雨宿りは桃の香り
突然の夕立が降り注いで、美希はきゃあと悲鳴を上げた。
「美希もあんな声あげるんだ」
「何よ、さゆだって悲鳴あげたくせに」
「あげてない」
小百合の言葉に美希は目を細め、意地の悪い笑みを浮かべて見せた。
「あげてたよ、女の子らしい悲鳴」
小百合はそんな美希の隣にぴたりと並んで、空を見上げる。
それは貴重な日曜日のはずだった。
夏休み前、曖昧に浮かんだ休み時間。一緒にプールでも行こうと、小百合と美希が誘い合って待ち合わせたのは朝10時。
しかしプールは定期メンテナンスで中止だった。
呆然と立ちすくむ二人の上、雨は一気に降り注いだ。
このあたりで唯一屋根のある、駅のホームに駆け込む頃には二人の全身は濡れ鼠。
悲鳴を上げて飛び込んだホームは薄鈍色で人の気配はない。無人駅なので、もちろん駅員の姿もなかった。
二人して空を見上げれば、ずっしりと重い雲から大量の雨が降り注いでくる。
線路が続く遙か西の方向は、白いカーテンが降ろされたよう。雨と煙に隠されて、いつもなら見える山も見えない。
ただ、雨の叩きつける音だけが激しいのだ。
まるで太鼓が打ち鳴らされているみたいだな。と小百合は思う。夏休みに行われる夏祭りの太鼓の音は、豪雨に似ている。
「ああ、これは止まないかもねえ。さゆ。次の電車いつ?」
ホームには誰もいない。当たり前だ。小百合は古ぼけた壁の時刻表を指で撫でる。
「45……44分後……だから誰もいないんだ」
「えー。電車いったばっかりかあ。仕方ないかー。ここなら濡れないし、待ってよ」
美希が怠そうな声をあげて足を投げ、ベンチに座った。誰が置いていったのか、手作りらしい座布団が一定間隔ごとに並んでいる、古いベンチだ。座るとぎしぎし音を立てる。
それに負けないほどの地鳴りが響いた。
「やだあ。また雨強くなった」
「真っ白」
小百合は少しだけ、美希に近づく。中学のクラスの中でも美希は一番背が高い。こうして隣に座っているとまるで男の子のようだった。
髪の毛を短く切り込んでいるのも、男の子化に拍車をかける。
小学生のような背丈の小百合が彼女と並ぶと、まるで兄妹のようだった。ぴたりくっつけば彼女の剥き出しの二の腕がひやりと小百合の腕に触れる。
「あ。そうだ。さゆ、あれ食べよ。おなかすいた」
美希の言葉は快活だ。雨降りに負けない声で、大きな鞄の中を漁る。
やがて手に掴んだのは、大きなひとつの桃。
「おばあちゃんに貰ったでしょ。まだ冷たいよ」
休館のプール前、ぽかんと立ちつくす二人に通りすがりの老人が差し出した桃である。ちょうど孫の家にお裾分けに行くのだという、上品な老婦人だった。
同じ年頃の孫でも居るのだろう。美希が語る愚痴を真剣に聞いて、挙げ句二人に一つずつ桃までくれたのだ。
岡山から届いたという桃は大きく、ピンクのグラデーションが綺麗だった。雨降りの湿気った空気の中、甘い香りが鼻に届く。
白桃は贅沢な香りだ。コンビニで売っている桃のジュースより、ずっとずっと上品で爽やかな香りだった。
美希は指を使って器用に皮を剥く。剥いた先から、桃の汁が溢れてホームの床に滴を垂らす。
「やだ。美希、いま食べるの?」
「冷たくて美味しいよ」
「私のは持って帰って食べるよ」
美希は一口囓るなり、目を細めた。そして自分の噛み口を隠し、綺麗な面を小百合に向ける。
誘われて恐る恐る噛みつけば、香りよりも水っぽい味だ。しかし、爽やかな水分が喉を潤した。
……この味は、夏に似ている。水気を含んで、一瞬で過ぎ去る味。
「ほら、美味しいでしょ。さゆ」
意地悪めいた表情で美希は笑う。
自分でも分からない間に、嬉しそうな顔をしてしまったのだろう。それに気付いて小百合は顔を俯ける。口の周囲についた桃の汁が、いつまでもちくちくと痒みを与えた。
しかし美希は気にせず、残りの桃にかぶりつく。
先ほど、小百合が口を付けたところにも遠慮無くかぶりつく。見てはならないものを見た気がして、小百合は慌てて顔をそらせた。
「でもなかなか雨やまないね」
「……たぶんずっとやまないよ」
美希の呑気な声に、小百合は自分でも驚くほど冷静な言葉を吐く。
真っ白な雨は、先ほどから変わらず降り続いている。このホームだけ、まるで雨の中に閉じ込められてしまったようだ。
「……止まないといいのに」
小百合は口の中で呟いた。駅のホームは柔らかい監獄のようで、ただ二人しか存在しない。
雨の音と桃の香りと、美希の体温と。その体温に寄り添うように、そうっと小百合は座り位置を詰める。
美希は桃を食べる手を止めて、小百合を見た。
「さゆはさ、可愛いんだからもっとにっこり笑ってなよ」
