病弱な妹が私のものを欲しがる理由を知ったとき、私は婚約解消を断りました
妹が変わったのは、今年の春のことだった。
ヴァイスフェルト侯爵家の長女として生まれた私——アネリーゼ・フォン・ヴァイスフェルトは、五つ年下の妹ソフィアのことを誰よりも大切に想っていた。
生まれつき体の弱いソフィアは、季節の変わり目には必ず寝込み、社交の場に出ることもほとんどなかった。
幼い頃から私が絵本を読み聞かせ、庭の花を摘んでは枕元に飾り、外の世界の話を聞かせてやった。
ソフィアはいつも頬を薄紅色に染めて、「お姉様、ありがとう」と笑ってくれた。
あの笑顔が、私の宝物だった。
それが変わったのは、春の終わりのことだ。珍しく体調の良い日が続いたソフィアが、貴族家の次女たちが集まるお茶会に招かれた。
初めての社交の場に、妹は目を輝かせて出かけていった。
私は、嬉しかった。外の世界を知ることは、あの子にとってきっと良いことだと信じていた。
お茶会から帰ったソフィアは、少し興奮した様子で自室にこもった。
翌日から、妹は変わり始めた。
「お姉様、そのドレス、私にくださらない?」
「いいわよ」
最初は些細なことだった。私が夜会のために仕立てたばかりの淡い水色のドレスを、ソフィアが欲しいと言った。
社交の場にほとんど出ることのない妹にそのドレスは不要なはずだったが、私は深く考えなかった。妹が気に入ったのなら、と快く譲った。
数日後、ソフィアは私のお気に入りの髪飾りを欲しいと言った。
亡くなった祖母から受け継いだ髪飾り。思い出の品だったが、ソフィアが祖母を慕っていたことも知っていた。
妹の手にある方が祖母も喜ぶかもしれないと、自分に言い聞かせて手渡した。
次は夜会用の宝飾品だった。侯爵家の長女として社交の場で身につけるために揃えたものだ。
夜会に出ることのないソフィアがなぜ欲しがるのか不思議だったが、美しいものに憧れる気持ちは理解できた。一つ、また一つと、妹の手に渡っていった。
夏のある日、ソフィアは私の自室にある机を指差した。
「あの机、私の部屋に移してもらえない? 本を読むときに使いたいの」
これには少し驚いた。物を譲るのとは少し違う。私の部屋の一部を切り取って持っていくようなものだ。
けれど、ベッドの上で本を読むより机に向かう方が体にも良いだろうと考え、使用人に運ばせた。机のなくなった部屋の隅には、不自然な空白が残った。
要求は止まらなかった。次にソフィアが口にしたのは、私の侍女のことだった。
「マリアをこちらに寄越してくれない? あの人、お茶を淹れるのがとても上手でしょう」
マリアは私が子供の頃からそばに仕えてくれた侍女で、私にとっては姉のような存在でもあった。
手放すのは正直つらかったが、病弱な妹のそばに経験豊かな侍女が必要だろうと、自分を納得させた。
一つ譲るたびに、妹の要求は大きくなっていった。ドレスから思い出の品へ。装飾品から家具へ。そして、物から人へ。
秋のある日。ソフィアは私の部屋を訪ね、淡々とした声でこう言った。
「お姉様。お姉様の婚約者を、私にくださいませんか?」
私は、しばらく言葉を失った。
「……ソフィア、何を言っているの」
「ヴィクトール様のことです。お姉様の婚約者を、私にいただきたいの」
ヴィクトール様は、エーベルシュタイン伯爵家の嫡男。半年前に正式に婚約が整った相手だった。
政略的な縁組ではあったが、私は密かに次の手紙を楽しみにするくらいには好意を抱き始めていた。
「考えさせてほしいの」
私がそう言うと、ソフィアは表情を変えずに「わかりました」と頷き、部屋を出ていった。
その夜、私は眠れなかった。
ドレスとは違う。髪飾りとも、宝飾品とも、机とも、侍女とも違う。
婚約者は、私の人生そのものに関わる話だ。侯爵家の長女としての立場、エーベルシュタイン家との関係、そして何より、ヴィクトール様に対して私の中に芽生え始めていた感情。
それらすべてを妹に差し出せと言われて、はいとは言えなかった。
