第八章 想いと約束
元気になった草森とのメッセージは日々を積み重ねる様に繰り返される。
この間の様にきわどい話になる事は無かったが、少なくとも俺を夢中にさせるには充分だった。
何度となく、俺は彼女に想いを伝えてしまおうかと思った。
その都度、それを抑えて、メッセージを消した。
《秋の夜は眠い……。もう読む本が無くなって来た。明日は本屋に行こう》
彼女のメッセージは単なる数行の日記の様なモノだった。
しかし、俺はそれが聞きたい。
そう思った。
《俺も、本をかなり読んだ。空っぽの俺にはその本の内容がどんどん入って行く気がする》
彼女は多分、俺のメッセージを見て微笑んでいる。
そんな事も想像出来る様になってきた。
最近、彼女のメッセージに迷いがある時がある。
《あのね……》と書いて、《やっぱりいいや……》なんてメッセージが何度かあった。
彼女は何が言いたいのだろうか。
それでも、その先のやり取りで俺はそれを忘れてしまう。
その程度の事だろうとその時は思うが、メッセージをたまに読み返すと、そのメッセージだけが、不自然で違和感を覚える。
《そろそろとんかつ食べに行かなきゃな……》
俺がそう送ると、しばらく間があって、
《そうだね。とんかつね……。実は楽しみにしてるんだ》
そう返って来た。
とんかつとカレーパン。
俺はこの二回分の草森とのデートを担保している。
考えてみればどちらも油っぽい食い物。
それは病院食ばかり食べていた彼女が食べたかったモノで、今食べたいモノではないのかもしれない。
目的なんて何でも良い。
俺は彼女に会いたい。
彼女は俺に会いたいのだろうか……。
翌日、俺は昼休みに屋上で大の字に寝転がった。
秋の空は高く、薄い雲が風に流されていた。
すっかり夏の熱は無くなり、心地良い季節だった。
陰に入るとコンクリートは冷たく、何処と無くあの日と同じ香りがしていた。
俺はポケットからスマホを出して、その高い空の写真を撮る。
何枚も何枚も。
太陽の光が鎖の様に連なり、きらきらと輝く。
俺はその写真をじっと見る。
そしてそれを彼女に送った。
《お前の好きな屋上での写真。すっかり空は秋の装いだ……》
送ったメッセージを見つめていると、既読の文字が浮かび上がる。
それが嬉しくて、俺は自然に微笑んだ。
《綺麗だね……。こんな風に見える空もあるんだね》
彼女からメッセージが返って来た。
《もっと色々な空があるよ。ほら、お前の好きな夕焼けの空だって……》
また彼女の返信には少し時間が掛かった。
《そうだね……。秋の夕暮れは好きだから……》
焼ける様な西の空。
高い雲に届く光。
俺はそんな風景を思い出す。
目を閉じて再び開くと、高く青い空がそこには広がっていた。
そうだ。
俺は彼女と此処から夕焼け空が見たい……。
俺は身体を起こして彼女にメッセージを入れた。
《一緒に夕日を見よう》
俺は既読が付くのを待つ。
しかし、またそれは付かない。
俺は再び空を見上げる。
少しだけ夏の名残りの残った風が吹き抜ける。
《会いたい》
俺はそう入力した。
しかし、そのメッセージを消す。
会いたい。
会いたいんだ。
会いたいけど、会いたいと言ってはいけない気がした。
会ってしまうと俺は彼女と話が出来るのか。
彼女もそうだ。
彼女は俺に話しかけてくれるのか。
変わりなく接してくれるのか。
それが不安でもあった。
俺は微笑んで、ゆっくりと立ち上がる。
彼女の都合なんて何も考えていない。
ただ俺が会いたい。
俺は空を見上げてふと思った。
会いたいって気持ちは相手の都合など関係なく、そんなモンよりも前にあるんだって事を。
「草森……」
俺は空を見上げたまま、そう呟いた。
それから黙って口を開かなかった俺を心配してか、坂下と水瀬は帰りに俺を誘った。
「ちょっと寄り道して帰ろうよ」
水瀬と坂下は俺の傍に立って言う。
「たまには付き合えよ」
ここのところ、二人からの誘いをずっと断っていた事もある。
俺が学校での生活を上手くやって行くには、そんな付き合いも必要だろう。
俺は苦笑して、
「わかったよ……。で、何処行くんだ」
