第四章 消えた彼女とカーク
「恩田君、おはよう」
後ろから声を掛けられて俺は振り返った。
一度一緒にカラオケに行った水瀬が立っていた。
「宿題終わった」
「おう、水瀬……。何とか終わったよ……」
そう言って教室まで一緒に歩いた。
横を歩く水瀬はこの間と少し様子が違う。
先日は制服では無かった事もあるのかもしれない。
しかし、何が違うのか俺にはよくわからなかった。
「ん……。どうしたの……」
水瀬は俺の視線に気付いた様だった。
「あ、いや……。カラオケ行った時と何か違うなって思って……」
俺は彼女に微笑みながら言う。
「あ、うん……。髪を切ったんだよ……。ほら、バッサリ……」
水瀬はスマホを開いて以前の長い髪の写真を見せた。
なるほど……。
これに気付かないのは失礼か……。
「そ、そうか……。似合い過ぎててわからなかったよ……」
俺がそう答えると、何処と無く水瀬は嬉しそうに笑っていた。
教室の戸を開けるとクラスメイトが久しぶりにガヤガヤと話をしていた。
俺は自分の席に座り、窓際の草森の席を見た。
しかし彼女は席には居なかった。
まだ来てないのか……。
俺は本を出して開いた。
今日は彼女と言葉を交わす事が出来るだろうか。
「恩田……」
目の下にクマを作った坂下が俺の前にやって来た。
俺は鞄から頼まれていた読書感想文を差し出した。
「おお、助かった……」
坂下はポケットから二千円出して机の上に置いた。
「ああ、毎度上がり……」
俺はその二千円を文庫本の間に挟んだ。
そして坂下の顔を見る。
「お前、大丈夫か……。顔色悪いぞ……」
坂下は俺の前の席の椅子に座り、俺の机に頬杖を突いた。
「ああ、今朝まで美術の宿題をしてた……。何となく絵も描けた……。後は生物の問題集を明日までに……」
と坂下は今にも寝そうな感じだった。
「お前……。死ぬなよ……」
俺がそう言うと坂下は目を開けた。
「ああ、死ぬ時は連絡するよ……」
そう言うと、俺の書いた読書感想文を持って自分の席に帰って行った。
ちょうどその時、担任の橋爪が教室に入って来る。
「ほら、席に着け。ホームルーム始めるぞ」
相変わらずオッサンスリッパをペタペタと鳴らしながら教壇の上を歩く。
教室の中は静まり返るでもなく、ワイワイと声が聞こえる。
それをバインダーで教卓をバンと叩き、橋爪はじっと教室の中を見渡す。
その音に教室の中はやっと静かになる。
俺は窓際の彼女の席を見た。
やはり彼女の姿は其処には無かった。
「おい、いつまでも浮かれるな……。夏休みは終わったぞ」
橋爪は手に持ったタブレットを開くと、
「じゃあ出席を取る」
そう言って生徒の名前を読み上げて行く。
「草森……。草森香奈江……」
彼女の名前を橋爪は二度程呼んで、彼女の居ない席に視線を上げた。
「草森は休みか……」
そう言うだけで次の生徒の名前を呼んだ。
「恩田」
「はい」
俺は短く答えた。
橋爪は俺の顔をちらっと見ただけで次の奴の名前を呼んだ。
全員の名前を呼んだ後に橋爪は教卓に両手を突いて身を乗り出す。
「今日は、これから体育館で始業式。その後ホームルーム。あ、今日までの課題提出は職員室に委員長、届けてくれ。明日はお前たちの大好きな実力テストだ。明日のホームルームで席替えをする。以上」
そう言って教室を出て行った。
これが橋爪が嫌われる原因なのだが、本人はわかっていない。
「おい、草森休みか……。何か聞いてるか」
と坂下がやって来た。
俺は無言のまま首を横に振った。
坂下は、
「お前が知らないんじゃ、誰も知らんか……」
と言いながら席に戻った。
俺は溜息を吐く。
確かにこのクラスに彼女と仲良くしている女子も居ない。
一体、どうしたんだろうか……。
昨日の夜にはメッセージのやり取りをした。
今日休むなんて事は一言も言ってなかった。
「体育館に移動して」
と委員長の長谷川が大声で言う。
それを聞いて俺は立ち上がった。
退屈な始業式。
夏の大会で表彰される奴なんかがステージに上がり、表彰状をもらっていた。
