どすこい
「はっけよい、のこった!」
行司の甲高い声が、熱気で揺らめく国技館の空気を切り裂いた。
大関・荒鷲は、低く身を屈めたまま、じりじりと相手の出方をうかがう。体重百八十キロを超える巨体がぶつかり合う音、観客の割れんばかりの怒号にも似た歓声、汗と鬢付け油の匂い。その全てが渾然一体となり、荒鷲の五感を包み込む。土俵は、選ばれし者のみが立つことを許される聖域であり、同時に、勝者と敗者を無慈悲に振り分ける非情の舞台でもあった。
荒鷲こと、佐伯健吾が故郷の九州を後にしてから、十五年の歳月が流れていた。中学を卒業すると同時に角界の門を叩き、ただひたすらに稽古に明け暮れる日々。厳しい上下関係、終わりの見えないちゃんこ番、そして何よりも自分自身の弱さとの戦い。何度も故郷に逃げ帰りたいと思った。そのたびに彼を土俵に繋ぎとめたのは、たった一人の母親の存在だった。
女手一つで健吾を育ててくれた母。苦労ばかりかけた母に楽をさせてやりたい。その一心で歯を食いしばり、番付を駆け上がった。十両に昇進した時、初めて化粧まわしを贈った。幕内に上がった時、これでようやく胸を張って母に会えると思った。しかし、皮肉なことに、幕内の人気力士となった彼には、故郷に帰る暇など与えられなかった。本場所、巡業、後援会への挨拶回り。カレンダーは常に黒々と埋まり、気づけば、母とはもう何年も顔を合わせていない。
そんな彼の唯一の心の支えが、母から定期的に届く手紙だった。場所が始まる前、中日、そして千秋楽近く。まるで彼の心の節目を見計らったかのように、その便りは相撲部屋に届けられる。そこにはいつも、息子の体を気遣う優しい言葉と、故郷のたわいない日常が、温かみのある文字で綴られていた。
この日も、荒鷲は勝利を収めた。座布団が乱れ飛ぶ中、無表情を貫きながら花道を引き揚げる。大関という地位は、勝って当たり前。一つでも負ければ、たちまち非難の的となる。歓声の中にいても、彼は常に孤独だった。支度部屋の喧騒の中で、彼はそっと目を閉じ、九州の空の下で暮らす母の顔を思い浮かべる。早く会いたい。その想いを胸の奥に押し込め、彼は次の戦いに備えるのだった。
第一章:母からの便り
「大関、お疲れ様です。お手紙、届いております」
厳しい稽古を終え、湯気を立てながら風呂から上がると、若い付け人が恭しく封筒を差し出した。差出人の名はない。しかし、荒鷲にはそれが誰からのものか、すぐにわかった。九州の母から届く手紙は、いつも決まって同じ、淡い水色の封筒だった。
「おう、ご苦労」
短く応え、自室に戻る。四股、鉄砲、すり足、そして若手力士を相手にした何十番もの申し合い。酷使した体は鉛のように重く、あちこちが悲鳴を上げていた。しかし、その手紙を目にした瞬間、心の奥底からじんわりと温かいものが込み上げてくるのを感じた。
どっかりと座椅子に腰を下ろし、汗ばんだ指で丁寧に封を切る。中から現れたのは、見慣れた便箋。そこには、少し丸みを帯びた、優しく、そしてどこか懐かしい母の文字が並んでいた。
『健吾へ
元気にしとりますか。テレビで毎日、あんたの相撲ば見とるよ。勝った日は、近所の人たちも自分のことのように喜んでくれとります。じゃけど、あんまり無理はしたらいかんよ。怪我だけは気をつけて、自分の体ば一番に大事にしなさい。
こっちは、すっかり秋めいてきました。庭の柿も、今年はよか色になっとります。あんたが子供の頃、よう登って叱られた柿の木も、今ではこんまい(小さい)実しかつけんごとなってしもうた。
