第九章 屋上の夕焼けと
屋上の扉が開き、彼女が近付いて来る気配を感じた。
コンクリートをコツコツと刻む音が響く。
俺の胸の鼓動は更に早くなり、このままだと心臓が持たない気がした。
そしてゆっくりと彼女が俺の後ろまで来た。
彼女の息遣いを俺は背中越しに感じていた。
「久しぶりだな……、会うのは」
俺は振り向かずに彼女にそう言う。
すると彼女はゆっくりと俺の横に並び、錆びた手摺に肘を乗せた。
俺はゆっくりと横に並んで立つ彼女を見る。
「え……」
俺は思わず声を出した。
其処に立っていたのは彼女ではなく、彼女の妹の敦子だった。
敦子はゆっくりと俺の方を向いて深く頭を下げた。
「ごめんなさい……」
その声が更に俺を困惑させた。
「草森は……」
俺は周囲を見渡す。
「ごめんなさい……」
敦子は再びそう言う。
そしてゆっくりと顔を上げた。
「どう言う事だよ……」
俺は囁く様な小さな声を吐き出した。
胸が震えている。
怒りでも安堵でも無い、そんな思いが込み上げて来る。
「俺はお前の姉さんと約束してるんだ……。何だよ、また入院でも……」
そう言う俺の腕を敦子は掴んだ。
「違うの……」
「離せよ、来れなくなったなら……」
「違うの」
敦子は声を荒げた。
俺は振り払おうとした敦子の腕を止める。
「何だって言うんだよ……」
俺の声は小さく、もしかしたら敦子にも聞こえてなかったかもしれない。
「私なの……」
俺はゆっくりと顔を上げて敦子を見た。
「あなたとメッセージのやり取りをしていたのは……。私……なの……」
敦子はじっと俺を見ていた。
そしてその瞳からは大粒の涙が流れていた。
「何言ってるんだよ……。そんな筈無いだろう……」
俺は真っ直ぐに俺を見つめる敦子を睨む様に見ていた。
一度だけ、彼女の家を訪ねた時に会った敦子……。
あの時の印象とも少し違って見えたが、赤茶色の髪と有名な私立の女子高の制服が夕日を受けて輝いて見えた。
何度も何度も謝る敦子を俺は屋上の座れる場所に連れて行った。
ずっと泣いている敦子の横に俺は座り、背中に夕日を背負う。
「どう言う事なんだよ……。説明してくれないか」
俺は俯く敦子の顔を覗き込む様にして訊いた。
敦子はしゃくり上げ、言葉を発する事が出来ない程だった。
そしてしばらくして、敦子は俯いたまま、言葉を発した。
「姉は亡くなりました……」
俺はその言葉に顔を上げた。
視界が涙で揺れる。
今まで彼女を想って準備した言葉たちが音を立てて崩れ落ちて行くようだった。
「な、何を……」
俺の言葉を遮る様に、
「九月二十一日……」
敦子はそう言った。
「誕生日の日に……」
俯いた俺の頬を涙が伝い、コンクリートの床に染みを作って行く。
「そんな……」
妹の敦子が来た時に、もしかしたらと考えた最悪のパターンだった。
涙は顎を伝い、更にコンクリートの上に落ちて行く。
「本当は、もうお姉ちゃんの心臓は限界で……。次に発作が起こったら難しいだろうって言われてたんです」
敦子はしゃくり上げながら話す。
俺はそれを、涙を流しながら聞いた。
「けど、この夏、何度も発作を起こしながら、それでもお姉ちゃんは生きようと必死でした。それはあなたとのメッセージのやり取りがあったから……」
俺はその言葉に顔を上げた。
両目に涙をいっぱいに溜めたまま敦子はじっと俺を見つめていた。
「俺と……の……」
敦子はコクリと頷いた。
俺は飲み込めない唾液を無理矢理に飲み込む。
「もう食事も出来なくなっても、あなたとのメッセージだけはさせて欲しいって言って、ベッドの中でいつもスマホを握り締めてました」
俺は敦子から目を逸らして、落ちて行く夕日を見た。
あの日、彼女と此処で見た夕日と同じ色をしていた。
「もっと、もっと……、あなたといっぱい話をしたかったって……。お姉ちゃんは言ってました」
俺はそれを聞いて立ち上がる。
そして、ざらつく手摺を掴んだ。
「何でだよ……。何で……」
そう言って手摺を揺らす。
また涙が溢れ出す。
敦子が俺の横に来て手摺を掴む俺の手に、自分の手を重ねた。
「私が初めてあなたにメッセージを送った日……。本当はお姉ちゃんが死んだ事を知らせようとしたんです……」
俺は浅く息を吐きながら敦子に背を向けた。
「何度も何度も、お姉ちゃんが死んだ事を知らせようとメッセージを書いて、そして消して……」
俺は、俯いてまた浅い息を吐いた。
「そして、お姉ちゃんが続けたかったあなたとの会話を私が……って思ってしまって」
俺は勢いよく振り返り敦子を見た。
