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無罪の魔女

作者: 成神 なるせ
掲載日:2026/05/08



 王都アイアンデール、地下の留置所はいつも湿っている。

 石の壁に染みついた苔の匂いと、誰かの祈りの残り香。

 

 ハーヴェイ・J・スタングは弁護士鞄を抱え直し、看守の掲げるランプの後ろを歩いた。


「例の魔女ですよ、先生」


 看守の声には、軽蔑と、ほんの少しの好奇心が混じっている。


「魔女と決まったわけじゃないよ」


 ハーヴェイは静かに訂正した。


「決まっていないから、私が来たんだ」


 格子の向こう、藁の上にうずくまる影があった。

 ランプの光が届いた瞬間、ハーヴェイは思わず歩みを緩めた。


 雪の上に零したインクのような、波打つ豊かな黒髪。

 透き通る白い肌に、潤んだ大きな赤い瞳。

 ふっくらとした唇は色を失っているのに、それでもなお目に鮮やかに映る。


──なるほど、とハーヴェイは内心で苦笑する。


 これは、村人たちが「魔女」と呼びたくなる顔だ。

 黒と赤、偏見のお手本のような配色も。


 少女はびくりと肩を震わせ、急いで膝を抱え直した。

 鎖の擦れる音がして、その細い手首にぐるりと回された鉄の重厚さに、ハーヴェイは眉をひそめる。


「アリス、で間違いないかな」


 できるだけ、穏やかに言った。


「……はい」


 消え入りそうな声。


「あ、あの……どなた、ですか」


「ハーヴェイ・スタング。弁護士だ。きみの弁護を引き受けた」


 少女の赤い瞳が、ゆっくりと上を向いた。

 長い睫毛が震え、そこに溜まった涙が一筋、頬を伝う。

 胸元で握りしめた両手が、白くなるほど力を込めていた。


「ご……ごめんなさい、先生」


 彼女は深く頭を下げた。


「こんな、汚いところに……来ていただいて」


──汚い、というのは、おそらく自分のことを含めて言っている。


 ハーヴェイは、少しだけ胸の奥が締めつけられるのを自覚した。

 冷静であろうと努めながら、書類を膝に広げた。


「カルスロット領内裁判では、有罪判決が下りている。きみは国に上告した」


「はい」


「上告には、相当な金がかかったはずだ。逃げる選択肢もあっただろう」


 逃亡。──貴族や金持ちが魔女として告発された場合、賄賂を積んで国外へ消えるのは、よくあることだった。冤罪を確信した知人が手を回すこともある。だが処刑されるのは、いつも貧しい平民だ。


 アリスはゆっくりと首を振った。


「……おばあさまの残してくださった、お金でした」


 細い声が震える。


「全部、使いました。逃げてしまったら、おばあさまが薬草師として真面目に生きてきたことまで、嘘になってしまう気がして……わたしが、わたしじゃなくなってしまう、気が、して……」


 涙がぽたりと落ちた。

 藁を濡らす音さえしない、小さな雫。


 ハーヴェイは少しの間、無言で彼女を見ていた。


(この少女は、逃げるより身の潔白を望んだのか)


「……わかった」


 彼は鞄から羽ペンを取り出した。


「最初に、ひとつ約束しよう。私はきみの言葉を信じる。だが、信じるだけでは法廷では勝てない。私はきみのために証拠と論理を集める。きみは私のために、本当のことだけを話してくれ」


