プロローグ
俺は一年ぶりに正門の前に立ち、少し年老いた様に見える校舎を見上げた。
「一年でこんなに変わるか……」
下校する生徒を横目に俺は学校に入って行く。
この学校を出て六年になる。
俺がこの街を離れて五年。
大学に進学し、そのまま俺は少し離れた市電の街に引っ越し、今年、就職した。
特に大学に行って学びたかった事も無い。
興味のある事も、不完全燃焼を感じてしまったあの日から、俺の中に生まれた事は無い。
リノリウムの張られた廊下を俺は歩く。
校舎の中に入ると、外観とは違い、以前と変わらない匂いに満たされていた。
そのまま廊下を進み、俺は職員室のドアをノックし、擦り切れた戸を開ける。
そこには教師たちが十人程いて、それ以外の教師は部活動の顧問として出払っている様だった。
「恩田じゃないか……」
俺に最初に気付いたのは、世界史の小川先生で、立ち上がると珍しそうに俺を見ていた。
俺は小川先生に頭を下げると職員室に入った。
「ご無沙汰してます」
小川先生はニヤリと笑い、俺の肩をポンポンと叩いた。
「久しぶりだな。幾つになった」
教師は毎年何人もの生徒を相手にする。
それもあり、生徒の名前を憶えている事はあまりないと大学の教授が言っていた。
「忘れられるくらいがちょうど良い」
そんな言葉が俺の中には強く残っていた。
「今年、就職しました」
俺はまた小さく頭を下げて小川先生に言った。
「そうか……。もう就職か。確かお前、大学は……」
俺は卒業した二流大学の名前を小声で言い、小川先生に微笑んだ.。
「ああ、そうだったな……。まあ、お前の成績だったら大したもんだよ」
小川先生は声を上げて笑った。
俺は周囲を見渡す。
既に知らない先生や、俺と同じくらいの若い教師の顔もある。
「あの、橋爪先生は……」
俺は小川先生に訊いた。
「ああ、橋爪先生か、部活の方に言ってる。まあ、大会前だからな……。いつもより多めにしごいてるんだろうな……。そこに座れ。コーヒーでも淹れよう……」
申し訳程度に置かれた古い応接用のソファに俺は座った。
「就職はどんな会社に……」
小川先生はアイスコーヒーを淹れたグラスを二つ持って俺の向かいに座った。
「文具メーカーに就職しました」
俺はアイスコーヒーのグラスを受け取りながら答えた。
「そうか。じゃあ、お世話になるかもしれんな……」
小川先生は、俺が在学中には見せた事も無い様な笑顔を見せて言う。
そして傍を通りかかった若い女性に、
「あ、田代先生。悪いけど、橋爪先生を呼んでくれるか……」
と言うと、その若い先生は微笑んで、「はい」とだけ返事をした。
そして机の上の電話を取った。
「卒業生が訪ねて来る事なんて、そんなにある訳じゃない。こうやって訪ねてくれるのは先生たちも嬉しいんだ」
小川先生はそう言うとアイスコーヒーを飲む。
俺はその話にただ頷いた。
「お前たちが居た頃と比べても生徒の数は減っている。空き教室も増えてるんだ。俺たちもその内お払い箱になるかもしれんな」
小川先生はまた声を上げて笑った。
十八歳人口が減っていると大学の方でも教わった。
定員割れしている大学も多く、名前を書けば入れる大学もあると言う話を聞いた事がある。
その時、職員室の戸が開き、担任だった橋爪先生が入って来た。
俺はそれを見て立ち上がると、橋爪先生に頭を下げる。
「先生……。ご無沙汰してます」
「おお、恩田……」
橋爪先生は無理矢理に小川先生の横に座った。
「ああ、じゃあ私はこれで……」
と小川先生はソファを立ち、自分の席に戻り、さっきの田代という若い先生に声を掛けていた。
「そうか……。今日は九月二十一日か……」
と橋爪先生は囁く様に言った。
「はい……」
俺は橋爪先生に微笑む。
多分上手く笑えてなかっただろう。
橋爪先生は俺に笑顔を見せた。
俺はグラスの中で崩れる氷を見ながら、アイスコーヒーを飲み干した。
「今年、就職しました」
俺は橋爪先生にそう言う。
「そうか……。もうそんなトシになったか……」
俺はコクリと頷くとグラスをテーブルに置く。
「もう六年か……」
先生の言葉に俺は、
「はい……」
とだけ答えた。
すると先生は小さく何度か頷き立ち上がった。
「待ってろ……。今、鍵を持って来る……」
俺はその橋爪先生の背中をじっと見つめていた。