そう言って立ち上がった。
二人はいつもより笑っている様に見えた。
学校を出て、駅前を三人で歩く。
クラスでは俺たち三人の輪には入れないと噂になっている様だった。
水瀬も敢えて友達の輪から離れて行っている気がしていた。
それも俺のせいなのかもしれない。
裏通りにある喫茶店に入る。
喫茶店だって馬鹿にならない。
コーヒーだけでも一杯、五、六百円はする。
学食で昼飯を食ってもそんなにはしない。
高校生にはそれも負担だろう。
俺のために二人はそんな負担も強いられている。
そう考えると申し訳なくなった。
喫茶店に入ると、水瀬と俺は向かい合って座った。
すると、坂下は俺の肩を叩く。
「じゃあ、俺は此処で帰るわ……。帰ってゲームしないといけないしな」
と言って坂下は店を出て行った。
どうなってるんだ……。
坂下。
「ごめんね……。坂下君には私が頼んだの……」
と水瀬が口を開いた。
俺はそれを聞いて頷く。
「二人で話がしたくて……」
俺は運ばれて来た水を口に運んだ。
「二人だと来てくれないんじゃないかと思って……」
水瀬は視線をテーブルの上に落とし、じっと見つめていた。
そんな事ない……、と言いかけて俺は止めた。
「草森さん……。体調どうなの」
店員にコーヒーを注文し終えると水瀬はそう訊いた。
「ああ、最近は調子も良いみたいだよ」
水瀬は少し微笑み、
「そっか……。良かったね」
と言う。
俺はその言葉に小さく頷いた。
「会ってるの」
水瀬は訊き難そうに言う。
俺は目を伏せて首を横に振った。
「いや、全然会ってない。元気なのはメッセージのやり取りでしか……」
「そっか」
二人の前にアイスコーヒーとカフェラテが届く。
俺は店員に頭を下げて、ストローを手に取った。
水瀬もストローを差して一口飲んだ。
「あのさ……」
と水瀬は顔を上げる。
俺はその水瀬を見た。
水瀬は瞳を潤ませながらじっと俺を見つめている。
俺はどうすれば良いのかわからず、水瀬のその瞳をじっと見ていた。
するとその瞳から大粒の涙が頬を零れ落ちた。
「水瀬……」
俺が立ち上がろうとしたのを、水瀬は手を出して止める。
そして首を横に振った。
「大丈夫……。大丈夫だから」
そう言うと水瀬は鼻をすすりながら俯いて泣いていた。
「水瀬」
俺は水瀬が泣き止むまで、その喫茶店の使い込まれたテーブルの表面を、意味もなく見ていた。
水瀬はどれくらい泣いていたのかわからなかったが、何故、泣いているかは、何となくわかった。
俺は馬鹿だ……。
少しずつ薄くなるアイスコーヒーを俺は一気に飲み干す。
それ程に口の中がカラカラに渇いてしまった。
すると水瀬は突然顔を上げて、自分も一気にカフェラテを飲み干した。
「行こう……」
そう言うと立ち上がった。
俺は彼女の気迫に押されながら、立ち上がり、彼女と一緒にその喫茶店を出た。
水瀬との会話は無かったが、駅を外れて歩く。
どうやら一駅歩く様だった。
俺は黙って水瀬の横を歩く。
河を渡る鉄橋と並行に掛けられた橋を二人で歩いた。
時折、鉄橋を渡る電車の振動が二人の足元に直接響いて来る。
河の向こうにいつもより大きく見える夕日が落ちて行く。
「綺麗……」
水瀬は欄干に手を突いて、その夕焼けを見ていた。
「ああ、綺麗だな……」
俺は水瀬の横に立って一緒にその夕日を見た。
「私ね、夕焼けって好きなんだ。今日の自分って言うのかな……、何かそれを褒め称えてくれている様な気がして……」
オレンジ色に照らされながら水瀬は言った。
「褒め称えてくれるか……」
俺は横に立つ、水瀬を微笑みながら見た。
「うん……。よく頑張ったってね」
水瀬は俺に微笑んだ。
俺はそれを見てクスリと笑う。
「もっとも、今日は何にもしてないんだけどね……」
俺は視線を夕日に戻し、欄干に手を突いた。
「今日は、これからなんだ……。頑張るの」
水瀬は俺の横に立ち、また夕日を見た。
「これから……」
「うん、これから」
俺が水瀬を見ると、水瀬も俺を見た。
するとまた鉄橋を電車が通り過ぎた。
二人はその振動が止むのを待つ。
「あのね……」