 アリスは何度か瞬きをして、それから震えるように頷いた。


「ありがとう、ございます……ありがとう、ござい、ます……」


 謝意の言葉は、最後はもう声にならなかった。


 ハーヴェイは静かに席を立ちながら、なぜか胸の奥に小さな違和感が残ったのを覚えている。

 だがそれは、目の前の少女のあまりの儚さに心を動かされた、自分自身への戸惑いだろうと思った。




 レギストリア王国王都、王立大法廷。


 天井の高い大広間には、貴族と平民が入り混じる傍聴人がぎっしりと詰めかけていた。

 ステンドグラスから射し込む光が、被告席の少女の頬を青く染めている。


「——カルスロット領、ザート村出身、アリス。年十六。罪状、呪術の使用、呪詛、家畜の死、領主子息リオネル・カルスロット殿への呪殺未遂」


 書記の声に、ざわめきが波のように広がった。


「あれが魔女か」「黒髪に赤い眼……」「祖母も怪しいやつだったって聞いたぞ」「あんな細い子が……」


 被告席のアリスは、わずかに肩を縮めた。

 両手は胸の前でぎゅっと握られ、伏せた長い睫毛が震えている。

 視線をどこに置けばいいかわからないように、ちらりとハーヴェイを見上げ、すぐに俯いた。


 弁護人席のハーヴェイは、ただ書類を整えていた。


 裁判長は老齢の男だった。

 白い髭をたくわえ、声は低く重い。

 狂信ではなく、信仰と良識のあいだを長年揺れ続けてきた者のような顔をしている。


「原告、カルスロット伯爵。陳述を」


 立ち上がったのは、五十がらみの恰幅の良い男だった。

 ジモンド・カルスロット伯爵。

 豪奢な紫のローブを引きずり、傍らには家令のジタールが汗を拭きながら控えている。


「裁判長閣下、貴賓の皆様。私はあえて多くを語りますまい」


 伯爵の声には、安っぽい悲哀が滲んでいた。


「我が領内では、この春、家畜が死に、井戸が濁り、子らが熱に倒れ、──そして、私の最愛の息子リオネルまでもが床に伏した。胸には、奇怪な印が浮かび上がっておりました」


 傍聴席がどよめく。


「すべての災いは、あの少女がザート村に来てから起きたこと。いや、彼女の祖母の代から、何かが村を蝕んでいたのです。我々は最初、彼女を哀れな子供として遇してまいりました。しかし──」


 伯爵は震えるふりをしながら、被告席を指差した。


「彼女の家からは呪具が見つかり、夜の森で儀式を行う姿が目撃され、禁じられた赤い粉末を扱っていたという証言まで上がっている。これを偶然と呼ぶには、あまりに揃いすぎている」


 ハーヴェイは黙って聞いていた。

 反論は、まだしない。


(出し切らせろ。雑な石垣ほど、最後に押せばまとめて崩れる)


