第二章 プールサイドの彼女
中間テストが終わった。
中間テストの期間は早く帰れるが、それが終わると通常授業に戻る。
期末テストだと夏休みに入るのだが、それも無い。
俺はテストの最終日に図書館に寄り、借りていた本を返し、また別の本を借りる。
誰かと比べた事も無いので、俺が本を読むのが早いのか遅いのかもわからないが、とりあえず借りていた本はすべて読んだ。
理解出来たかどうかはまた別の話。
図書館のカウンターで本を出し、図書カードを預ける。
借りた本を持って、誰も居ない席に座ると俺は今借りた本を開く。
家に帰って読んでも良いのだが、冷房の効き始めた図書館の中が、少し快適に感じたのと、テスト期間が終わり図書館の人が減った事で快適な空間に見えた。
ニーチェと芥川龍之介、それに幕末・明治維新の本を借りた。
この一貫性の無い選択。
いつか好みが出来、まとまったジャンルで本を借りる事が出来るのだろうか。
取り留めのない借り方がどうも素人っぽく見えて少し恥ずかしかったが、図書委員や司書の先生は俺が借りる本に対して何か意見する事も無い。
俺の背後で図書室のドアが開くのを感じ、俺は振り返った。
草森が入って来るのが見えた。
草森香奈江……。
俺は彼女が図書室のカウンターに本を返すのが見える。
そして奥の棚の方へ消えて行く。
彼女はどんな本を読んでいるのだろう……。
俺はじっと彼女の姿を追う。
すると、既に借りるモノを決めていたのか、直ぐに戻って来て数冊の本をカウンターに出しているのが見える。
慣れているのだろう、借りた本を鞄に入れると直ぐに出て行った。
俺は彼女を追うか迷ったが、不審者扱いされるのも嫌なので、それを止めてカウンターに向かった。
図書委員はゆっくりと顔を上げて、俺をじっと見る。
「何か……」
俺はカウンターに両手を突いて身を乗り出した。
「あの……」
「はい」
俺は勇気を出して訊いた。
「今の彼女、草森はどんな本を読んでるんですか……」
俺は誰も居ない図書室で声のトーンを抑えて訊いた。
「ああ……」
返却手続きをするために傍に積んだ本を手に取ると、図書委員は、
「小説が多いですね……。詳しい事は教えられませんが……」
そう言う。
これも個人情報という括りで守られるのだろう。
「ああ、いや、彼女、草森とは同じクラスなんだけど、いつも本を読んでるので、一体、どんな本を読んでいるのだろうかっていつも気になってて……」
俺の言葉に図書委員はクスリと笑う。
そして一冊の本をカウンターに置いた。
「この作家の本はすべて読んでおられますね……」
俺は装丁を見る。
それは最近売れている作家の小説だった。
「あの方は読むのも早いのか、昨日借りて、今日返すなんて事も良く……。本が好きなんですね」
図書委員は俺に微笑んで首を少し傾けた。
俺はカウンターの本に一度視線を落とすと、
「ありがとう……」
と礼を言って図書室を出た。
もしかすると彼女に追い付けるかもしれない。
そんな事を考えながら学校を出たが、既に彼女の姿は無く、俺は少しだけ足早に駅までの道を歩いた。
彼女が駅を使っているのかも知らないが、大抵の生徒は駅を利用している。
しかし、彼女に追い付く事は出来なかった。
俺はコンコースを抜けて、入って来た電車に乗った。
ゆっくりと動き出す電車の車窓から向かい側のホームが見えた。
そのホームに彼女の姿が見えた。
「草森……」
俺は車窓に張り付く様にして彼女を見た。
視線を落とし、いつもの青のブックカバーを開いているのが見えた。
そして動く電車から彼女が見えなくなるまで俺はじっとその姿を見ていた。
俺は空いている電車のシートに座り、鞄の中の本を取り出し開いた。
しかし、不思議だった。