「え」
「クラスのさ、みんな言ってるよ。さゆはちょっと人見知りだねって。勉強も体育もできるし、可愛いし女の子らしいし、でも休み時間に本ばっか読んでるでしょ。そんで、私としか話さない」
「……」
「みんなさゆと仲良くなりたいんだよ。もっとさ、仲良くしようよ。今度みんなでプールいこ」
いやだ。と、小百合は心の中で反抗した。
小百合のクラスは皆、仲が良い。おそらく、皆良い子なのだろう。優しく面白い。最高のクラスだと、美希は口が酸っぱくなるほど言っていた。
しかし美希がそう言えば言うほどに、小百合の内側が反発を起こすのだ。
楽しいかもしれない。しかしただ、賑やかなだけのクラスだ。中学生になっても小学生のように、馬鹿なことばかり言っている。
その中で、美希だけが奇跡のように美しい。
だから小百合には美希だけでいいのだった。その他のクラスメートは名前も覚えていない。
美希がそんな名前も知らないクラスメートと話をするだけで、胸がむかむかとするのだ。
……雨がまた強く降り注いだ。
今度は斜め降りだ。雨の滴が、ベンチの二人にまで届く。剥き出しの足が、雨の滴に濡れた。
「……努力だけはしてみるけど」
「それでいいよ。それでいいんだよ」
にこり、と美希は笑う。たまらなく切なくなって、小百合は美希の右腕に、自分の左腕を押しつけた。ふざけていると思われたか、美希がはしゃいだ声をあげる。
「やだ、さゆ暑い……って!」
薄暗い、空が突如光った。
美希はぴょこんと背筋を整えるなり、小百合の腕にしっかと捕まる。
そして悲鳴をあげ、小百合の腕に頭を押しつけるのだ。
小百合は体を動かすこともできず、ただ固まった。
「美希、大丈夫だって……ただの……雷じゃん」
雷だ。空が割れるように光り、しばらくの間を開けてどんと鳴る。それは鳴くという表現がぴたりと合うくらい、切ない地響きだった。
どこかに落ちたのか、ホームの屋根がびりびり震えた。
そしてそれに呼応するように、雨がまた一段と強さを増した。
「やだ、落ちた。やだやだやだやだ」
「大丈夫だよ。光ってから鳴るまでちょっと時間があったでしょ。だから、この雷は遠いよ。学校で習ったじゃん」
「知らないよ。だって雷だよ!」
美希はまだ小百合の腕に頭を押しつけたまま。顔を上げようともしない。普段は背の高い美希の頭を上から見るのは初めてのことだな。と小百合はぼんやりと考える。
「雷ってなんなのよぉ……もうやだ」
震える美希は冗談ではなく本当に怯えているのだ。まるで男の子のような美希が、肩を震わせて。
彼女の湿った頭を恐る恐る撫でて、小百合は耳まで赤くなった。
雷は神様の怒りなのだと、小百合はどこかの本で読んだことがある。それなら神様は今、この小百合の気持ちに怒っているのだろうか。と、妙な背徳感が小百合を襲う。
「……計算できるよ。どれくらい離れてる雷なのか。遠くなら美希も、安心でしょ」
雷が雨を連れていったのか、一瞬だけ強まった雨脚はすぐに弱くなった。
雲がさっと払われて、雲の合間に青い空が見える。雨はぽつぽつと、大地を叩く程度に収まって、やがて止んだ。
屋根から落ちる滴が、夏陽に照らされ輝いている。
「そんなの関係無く恐いんだってば。音が恐いんだもん」
ようやく顔を上げた美希は苦笑交じりだ。顔を上げた彼女からは、ふわりと桃の香りが漂った。
それは、やはり水を含んだ夏の香りだ。
「あ、さゆ。電車だ」
かたん、かたんと軽やかな地響きが聞こえて美希は立ち上がって伸びをする。それは雷の地響きと違って爽やかな音だった。
見れば、雨に濡れた山の裾。そのカーブのところに、青い電車が見える。まっすぐに、電車はホームを目指している。
「……雨宿りは終わりだね」
そう呟いた美希の声には少しだけ、残念めいた余韻がある。
それは小百合の思い過ごしだろうか。
「あのさ、美希」
ホームに向かってゆるゆる走り込む電車を眩しげに見つめながら、小百合は美希の隣に立つ。
夏の日差しが雲から割れて、光の届く先から蝉が鳴いた。
「夏休みの最初の日、みんなとプール……行こうか」
「いいの?」
「また雷が鳴って美希が泣いたら可哀想だから付いてってあげる」
目を輝かせる美希からのびる黒い影をえいや、と踏んで小百合は俯く。
「……だからもしまた雨が降ったら、雨宿りしよう」
その声が聞こえたかどうか。
老人のようによたよたとホームに入り込む電車に飛び乗って、美希は満面の笑みを浮かべる。
「ほら、さゆ、虹!」
指さしたその先には、空を貫くような見事な虹。
電車は雨の残り香をまき散らして、まっすぐ虹に向かって走り出した。