冷たいガレット
同僚に誘われてやってきた一流ホテルのデザートフェア。
久々の甘味は目にも美しかった。
甘味のほかにも、薄いサンドイッチなど軽食も用意されていて、甘味に飽きたら塩っけみたいな感じで、飽きない。これで90分3000円しないんだったらかなりおトク感がある。
「うううー。おいしいよぅっ。お腹いっぱいだけど、いっぱいなんだけどっ」
「でもまだ食べてないケーキあるわよ!」
女ばっかの集まりなので、おしゃべりとケーキと、飲み物があれば永久運動のように楽しめるなって感じ。
「あっ。なんかクレープある!」
「焼いてくれるんだね~。あーでも限界っ」
そう同僚たちが脱落していく中、私は席を立ってクレープを取りにいった。
どうせ持って行けば全員でつつけるし、やっぱり目の前で焼いてくれるって言うのはうれしい。
――あ。ガレットもあるんだ。
甘いクレープも好きだけど、そば粉で焼いたおかずっぽいガレットも大好きだったから、迷わず両方注文することにした。
ガレットは目玉焼きを入れたものにした。目玉焼き入りのものにナイフを入れた瞬間のとろっ…とした黄身の流れる雰囲気と塩っけのバランスを思い出して、口中につばが溜まった。昔よく食べたのに、そういえばここ数年ご無沙汰だったなぁ。
2つ注文しちゃったから、まぁまぁ長い間そこで立っていた。待っている間は暇なので、辺りを見回す。若い女の子たちのグループや、カップルが楽しそうに楽しんでいる。ここからは厨房もガラス張りで見えるので、ショコラティエやパティシエ達が忙しく働いているのがよく見える。そういえば、このフェアって『ピエール・エルメ』や『アルノー・ラエール』と並ぶような、フランスの結構有名なお店のパティシエやショコラティエ達を呼んで仕掛けてるんだっけ?
すっかりケーキ大好き人間になっちゃったな、昔は辛党だったのに。
少し、遠い目で私は昔のことを思い出してしまった。
「夕食、またサブ○ェイでごめんね?」
彼はとても長くて節くれだっている美しい手で、私に紙包みを差し出した。
受け取って、紙包みを開きながら、中身が好物のエビアボカドなのを確認した。
私は小さく首を横に振って平気って伝えた。
「私結構好きよ? バンズがちゃんと小麦粉の風味がしっかりしてるし、お野菜たっぷりだし、ヘルシーじゃない」
「でも、サブ○ェイテイクアウトで、ラブホデートって綾乃もうんざりだろ」
「ううん。孝介に会えるだけでうれしいもの」
二人とも安普請のアパートと寮暮らしだったから、二人の逢瀬に使えるのはラブホになってしまう。孝介はまだ見習いのパティシエで、私は学生だったから、それほど二人ともお金を持っているわけじゃなかった。
せめてなるべく一緒にいたくて、体をなるべく寄せ合いたくて、デートの大半はラブホテルで二人抱き合っていた。レストランに行くのがもったいないから、大抵食事はサブ○ェイだ。たまに孝介が申し訳ながって、彼の勤めるお店でガレットとかを焼いてきて二人で食べたりもしたけど。
いまだに冷えてしまっているけど、スーパーで3パック200円くらいで売ってるようなハムがまかれたロール状に巻いたガレットの味をふと、残業してるときとかに思い出すことがある。
辛党の私と、パティシエの孝介の出会いは意外と単純だ。
フランス映画が好きで、フランス語を習いに行った私と、洋菓子を作るのであればフランス語ひいては、フランスって言う国を解さなければならない孝介は飯田橋のアテネ・フランセで同じクラスになって話すうちに、映画や本の趣味が合うのと、学習の進み具合が似てるので自然と仲良くなった。
彼がパティシエで、仲良くなったときに焼いてきた試作品の焼き菓子を『うわーん。甘いっ』って言いながら食べたのもいい思い出だ。
甘いものが苦手だった私のために、苦心して私が食べれそうな試作品をよく作ってくれた。おかげで、バターと小麦粉の噛み締めるとほろりとしたり、しっとりとした食感がやってきたりっていう組み合わせの妙味や、砂糖の甘さも種類によっていろいろ違うことを知った。
甘味の幸せを知ることが出来たのは孝介だと思う。
ふたりともお金がないから教室が終わった後に、飯田橋の川べりを歩いておしゃべりと季節を楽しんだ。だんだん寒くなってきて、自然とくっつきあうようになって、そして――抱き合うようになった。
抱き合うとだんだんお互いの境界がなくなって一つになってしまうかもとか思ってしまうような優しいあの手触りを今でも思い出すことがある。
そんな風にゆっくりとお互いの気持ちが溶け合って、ずっと一緒にいれるのかと思ってた――。
そんな私たちに変化が訪れたのは、付き合い始めて2年目の終わりのことだった。
私は3回生になっていて、就職戦線まっしぐら。
どうにか、フランス語を使えるような仕事につけれないか?