敦子はまた涙を流していた。
「何度も伝えようとしたんです。だけど、私には出来なかった……。本当にごめんなさい……」
俺は、制服の袖で涙を拭いた。
そして頷く。
敦子が言い出せなかった気持ちも痛い程に良くわかったからだった。
「ありがとう……」
俺は敦子にそう言った。
何故そう言ったのかはわからなかった。
自然にそんな言葉が溢れていた。
「恩田さん……」
今度は敦子が夕日を見て手摺に身体を預けていた。
「私、お姉ちゃんは幸せだったと思っています。最後にあなたの様な人と友達になれて……」
俺はそう語る敦子の横に立つ。
そして同じ様に夕日を見つめた。
街を焦がすかの様にオレンジ色の夕日は落ちて行く。
その太陽の体温を俺たちは感じていた。
「夏休みのあの日……。ほら、恩田さんと此処でお姉ちゃんが会った日」
「うん……」
敦子は俺の方を見ると微笑んだ。
「あの日、もう最後の外泊の日だって、お姉ちゃんはわかっていたんだと思います。両親も何処に行きたいか、食べたいモノはないかって聞いたんですけど、お姉ちゃんは、会いたい人が居るからって、此処に来てあなたと逢う事を選んだんです……」
また涙が溢れて来た。
俺は敦子に隠す事も忘れてしゃくり上げながら泣いた。
「草森……」
俺は彼女の名前を声に出して泣いた。
こんなにも泣ける事を初めて知った。
目を閉じるとすぐ傍に彼女が居て、俺を見て笑っていた。
太陽は沈んでしまったが、その残光はまだ街を照らし、俺と敦子はその心地良い夕暮れの中で並んで座っていた。
「ありがとうな……。教えてくれて……」
俺は敦子に微笑んだ。
敦子は首を力強く横に振った。
「お礼を言うのは私の方です……。お姉ちゃんがこんなに楽しそうにしてたの、何年も見た事無かったですから……」
俺はその言葉に笑った。
「俺はわからなかったんだ……。草森の事、自分がどう思っているか。でも、今ははっきりと言える。俺は草森が好きだった」
敦子はコクリと頷いた。
俺は暮れかかる空を見上げた。
薄い雲が流れているのが見える。
「多分、お姉ちゃんも同じだったと思います……。恩田さんの事が好きだったんだろうって」
俺は首をゆっくりと横に振った。
「ある人が教えてくれたんだ。人を好きになるって初めは曖昧で、けどその気持ちはいつか自分で制御できない程に大きくなるって。それが人を好きなるって事だって……」
敦子は頷く。
「わかります……。私も恋愛なんてした事無いけど、そうなんだろうなって……」
敦子は足をぶらつかせて、
「あなたにお姉ちゃんが魅かれた事も何となくわかります……」
「俺に……」
敦子はまた頷く。
「あなたは何があっても、お姉ちゃんを傷付ける事の無い、そんな人です」
俺はクスリと笑った。
「そんな出来た人間じゃないよ……俺は」
敦子は俺の方を向くと俺の手を握った。
「そんな事無いです。お姉ちゃんとのやり取り見たらわかります」
俺は顔を上げて敦子の真っ直ぐな目を見た。
「全部読んだのか……」
敦子は顔を伏せて小さな声で言う。
「すみません……。けど、お姉ちゃんはあなたとの会話を良く話してくれました。メロスの走る速度とか……」
敦子は笑っていた。
「ああ、そんな話しもしたな……」
俺は暮れてしまった空を見上げた。
そして二人で声を出して笑った。
グラウンドでサッカー部の練習が終わる掛け声が聞こえた。
俺はゆっくりと立ち上がった。
「さあ、そろそろ校門が閉まってしまう……。帰ろうか……」
敦子はコクリと頷いて立ち上がった。
俺は前を歩く敦子の背中を見て、それが草森香奈江の姿と重なった。
敦子は振り返り、今一度、俺に頭を下げた。
そして顔を上げると、
「お願いがあります……」
真剣な眼差しでそう言う。
「俺に出来る事なら……」
俺はそれに即答した。
敦子はゆっくりと俺の傍に近付き、恥ずかしそうに俯いた。
そして顔を上げて、
「カークとのメッセージ……、続けてもらえますか……」
俺は奥歯を噛締めて涙を堪える様に目を閉じた。
《なあ、君は知ってるかい。今日だけが明日に続いている訳じゃないって事を……》
俺はそんなメッセージを送信した。
《私たちの前には色々な今日があって、そのどれもが色々な明日に続いている……》
彼女から返って来たメッセージに俺は微笑んだ。
俺は敦子とメッセージのやり取りをする事に条件を出した。
「カークはカナエ・クサモリだからカークだろう。君と会話をするなら、アツコ・クサモリだからアークだな……。アークとならメッセージのやり取りを続けても良いよ」