水瀬がそう言うと、今度は逆方向からの電車が通り過ぎた。
そしてまた逆方向からの電車が来る。
「もう、タイミング悪すぎ」
水瀬は少し頬を膨らませて電車の方を睨む。
俺はそんな水瀬に笑って言う。
「仕方ないよ。そろそろ帰宅ラッシュの時間だからな」
「もう、電車なんて一生乗らない」
水瀬はそう言って走る電車に舌を出した。
「嘘つけ……。乗らないで生きていける奴なんてそんなに居ねぇよ」
俺は橋の欄干に背中を付けた。
水瀬はそんな俺の前に立った。
そして俺に抱き着いて来た。
水瀬……。
俺は突然の事で驚いて、欄干に背中を当てる。
そして水瀬の肩に手を添える。
「恩田君……、私じゃダメかな……」
その一言は多分一秒程の言葉だったに違いない。
しかし俺には長い長い映画の様にも思えた。
「私じゃ、草森さんの代わりになれないかな……」
水瀬の底から絞り出す様な声が、俺の胸に直接響く。
水瀬は死ぬ程勇気を振り絞って俺に告白しているんだ。
それが痛い程わかる。
そんな想いを俺も同じ様に抱いているから……。
俺は水瀬の細い背中に腕を回した。
そして水瀬の耳元で、
「ごめん……」
と呟いた。
しかしその時、鉄橋を電車が通過して、上手く伝わらなかった。
電車が通り過ぎた後、水瀬は顔を上げてじっと俺を見ていた。
「ありがと」
水瀬はそう言うと微笑んだ。
「ありがとう。振ってくれて」
水瀬は俺の胸を突き飛ばす様にして一人その橋を歩いて行った。
「水瀬」
俺は水瀬の背中に声を掛けた。
水瀬は背中を見せたまま手を挙げて手を振った。
俺は水瀬を追おうとして足を止めた。
今は彼女の顔を見ない方が良い気がした。
俺はその日、家まで歩いた。
歩いても四、五キロの筈だった。
家に帰ると、俺はシャワーを浴びた。
髪を拭きながらリビングに出ると、母さんが帰っていて、夕飯の準備をしていた。
「あら、もうシャワー浴びたの……」
「ああ、歩いて帰って来たからさ……。少し汗かいちゃって……」
母さんは冷蔵庫に買って来たモノを詰めながら、俺にオレンジジュースを出して渡した。
俺はそれを受け取ると、グラスに注いで一気に飲み干した。
「今日はお魚だけど、良いかな」
母さんは俺に魚のパックを見せながら言う。
「ああ、何でも良いよ……」
俺はそう言って二階の部屋へと上がる。
「何でも良いよってのが、一番困るのよね」
と母さんは呟いていた。
俺は部屋に入ると、脱いだ制服からスマホを取り出した。
そして画面を開くと、「カーク」と表示があった。
草森……。
俺は慌ててそのメッセージを開いた。
《明日、夕日の時間。屋上で……》
俺の心臓は一瞬脈を打つのを忘れた。
俺は大きく息を吸い込んだ。
《わかった》
と返信した。
こう返信するまでどのくらい時間が掛かったのかわからない。
今でも手が震えている。
俺は明日、草森と何を話すのだろうか……。
何を話せば良いのだろうか。
いざ会えるとなるとそんな不安に駆られる。
俺はどうしようもなく、臆病でどうしようも無い人間だ。
もっと色々と彼女に返信したいと思っていた。
しかし、いざこんなメッセージをもらってしまうと手が震えてしまう。
こんなところを草森に見せたくない。
俺は窓ガラスに映る自分の表情をじっと見つめる。
彼女を前に自然に笑っていられるのだろうか。
弱いところを見せずに居れるのだろうか。
出来ればあの日と変わらずに笑って会い、あの日と変わらずに自然に話をしたい。
そう考えれば考える程に、表情は強張り、手が震える。
何て弱い人間なんだ……。
俺は窓ガラスに映る自分から視線を落として目を閉じた。
明日、草森に会える……。
俺は今一度、大きく息を吐いた。
「ご飯出来たよ」
母さんが下から呼ぶ声が聞こえた。
俺は「はい」と大声で返事をして、机の上にスマホを置いた。
その夜、彼女からのメッセージは来なかった。
あれ以来、初めての事で、俺は勝手に彼女も緊張しているのだろうと解釈した。
そして枕の横にスマホを置いて、俺は眠ろうと目を閉じるが、自分の鼓動だけが頭に響いて、眠れずに夜を過ごす。