彼と一緒にいることがたやすいような業種はないか?
でもやっぱり一流企業もエントリーしないとダメだよねとか、そんな甘いことを考えて就職活動をしていた。
当然そんな根性だから、なかなかに決まらなくて、だんだん焦りも沸いてきてっていうすごく悪いスパイラルにはいってしまった。
この時のことを思い出すと、いつも私は『どうしよ、どうしよ』って思ってた気がする。大学出ちゃったら行き場がないかもしれない。そんな焦りを毎日持ってた。
その日も、私は自分でもどうかと思うような真っ黒なスーツ、3センチの黒いヒール、真っ白なダサい白いシャツって言う就職活動真っ只中という装いで、アテネ・フランセに行った。
孝介に会えるのは、基本、フランス語のレッスンの日のみだから。
それ以外は、孝介は朝から晩までお店で働いている。見習いだから、雑務もこなさないといけないので、拘束時間が長いのは仕方がない。そう思っても、この不安な時期になるべくそばにいて欲しいよってどっか思っていたと思う。
孝介が優しいからより一層、甘えていいって思って私は、孝介に何を言っても許してくれるとどこか舐めてたんだと思う。
その日もサブ○ェイでテイクアウトして、ホテルに入って二人で食事した。
試験がうまくいったのかが、手ごたえが正直自分でもわからなくて混乱して、少し沈んだ私を孝介は心配してくれて、彼なりに就職の状況とかを聞いてきた。
私は、もう不安でしょうがなかったんだと思う。
確実にキャリアを重ねて、揺るぎなく職人の道を歩んでる孝介と自分を見比べてしまって、ぐらぐらしている自分がいやでいやで見たくなかった。
なのに、孝介はそんな私を心配して話をしようとする。
黙りこんでしまった私に孝介はため息をはいて、バッグから茶色い塊を出した。
「これ、前に綾乃に褒められたパウンドケーキ。店の定番品で出してくれることになったんだ」
それはパウンドケーキなんだけど、甘みが少なめで、でも胡桃やレーズンとかの食感が楽しいケーキだった。バターの風味がかじるとふわんと、鼻の中を抜けるようにさまよってきて、かじるだけで幸せな気分になった。
辛党だった私のために孝介が試行錯誤を重ねて、初めて作ってくれたメニューだった。それがお店の定番品として出ている。
甘さが控えめなので、結構甘味の苦手な人がいるような家庭でも結構評判がいいらしく、たまに出すとすぐ売り切れるようになり、定番化してもらえたと、孝介はうれしそうに話した。
本当だったら、『うれしいよ』とか『私も協力したんだからね、何かご褒美ちょうだいよ』とかふざけて言うべきところなのに、なんだかとても底意地の悪い気分が勝ってしまった。
「――っ」
「綾乃?」
少し顔を覗き込んで、一緒に喜んでくれないの?っていうような表情の彼。
「ひ、どい。私のためのケーキなのに…」
私がそんなこと言った瞬間の彼の顔を忘れることはないだろうっていうくらいだった。とても困惑していて――、哀しそうな表情が彼の顔によぎった。
自分でもなんてことを言ってしまったんだろうって、気持ちの底では思っていたけれども、止まらなかった。孝介の表情を見てどこか、開放感を感じてもいたから。
ぽろぽろと涙をこぼす私をおろおろと彼は慰めてくれた。
『綾乃のケーキだったのにごめんね、ごめんね』って言いながら。
孝介自身も私の理不尽さはわかってたと思う。でもそういう風に慰めるしか、彼には出来なかったんだと思う。
そんな優しくて、不器用な彼がさっきまとった表情を忘れられなくて、私はだんだん暴走していった…。
彼の困惑している顔が見たくて色々なことをした。
