病弱な妹を言い訳にし、婚約者を蔑ろにした侯爵は、社交界に背を向けられる
クラウスが侯爵になったのは、七歳の時だった。
ある朝、使用人に起こされた。いつもと違う顔をしていた。それから大人たちが何人も部屋に来て、何かを説明した。
父と母が馬車の事故で亡くなったのだと、後になってわかった。
クラウスが理解できたのは、もう父と母が夕食の席にいないということだけだった。
屋敷は慌ただしくなった。知らない大人たちが出入りし、書類が積み上がり、誰もがクラウスの頭越しに話をした。
やがて、父の弟である叔父が現れた。後見人になると言った。
「心配はいらない。私が全て面倒を見よう」
叔父は、事務的な人だった。クラウスの頭を撫でることもなく、目を見て話すこともほとんどなく、ただ効率よく家の実務を回した。
書類に目を通し、使用人に指示を出し、社交の場で侯爵家の名前を守った。
クラウスは、何もしなくてよかった。何も求められなかった。侯爵という爵位だけが自分のもので、中身は叔父が全て担っていた。
妹のリゼットは、その時まだ二歳だった。おそらく何もわからなかっただろう。クラウスは、生まれつき体が弱いと聞いていた。
使用人たちが世話をしていた。クラウスに何かできるわけでもなかった。二歳の病弱な妹に、七歳の自分が何をしてやれるのか。わからないまま、考えることをやめた。
それが、クラウスの最初の逃避だった。
◇
クラウスの七歳から十八歳までの記憶は、驚くほど薄い。
勉強をした。剣術を習った。礼儀作法を叩き込まれた。侯爵として最低限の教養を身につけた。
しかしそれらは全て、叔父が組んだ予定に従っていただけだった。
自分で何かを選んだ記憶がない。自分で何かを望んだ記憶もない。
リゼットの部屋を訪ねたことはあっただろうか。あったかもしれない。なかったかもしれない。
覚えていないということは、心に残るような時間ではなかったということだ。
妹は病弱で、いつも部屋にいた。使用人たちがよく世話をしていた。
クラウスが何かをする必要はなかった。必要がなければ動かない。それがクラウスの生き方になっていた。
誰もそれを咎めなかった。叔父は事務的に家を回すだけで、クラウスの人間性に関心はなかった。使用人たちは、主人に意見する立場にはなかった。
そうして、何にも向き合わない少年が、何にも向き合わない青年になった。
◇
十八歳になる少し前、叔父がフィリーネとの婚約を整えた。
侯爵家の令嬢で、社交界での評判も良い。家格としても申し分のない相手だと叔父は言った。
クラウスに異論はなかった。異論を持つほど、何かを考えていなかった。叔父の指示に従った方が楽であるから。
「よい縁だ。大切にしなさい」
叔父は、そう言い残して去った。十八歳になり、後見の必要がなくなったからだ。引き継ぎは事務的に行われ、別れの言葉もほとんどなかった。
クラウスは自由になった。
もう予定を組んでくれる人はいない。叱ってくれる人もいない。正してくれる人もいない。
書斎に積まれた書類も、社交の招待状も、全て自分で判断しなければならない。
その重さに、クラウスは最初の日から負けていた。
結局、叔父がやっていたことを、今度は使用人たちに任せた。
彼らは、有能だった。しかし叔父と違って、使用人は主人に意見する立場にない。
クラウスが何をしようと、「かしこまりました」と頭を下げるだけだった。
咎める者のいないことは、クラウスをどこまでも甘やかした。
◇
クラウスがフィリーネと初めて会った時、彼女は微笑んでいた。
聡明で、品があり、気遣いのできる人だった。社交の場で隣に立つと、周囲の目が柔らかくなるのがわかった。
クラウスが何も言わなくても、彼女が場を整えてくれた。
それが、クラウスにとって重かった。
彼女の隣に立つと、自分が空洞であることを思い知らされた。
フィリーネは、誠実に向き合おうとしてくれている。なのに、自分には返せるものが何もない。
自分で選んだ婚約ではない。自分で望んだ関係ではない。ただ叔父が整えた枠の中に、自分が収まっているだけだ。
婚約から三ヶ月が経った頃、最初のお茶会を断った。
「妹の体調が優れませんので」
口にしてみると、驚くほど簡単だった。誰も疑わなかった。
当時の社交界には、病弱な身内を蔑ろにした者たちの醜聞が影を落としていた。