親方様はお元気ですか。厳しい方じゃと聞いとるけど、あんたのことば一番に考えとってくれる、父親代わりのようなお人じゃろうけん。くれぐれも失礼のないように、しっかり言うことば聞きなさい。
場所が終わったら、少しは休めるとやろうか。何もいらんけん、元気な顔ば見せに帰ってきんしゃい。それが一番の親孝行じゃけんね。
母より』
荒鷲は、一字一句を噛みしめるように、ゆっくりと手紙を読んだ。派手な言葉は何一つない。ただ、息子の身を案じ、その帰りをおとなしく待つ母の愛情が、行間から溢れ出していた。文字が読めなかったはずの母が、いつの間にかこんなに綺麗な字を書けるようになったのだろう。その努力を思うと、胸が熱くなった。
この手紙が、どれほど彼の力になっていることか。勝負の世界は非情だ。昨日まで称賛の声を浴びせていた者たちが、一つの負けで手のひらを返す。信じられるのは、己の力と、そしてどんな時も変わらず自分を信じてくれる家族の存在だけだ。この手紙は、荒鷲にとって、土俵という戦場で戦うための鎧であり、傷ついた心を癒やすための薬でもあった。
手紙の最後に書かれていた親方のことに、ふと思いを馳せる。
親方・鬼龍山。現役時代は「鬼」と恐れられた元横綱で、引退後もその厳格さで知られていた。荒鷲をスカウトし、一から相撲を叩き込んだ大恩人だ。その指導は常に厳しく、手加減というものを知らなかった。しかし、その厳しさの奥に、弟子への深い愛情があることを荒鷲は知っていた。まるで不器用な父親のように。
その親方が、半年ほど前から病で入院していた。病名は「糖尿病の悪化」と聞かされている。部屋の力士たちには、「稽古に集中せい。ワシのことは気にするな。見舞いは誰であろうと固く禁ずる」と厳しい言葉で言い渡してあった。部屋の運営は兄弟子である部屋付きの親方が代行していたが、やはり鬼龍山親方の不在は、部屋全体の空気をどこか重くしていた。
「親方も、早く元気になってもらわんとな…」
荒鷲は手紙を丁寧に折り畳むと、大切に引き出しの奥にしまった。そして、再び稽古まわしを締め直す。母の想いと、親方の教えを胸に、明日もまた、彼は土俵に上がるのだ。
第二章:異変
九月場所は、荒鷲にとって正念場だった。先場所、負け越したため、今場所は角番。つまり、八番勝てなければ大関から陥落するという、崖っぷちの状況にあった。
初日から、動きに硬さが見られた。焦りが力みを生み、力みが隙を作る。格下の相手に思わぬ苦戦を強いられ、中日を終えて四勝四敗。星取りは五分に戻したものの、その相撲内容には、かつての圧倒的な強さの面影はなかった。新聞には「荒鷲、衰えか」「大関陥落の危機」といった辛辣な見出しが躍る。
そして、九日目の取組を終えた夜のことだった。
その日も、なんとか白星をもぎ取ったものの、内容は決して褒められたものではなかった。土俵際の危うい逆転劇。館内は沸いたが、荒鷲自身の心は冷え切っていた。支度部屋の鏡に映る自分の顔は、疲労と焦燥で歪んでいるように見えた。
その時、いつものように付け人がそっと手紙を差し出した。淡い水色の封筒。母からの便りだ。いつもなら、この手紙が乾いた心に潤いを与えてくれるはずだった。しかし、その日の彼は、封筒を受け取る手に力が入らなかった。
重い体を引きずり、自室に戻る。ため息と共にかさりと封を切った。便箋を取り出した瞬間、荒鷲は息を呑んだ。
そこに並んでいたのは、見慣れた母の文字ではなかった。
一文字一文字が、まるで嵐の中の小舟のように震え、傾ぎ、今にも崩れ落ちそうだった。とめ、はね、はらいは乱れ、力の抜けた線は便箋の上を這うミミズのようにも見える。これまで彼が受け取ってきた、あの温かく、整った文字とは似ても似つかない、荒れ果てた文字の羅列。