なんていうか底意地の悪い感情が当時は私を支配していた。
彼の前で他の男の生徒と仲良く振舞ってみたり、サブ○ェイを買っている彼を置いて帰ってみたり、最初は他愛もないけどひどいことだった。
そのうち彼が苦悩する表情が見たくて、行為の最中に私は『ひどくして』と強請るようになった。私を本当に壊れ物のように、スポンジにクリームを塗りつけていくような丁寧さで愛でることが好きな彼からしたら、相当なストレスだったんだと思う。
実際上、痛みを感じるのは私のほうなのに、私以上に顔を苦痛に歪ませる彼の表情に恍惚となった。
今考えると、手荒いといっても、大したことはないんだけれども、孝介からすると私が自分自身をモノのように扱うように強要すること自体がつらかったんだと思う。でも彼は耐えてくれた。
「孝介、内定取れたっ」
私がそう言ったときに彼がひどく…本当にひどくほっとした表情を浮かべたことを気にしなかった。私はやっと、自分が解放されることしか気にしていなくて、彼の内面を気にする余裕がなかった。我ながらひどい女だと思う。
私はいくつか内定を取ることが出来て、その中でも最も条件がよい大手電機メーカーを選ぶことにした。海外関連の配属になれば、今まで勉強してきたフランス語を活用することも出来る。
「よかったね、綾乃。本当によかった…!」
そう孝介が言ってくれて、私も涙ぐみながら抱きついた。
そしてサブ○ェイで私はチーズローストチキン、孝介はサブ○ェイクラブを買って、昔のような心穏やかに抱き合った。
気持ちが満たされてボーっとしてるときに彼が、私の顔を覗き込んで言ってきた。
「綾乃の就職も落ち着いたことだし、ちょっと俺、長期間旅行に行きたいんだけどいいかな?」
「え? どういうこと?」
「ちょっとお店を休ませてもらえそうなんだ。で、ずっとフランスの地方菓子の勉強したくてオーナーの知り合いのお店でしばらく教えてもらおうかなって」
「か、帰ってくるんだよね?」
私は少し震えてすがりながら孝介に言った。
孝介は優しく透き通るように微笑んで『もちろん。旅行だって言っただろ?綾乃のところにちゃんと戻ってくるよ』って言った。
今思うと、嘘がつけない孝介が、綺麗さっぱり私を騙せたって言うことは、彼の中の決意がそこまで固かったんだと思う。
私は彼がそういう残酷な選択をするしかないところまで追い詰めてしまっていた。
孝介がフランスに旅行に行ってから、1週間に一、二度程度、ハガキや手紙が来ていた。
それが15通ほど溜まった頃に、『やっぱりこちらで本格的に修行することにしたので帰れなくなった。ごめんね』という内容の手紙が来て、私達はそれきりになった――。
「お客様、お待たせしました」
穏やかな声で話しかけられて、ふっと我に返った。
目の前にはフルーツがふんだんに盛られたクレープと、目玉焼きとハムのガレット。
私はお礼を言って、同僚たちが待つ席に戻った。
「わー。綾ちゃん、いいチョイス!」
もうお腹いっぱいとか言っていた同僚たちが、お皿を見て騒ぎ出す。
どちらのお皿も4等分にして、私はガレットを口に含んだ。
「温かいね…」
グリュイエールチーズの塩気と、半熟卵のハーモニーが絶妙で、あの冷たくて安いハムの味の孝介のガレットが逆に懐かしくて、胸がはじけそうになった。
孝介からの最後の手紙のあと、私はどうしても諦め切れなくて、孝介の勤め先に行って、彼が修行しているお店を聞き出していた。
そのときに知ったのは、もともとフランスにずっといるつもりで修行場所を探して、お店もやめての渡仏であったことだった。