 家令ジタールが、ねっとりとした愛想笑いを浮かべて立ち上がった。


「では、証拠を順にご覧入れます」




 最初に運ばれてきたのは、針の刺さった藁人形だった。


「アリスの寝台の下から発見されたものです」とジタールは恭しく掲げる。


「胸の部分に編み込まれているのは、リオネル様の御髪。呪殺の意図、明白でございましょう」


 傍聴席が息を飲んだ。

 アリスは小さく、「ひっ」と短い悲鳴を漏らし、口元を両手で覆った。

 涙が一気に溢れる。


「ちが……ちがい、ます、わたし、そんなもの……」


「黙れ、魔女!」


 誰かが傍聴席から叫んだ。


 すぐさま裁判長が槌を鳴らす。


「静粛に」



 次に提示されたのは、小瓶に入った赤い粉末。


「アリスの家にあった、血の粉でございます。呪詛の触媒として用いられるもの」


 続いて、村人が三人、証言台に立った。


「先月の三日、夜半に森で火を見ました」

「呪文を唱える声がしました」

「火の周りで踊る姿が──黒い髪の女でした」


 アリスは身を縮め、ただ震えていた。

 何かを言おうとしては、唇が動くだけで、声にならない。


 ハーヴェイがそっと身を寄せると、赤い瞳がすがるようにこちらを見て、また伏せられる。


 最後に、寝台から起き出してきたばかりだという領主の息子、リオネル・カルスロットが入廷した。

 二十歳をいくつか過ぎたばかりの、まだ少し顔色の悪い青年だった。


「……胸に痣が出た。熱が下がらなかった。怖かった」


 彼は短く言った。

 それ以上のことを言いたがらないように見えた。


 ジタールが大仰に頷く。


「これだけの証拠が揃っております。領内裁判で有罪となったのも当然のこと。わざわざ大金を積んでまで上告したのは、罪を逃れるための悪あがきにすぎませぬ」



 ハーヴェイは、ようやく立ち上がった。


「悪あがき、ですか」


 ハーヴェイの声は静かだった。


「興味深い言葉ですね。逃亡という、もっと安価で確実な選択肢を取らず、彼女は祖母の遺産を残さず使い切って、この法廷の前に立つことを選んだ。──もし罪人なら、ずいぶんと不器用な選び方だ」


 ジタールの愛想笑いが、わずかに引きつった。



 ハーヴェイは、最初に藁人形を取り上げた。


「裁判長。失礼ながら、この呪具とされる人形を、近くで拝見しても?」


 許可を得て、彼は人形を手に取り、藁を一本、丁寧にほどく。


「ザート村のアリスの家を、私の助手が確認しました。家の屋根を葺く藁、寝床に敷く藁、いずれも、村の麦から取られた短い藁です。──この人形に使われているのは、長く、艶のある藁。麦ではない。これは、領都の馬小屋で使われる輸入の飼い葉藁です」


 法廷がざわめいた。



「次に、この針を」


 ハーヴェイは針を抜き、指先で示す。


「鍛冶の打ち跡を見ていただきたい。村の鍛冶で打たれたものではない。これは王都で流通している縫い針の一種、しかも比較的高価なもの。──少女の貧しい家には、不自然なほど場違いな品です」


 裁判長が眉をひそめる。


「つまり、外部から持ち込まれた可能性があると?」


 ハーヴェイは裁判長へ向けて、軽く頷いた。


「さらにもうひとつ、申し上げたい」


 ハーヴェイはジタールに視線を向けた。


「家宅捜索の記録によれば、最初に部屋へ入ったのは家令ジタール殿。ご本人が、人形を『発見』なさった。立会人の村人がご一緒だったのは、その『あと』です。──記録、間違いありませんね?」


 ジタールの額に、汗が浮かんだ。


「……順序の問題に過ぎませぬ」


「順序こそが、押収手続きのすべてです」


 ハーヴェイは穏やかに、しかし鋭く言った。


「人が一人だけ部屋に入って、何かを『見つける』ことを、我々の法は証拠とは呼ばない。それを証拠と呼ぶならば、私は今夜にでもあなたの寝台の下に何でも置いてみせましょう」


 傍聴席から、こらえきれない短い笑い声が漏れた。

 ジタールの顔が紅潮する。



 ハーヴェイは続けて、赤い粉末の小瓶を指した。


「証人として、王立医薬院のサリオン医師をお呼びしている」


 無愛想な、痩せた医師が証言台に立った。


「粉末を分析しました。乾燥させたクチナシの実、赤い鉱物性の粉を少量、それに鉄分を含む鉱石の粉。──熱を冷ますための、一般的な外用薬の調合です。呪術には用いません。むしろ、魔女がこれを使うなら、目的は『治療』のほうでしょう」


「ありがとうございます、サリオン医師」


 ハーヴェイは礼を述べ、傍聴席を見渡した。


「赤い、というだけで血と決めつけ、粉、というだけで呪いに使うと決めつける。我々は、いつからそんなに想像力豊かになったのでしょう」


 裁判長が小さく頷く。



 次に、夜の森の証言。


「先ほど三人の証人が、先月三日の夜半に火と踊る女を見たと証言なさいました」


 ハーヴェイは書類を一枚、掲げる。


「ですが、王都観測院の記録によれば、その晩、ザート村一帯は雷雨でした。二刻ほどの土砂降り。──焚き火を囲んで踊るには、いささか、勇敢すぎる夜です」


 傍聴席に、再びさざめきが走る。


「さらに、三人の証言は、火を見た位置が三人とも食い違う。アリスの家から最も近い証言の地点まででも、徒歩で一刻。大雨の中、一刻かけて森へ行き、火を起こし、踊って、また一刻かけて家に戻った──可能だとお思いの方は、ぜひ今夜、お試しください」