そんな条件だった。
敦子は嬉しそうにアークの名前で俺にメッセージを送って来た。
その最初のメッセージは、
《明日の君、明日の私。今日と何が違う……》
それだった。
俺はその一文が懐かしくて、つい微笑んでしまった。
それ以来俺と彼女のメッセージは続いている。
そんなある日、
《お姉ちゃんが会いたいって言ってる》
そんなメッセージが来た。
その日、俺は初めて草森香奈江の仏壇に手を合わせ、彼女の両親にも挨拶をした。
両親も俺の事を知っていて、夕食までご馳走になって帰って来た。
その夜、
《お願いがあるんだけど……》
と彼女からメッセージが入る。
《何だよ……》
俺がそう返すと、
《毎年、九月二十一日に屋上で必ず会う事にしよう》
と返って来た。
彼女曰く、それは亡くなった草森の命日ではなく、誕生日だからという理由。
俺はそれにOKした。
ある日の昼休み。
俺はいつもの様に購買でパンを買って屋上に上がる。
少し寒い日で、流石の俺も温かい缶コーヒーを買った。
屋上で震えながらパンを食べて、缶コーヒーを飲んでいると、担任の橋爪がオッサンスリッパをペタペタと鳴らしながらやって来た。
「よお、恩田……」
橋爪はタバコを咥えると強い風を避ける様にしてそれに火をつける。
「何だ、お前、またパンか……。しけてんな。学食で定食でも食えよ。こんな寒いところで飯食わなくてもよ」
俺はパンを口に放り込んで、
「混んでるところが苦手なんですよ……」
と答えた。
「混んでるって事は美味いって証拠だろう……。テレビでタクシーの運転手が言ってたぜ」
橋爪はタバコの煙を冬の曇った空に向かって吐いた。
「人が良いって言うから良いってモンじゃないですよ……。俺は俺のスタイルがあるんで」
「お前のスタイルね……」
橋爪はそう言うとニヤリと笑った。
「そう言えばお前、大学行くんだってな……。部活辞めて無気力になってたんで、少し心配してたんだよ」
俺は缶コーヒーを飲み頷いた。
「ええ、それが正解かどうかなんてわかりませんけどね……。自分のスタイルを探しに……」
「何がスタイルだ……」
橋爪は俺を肘で突いて笑った。
「ま、でも、自分探しをやるのも悪くない。そうやっていつか答えを出せばいいさ」
俺は橋爪がそんなに悪くない事に気付いた。
なんだかんだ言いながら、結構生徒の事を見ている。
それに気付いた。
「草森の事……。もう吹っ切れたのか……」
俺はその言葉に俯いて笑った。
「彼女は生きてますから……、俺の中で」
橋爪は微笑んで煙を吐いた。
「そうか……」
俺と橋爪はグレーの街を見つめた。
「誰も明日の事なんてわからない。わからないから、今日を頑張るんだろうな。明日がわかってると今日を生きる事が億劫になる。寝てても明日は来るんだからな……」
俺はその言葉に強く頷いた。
「俺を再起させてくれたのは彼女ですから……」
橋爪は俺のその言葉に頷いていた。
「おい、恩田」
校門を出た所で後ろから声がした。
振り返ると坂下と水瀬が立っていた。
「また、お前らかよ……」
俺はそう言うと二人を待つ事も無く歩き出す。
「待てよ……、冷たいな……」
「ああ、どうせ、またどっか行こうって言うんだろ」
そう言う俺の背中を水瀬が鞄で叩いた。
「痛てえな……」
水瀬は俺に舌を出す。
「そんな痛みなんて、私のハートブレイクと比べると大した事無いわよ」
「ん……、誰がハートブレイクなの……」
と坂下が言う。
「なあ、誰がハートブレイクなんだ」
水瀬は俺の横に並んで、小声で言う。
「私、まだ諦めてないからね」
俺は苦笑しながら坂下の背中を鞄で叩いた。
「今日はカラオケ行かねぇ」
「行かない……」
俺と水瀬は声を揃えて言う。
「冷たいな……。たまには俺にも付き合ってくれよ」
坂下は俺たちの前を後ろ向きに歩きながら言う。
「俺は本屋に寄って帰るから」
「あ、私も本屋行く」
坂下はつまらなそうに、
「え……、本屋にロマンはあるのか」
などと言っている。
俺たちは三人でいつもワイワイ言いながらその日を過ごしていた。
ポケットでスマホが振動する。
俺はスマホを取り出して開いた。
「アーク」からのメッセージだった。
《美味しいカレーパンのお店発見、合流されたし》
そんなメッセージだった。
俺はそのメッセージにクスリと笑い、
「すまん、急用が出来た。先に行くわ」
と駅に向かって走り出した。
「え……、本屋は」
「カラオケは」
そう言う二人に振り返って、
「悪い。また今度」
と言い走った。