いつもの様にメッセージのやり取りでも出来れば良いのだが、それも無かったので、俺は電子書籍で買った小説を読む。
そしてどんどん眠れなくなった。
小説など読んでも一行も頭に入らず、草森の事だけを考える。
あの日見た、彼女の表情、あの声、そして屋上で聴いた彼女の鼻歌。
目を閉じると、色々な事が浮かんでくる。
そのどれもが俺に深い息を吐かせる。
「草森……」
気が付くとそんな風に名前を口にしていた。
今日、水瀬の告白を断った事など、忘れていた。
草森からのメッセージを見るまでは、水瀬には悪い事をしたと思っていた。
水瀬だって今の俺よりも勇気を出して告白してくれたのだとわかっていた。
しかし、それよりも俺の中では草森の方が大きくなってしまっていた。
明日の夕方、学校の屋上で草森に会える。
最後に会ったのは夏休みの終わりだった。
もうひと月半が経っていた。
俺の想いはこの時間で以前よりも大きくなってしまっていた。
それは認めざるを得ない事実だった。
俺はまた、溜息を吐いてスマホを胸の上に載せた。
カーテンの隙間から見える空は、少し明るくなり始めていた。
結局眠れずに、俺はいつもより随分と早く、着替えてリビングに下りた。
父さんも母さんもまだ起きて来ていない様だった。
アイスコーヒーをグラスに注いで、俺は普段あまり座らないソファに座る。
そして灯りもつけずに薄暗いリビングでコーヒーを飲みながら秋吉先輩の言葉を思い出していた。
「人を好きになるってさ、曖昧な気持ちから始まるんだよ。それがいつかどんどん大きくなって行って、その内、自分の気持ちの中で一番大きな気持ちになる……。その気持ちに突き動かされる様になり、自分ではどうしようも無くなってしまう」
あの日、体育館の裏で、先輩に言われた言葉が鮮明に蘇った。
俺は大きな溜息を吐いた。
先輩の言う通りだ……。
俺は草森が好きだ……。
無意識にまた溜息を吐く。
草森に会って、俺は彼女に告白しようとしているのか。
そんな事をして受け入れてもらえるのか。
いや、違う。
受け入れてもらおうなんて思っていない。
俺はとにかく、自分の気持ちを吐き出したいだけなんだ。
想いを伝えたいだけなんだ。
草森と付き合えるなんて思っていない。
俺は今、俺の気持ちを伝えたいだけだ。
俺は明けて行く外の風景を見る。
小鳥が囀り、庭の植木にとまっている。
そんな風景をじっと見つめていた。
俺に告白されて草森は困らないのだろうか。
もしかしたら迷惑だと考えるかもしれない。
俺はグラスに残ったアイスコーヒーを飲み干した。
その時、部屋の灯りがついた。
「わぁ、びっくりした……」
そう言ったのは母さんだった。
「何、こんな早起きして……。天変地異の前触れ……」
母さんはそう言うと洗面所へ行き、顔を洗っていた。
朝食を食べて、俺はいつもより随分早くに家を出た。
いつもなら最後に家を出るのだが、今日は一番早くに出た。
すると父さんが後ろから追い付いて来た。
「おう、駅まで一緒に行くか」
といつもあまり見ない朝の父さんの笑顔だった。
俺は苦笑しながら久しぶりに父さんと並んで歩いた。
「何だ、朝から彼女と待ち合わせでもしてるのか……」
と父さんはニヤニヤと笑いながら言う。
「そんなんじゃないよ……」
と俺は顔を引き攣らせた。
「いや、父さんもお前くらいの頃には、朝早くに女の子と待ち合わせして学校に行ってたよ。あ、これは母さんには内緒な……」
俺は父さんの話に微笑む。
「口止め料によっては考えても良いよ」
そんな話をして二人で笑った。
「若い頃の恋愛ってのは、白黒はっきりつけたがるんだ。「付き合おう」、「うん」なんて明確に宣言して付き合うなんて大人になると無くなって来る。そんな事に一喜一憂しながら、恋愛を覚えるんだな……。学校じゃ教えてくれないけど、重要な事だ」
父さんとそんな話をするのは酷く恥ずかしいが、そんな話をする父さんが珍しく、俺は頷きながら聞いた。
「宣言無しに関係が始まるって事……」
「ああ、気が付くといつも近くに居て、気が付くと一番会話してて、気が付くと一緒に居る事が当たり前になって……。そんな感じかな……」