けれど、同時に妹の顔が浮かぶ。
病弱な体を抱え、ベッドの上で天井を見つめる日々。社交界に出ることもできず、同年代の友人もほとんどいない。
私が当たり前に享受しているものの多くが、ソフィアの手には届かない。
私は、恵まれている。妹は恵まれていない。ならば、恵まれた姉が譲るべきなのではないか。
翌朝、母に呼ばれた。
「アネリーゼ。ソフィアから話を聞きましたよ」
母は柔らかい声で、しかし有無を言わさぬ調子で言った。
「あの子は体が弱いのですから、少しくらい融通を利かせてあげなさい。あなたならまた別の縁談を見つけられるでしょう。ソフィアにはそれが難しいの」
少しくらい。母にとって婚約者は「少しくらい」のことなのだろうか。
いや、母はいつもそうだった。ソフィアが欲しいと言えば私が譲る。いつの間に、それがこの家の暗黙の掟のようになっていた。
父に相談しようかとも考えたが、父は領地の経営に忙しく、家庭のことには関心が薄い。娘たちのことは母に任せているというのが父の立場だった。
私は、孤立していた。
数日間、私は考え続けた。朝起きてから夜眠るまで、頭の中はそのことばかりだった。
ヴィクトール様からの手紙が届いたが、読む勇気が出なかった。
今の私が読めば、その言葉の一つ一つが手放すことの痛みを深くするだけだとわかっていたから。
ある夜、私は暗い部屋の中で天井を見つめながら、ふと思った。
譲ってしまえば、楽になるのかもしれない。
ソフィアは、喜ぶだろう。母も安堵するだろう。私は、妹思いの優しい姉のままでいられる。
ヴィクトール様には申し訳ないが、相手がヴァイスフェルト侯爵家の娘であることに変わりはない。政略的には問題ないかもしれない。
私の心は、一度、傾いた。
けれど、翌朝目が覚めたとき、胸の奥に鈍い痛みがあった。それは諦めの痛みではなく、自分自身を裏切ることへの痛みだった。
私はこのまま、妹に何もかも差し出して、最後に何が残るのだろう。
その問いに答えが出ないまま、私はソフィアの変貌の原因を辿ることにした。
妹が欲しがりな妹に変わったのはあのお茶会の後だ。ならば、あのお茶会で何があったのかを知る必要がある。
手がかりは意外なところから見つかった。ソフィアの侍女——元は私の侍女だったマリアが、廊下で私を呼び止めたのだ。
「アネリーゼお嬢様、少しお時間をいただけますか? ソフィアお嬢様のことで、お伝えしなければならないことがございます」
マリアが語ったのは、あのお茶会の出来事だった。
集まっていたのは各家の次女たち。その中には、妹のように病弱な子も、そうでない子もいた。しかし、一つ共通点があった。
彼女たちにとっては姉から譲ってもらったのかもしれないが、全員が姉のものを奪い取った経験を持っていたことだった。
ある子は、姉の婚約者を横取りした。ある子は、姉の社交界での地位を奪った。ある子は病弱であることを武器に周囲の同情を集め、姉を悪者に仕立て上げた。
そして、彼女たちはそれを誇らしげに語り合っていた。
「お姉様から伯爵家の嫡男を譲っていただいたの。だって私の方が体が弱いのだから、当然でしょう?」
「私なんて、お姉様の侍女も宝飾品も全部もらったわ。次は何をいただこうかしら」
笑い声。拍手。賞賛。
ソフィアはその光景を目の当たりにした。外の世界をほとんど知らない妹にとって、初めて出会った同じ次女である子たちは、鮮烈だったのだろう。
彼女たちは生き生きとしていて、自信に満ちていて、次女であることや病弱であることを嘆くのではなく利用していた。
おそらく、妹はそれを「普通」だと勘違いしているだろう。
次女とはそういうものなのだと。姉のものを欲しがり、手に入れることが、次女としての正しい振る舞いなのだと。
マリアは、続けた。
「ソフィアお嬢様はお茶会から帰られた後、何度もおっしゃっていました。『私もそうしなくては』と」
私は、目を閉じた。そうか。そういうことだったのか。