病弱な妹を蔑ろにした貴族の話。瀕死の長女を放置して次女の婚約パーティーを開いた家の話。姉の婚約者を奪った挙げ句、姉が瀕死の時に婚約パーティーを開いた者の話。
そうした醜聞が社交界で語り継がれるうちに、病弱な身内を大切にすべきという空気が強く根づいていた。
かつてならば「婚約者を蔑ろにするな」と咎める声が上がっただろう。
しかし今、病弱な妹の看病を理由にされれば、それを非難すること自体が憚られた。
非難すれば、病弱な者を軽んじていると見なされかねない。
クラウスは、そんな社会情勢を知らなかった。知らないまま、その空気に守られていた。
妹思いの侯爵。そう思ってもらえるなら、これほど都合の良いことはなかった。
クラウスは、リゼットの部屋には行かなかった。看病する気はなかった。ただ、社交という重さから逃げるための口実が必要だっただけだ。
◇
最初は罪悪感はあっただろうが、半年、一年と時が経つにつれ、罪悪感は薄れていった。
クラウスは、夜会を断った。舞踏会も断った。季節ごとのお茶会も、観劇の誘いも、全て同じ理由で。妹の体調が。妹の看病が。
フィリーネが一人で社交の場に立っていることは知っていた。笑顔で周囲に「あの方は妹思いなので」と説明していることも知っていた。
クラウスは、それを聞いて何も感じなかったわけではない。胸の奥がかすかに痛んだ。
しかしその痛みに向き合うことは、フィリーネに向き合うことと同じだった。だから痛みごと、目を逸らした。
フィリーネが会ったこともない妹のリゼットに見舞いの品を贈っていることも知っていた。
彼女の誠実さは、クラウスにとって眩しすぎた。眩しいものを見続けると目が痛む。
だから、見ないようにする。それがクラウスのやり方だった。
リゼットの体調が良い日にも、クラウスは出かけなかった。
もはや、妹の体調など確認すらしていなかった。言い訳は最初から破綻していた。
ただ、それを指摘する者がいなかっただけだ。
◇
婚約パーティーの招待状をフィリーネが準備しているという報告を受けた時、クラウスの中で何かが固まった。
行かなければならない。今度こそ。婚約パーティーだけは。
そう思ったのは一瞬だけだった。次の瞬間には、便箋を取り出していた。
『妹のリゼットの体調が思わしくなく、婚約パーティーへの出席が叶いません。申し訳ありませんが——』
一ヶ月も先の予定を、妹の体調で断る。書きながら、自分でも言い訳として成立していないことはわかっていた。わかっていて、筆を止められなかった。
止めてくれる人は、もういなかった。
◇
翌日、フィリーネが屋敷を訪れた。
応接室で向かい合った時、彼女の表情は穏やかだった。
怒りも、悲しみも、表面には出ていなかった。その静けさが、かえってクラウスを追い詰めた。
「婚約を、解消していただきたいのです」
クラウスの思考が止まった。予想していなかったわけではない。ただ、こんなに早く来るとは思っていなかった。
「……急な話だな」
「急ではないと思います」
フィリーネは穏やかに、揺るぎない声で話し始めた。お茶会も、夜会も、舞踏会も、ずっと一人で待っていたこと。リゼットの体調が良い時も来なかったこと。
「あなたは私のことが好きではないのでしょう」
否定できなかった。好きではないというより、好きかどうかすら考えたことがなかった。
考えることから逃げ続けていた。
「……君を、傷つけるつもりはなかった」
「ええ、わかっています。あなたは優しい方ですから。傷つけるつもりもなければ、向き合うつもりもなかった」
その言葉が、深く刺さった。向き合うつもりもなかった。それは紛れもない事実だった。
「招待状は全て回収しました。どなたにも届いておりません。ご心配なく」
クラウスは、恥ずかしかった。自分の後始末を、自分が蔑ろにした人がしてくれていた。
フィリーネは、一礼して去った。
引き止める言葉は出なかった。出す資格がないことくらい、さすがにわかっていた。
◇
数日後、使用人が伝えてきた。
「リゼット様がお呼びです」
クラウスは、すぐに言った。何度も同じ言葉を発しているから。
「今日は取り込んでいると伝えてくれ」
取り込んでなどいなかった。書斎の椅子に座って、何もしていなかった。
ただ、妹と向き合うこともまた、重かった。