彼の中で私に対する想いが消えてしまっていたのかも、義務感で付き合ってくれていたのかもそう思って、彼に連絡することがはばかれて、すでに5年の歳月がたっていた。
もちろん、この5年の間、彼だけを想っていたわけじゃない。
会社の同僚で私のことを想ってくれる人とデートもしたし、付き合ったというには短期間だけども、男の人との付き合いがなかったわけじゃなかった。
でも、キス以上進もうとすると、ふと、孝介の仕草や手の感触、表情…そういうものがよぎることがあって、どうしても先に進めなかった。
「綾ちゃん?」
同僚たちがいぶかしげに私を見ている。
「どうしたの? どっか痛いの?」
「――アキちゃんっ。長期休暇取りたいんだけど、どうやったら取れるかな?」
人事部所属の同僚に私はそう言った時に、自分の声が涙声だったことに驚いた。
「ど、どうしたの?」
「ちょっとフランス行ってくる」
理性では全くなにも考えていなかったのに、口からそんな言葉が飛び出てしまっていた。
「ええええ???」
3人の表情に目が点と言う事はこういうことなんだと思った。普段職場で動じているところをみたことのない3人なのに。少しおかしくなって、泣きながら私は微笑んでしまった。
「うん。すごーく好きな人探しに行ってくる」
そうだ。孝介にもう一度会って、もう一度あの冷たいガレットを食べさせてもらいたい。彼の気持ちが私にないとしても、まずは確認してそれから……進もう。
5年ぶりに見かけた彼女は落ち着いてしっとりとした女性になっていた。
5年前に俺が彼女を見捨てるように別れる前は、いつも悲壮な表情で、一緒にいるのにどうにか幸せな気持ちにさせれなくて、俺自身も追い詰められているようだったことを思い出す。
彼女との付き合いの最後の方は、痛みを与えることを求められた。そこまで追い詰められている彼女を見るのがつらかったし、痛みの中で壮絶な色香を発する彼女に取り込まれてしまいそうで、恐ろしくなった。だから、彼女の悩みが解決したように思えた後、俺は逃げることにした。
彼女を壊すことに快感を感じ始めている自分も怖かったから――。
逃げるように飛び出してたどり着いたフランスで、この5年間必死にフランス菓子の修行をした。おかげで、人気のあるパティスリーに勤めることが出来たし、その人気をさらに広めることが出来たと思う。
今回、百貨店への出店が決まり、その前段階の宣伝としてこのホテルのデザートフェアのために久々に日本に戻ることになった。
百貨店の方も、俺が責任者として仕切るので実際上は、日本でずっと働くことになる。そのことが決まったときに、思ったことは彼女にまた会えるかもしれないということだった。
俺の心に刺さった棘のようにいまだに忘れることができない彼女。
とても大事にしたかったのに、残酷な仕打ちで無理やり別れた。
この5年間の間にもちろん、ほかの誰かと何かなかったわけじゃない。でも白い肌の曲線をずっと触っていたい、お互いの体が溶けてつながってしまえばいいのにとか思える女は彼女だけだった。
街を歩いていても、彼女の面影をどこか探していた。
ただ、今でも好きなのかと聞かれると、自信はなかった。
――先ほど彼女を見かけるまでは。
クレープが焼きあがるまで所在なさげに立っている彼女を見て、一瞬息が止まるかと思った。なぜ、こんな長く、彼女と離れることが出来たんだろう?
ふと思いついて、俺はガレットを焼き始めた。
お互いの気持ちが本当はどこにあるかもわからないけども、彼女に俺がここにいることを知らせたい…。単純にそう思った。