ソフィアは、私を憎んでいたのではない。私のものが本当に欲しかったわけでもない。ただ、欲しがりな妹が「普通」だと勘違いしてしまって、そうすべきだと信じ込んでしまっただけだった。
しかし、マリアの話にはまだ続きがあった。
「それからもう一つ、お耳に入れたいことが。あのお茶会の方々の……お姉様方のことでございます」
マリアは、言いにくそうに、しかし意を決したように語った。マリアの元同僚や知人の侍女たちから伝え聞いた話。
お茶会に参加していた次女たちの姉——つまり、私と同じような奪われた側の長女たちのその後の話だった。
婚約者を妹に奪われた長女は、その後どこからも縁談が来なくなった。
妹に婚約者を譲るような家の娘という評判が広まり、社交界で孤立したという。
地位を奪われた長女は、家の中での居場所を失い、遠方の親戚のもとへ送られた。事実上の追放だった。
侍女や宝飾品や家具などを一つずつ奪われていった長女は、最後には何も持たない存在になり、使用人のような暮らしをしていると聞いた。
奪う側は、笑っていた。けれど、奪われた側は壊れていた。
私の背筋が冷たくなった。ソフィアがやろうとしていることの先にあるのは、あの長女たちと同じ場所だ。
そしてソフィアは、そのことに気づいていない。彼女は、姉たちの末路を知らないのだ。
お茶会で語られたのは次女たちの成功譚だけで、姉たちのその後は誰も語らなかった。
私の悩みは、そこで形を変えた。
婚約者を譲るか否か。そんな問いはもうどうでもよかった。答えは最初から決まっていた。譲れるわけがない。
問題はそこではない。このまま放っておけば、ソフィアは、普通を勘違いしたまま大人になる。奪うことが正しいと信じたまま生きていく。
このままだと、いずれ私も奪われた姉たちのように壊れていくだろう。私の人生が勘違いで、欲しがりな妹が「普通」だと思っているソフィアに壊されるのは、嫌だ。
そして、いつか自分が壊してきたものの重さに気づいたとき、その重さに妹は耐えられるだろうか。
私が守るべきは、婚約でも侯爵家の名誉でもない。私自身と妹そのものだ。
私は、ソフィアの部屋を訪ねた。
秋の午後だった。窓から差し込む光が妹の部屋を琥珀色に染めていた。
ソフィアはベッドに体を起こし、膝の上に本を開いていた。以前、机を譲ったのに、使っていなかった。
私が入ると、少し身構えるような表情を見せた。以前はなかった表情だ。
「ソフィア。婚約解消の件だけれど」
「はい」
妹の声は平坦だった。答えを待つ目には、期待と、どこか怯えのようなものが混じっていた。
「お断りします。ヴィクトール様との婚約を解消するつもりはありません」
ソフィアの目が見開かれた。それから、すぐに表情が険しくなった。
「どうして? お姉様は私が病弱だから可哀想だと思わないの。皆さんだってそうしているのに」
「皆さん?」
「お茶会のお友達よ。みんなお姉様から色々いただいているわ。婚約者だって、もっと大きなものだって。それが普通なの。次女はそうするものなの」
ソフィアの声は震えていた。自信に満ちた主張のように見せかけて、誰かの言葉を必死に繰り返しているだけだった。
私は、ベッドの傍らの椅子に腰を下ろした。
「ソフィア、一つ聞いてもいい?」
「……何?」
「そのお茶会のお友達のお姉様たちが、今どうしているか知っている?」
ソフィアは、黙った。その沈黙が答えだった。知らないのだ。
私は、静かに話した。婚約者を奪われた長女がどうなったか。地位を奪われた長女がどうなったか。一つずつすべてを奪われた長女がどうなったか。
マリアから聞いた話を、誇張もなく、感情を込めすぎることもなく、ただ事実として伝えた。
話しながら、私は妹の顔を見ていた。
ソフィアの表情が少しずつ変わっていくのがわかった。最初は反発。そんなはずはないと言いたげな目。次に困惑。そして、次第に青ざめていく顔色。
「……嘘よ」
「嘘ではないわ。マリアが調べてくれたの」