漫画さえも読まなかった俺が、今は図書室で本を借りてまで読んでいる。
それもカークとのやり取りをするため。
カークが誰なのかさえもわからないのに。
そして草森香奈江に対しても、少し近付けた気がした。
家に帰るまでの道も俺は本を読む。
ただ、本を読む事に関して、みんな何を目的に読んでいるのか、それはそれぞれなのだろうが、俺には目的がはっきりしない。
カークに気の利いた返信を返すため、草森と近付くため。
どっちにしてもみんなとは少し目的が違う気がしていた。
玄関のドアを開けて、そのまま俺は二階に上がって部屋に入った。
机の脇に鞄を置くと制服を脱いで着替えた。
机の上に開いたまま伏せた本を手に取ると、ベッドに座ってまた続きを読む。
本と一緒に机の上に投げ出していたスマホを手に取り画面を開く。
友達の坂下からのメッセージが入っている様だった。
《最近、直ぐ何処かに行くけど、お前何処に寄ってるんだ。草森と一緒か》
坂下は完全に俺は坂下に気があると考えている様だ。
それが不快では無いが、こんな話がみんな好きだという事はわかった。
俺には人の色恋沙汰に興味を持つ事自体がわからないのだが。
しかし坂下が言う様に俺は草森の事が気になっているのは事実だ。
それが恋愛とは違う気もする。
しかし、ずっと目で追うという事は何等かの興味を持っている事は間違いない。
俺は本に栞を挟んで、ベッドの上に置いた。
そして坂下にメッセージを返した。
どう返しても信じてもらえないのかもしれないが、俺はそれを理解した上で、一人で家で本を読んでいる事を伝えた。
案の定、
《はいはい……。相方さんによろしくな》
と直ぐに返信は返って来た。
俺はそのメッセージに苦笑してスマホを机の上に置いて、ベッドに横になった。
その夜、またいつもの時間にカークからのメッセージが来る。
俺は慌ててスマホを開く。
《六月の風は少し湿っていて、息苦しい……》
カークも俺と同じ様に感じているのがわかる。
それとも俺の思考の方が文学的になって来たのだろうか。
《湿度の問題だろう……》
俺は敢えて単純な返信をした。
《雨を待つ間に、幾つの文字を取り込めるのだろうか》
一種、哲学的に見える言葉に俺は微笑む。
《雨を待っているのか……》
《雨は嫌いじゃない》
今度は即返って来る。
「雨が好きなのか……」
俺はスマホを握ったまま微笑む。
確かに梅雨に入り、じめじめとしているが、日本は夏中湿度が高い。
インバウンドでやって来る人達はみんなそれがきつい様だ。
それを好きだという人間が居てもおかしくはないのかもしれない。
《雨が降るとヘアスタイルが決まらないとか、汗をかいて気持ち悪いとかあるだろ》
《髪なんて気にした事が無いから》
俺の中で、カークの姿は草森だった。
あの長い髪をサラサラに保つのは大変だろうと思った。
俺はそのメッセージで返信を止めた。
これ以上訊くのは不自然に思えたからだった。
翌日、また雨だったが、先日の様に警報が出る程の雨ではなく、朝からダラダラと続く雨だった。
傘を差して家を出た。
しかし駅に着く頃には制服のズボンの裾はしっかりと濡れている。
こんな日が一番気持ち悪い。
自転車通学の連中は既にビショビショに濡れていて、授業が始まる前に制服から体操着やTシャツに着替えていた。
自分の席に着いて窓際の草森の席を見る。
彼女の姿は無く、窓ガラスに強くなった雨粒が叩き付けていた。
「おい、恩田……。今日は草森は休みか」
坂下は俺の傍に来て訊いた。
「知らねぇよ……」
俺はそう言うと鞄から本を出した。
「そうか……」
坂下も度が過ぎたと思ったのか、大人しく席に戻って行った。
放課後、既に雨は止んでいて、たたんだ傘を手に俺は駅前の本屋に寄る事にした。