しばらくして、廊下に足音が聞こえた。ゆっくりとした不規則な足音。
それが自分の部屋の前で止まった時、クラウスは意味がわからなかった。
ノックの音。返事をしないでいると、もう一度。
「……誰だ」
「リゼットです」
扉を開けると、妹が立っていた。使用人の肩につかまり、足を震わせて。病弱な妹が、階段を上って、ここまで歩いてきた。
「リゼット? なぜこんなところに……体は」
「お呼びしても来てくださらないので、参りました」
クラウスは、言葉を失った。
椅子に座ったリゼットは、まっすぐにクラウスを見た。その目に、今まで見たことのない光があった。
「婚約が解消されたと聞きました」
「……ああ。互いの合意だ」
「フィリーネ様から申し出たと聞いています」
クラウスは、少しだけ目を逸らした。
「お兄様。私のことを理由に、お茶会や夜会をお休みになっていたのですよね」
「……リゼットの体調が心配で」
「お兄様。私の部屋にいらしたことが何度ありましたか」
クラウスは、答えられなかった。
「幼い頃から、お兄様は私のそばにいなかった。看病なんてしたことがない。私の体調が良い日も悪い日も、お兄様には関係なかった。ただ私の病気が、都合の良い口実だっただけでしょう」
全て事実だった。一つも否定できなかった。
「フィリーネ様は、お兄様が来ない社交の場に一人で立ち続けていました。そしてそのうえで、会ったこともない私にお見舞いを届けてくださった。季節ごとに。お兄様が私の看病を理由に予定を流すごとに。一度も愚痴を書かずに。お兄様が私を理由にして怠けている間、フィリーネ様はお兄様の分まで社交界で頭を下げていたのです。お兄様に、同じことができますか」
できない。そんなことはわかっている。わかっているから目を逸らしてきたのだ。
「もう結構です。お部屋に来てくださらなくても構いません。いつもと同じですから」
リゼットは使用人の肩を借りて立ち上がり、部屋を出ていった。あの足で歩いて来て、あの足で歩いて帰っていった。
久しぶりに咎められたクラウスは一人残された部屋で、長い間、動けなかった。
◇
婚約解消の手続きは穏便に進んだ。
フィリーネが望んだ通り、「双方の合意」という体裁が整えられた。
どちらの家にも傷がつかない形で。最後の最後まで、彼女の方が全てを整えてくれていた。
しかし、社交界は表向きの体裁だけでは動かない。
使用人たちの間で、噂は広がっていた。
婚約者の侯爵令嬢を蔑ろにしていたこと。妹が元気な日にも出かけなかったこと。一ヶ月も先の婚約パーティーを妹の体調で断ったこと。招待状を回収したのは婚約者の方だったということ。
いつの間に、あちこちで噂が出回っていた。
クラウスの名前が社交の場で囁かれる時、以前とは違う色がつくようになった。
侯爵令嬢を蔑ろにした人。 妹を言い訳にして、婚約者を一人にし続けた人。
病弱な身内を大切にすべきだという空気が、かつてはクラウスを守っていた。
しかし今、その同じ空気が刃となってクラウスに向けられていた。妹を大切にしていたのではなく、利用していただけだったと知れ渡った時、社交界の同情は軽蔑に変わった。
クラウスに新しい縁談は持ち込まれなかった。社交の誘いも減った。
クラウスに向けられる視線には、冷たい何かが含まれるようになった。
皮肉なことだった。社交の場から逃げ続けた男は、逃げるまでもなく、社交の場から締め出された。
フィリーネは、怒りをぶつけなかった。リゼットは、もう呼びにも来なかった。
誰も声を荒らげなかった。ただ、静かに去っていった。
向き合おうとしてくれた人たちが差し伸べていた手に、クラウスは一度も触れなかった。
クラウスがそれに気づいた時には、もう手を伸ばせる距離に誰もいなかった。もう遅い。
お読みいただきありがとうございました。
フィリーネ視点の短編『病弱な妹が大事なのはわかるの。でもね、蔑ろにされる側の痛みも、貴方には少しだけ知ってほしかった』とリゼット視点の短編『お兄様は病弱な妹の看病を言い訳にして婚約者を蔑ろにしているのに、私のそばにすら来てくれなかった』も投稿しています。お読みいただけましたら幸いです。
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