 くすくすと、笑い声が広がった。


 ハーヴェイはアリスをちらりと見た。

 彼女は俯いたまま、固く目をつむっている。

 震える指先が、自分の膝の布をきつく握りしめていた。


「アリス。あの夜、きみはどこにいた」


「……おばあさまの、お墓です」


 彼女は囁くように答えた。


「月命日でしたから……すぐ隣なのでランプを持って、お花を供えに行きました。……雨だったので、長くは、いられませんでした」


 墓守の老人が証言台に上がり、その夜、確かにアリスがランプを掲げて来たことを淡々と語った。


「呪文を唱えていましたか?」とハーヴェイ。


「祈りでしたよ」と老人は言った。


「『おばあちゃん、寒くないですか』って、それだけ」


 法廷が、しんと静まる。

 傍聴席のあちこちで、女たちが目元を拭った。



 リオネル・カルスロットの胸の痣について、サリオン医師は短く断じた。


「熱病による発疹です。私が王都で診た同様の症例は、この三年で二十七件。すべて、呪いではなく、伝染です」


「印と騒ぎ立てたのは、どなたですか?」とハーヴェイ。


 リオネルは口ごもった。やがて、視線を父親から逸らして、小さく言った。


「……ジタールが、最初に『これは呪印だ』と言った。父も、そう言った。僕は──僕は、ただ熱が辛かっただけだ」


 伯爵が、グッと喉を鳴らす。



 ハーヴェイは最後の一枚を取り出した。


「動機について、原告側は、アリスが領主子息に恨みを抱いていたと主張しています。具体的には、リオネル様がかつてアリスに乱暴を働こうとした、薬代を踏み倒した、などの噂を」


 リオネルの顔が、さっと青ざめた。


「僕はっ!そんなこと──」


 傍聴席のどこかから、聞き覚えのある名物婆さんの声が響いた。


「あら、それ、息子さんのほうだったかしらねぇ?村じゃ、伯爵様のほうってもっぱらの噂だったけど?」


 どっと笑いが起きた。


 伯爵の顔が真っ赤になり、すぐに真っ青になる。

 ジタールが慌てて何か取り繕おうとしたが、うまくいかなかった。



 ハーヴェイはアリスの前に、一枚の紙片を置いた。


「アリス。これは、領主邸の門番が記録していた来訪者の控えだ。先月十一日、きみは領主邸を訪れている。何のために?」


「……リオネル様が、お熱だと、聞いて」


 彼女は震える声で答えた。


「おばあさまの調合した熱冷ましを、お届けに……でも、門前払いされて、しまって……」


「ありがとう」


 ハーヴェイは紙片を裁判長に提出し、それから、まっすぐに法廷を見渡した。


「裁判長、傍聴の皆様。私は、この少女が魔女ではないことを証明したのではない。私が証明したのは、原告側が示した『証拠』なるものが、いかに粗末な細工で組まれていたか、という事実だけです」