『け…んご…へ
げんき…にしとるか…
すもう…みとるよ…
からだ…だいじに…』
内容は、いつもと同じように息子を気遣うものだった。しかし、そのたどたどしく、途切れ途切れの言葉と、何よりその禍々しいまでの筆跡が、荒鷲の心臓を鷲掴みにした。
「どうしたんだ…これ…」
声が震えた。母の身に、何か大変なことが起きているのではないか。病気か?それとも、事故か?悪い想像ばかりが、次から次へと頭の中を駆け巡る。手紙を持つ手が、わなわなと震えた。
すぐにでも故郷に電話をかけたかった。しかし、母は電話を持っていなかった。連絡手段は、この手紙だけだ。どうすることもできない無力感が、荒鷲を打ちのめす。
その夜、彼は一睡もできなかった。目を閉じれば、あの乱れた文字がまぶたの裏に焼き付いて離れない。それはまるで、遠い故郷で苦しんでいる母の、声なき悲鳴のように思えた。
翌日の土俵。荒鷲の心は、ここにあらずだった。集中力を欠いた相撲は、ただの上背の大きいだけの案山子と同じだ。立ち合い、あっけなく踏み込みを許し、なすすべもなく土俵の外に転がされた。
五敗目。
ざわめく館内。落胆のため息。その全てが、遠い世界の出来事のように感じられた。彼の頭の中は、ただ一つ。
「母さんは、無事なのか…」
その不安だけが、渦巻いていた。
第三章:禁じられた見舞い
負けが込むにつれて、荒鷲の焦りは頂点に達していた。残り五日で、あと三番勝たなければ大関の地位を失う。しかし、彼の心は土俵から完全に離れてしまっていた。稽古にも身が入らず、部屋の空気は重く沈んでいる。兄弟子や若い衆も、声をかけるのをためらうほどだった。
あの手紙以来、母からの便りは途絶えていた。それが、かえって彼の不安を煽った。もう手紙を書くことすらできない状態なのではないか。最悪の事態ばかりが頭をよぎり、夜も眠れず、食事も喉を通らない日が続いた。
そんな憔悴しきった彼の脳裏に、ふと、入院している親方の顔が浮かんだ。
鬼龍山親方。病名は糖尿病の悪化。半年に及ぶ長期入院。そして、誰に対しても固く禁じられた見舞い。
これまで別々の出来事として捉えていた母の異変と親方の入院が、荒鷲の心の中で不意に結びついた。なぜ結びついたのか、論理的な説明はできない。ただ、胸騒ぎがする。いてもたってもいられないほどの、強い衝動。
「親方に、会いに行かなければ」
そう思った瞬間、彼はもう止まれなかった。場所中であること、見舞いが禁じられていること、そんなことは全て頭から吹き飛んでいた。何かに導かれるように、彼は立ち上がった。
部屋の誰にも告げず、ジャージ姿のまま裏口からそっと抜け出す。大通りでタクシーを拾い、震える声で病院の名を告げた。
「親方…頼むから、無事でいてくれ…」
車窓を流れる景色を見ながら、彼は祈るように呟いていた。母のことと親方のことが、ごちゃ混ぜになって頭の中を駆け巡る。
病院に着くと、彼は受付も無視して病棟へと続く廊下を突き進んだ。ナースステーションで看護師が驚きの声を上げる。
「あら、荒鷲関!どうしてここに…親方のお見舞いは…」
「親方の部屋はどこですか!」
制止しようとする看護師の言葉を遮り、荒鷲は尋ねた。その鬼気迫る表情に気圧されたのか、看護師は戸惑いながらも、廊下の突き当たりの個室を指さした。
礼を言う間もなく、彼はそのドアに向かって走った。
『鬼龍山 剛』
プレートに書かれた名前を確認し、一度、大きく息を吸う。そして、ためらうことなくドアノブに手をかけ、勢いよく開いた。
「親方!」