その度に俺たちは拍手をする。
サッカー部は二回戦で敗退したらしく、表彰らしきモノは無かった。
それは俺が辞めずに残っていても同じだっただろう。
まあ、直ぐに秋の大会に向けて練習中なのだろうが。
校長の長い話が始まる。
体育館の後ろには大型の扇風機で風が送られる様になっているが、それでも暑い。
首元に汗を滲ませながら俺たちは苦痛の時間を過ごし解放された頃にはぐったりとしていた。
教室に戻ると、橋爪がやって来て、タブレットで配布される案内を読み上げる。
それは保護者にも同時に送信され、敢えて家で親に見せる必要も無い。
「じゃあ、明日は午前中テストだ。その後、席替えをして解散となる。そろそろ志望校を決定する必要もある。来年は受験生だ。休み前に言った様にそろそろ気合入れて行けよ」
誰も橋爪が夏休み前に言ってた事なんて覚えていないだろうが……。
俺はそんな事より、草森の席が空席なのが気になって仕方なかった。
ホームルームが終わり、委員長の長谷川が大きな箱を教卓の上に置いた。
「課題を此処に提出してくれ」
と大声で言う。
俺は鞄の中から課題を出し、その箱に入れた。
幾つかの選択教科に関しては、明日、それ以降に提出になっているモノもある。
坂下が言っていた生物の課題などはその類だ。
俺は課題を提出して教室を出た。
「恩田君」
と後ろから俺を呼ぶ声がした。
振り返るとそこには水瀬が立っていた。
水瀬は俺の傍まで来て、
「草森さん、来てなかったね」
と言う。
俺は無言で頷くと廊下を歩き出した。
俺の横を水瀬は付いて歩く。
「ちょっと気になる話を聞いたんだ……」
その言葉に俺は足を止めた。
「気になる話って……」
水瀬は俺の腕を掴んで、そのまま俺を食堂の横に自販機の傍まで連れて来た。
「何だよ……」
俺はポケットから小銭を出して水瀬にボタンを押せと合図した。
水瀬は頭を下げて、ジュースのボタンを押す。
それを見て俺は缶コーヒーを買う。
「草森さんって夏休みの間、入院してたって知ってる」
俺は自販機の取り出し口に手を入れたまま動きを止めた。
「え……」
水瀬は、日陰に入り、缶ジュースを開けた。
俺もその横に並んで缶コーヒーを開ける。
「四組の寺井さんって知ってるかな……」
寺井。
確か去年同じクラスだったバレー部の女子だ。
「寺井さんのお母さんがね、心臓が悪くて入院しているらしいんだけど、その病院で何度も草森さんを見たって言ってて……」
俺は缶コーヒーを一口飲んで、水瀬を見る。
俺は水瀬の顔を見るでもなく、じっと向かいに並ぶ自販機を見ていた。
蝉の声がやけに響く。
「草森さんに会った……。この夏休み……」
俺は小さく頷く。
「一度だけな……。先週」
「そう……」
俺は缶コーヒーをまた飲んだ。
俺は我に返り、水瀬を見た。
「ありがとう……」
そう言うと微笑み、缶コーヒーを飲み干した。
「明日のテスト。頑張ろうな……」
俺は空缶をゴミ箱に捨て、そう言って陽射しの中を歩き出した。
その間ずっと背中に水瀬の視線を感じていた。
俺は家に帰り、汗だくになったシャツを脱いで洗濯機に入れる。
そしてそのままシャワーを浴びた。
母さんが準備していた昼食が冷蔵庫にあり、それを電子レンジで温めて食べる。
傍らにスマホを置いているが、カーク……、彼女からのメッセージは無い。
《今日、休んでたけど、体調でも悪いのか……》
俺は彼女へのSNSにそう打ち込んだが、それを消した。
先日屋上で会った時にはそんな様子は感じる事が出来なかった。
体調が悪い時にこんなメッセージも嫌だろう……。
俺はそんな事を考えて、スマホを閉じた。
昼食を食べて、俺は自分の部屋に戻り、机の前に座る。
だからと言ってテスト勉強をする訳でも無く、俺は文庫本を開いた。
「実力テストは実力で受けるモンなんだよ」
と坂下は常日頃から言っているが、それは実力のある奴の言う事で、実力の無い奴はその実力を上げるためにテスト勉強はするべきなのかもしれない。
俺は文庫本を閉じて、机の脇に置くと、立ててある参考書を開いて、机の上に転がっていたペンを手に取った。