 ハーヴェイは大事なことを告げる前のように、一拍、黙った。


「被告が『怪しく見える』ことと、罪を犯したことは同義ではない。この法廷が裁くべきは噂ではなく、証拠です」


 小さく息を吸う。


「そして、原告側が今日この場に積み上げたのは──魔女の存在ではなく、ひとりの少女を魔女に仕立て上げるには、どれほど雑な細工で足りるかという証明にすぎなかった」


 静寂が法廷全体に降りた。


 やがて、傍聴席のどこからか誰かが小さく拍手を送り、それが波のように広がっていった。



 裁判長は長く、目を閉じていた。



 やがて槌を打つ。



「──本法廷は、被告アリスに対する告発について、立証は不十分であると判断する。よって、無罪を言い渡す」



 歓声と落胆と、ざまあみろという声と、そんなはずはないという声が混ざり合って、大法廷を満たした。


 被告席のアリスは、しばらく動かなかった。


 やがて、ゆっくりと顔を上げ、──そして、糸が切れたように、わっと泣き崩れた。


「ありがとう、ございます……あり、がとうございます……先生……先生……」


 ハーヴェイが駆け寄ると、彼女は両手でハーヴェイの袖を握り、子どものように肩を震わせて泣いた。


 熱い涙がハーヴェイの手の甲に落ちた。沁みるような、熱さだった。



 カルスロット伯爵は、何かを叫ぼうとしたが、隣のジタールを冷たい目で一瞥すると、口を結んだ。

 家令の汗まみれの顔は、もう誰の目にも信用できる顔ではなかった。


 傍聴席の貴族たちは、伯爵から少しずつ視線を外していた。

 彼の領内での立場が、今夜のうちにも音を立てて崩れていくことが、ハーヴェイにも見えた。



 正しい告発ではなかった。


 正しく弁護した。


 法廷は、正しく動いた。



──少なくとも、ハーヴェイはそう信じていた。

 そして、それは確かに本当のことだった。




 外に出ると、夕暮れの光が王立大法廷の白い石段を金色に染めていた。


 アリスは、貸し与えられた質素なショールを羽織り、ハーヴェイの隣を小さな歩幅でついてきた。


 鎖が外れた手首には、まだ赤い擦り跡が残っている。

 彼女はそれを片手で隠すようにして、階段を一段ずつ降りる。


「ご実家のほうは、しばらく戻らないほうがいいだろう」


 ハーヴェイは前を向いたまま言った。


「伯爵が直接手出しをすることはないだろうが、村の空気が落ち着くまで、紹介した王都の宿に行くんだ」


「……はい。先生のおっしゃるとおりに」


 階段の途中で、彼女は立ち止まり、何度も振り返って頭を下げた。


「先生、本当に……本当に、ありがとうございました。おばあさまも、きっと喜んで……」


 涙ぐむ赤い瞳、震える肩。胸の前で固く握られた、白い指先。


 ハーヴェイは、ほんの少しだけ笑った。


「礼はもう十分だ。きみは無事に帰っていい。それまでが、私の仕事だ」


「はい……はい」


 アリスはまた頭を下げ、ショールの裾を握りしめて、石段を降りていく。


 その背中はどこまでもか弱く、夕日に溶け込みそうなほど儚かった。


 ハーヴェイは胸の奥に、ゆっくりとした充足を覚える。


──救えた。声の小さな者を、偏見の嵐から、ちゃんと、救えた。


 