「でも、お茶会ではそんな話……誰も……」
「するわけがないでしょう。自分が姉を壊したという自慢をお茶会で語る人がいると思う?」
ソフィアの唇が震えた。膝の上の本を落としたが、拾おうとしなかった。
「ソフィア」
私は、妹の手を取った。薄くて冷たい病弱な妹の手。この手が何かを奪うために伸ばされるなんて、本来はありえないことだった。
「あなたがあのお茶会で見たものは、次女の正しい姿なんかじゃない。あの人たちが姉から奪ったものの裏側には、壊れた姉たちがいたの。あなたは私をそこに送ろうとしていたのよ」
「私は……そんなつもりじゃ……」
ソフィアの目に涙が浮かんだ。
「わかっているわ。あなたは、そうすべきだと思い込んでいただけ。外の世界を知らないあなたにとって、あのお茶会が世界のすべてに見えたのでしょう」
妹の手が、私の手を握り返してきた。弱々しく、けれど必死な力で。
「……お姉様。私、お姉様のことが嫌いなわけじゃなかったの」
「知っているわ」
「でも皆があんなに楽しそうに話しているから、私もそうしなきゃいけないと思って。病弱な次女はそうやって生きるものだって、皆が当たり前みたいに言うから」
ソフィアの声は涙で途切れ途切れになっていた。
「私、お姉様みたいに社交界にも出られないし、何もできないし。あのお茶会で初めて、自分にも何かできるんだって思えたの。姉のものをもらうことなら、病弱な私にもできるって」
私の胸が締めつけられた。ソフィアが求めていたのは、私のドレスでも、髪飾りでも、宝飾品でも、机でも、侍女でも、婚約者でもなかった。
自分にも何かができるという実感だった。病弱な体に閉じ込められた妹が、初めて見つけた自分にもできることが、たまたま姉から奪うことだっただけだ。
「ソフィア。あなたが欲しかったのは、私のものじゃないわ」
「……え?」
「あなたが欲しかったのは、自分にも何かができるという感覚でしょう。自分にも生きている意味があるって、思いたかっただけでしょう」
妹の涙が頬を伝って、掛け布団に落ちた。一滴、二滴。それから堰を切ったように、泣き崩れた。
「……ごめんなさい、お姉様」
ソフィアが泣き崩れるのを、私は黙って見ていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい、お姉様」
それから、そっと妹を抱きしめた。病弱な体は軽く、壊れそうなほど華奢だった。
この体で精一杯背伸びをして、間違った方向に手を伸ばしていた妹が、愛おしかった。
「ドレスも……髪飾りも……全部お返しします。婚約者のことも、忘れて。ごめんなさい。ごめんなさい、お姉様」
「ドレスと髪飾りはいいわ。あなたに似合っていたもの」
「……お姉様」
「でもマリアは返してもらうわね。あの人がいないとお茶が美味しくないの」
少しだけ冗談めかして言うと、ソフィアは涙の中で小さく笑った。
ひどくぎこちない笑顔だったけれど、あのお茶会に行く前の私の知っている妹の笑い方だった。
しばらく抱きしめたまま、私は言った。
「ソフィア。あなたに何もできないなんて嘘よ。ただ、何ができるかをまだ見つけていないだけ」
「……見つかるかしら」
「一緒に探しましょう。奪うのではない方法で、あなた自身のものを」
妹は、私の腕の中で小さく頷いた。
窓の外では、秋の陽が少し傾いて、部屋の琥珀色が深くなっていた。
問題がすべて解決したわけではない。
あのお茶会の次女たちとの関係をどうするか。母の考えをどう変えるか。取り戻さなければならないものも、向き合わなければならないことも、まだたくさんある。
けれど、今は腕の中にある妹の温もりだけで十分だった。
私はソフィアの髪をそっと撫でながら、心の中で思った。
私は、この子の姉であることをやめない。この子が何度間違えても、何度道を逸れても、そのたびに手を引いて連れ戻す。
それが姉というものだ。少なくとも、私にとっては。