昨日彼女が読んでいた作家の新刊を俺は手に取った。
もう彼女はこの本を読んだのだろうか。
パラパラとページを捲ると、ある言葉が目に留まった。
六月の風は少し湿っていて、息苦しい。
そんな一文があった。
これは……。
俺は更にページを捲る。
そしてその本を閉じるとレジに向かった。
間違いない。
カークもこの本を読んでいる。
俺はスマホのバーコードで支払いを済ませると、店を出た。
そして駅へと向かいコンコースを抜ける。
そしてホームに立つ。
今日は傘を持った学生が大勢いた。
今日、草森は学校を休んだ。
今まで気にした事も無かったが、草森は時に学校を休んでいたのかもしれない。
向かいのホームで昨日見た草森の幻影を探すが、今日は居ない。
俺は微笑んでさっき買った本を開く。
書店で掛けてもらった紙のブックカバー。
やはり彼女の書けている青のブックカバーとは違う。
俺もブックカバーを買うか……。
俺は本を閉じてじっと見つめる。
「同じ本か……」
俺はそう呟いて微笑んだ。
その夜、カークからのメッセージが来た。
《束の間の休息。充電完了……》
俺はそのメッセージに微笑んだ。
《休息は必要だからな……》
そう返すと本を開く。
すると直ぐに返信が来た。
《休息の必要性は君が一番よく知っているな》
俺が休息の重要さを知っている……。
確かにそうかもしれない。
今、俺は休息しているのかもしれない。
《ああ、もうしばらく休息させてもらうつもりだ。もしかするとこの先ずっとになるかもしれないけど》
俺のその返信にカークの返事は無かった。
六月はセオリー通りに雨を何度も繰り返し、あっという間に過ぎて行った。
そんな中でも、俺とカークのメッセージは繰り返される。
そして相変わらず、俺と草森の会話は無い。
そうやって六月が終わり、今度は期末テストの時期がやって来た。
俺もしばらく本を置いてテスト対策の勉強をする事にした。
日々本を読んでいる事もあり、いつもよりテスト勉強も捗る気がした。
そしてテストの期間が終わると夏休みの声が聞こえて来た。
短縮授業の期間を終えると、夏休みがやって来る。
この頃になると、蝉の声が耳を差す程に響いていた。
夏休みを目前にした放課後の学校は何処か緩んだ空気に包まれる。
終業式の日、担任の橋爪は、
「良いか、君たちの受験は来年だが、大学受験にとって高二の夏ってのは結構重要なんだ。既に予備校など人申し込んでいる人も居ると思うが、学校でも補習を行う事になっている。しっかりと来年に備えろよ。高二の夏を制する者が受験を制するって昔から言われているんだ。しっかりと気を引き締めて掛かれよ」
なんて事を言っていたが、誰もそんな事は聞いていない様だった。
まあ、橋爪が嫌われているってのも理由かもしれないが……。
ホームルームが終わって、みんなぞろぞろと教室を出て行った。
草森香奈江もいつもの様に鞄を肩に掛けると早々に帰って行った。
俺はそれを後目に机の中のモノを鞄に詰めて教室を出た。
そして借りていた本を返すために図書室へと向かった。
借りていた本をカウンターに出して、預けていた図書カードを返してもらう。
そして彼女が借りたであろう本を数冊取り、それを借りる。
うちの学校は図書館で本を借りる学生もそう多くは無い。
それもこの学校の蔵書が少ない事も原因で、新しい本が棚に並ぶのも遅い。
俺はまた図書カードを出して本を貸してもらい鞄に入れた。
「今から、水泳の補講なんだよ……。最悪だよ……」
そう言いながら図書室を出て行く二人組の女子が居た。
水泳の授業は一学期で終わるために、夏休み前に補講がある。
俺は図書室を出て外に出ると、グラウンドの横を抜けて正門へと向かう。
その時、プールが見えた。
「よお、恩田……」
と後ろから声がした。
