家族はもういない。子分もいなくなった。


「その、揉めたという店に行けば、店主に聞けばどうなったかわかるのではないか」


 まだ、どんな事情を抱えているのかわからない。こんな子供が大男を子分にしていたということ自体がレテウスにとっては理解不能の出来事ではある。


「そんなの教えてもらえねえよ」

「聞いてみなければわからないだろう。死んでしまったのだから、どこかに弔われているかもしれない」

「とむらうって、なに?」

「埋葬……はわかるか? 死を迎えた者は皆、大地へと還される。どんな経緯があったとしても、死者をそのままにはしないはずだ」


 迷宮都市は治安がいい。

 行き倒れがいれば神官が助けるし、犯罪はしてはならぬものという決まりをほとんどの者が守っている。

 多少のごみは落ちていても、人が転がっていることはない。

 だったら店で命を落としてしまったオンダも、どこかへ運ばれたのではないかとレテウスは考えていた。


「シュヴァルが行ってもいい顔をされないだろうし、私も人と話すのは下手だ。サークリュードに一緒に来てもらおう」

「クソリュードがいたらなんとかなるのかよ」

「少なくとも私よりは交渉が上手い。これまでに何度も助けてもらったから」


 

 事情を話すと、クリュは快く同行を引き受けてくれた。

 現場になったゼステリー商店へ向かうと入り口で止められてしまったが、クリュが店主と話をつけてくれた。

 シュヴァルはクリュに促されて素直に頭を下げ、かつての騒動について詫びることができた。

 

 オンダは街から出た西の墓地に埋められたと言う。

 三人で歩いて、西の果てへ。

 おんぼろ小屋にいた「脱落者」たちに大男のことを覚えていないか聞いて回ると、一人の男が大声をあげながら近づいてきた。


「おお、おお、おおおお、坊主! お前生きてたんだなあ、おいおい、こいつは驚いた!」

「なんだお前」

「坊主、埋められるところだっただろう? なんだか変な奴に止められてなあ。その後いなくなっていたから。おかしなことがあるもんだって思ったのさ」


 訳がわからない話に、レテウスとクリュは顔を見合わせている。

 シュヴァルも困った顔をしたきり黙っているが、男はお構いなしに少年の肩をばしばし叩いて、こう続けた。


「一緒にいた大男がもう一度来て、またビックリさ。坊主はどうなったんだろうって、気にしてたんだよ」

「大男、来たのか」

「来たよ。ビックリついでに俺も手伝っちまったね」


 思いがけずオンダを埋めた男が見つかったとわかり、レテウスは間に入って、どこに埋葬したか覚えているか尋ねた。


「ああ。珍しいことだしよく覚えているよ。あいつは大きかったから、あっちの、広いところに穴掘って埋めたんだ」


 脱落者の男に案内してもらい、オンダのもとへ向かう。


 シュヴァルはその場に膝をつき、黙ったまましばらく動かなかった。

 クリュはそんな少年の様子を見つめた後、辺りを見回し始め、なにかに気が付いて離れていった。


「レテウス、ちょっと手伝って」


 クリュは大きな石を指さし、これをオンダの墓にしようと話した。

 二人で石を抱えて運び、シュヴァルの子分の眠るところへそっと置く。


「シュヴァル、練習しただろう。オンダの名前を彫ってやるといい」


 石に名前を彫るのは大仕事で、随分長くかかった。

 けれど二人は静かにシュヴァルを見守り、大切な作業が終わるのを待った。


 石にはへたくそな「オンダ」の文字が刻まれている。

 シュヴァルは出来上がった墓石をじっと見つめていたが、やがて、ぼそりとこう呟いた。


「クソリュード、ありがとな」

「クソはいらないんだけど」

「思い出した、お前のこと」

「俺のこと?」

「あの魔術師の不気味な屋敷にいたよな、お前も」

「えっ」


 振り返ったシュヴァルは意地悪そうな笑みを浮かべているが、頬には涙の跡がついている。


「うすっぺらい布一枚でよ」

「シュヴァルもあそこにいたのか?」

「俺はお前みたいに裸じゃないぜ。服はちゃんと着てた」


 クリュは慌て、シュヴァルは笑う。レテウスにはなんの話かわからず、きょとんとしている。


「……まあ、いいよ。まあいい。シュヴァル、ひとつだけ教えて」

「なにをだよ、クソリュード」

「見てたってことだよな、あの屋敷の中の様子を。俺、誰かになにかされたりしてなかったか? 触ったりとか……」


 この問いにシュヴァルはケラケラと笑った。

 クリュは悔しそうに少年を睨んでおり、答えてもらえないのではと思ったのだが。


「なんにもされてないだろうよ。あそこは似たような顔の裸ん坊ばっかりで、みんなぼんやりしてたから」

「本当に?」

「知らねえよ。全部見てたんじゃねえんだから」

「なんだよ、もう。シュヴァルなんかに聞くんじゃなかった」


 ぷいっと顔をそむけて、クリュの金色の髪がふわりと揺れる。

 三男坊は思わずシュヴァルの肩を掴み、少年と目を合わせると、ゆっくりと首を振った。


「……ちぇっ。わかったよ。おい、リュード、悪かったな」

「うわ、シュヴァルが謝った」

「余計なこと言うんじゃねえ。……でも今日は役に立ったから。お前のこと、新しい子分にしてやるよ」

「はあ? なんだよ子分って」

「眉毛はもう俺の子分だぜ?」


 シュヴァルはとんでもないことを言い放ち、少年らしかぬ豪快な笑い声をあげた。

 クリュもつられたのか吹き出して、レテウスを指さして笑っている。


 奇妙なきっかけから始まった三人の共同生活は前途多難の予感しかないが、すくなくとも、シュヴァルの役には立ったようだ。

 そう考えると心がふっと軽くなった気がして、レテウスは久しぶりに大きな声をあげて笑った。


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[良い点] 今回の三人それぞれ個人では、行き詰まっていたり、なにをどうすればよいのか五里霧中だったり、どこにも行き場がなかったり……。 その三人が、なし崩し的に集まりギリギリに暮らすことになったその…
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