どうしたんだろうか……。
彼女の事が気になり、参考書の内容など頭に入って来なかった。
それに水瀬に聞いた話。
彼女からのメッセージはすべて入院中に送られて来ていたのだろうか。
色々な想像が頭の中を駆け巡る。
そしてその想像はすべてがネガティブなモノで、まったく気分は晴れなかった。
その夜、彼女からのメッセージは来なかった。
俺はスマホを握り締めてしばらく待っていたがそのまま眠ってしまった様だった。
翌朝、目を覚まし、飛び起きる様に身体を起こす。
ベッドの下に落ちていたスマホを拾い上げて画面を開くが、やはり彼女からのメッセージは来ていなかった。
俺は制服を着てリビングへと下りた。
父さんが出掛けるところで俺は声を掛けて、ダイニングテーブルに座った。
「今日、テストなんでしょ……」
と母さんが俺の前に朝食を出す。
俺は短く返事をして、アイスコーヒーに手を伸ばした。
「今日も昼までだっけ」
「うん……」
俺は焼きたてのトーストにマーガリンを塗って噛り付く。
すると母さんが、俺の前に千円札を出した。
「今日は早く出ないといけないから、お昼はこれで食べて」
そう言うと母さんもバッグを掴み、慌てて家を出て行った。
俺は静かになった家の中を見渡す。
一人でいると壁の時計の針の音さえ聞こえる。
その時計の針の音が嫌で、俺はダイニングテーブルを両手でドンと叩いた。
「一体、どうしたんだよ……。草森……」
俺はそう呟くと項垂れた。
学校に着くと、水瀬が立っているのが見えた。
「おはよ」
水瀬は俺を見付けるとそう声を掛けた。
「ああ、おはよう」
俺は立ち止まるでもなく、歩きながら水瀬に言う。
「草森さん、連絡取れた……」
俺は何も言わずに首を横に振る。
「そっか……」
水瀬は俺の横に並んで、視線を落とす。
「何処の病院か寺井さんに訊いて来ようか……」
俺は立ち止まり、水瀬に微笑むと、
「ありがとう……。けど、良いや……」
そう言って再び歩き出した。
「けど、お見舞いとか……」
そう言う水瀬に、俺はもう一度立ち止まって振り返る。
「良いんだよ……。弱っている自分とか人に見せたくないだろう……」
俺はそう言うと不器用に微笑んだ。
教室に入ると、やはり彼女は席には居なかった。
俺は自分の席に座り、鞄から文庫本を机の上に出した。
そして文庫本をパラパラと捲るが、当然、内容なんて頭に入って来る訳でも無く、その本を机の中に入れた。
テストが終わり、俺は学校を出る。
「おい、恩田……」
後ろから声が聞こえ、坂下が小走りに追いかけて来るのが見える。
俺は小さく手を挙げて、坂下を待った。
「生物の課題、終わったのか」
坂下は、頷くと親指を立てた。
俺はそれに頷き、歩き出した。
「しかし、暑いな……」
と坂下は言う。
昨日も寝ていないのだろうか、少しふら付いている様にも見えた。
「ちょっとアイスでも食おうぜ……」
坂下は学校のすぐ傍にある昔ながらの商店を指差した。
俺は坂下についてその店に入った。
商店の前の陰になったベンチに座り俺と坂下はアイスを食べる。
「何か、草森……。入院してるらしいな」
坂下は言う。
俺は膝に肘を突いて頷いた。
「草森ってトシは一つ上みたいだな……。去年も二年生だったみたいだな」
俺はアイスを食べる手を止めて坂下を見た。
坂下は俺の表情に驚いて、少し身を引いた。
「ほら、あいつが去年、何組だったか誰もしらなかっただろ。そりゃそうだわな。去年も二年生だったんだからさ。しかも、去年も身体壊して入退院を繰り返してたらしくて、留年したらしいよ」
なるほど。
それで説明が付く。
彼女は一つ年上だったのか……。
「よく知ってるな……。誰に聞いたんだ」
俺はアイスを噛り、周囲を見る。
「水瀬か」
坂下は俺をじっと見る。
「水瀬も知ってるのか……」
水瀬がそこまで知っているかどうかは俺にもわからない。
「草森と同じ中学だったって先輩に聞いたんだ。中学の頃から身体弱くて、入退院繰り返してたって言ってたよ」