俺が振り返ると、そこには坂下が立っていた。
「何だ、坂下か……」
俺はそう言うとプールに視線を戻した。
「何だって何だよ……。おれで悪かったな……」
坂下は汗で湿る俺の背中を叩いた。
「草森じゃなくて……」
そしてそう付け足す。
「何、言ってるんだ……」
俺は坂下に苦笑した。
もう俺が草森香奈江に惚れていると噂になって随分と経つ。
プールで体育教師が使うホイッスルが鳴り、十人程の女子がプールサイドに並んでいた。
「ああ、プールの補講か……。女は大変だね。生理で休んでも補講だもんな」
と坂下は言う。
なるほどな……。
俺は立ち止まり、プールサイドに並ぶ女子を見る。
その中に数人のクラスメイトが混じっているのが見えた。
そして、草森香奈江の姿は……、あった……。
長い髪を束ねている彼女はその列に並んでいた。
「いいねぇ……。あのすげぇスタイル良い奴……、誰だ」
坂下は俺の肩を掴んで身を乗り出す様にして訊いた。
「えっ、もしかして……、あれって草森か……」
坂下は水着姿の草森の背中と俺の顔を交互に見ながら言う。
「ほう……。草森ってスタイル良いんだな……」
坂下は俺を肘で突いた。
「お前、見る目あるんだな……」
そう言うとニヤニヤと笑っている。
「ちょっと近くで見て行こうぜ」
坂下はクラブハウスの方を親指で差した。
確かにクラブハウスの場所からだとプールはよく見える。
俺は坂下と一緒にクラブハウスの二階に上がった。
想像してたよりもプールが良く見えた。
草森は勿論、眼鏡も無ければ長い髪を束ねている事もあり、いつもと少し違っていた。
彼女の白い肌が夏の日差しに映えていた。
ホイッスルと同時に女子たちがプールに飛び込む。
しかし彼女だけはホイッスルと同時にプールに頭まで浸かり、直ぐに上がって来た。
なんだろう……。
今日も体調が悪いのか……。
そして金網に掛けたバスタオルと取ると、濡れた髪を拭いていた。
「おお、あの四組の子もスタイル良いな……」
坂下はそんな事を言っているが、俺の耳にはそんな坂下の言葉は入って来なかった。
俺はプールサイドに立つ彼女の姿に釘付けだった。
キャーキャーと声を上げながらプールで泳ぐ女子たちの水飛沫が青いプールに白の色を点々と散らしている。
二十五メートルと泳ぎ切った女子たちがプールから出て、彼女と同じ様に金網に掛けたバスタオルを取って身体を拭いていた。
初めて見た彼女の水城姿は刺激的で綺麗だった。
俺は呼吸をするのも忘れて彼女の姿を見ていた。
濡れた髪から水が滴り、背筋を伸ばすその姿は、教室の片隅に居る彼女とは別人の様だった。
胸の奥がざわつく。
クラブハウスからプールを見ている俺たちの支援に気付いたのか、彼女が俺の方を向いた。
一瞬、視線が絡み直ぐに逸らされた。
無表情の奥でわずかに何かが揺れた気がした。
俺は隠れる事も忘れて、いつもと違う彼女をじっと見つめていた。
その日の夜、いつもの様にカークからのメッセージが届く。
《今日の空は水の底の色で、ゆらゆらと光が揺れていた……》
そんなメッセージだった。
草森……。
やはりお前なのか……。
俺はスマホをじっと見つめるが、返信できずにいた。
プールでの彼女を盗み見してしまった引け目もあるから、このメッセージでカークが草森なのかと訊く事も憚られる。
もしかすると草森は目が悪いので、俺の事は見えていなかったかもしれない。
《水の底から本当に見たかったのは何……》
俺は少し文学的に聞こえる言葉を返す事にした。
カークは俺からの返信がいつもと少し違う事に困惑しているのか、返信に時間が掛かっている様にも思えた。
俺はスマホをベッドの上に置いて横になった。
そしてそのまま眠ってしまった様だった。