 その時、アリスがふと、足を止めた。


 石段を半ばまで降りたところで、振り返る。

 夕日が、彼女の黒髪を一筋ずつ縁取った。


 ハーヴェイは、何か言いたいことを忘れたのかと、軽く首を傾げた。


「どうした?」



 アリスは──笑った。



 最初は、いつもの申し訳なさそうな、儚げな微笑みのつもり、だったはずだ。


 その笑みは、ゆっくりと、ゆっくりと、深くなっていった。


 口角が上がり、伏せられていた長い睫毛が、ためらうことなく上がる。


 赤い瞳が、まっすぐにハーヴェイを見た。


 逸らさず、震えもしない、ひたりとした視線。


 胸の前で握りしめられていた両手が、ふっとほどけた。


 彼女は片手で、夕風に揺れる豊かな黒髪をゆったりと払った。

 それは、儚げな少女の仕草ではなかった。


 誰かに見られることに慣れた、観賞用の獣のような、優雅な仕草だった。


「先生?」


 声が、低い。


 とろんと甘くて、丸みのある、余裕を感じさせる、低い声。


 ハーヴェイの背筋を、冷たい痺れがざあっと落ちていった。


「先生は、本当に素敵な方だわ」


 アリスは目を細めた。笑みで、弧を描く。


「証明できないものは、信じないのでしょう?」


「……何を、言っている」


 ハーヴェイの声は、自分でもわかるほど、ひどく掠れていた。


 アリスは答えなかった。

 代わりに、彼女が指先をほんの少しだけ動かしたように見えた。


 その瞬間。


 石段の脇の植え込みに止まっていた数十羽の鳩が、合図でもあったかのように、一斉に夕空へ舞い上がった。羽音が、滝のように降ってくる。


 それから、植え込みでもう枯れて茶色くなっていたはずの花たちが──ほんの一瞬、息を吹き返したかのように、白く、ふっくらと、咲いた。

 そして、また、枯れた。


 ハーヴェイは、動けなかった。


(……なんだ今のは)


 魔術ではない。


 平民が偶然に持ち得るような、コップ半分の水を作る程度のささやかな魔力ではない。

 ましてや、血筋で継いだ貴族でもほんの一握りの、派手な攻撃魔術を繰り出すたぐいの力でもない。


 あれは、命のないものに命を返し、生き物の意思を一瞬で動かす、よく知らない種類の力だ。


──呪術。


 魔女しか使えないと言われている、あれだ。


「先生」


 アリスは、もう一度、ゆっくりとハーヴェイの名を呼ぶように笑った。


「証拠というのは、とても便利ね」


 彼女の口元に、小さな含み笑いが浮かんだ。

 それから──ほんの軽い戯れのような仕草で、彼女は口元に指先を当て、息を吹きかけるように、ハーヴェイのほうへ投げキスを送った。


 ふわり。


──ハーヴェイの右の頬に、柔らかく、温かい、唇のような感触が、確かに触れた。


 夕風がハーヴェイの前髪を揺らした。


 彼女は、十段も離れた階段の下にいる。


「あなたは違うと思ったのに」


 アリスは、囁くように言った。声は、なぜかすぐ耳元で響いた。


「──でも、あなたも結局、ひ弱で可哀想なわたしに騙されたのね」


 ハーヴェイの右手が、無意識に頬に触れていた。

 ぴたりと押さえている。


「みんな、なにかしらの感情のぶつけ先を探していただけだわ。それこそ善意であれ、悪意であれ」


 だって、とアリスはくすりと笑った。


「わたしが本当に魔女かどうかなんて、最初から、誰も知りたがっていなかったでしょう?」


 アリスは、微笑みながら頭を軽く傾げて、両腕をふわっと広げた。


 それは、勝者の余裕のようであり、別れの挨拶のようでもあった。


 そして、踵を返して歩き出した。


 ショールの裾を握りしめる仕草も、小さな歩幅も、もう、儚げな少女のそれに戻っていた。

 夕日に溶けていく、黒髪の小さな背中。


 通りすがった衛兵が、可哀想に、と呟くのが聞こえた。


 ハーヴェイは、頬を押さえたまま、立ち尽くしていた。


 呼び止めるべきだったのかもしれない。


 だが、何の罪状で?


 立証は、不十分どころではない。

 証拠は、何ひとつ、ない。

 ハーヴェイ自身が、たった今それを完璧に証明したばかりなのだ。


 正しく弁護した。


 法廷は正しく動いた。


 少女は無罪となった。


──今後、彼女が魔女ではないかと疑う者があれば、人は言うだろう。


 「王都の裁判で無罪が出た娘だ」と。


 法のお墨付き。


 無罪の魔女。


 ハーヴェイの頬には、まだ、あの柔らかな温度が残っていた。

 かすかに薬草と、もっと甘い何かの匂いがした。


 風が石段を吹き上げ、一枚の枯れ葉が、彼の足元でふわりと生きているように回った。


(……俺は、いったい、何を救ったのだろう)


 王都の夕焼けは、ゆっくりと、紫色に変わっていった。

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