坂下はアイスを嘗め回す様にして食べる。
俺は坂下の言葉に頷き、また周囲を見渡した。
坂下はケツのポケットに入れたスマホを取り出し、画面に触れていた。
すると俺のスマホに着信音がして振動する。
「お前のために草森の家の住所、聞いておいたよ。良かったら行って来いよ」
そう言って坂下は立ち上がる。
そして俺の肩をポンポンと叩いた。
「良い友達持って幸せだな、お前……」
坂下は俺に微笑むと、近くを通っていた友人の船村に声を掛けて二人で歩いて行った。
俺はスマホに表示された坂下からのメッセージをじっと見つめた。
俺の家とは逆方向に二つ行った駅。
そこに彼女の家が有る。
俺はその駅に降り立ち、周囲を見る。
その駅で下りたのは初めてで、どうにも慣れない街並みに周囲を見渡した。
ナビアプリに住所を入れて、俺は歩き出す。
土地勘のない街を歩くのは何処か心細い。
こっちか……。
俺は駅前から離れ、住宅街に入る。
俺の住んでいる街とは違い、大きな家の並ぶ場所だった。
角を曲がり、少し坂を上る。
「草森、草森……」
俺は一軒一軒の表札を確認しながら歩く。
ある一軒の家の前で立ち止まり、俺はその家を見上げた。
正に見上げると言う表現が正しかった。
その豪邸と呼ぶに相応しい家に俺は圧倒されていた。
「なっ……」
俺の家の数倍はある家。
俺はそれをじっと見ていた。
視線を落とし、その大きな門に付けられているインターホンを見付けるが、その小さなボタンを押す事さえ躊躇われる程の家だった。
どうする……。
俺はじっとその門の前で硬直していた。
するとその時、玄関のドアがゆっくりと開いた。
俺は顔を上げて玄関を見ると、そこには赤茶色の髪の少女が立っていた。
「どちら様ですか……」
その赤茶色の髪の少女は俺を見て訊いた。
俺は一瞬だけ目を伏せ、また視線を彼女に戻した。
「草森……、香奈江さんのクラスメイトの恩田と言います」
俺は言葉を選びながらそう言うと頭を下げた。
「ああ、お姉ちゃんの……」
少女は玄関から出て来て門扉の傍に立った。
「今開けますね……」
と言って、大きな鉄の門を開けた。
俺はもう一度頭を下げると、礼を言った。
「どうぞ、入って……」
と少女は俺に言って中へと案内してくれた。
玄関に入ると俺は、用意されたスリッパを履いた。
「こちらへどうぞ」
彼女はそう言いリビングへと案内してくれた。
ソファに座れと案内されて、俺は其処に座った。
「あの……」
俺は足元に鞄を置きながら彼女に声を掛けた。
「はい」
と、その赤茶色の髪の少女は振り返る。
何処と無く草森香奈江に似ている事に気付く。
「草森の妹……さん、ですか……」
俺がそう訊くと、金髪の少女はニッコリと微笑み頷く。
「はい……、妹の草森敦子です」
草森の妹、敦子は深々と頭を下げた。
赤茶色の髪からイメージするモノとは違い、礼儀正しい少女だった。
「お茶、淹れますね……」
と、少女は部屋の奥へと入って行った。
俺はその大きなリビングの中を見渡す。
調度品は元より、棚に並ぶウイスキーや食器など、どれも高そうなモノばかりだった。
「すみません……、何も無くて……」
と敦子は俺の前に紅茶の注がれたカップを置いた。
「ありがとう……」
俺は礼を言って頭を下げる。
「草森が学校に来てないから、少し心配になって……」
敦子は俺の言葉に俯いて微笑んだ。
「お姉ちゃんの友達が家に訪ねて来るなんて初めてなモノで、ちょっとだけ驚いてます」
敦子は俺に紅茶を勧めながら言った。
俺は紅茶を一口飲み、カップを皿に戻した。
「草森……、香奈江さんはどちらに……」
そう訊いた瞬間、敦子は目を伏せた。
「お姉ちゃんは生まれつき心臓が悪くて……、そのせいで入退院を繰り返してます。今も……」
俺は坂下に聞いたままの話に小さく頷いた。
「夏休みに入って直ぐに入院して、容態が良くなったり悪くなったりの繰り返しで……。夏休みの終わりに退院したんですけど、また直ぐに病院へ逆戻りで……」
屋上で会ったあの日はそういう事だったのか……。