俺は頷く。正直そんな付き合いがよくわからなかった。
「でも、それじゃ付き合ってるかどうか、わからないんじゃない……」
父さんは俺の耳元で小声で言う。
「大人の付き合いにはセックスが付いて来る。それがお前たちと少し違うところかな……。セックスすると一応は付き合っているって事になるんだろうな……。それでも付き合っていないって男女も居るけどな。いわゆるセフレって奴か……」
父さんは声を上げて笑っていた。
確かにそうなのかもしれない。
ここのところ、何冊もそんな関係の本を読んだ。
子供は身体の関係が伴わない事もあるから、付き合おうって宣言があるのかもしれない。
「まあ、お前も直ぐにわかるよ……」
父さんは俺の背中をバンと叩いた。
「それじゃあ俺はこっちだ」
と地下鉄の方へと歩いて行った。
そして立ち止まると振り返って、
「ちゃんと避妊しろよ」
と言うとニヤリと笑って地下鉄の入口へと消えて行った。
「馬鹿オヤジ……」
俺はそう呟くと微笑み、駅の改札を潜った。
父さんと馬鹿な話をして少し気分が楽になった気がした。
学校に着くと、いつもと違い、静かな校門だった。
風紀委員がいつも校門に立っているが、その時間よりも早く着いた様だった。
俺は昇降口から入り、教室へと向かう。
教室にも誰も居ないだろうと思いながら、階段を上った。
教室の戸を開けると、俺の席の横に水瀬が座っていた。
俺は驚いたが、俺の顔を見ている水瀬も驚いていた。
「おはよう」とお互いに挨拶を交わし、俺は自分の席に座る。
何とも気まずい空気だった。
静まり返った教室に水瀬と二人。
俺は鞄の中の教科書を机の中に移す。
「今日は早いのね……」
水瀬は俯いたまま俺に言う。
「うん……。眠れなかった……」
その言葉に水瀬は顔を上げた。
多分、自分の事で眠れなかったんだろうと勘違いした筈だった。
「私も……」
俺は正面を向いたまま何度か小さく頷いた。
「あのさ……」
と水瀬は真っ赤な目を俺に向けて言う。
「ん……」
俺は微笑んで水瀬を見た。
「振られちゃったけどさ、今まで通り友達では居て欲しくて……」
水瀬は涙声で震えながらそう言った。
水瀬の勇気には敬服する。
俺は水瀬と同じ事が出来るだろうか……。
そう考えた。
「勿論だ。お前は俺の大切な友達には変わりない」
俺がそう言うと水瀬の頬を大粒の涙が伝った。
そして声を上げて泣き始めた。
「泣くなよ……。俺が泣かしたみたいだろ」
俺はポケットに入れたハンカチを出して水瀬に渡した。
「だって、そうじゃんか」
と水瀬は俺のハンカチを受け取り、涙を拭いた。
「女を泣かせる酷い男だって広めてやるから」
水瀬は涙を流しながら笑っていた。
その日は坂下にも色々と突っ込まれたが、何とか誤魔化した。
水瀬も自分が振られた事までは坂下には言わなかった様だった。
俺は昼休みに買ったパンが喉を通らず、結局、放課後に二本目の缶コーヒーを買って屋上に上がった。
まだ、彼女との約束の夕暮れまでは時間がある。
それでも俺の鼓動は今日一日早かった。
それでも後、一時間もすれば、この屋上に草森がやって来る。
そう考えると、俺は嬉しい気持ちと、緊張で圧し潰されそうになる感覚を同時に感じていた。
昼に喉を通らなかったパンを缶コーヒーで流し込んで、俺は屋上のコンクリートの上に大の字になった。
昨日眠れなかった事もあり、眠ってしまいそうだった。
そんな俺の頬を秋の風が撫でて行く。
草森を待っている間、色んな想いや想像が俺の脳裏を通り過ぎる。
俺の少し早い鼓動だけが、その屋上に響いていた。
気が付くと秋の太陽が落ちかけて、見慣れた街をいつもの様にオレンジ色に染めていた。
そろそろだな……。
俺は大きく深呼吸して、身体を起こした。
そしてあの日二人で見た夕暮れの街をじっと見つめた。
何にも変わらない、いつもの街なのだが、今日は少しだけ違って見えている気がした。
屋上の扉が音を立てて開く。
来た……。
俺は敢えて、扉が開くのを背中で感じながら街の風景をじっと見つめた。