朝方、俺は目を覚まして飛び起きた。
しまった……。
返信……。
俺は脇に置いたスマホを手に取り画面を開いた。
しかし、カークからの返信は来ていなかった。
何だ……。
返信来てなかったか……。
俺はスマホに充電コードを繋いで、もう一度ベッドに横になった。
夏休み。
今までの夏休みであれば、俺も喜んでいたかもしれない。
しかし、草森に会えないという事を考えると、俺にはマイナス要素の方が大きい気がする。
気が付くと蝉の声が嵐の様に押し寄せて、太陽の熱は容赦なく体力を奪う。
普段からだらけた生活をしている自分が少し恨めしく思った。
部屋の中にもその熱は籠り、扇風機で放熱させるには難しい。
昔は今よりも涼しくて、「朝の涼しい時間に宿題をやれ」と言われていたと父さんは言っていたが、今は朝、起きた瞬間から暑い。
その道理で行くと宿題なんてやっている時間は存在しないという事になる。
途切れたカークからのメッセージは今も来ていない。
俺は強風で回した扇風機の前で、スマホを片手にTシャツを脱いだ。
草森は何をしているのだろうか……。
夏休みの初日にして、何度それを考えただろうか……。
昨日見た水着姿の彼女を思い出す。
そしてそれと同時に俺の中で彼女の存在が大きくなっていた事を知る。
しかし、どうしてカークからの返信が来ないのだろうか……。
俺とカークのやり取りで、カークからの返信が来なかった事は無い。
いつも会話の終わりは俺だった。
何かあったのだろうか……。
俺は突然、そんな不安に襲われた。
顔を見る事の出来ない不安は計り知れない。
俺は扇風機の風に吹かれながらじっと考えた。
単に寝落ちしただけかもしれない……。
そんな風に考えられなくもなかった。
俺は大きく息を吐いた。
そして手に持ったスマホを机の上に置き、その横に遭った本を手に取る。
「折角の夏休みだしな……」
俺は読みかけの本を開いた。
その日の夜もカークからのメッセージは来なかった。
そしてその翌晩も、また翌晩も着信の通知は鳴らなかった。
夏の夜の静けさが逆に耳を刺す。
そして四日目の夜、俺はベッドの上でスマホを握ったまま、じっと考える。
《元気か……》
それだけのメッセージを送った。
初めての俺からのメッセージ。
短い一言だったが、それなのにやけに重く感じた。
しかし、その俺からのメッセージにも数分、数十分、やはり何も返って来ないまま、夜は更けて行った。
メッセージに「既読」の二文字は無かった。
もしかして、俺との会話は終わったのか……。
いや、もしかするとそんな会話なんて最初からなかったのかもしれない。
単なる俺の幻想だったのだろうか……。
五日目の昼間、昨日まで感じていたうるさい蝉の声がやけに今日は遠く感じる。
何処かに取り残された様な気分のまま、俺は夜を待っている。
やはり、五日目の夜もカークからのメッセージは来なかった。
六日目の朝、俺は昼前に目を覚ます。
いつ眠ってしまったのかもわからなかったが、多分、朝方まで起きていたんだろう。
東の空がラベンダー色に染まり出した頃に、少しずつ蝉の声が聞こえ始めたのを思い出した。
少し重い頭を軽く振り、俺はベッドに起き上がった。
そして傍らに放り出していたスマホを手に取った。
今日もカークからのメッセージが来ているとは思えなかった。
そしてスマホの画面に指を落す。
するとその画面にはカークの名前が表示されていた。
俺は慌ててそのメッセージを開いた。
《久々の朝方の海の底、静けさがうるさい……》
俺の心の奥に沈んだ鉛の高まりの様な重いモノが、ゆっくりと溶けていく様だった。
何故か涙でスマホの画面が滲んでいる。
そんな事で涙を流す事など無いと思っていた。
「良かった……。良かった……」
俺は何度も無意識に呟いていた。