俺はコクリと頷く。
容態が悪い日はカークからのメッセージが無かったのだろう。
それで説明が付く。
「香奈江さんに会いたいんだけど……」
俺は二口目の紅茶を飲んで彼女に訊く。
すると彼女は首を横に振った。
「ごめんなさい……。それはお姉ちゃんにきつく言われてて……」
彼女はそう言うと深く頭を下げた。
俺は息を吐くと、俯き黙って頷いた。
彼女ならばそう言うだろうと想像は付いた。
それに病気で弱っている姿を見られるのも、草森なら嫌がるだろう。
「心臓が悪いの……」
彼女はコクリと頷いた。
「ええ……。私が代わってあげられたら良いんですけど……。生まれつきなモノで……。ほら、私の髪の色」
彼女は自分の髪を少し摘まむ。
「これも生まれつきなんです。そのせいで小さい頃はよく虐められました。外人外人って……」
俺はその綺麗な赤茶色の髪の敦子を見つめる。
「毎年、黒髪に戻してこいって先生に怒られますけどね」
彼女はクスクスと笑いながら言った。
「私は髪の色だけなんですけど、お姉ちゃんは……」
「そんなに悪いの……」
彼女はコクリと頷いた。
「もう小さい頃からなので、ほぼ毎年入院してます。去年なんかはほぼ一年間……」
ほぼ一年か……。
坂下が言う通り、それじゃ草森が去年どのクラスに居たかなんて誰にもわからないし、彼女に友達が居ない事も納得出来る。
「なるほど……」
彼女は紅茶のカップを置いた。
「お姉ちゃんと私、一つしか違わないんだけど、今、同じ高校二年生で……。去年は流石に進級出来なかったので……」
俺は小さく頷いた。
そして俺はカップに残った紅茶でやけに渇く口の中を潤した。
「あの、一つお願いしても良いですか……」
と俺は鞄の中からノートを出して、その最後のページを破いた。
そして俺の電話番号を書いて彼女に渡した。
「彼女……、香奈江さんに何かあった時は、教えてもらえますか……」
敦子は躊躇いながらも、ノートの切れ端を手に小さく頷いた。
「わかりました……。約束します」
俺はその返事に安堵して大きく息を吐いた。
そして、
「ありがとう……」
と礼を言い立ち上がった。
「じゃあ、俺はこれで……」
と部屋を出た。
「すみません。わざわざ来てもらったのに、病院、教えられなくて……」
俺は玄関でローファーを履きながら振り返った。
「最後に一つだけ……、訊いて良い……」
敦子は目を丸くして俺を見ていた。
「何……、でしょうか……」
俺は一度視線を足元に落とし、今一度、彼女を見た。
「俺が今日、訪ねて来た事は香奈江さんには内緒にして下さい……」
敦子は一瞬俯いたが、顔を上げて、
「わかりました……」
そう言った。
そんな事はどうでも良かった。
もしかしたら訪ねた事を香奈江に伝えてもらう方が良かったのかもしれない。
それ以前に敦子が香奈江に伝えないと言う保証もない。
俺は彼女に微笑むと玄関を開けて草森家を出た。
俺は彼女の家からの帰り道、駅前のバーガーショップで遅い昼食を取りながら本を読んでいた。
何故か家に帰りたくなかった。
あの家の中の静けさが嫌だった。
バーガーショップの喧騒の中で、俺は文庫本のページを捲る。
どうして、彼女なんだ。
妹の敦子が言う様に、逆だったら……。
俺はそんな恐ろしい事まで考えていた。
本を読み終えた頃、顔を上げると辺りはすっかり暗くなっていて、俺はトレイを手に店を出た。
家に帰ると、母さんが帰宅していて夕食の準備をしていた。
「遅かったのね……」
母さんは俺の顔を見るでもなく、そう言うと鍋を火にかけていた。
「うん……」
俺はそう返事をすると二階の部屋に上がった。
そして部屋に入り、ドアを閉めると、手に持った鞄をベッドの上に投げ付けた。
その夜も彼女からのメッセージは来なかった。
入院しているとわかってしまった以上、メッセージの無い日は、彼女の体調が悪い日だという事がわかってしまう。
俺はスマホを握りしめたまま、不安な夜を過ごした。
「草森……」
俺はスマホの真っ黒な画面にそう呟いた。




