Ep1. 誘惑の微笑
冬の夜中、玲子はトートバッグを肩にかけ、いつも通りの道を歩いていた。
手袋越しの風は冷たく、仕事の疲れが指先までじんと染みる。
彼女は鼻先を赤くしながら、マフラーを巻き直した。
街灯の白い光が寒々しく路面を照らし、行きかう車のエンジン音だけが規則正しく響いている。
それらはすべて、変わらない彼女の日常の風景だ。
――ただ、胸の奥だけが、妙に高揚していた。
落ち着いて、と自分に言い聞かせるように歩き続ける。
家に帰れば温かい部屋と、晩ご飯が待っている。
それなのに、今夜に限って足は繁華街の明かりへ向かっていた。
*
都会の夜、涼と優人はいつものバーの片隅で向かい合っていた。
周囲の喧騒をよそに、二人の間には妙な緊張が漂っている。
涼は琥珀色の液体を揺らしながら、端正な顔に薄く笑みを浮かべた。
「……あの女、落ちたよ。今は俺の部屋だ。――どうする? お前も“ゲーム”に参加するか?」
優人は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、穏やかな声で返した。
「もちろん。どれだけ“持つ”か、楽しみですよ」
二人は軽くグラスを合わせる。
その仕草はごく普通なのに、口にしている内容だけが明らかにおかしかった。
「過去の中で一番粘ったのが……二時間、だったか?」
「ええ。あれ以上は、誰も無理でしたね」
静かに笑い合うその表情には、悪意も罪悪感も欠片ほどもない。
ただ夜の喧騒だけが、彼らの不穏な会話をかき消すように流れていた。
涼は小さく伸びをして、いつもの冷たい笑みを浮かべた。
「次のターゲットも探しておくか。反応次第でどう動くか考えるのが、実に面白い」
優人も頷く。
「そうですね。ゲームより、過程のほうが楽しみで仕方ありません」
夜のネオンに照らされた二人の顔には、底知れぬ冷徹さが潜んでいた。
そのとき、バーのガラスドアが開く音。
一人の女が静かに入ってきた。
長い黒髪は艶やかで、落ち着いた雰囲気を漂わせる。
控えめな笑みを浮かべ、まるでこの空間に自然に溶け込むように振る舞っていた。
涼は小さく声を潜め、優人に囁く。
「あれにするか?」
優人は目を細め、低く頷く。
「ええ、僕が声をかけます」
女はカウンターに腰掛け、静かに注文をする。
バーテンダーに向ける笑みは柔らかく、この場の空気に馴染んでいた。
優人は微笑みを崩さず、軽く声をかけた。
「こんばんは。お一人ですか?」
「こんばんは。はい、今日は少し、一人でゆっくりしようと思って……」
静かで柔らかな声。まるで、この空間の一部であるかのように。
優人は心の中で呟いた。
(……簡単に落とせそうだ)
一方、涼は微かに眉を上げ、女を観察し、心の中で笑った。
心の奥で、冷たい笑みが忍び込む。
(こういう女に限って、手強いことが多いんだよな)
「よかったら、あちらで一緒に飲みながら話しませんか?
僕は優人といいます。あちらにいるのが涼です」
玲子は自然な笑みを返し、カクテルを手に優人に向き直った。
「はい。私でよかったら。あ、玲子といいます」
視線を交わすだけで、二人に動じない落ち着きが感じられた。
「最近、雨が多いですよね」
玲子が天気の話題を軽く振る。
「そうですね、外出も億劫になります」
涼は表面上は同意しているが、心の中ではどう動かすかを計算していた。
「出かけるなら、やっぱり晴れた日に、お気に入りの場所に行きたいですよね」
玲子は軽く微笑み、何気ない仕草で涼の注意を引く。
カウンター越しに三人の視線が交錯する。
表向きは日常の会話だが、二人の心の奥ではすでに小さな駆け引きが始まっていた。
ジャズの低音が静かに流れる中、夜の空気は張り詰めている。
玲子はグラスをゆっくり回しながら、話題を切り変えた。
「そういえば、週末は友達とよく別荘に行くんです。
のんびり読書したり、会話を楽しんだり……」
その言葉に、涼と優人の目が少し光る。無意識の興奮が心の奥を駆け抜けた。
――格好の“餌”だ――
優人は笑みを浮かべ、玲子に声をかける。
「別荘ですか。いいですね。もしよかったら、今度、僕たちもご一緒しても……? もちろん、泊まる場所は別で構いません」
玲子は困ったように首を傾げた。
「でも……男性と一緒に行くっていうのは、ちょっと……」
涼はそれに合わせるように、軽く笑みを浮かべて答えた。
「それなら大丈夫だ。玲子さんの友達も一緒に連れてきてもいいし、俺のと優人の妹も誘えば喜ぶだろう。大勢で行くんだし、楽しいはずだ。もちろん、高速代とガソリン代は出すよ」
(……妹なんて、俺も優人もいないけどな)
優人は自然な笑みを浮かべながら、言葉を重ねる。
「僕たちも、久しぶりにゆっくりしたいだけなんです。玲子さんのお気に入りの場所も見てみたいですし」
玲子は微笑み、ゆっくりとグラスを置く。
わずかに頷きながら口を開いた。
「えっと……分かりました。それでは一緒に楽しみましょうか」
付け加えるように、軽やかに言葉を重ねる。
「別荘は十分広いので、ホテルの予約は必要ありませんよ」
言葉を告げると、玲子は微笑みながら立ち上がった。
バーの明かりが温かく揺れる中、その足取りはどこか軽やかだった。
――それから二週間が過ぎ、週末がやってきた。
日常の忙しさの合間を縫うように、三人は再び顔を合わせる。
出発の日、空は澄み渡り、心地よい緊張感が車に向かう足取りを軽くしていた。