《静けさが嫌な時もある》
俺は涙で震える視界の中でそうメッセージを返した。
それからカークとの会話は続いた。
しかし、それは毎日ではなく、数日その会話が無い時もあった。
そんなある日、俺は坂下に呼び出され、久しぶりに外に出た。
駅前のバーガーショップに入り、俺は坂下を待つ。
どうやら数人でカラオケに行くと言う。
あまり乗り気では無かったが、少ない友達を無碍に出来ない事もあり、仕方なくやって来た。
「よお、恩田……」
と坂下は十分程でやって来た。
そして坂下の後から、クラスメイトの伊藤と、女子が三人やって来る。
たしか、山下、葛西、水瀬だったかな……。
バーガーショップで一時間程他愛も無い話をして、カラオケ屋へ行く事になった。
俺は何処か浮いていて、上手く五人の会話に入れていない気がした。
「悪い、ちょっとトイレ行って来るわ」
と俺は席を立った。
用を足して手を洗っていると、坂下が後ろから鏡越しに俺を見る。
「楽しくないか……」
と言う。
俺は鏡の向こうの坂下に微笑むと、
「そんな事無いよ……」
と言った。
「逆に俺が居ちゃ盛り上がらないんじゃないか……」
坂下はニヤリと笑った。
「高二の夏だぜ……。そろそろ彼女とか出来ても良いんじゃないかってね……」
坂下は俺の肩を叩く。
「俺は葛西、伊藤は山下……、水瀬はお前の事が気になっているって話だったから……。頼むぜ……。間違わない様にな」
俺には何の事か理解が出来なかった。
「今日は三組のカップルが出来るかもって事だ」
「おい、坂下……」
俺は坂下を振り返った。
すると坂下は俺の横をすり抜けて手を洗った。
「何だよ、お前、本当に草森が好きなのか……」
俺は息を吐き、
「そうじゃないけど……」
と言いながら言葉を飲み込んだ。
本当にそうなのか……。
坂下は手を拭きながら鏡越しに笑った。
「まあ、水瀬も気にしてたぜ。お前が草森の事を気に入ってるのなら、勝ち目無いかもってな……」
俺は視線をタイルの床に落とす。
「そりゃそうだわな……。どう見ても会話にもならない草森に食い下がってるお前見てるとな。相当恋してないと出来ない事だ」
坂下は振り返って俺の肩を叩く。
「まあ、それだけお前の知らない所で話題になっているって事だ」
坂下はそう言うと俺の横をまた擦り抜けて、トイレのドアを開けた。
「良いか。さっき言った相手間違うなよ……」
坂下は人差し指を出して言うと戻って行った。
カラオケ屋なんてどれくらいぶりに来ただろうか。
上手く男女に別れ隣同士になる様に座った。
その辺の仕切りは坂下に任せると完璧だった。
俺の横には同じクラスの水瀬七海が座っている。
水瀬七海も人気のある方で、サッカー部で一緒だった奴の中にも何人か水瀬の事が好きだと言う奴が居た。
「おお、恩田は何飲む」
とリモコンでオーダーを入れている伊藤が言う。
「ああ、アイスコーヒーで」
俺はそう答えると隣に座る水瀬に微笑む。
上手く笑えていない気はするが……。
カラオケってのはフリータイムで入り学割を使うと一日居ても二千円でお釣りが来る。
そりゃ高校生が集まる筈だ。
飲み物もドリンクバーで、一杯目を頼むとそのグラスを持って自分でドリンクを入れるシステムになっている様だった。
「恩田君ってあまりカラオケって来ないの」
と、隣に座る水瀬が言う。
「うん……。久しぶりかな。去年までサッカーやってたし」
俺の言葉に、水瀬は会話を続ける事が出来ずに無言で頷いていた。
俺はやっぱり女と話すのが苦手なのかもしれない。
そう考えれば考える程、水瀬の顔を見る事も出来なくなった。
結局俺たちは夜までカラオケを歌い、駅前で別れた。
それなりに楽しかったが、一日を無駄にした気になった。