しかし、そこに広がっていた光景に、荒鷲は言葉を失い、立ち尽くすことになった。
第四章:悟りと涙
病室は、消毒液の匂いが満ちていた。窓から差し込む西日が、部屋の隅々までを白く照らし出している。
ベッドの上に横たわっていたのは、荒鷲の知る鬼龍山親方の姿ではなかった。かつて「鬼」と恐れられた鋼のような肉体は見る影もなく、骨と皮ばかりに痩せこけていた。頬はこけ、目は落ち窪み、点滴の管が無数に繋がれた腕は、枯れ枝のように細い。それは、糖尿病で療養している人間の姿ではなかった。死の影が、色濃くその顔にまとわりついていた。
「……親方…?」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。
その時、彼の視線は、ベッドの脇に置かれた小さなサイドテーブルに釘付けになった。
そこには、見覚えのある、淡い水色の封筒と便箋の束が置かれていた。そして、その一番上には、書きかけの一枚の便箋。
震える手で、それを手に取る。
そこに書かれていたのは、あの、嵐の中で木の葉が舞うような、乱れきった文字だった。
『…さいごまで…ちからを…だし…きれ…』
その文字を見た瞬間、雷に打たれたような衝撃が荒鷲の全身を貫いた。
全ての点が、一本の線で繋がった。
母からの手紙。あの温かく、優しい文字。そして、先日届いた、あの乱れた文字。その全てを書いていたのは、目の前で静かに横たわる、この人だったのだ。
故郷の母は、昔から字の読み書きが苦手だった。それを知っていた親方が、母親に代わって手紙を書いてくれていたのだ。おそらく、場所ごとに故郷の母に電話をかけ、その言葉を便箋に綴り、荒鷲に送ってくれていたのだろう。息子の心の支えが何であるかを知り、それを守るために。不器用な愛情表現しかできないこの人が、誰にも知られず、ずっと「母親」を演じ続けてくれていたのだ。
そして、病。
親方を蝕んでいたのは、糖尿病などではなかった。最末期の、癌。病魔がその体を蝕み、ペンを握る力さえ奪っていく中で、それでも親方は手紙を書き続けてくれた。だから、文字は乱れた。力が、入らなくなっていったのだ。
「……あ…ああ……」
荒鷲の口から、声にならない嗚咽が漏れた。膝が、がくりと折れる。彼はその場に崩れ落ち、痩せ衰えた親方の手を見つめた。節くれだった、大きな手。この手で何度も殴られ、この手で何度も土俵に叩きつけられた。そして、この手で、母親の温もりを届けてくれていた。
「馬鹿やろーっ!!」
こらえきれなくなった感情が、絶叫となって病室に響き渡った。涙が、堰を切ったように頬を伝い、床に大きな染みを作っていく。土俵の上では決して見せてはならない、男の涙。しかし、今はもう、止めることができなかった。
「なんで…なんで言わねえんだよ!水臭えじゃねえか…親方…!」
その声に反応したかのように、親方のまぶたが、かすかに動いた。薄く開かれた瞳が、ぼんやりと荒鷲の姿を捉える。酸素マスクの下で、唇がわずかに動いた。
「…ばか…やろ…」
か細く、しかし、芯のある声だった。
「…おとこは…おやの…しにめにだけ…なくもんだ…」
親方は、最後の力を振り絞るように、言葉を続けた。
「…さいごまで…ちからを…だしきれ…」
それが、親方の最後の言葉だった。
言い終えると、まるで役目を終えたかのように、その瞳からすうっと光が消えていった。繋がれた心電図のモニターが、生命の終わりを告げる、無機質な音を長く響かせ始めた。
荒鷲は、動けなかった。ただ、もう温もりのなくなった親方の手を握りしめ、声を殺して泣き続けた。
もう一人の父が、逝った。




