再びの潮騒
声と引き換えに人間の姿を取り戻したソラは、言葉のない世界で新たな生活を始めた。母親は、根気強く手話や筆談でソラとのコミュニケーションを図り、ソラもまた、懸命にそれらを覚えようとした。
しかし、時折、ソラの心には、あの広大な海の記憶が鮮やかに蘇ってきた。青い水の感触、魚たちの群れ、そして何よりも、無言の友情を育んだルカの存在。陸での生活は穏やかで温かかったが、ソラの魂の一部は、常に海を求めていた。
ある日、ソラは一人で、かつて海に落ちたあの岩場へと向かった。満潮の時間にはまだ早く、岩場は乾いていた。潮風が髪を撫で、遠くにはキラキラと輝く海面が広がっている。ソラは、岩に腰掛け、じっと海を見つめていた。
ふと、足元の岩の隙間に、見慣れた模様が刻まれていることに気づいた。それは、あの古代の海の民のシンボルだった。まさか、こんなところにも刻まれていたとは。
興味を持ったソラは、シンボルを指でなぞってみた。その瞬間、指先から微かな温かさが広がり、体の中に不思議な感覚が走った。それは、初めて川で感じた、水との繋がりを思い起こさせる感覚だった。
ソラは、いてもたってもいられず、海に向かって駆け出した。波打ち際に足を踏み入れた瞬間、彼女の足は再び、滑らかな尾びれへと形を変えたのだ。驚きと喜びで、ソラの胸は高鳴った。声は出せないけれど、心の底から歓喜の叫びが湧き上がった。
どうやら、あのシンボルには、人間の姿と人魚の姿を、意のままに切り替える力があったらしい。ただし、その力を使うためには、特定の場所、おそらくは海と陸の境界となる場所で、古代のシンボルに触れる必要があるようだ。
再び海中へと戻ったソラは、懐かしい海の世界を自由に泳ぎ回った。色とりどりの魚たちが彼女を歓迎し、サンゴ礁の鮮やかな色彩が目に飛び込んでくる。そして、何よりも会いたかったルカの姿を見つけた時、ソラの喜びは頂点に達した。
ルカは、ソラの姿が変わっていることに一瞬驚いたようだったが、すぐにそれがソラだと気づき、友好的に近づいてきた。言葉はなくても、二匹の間に流れる温かい感情は変わらない。
ソラは、自分がいつでも海に戻れるようになったことを、身振り手振りでルカに伝えた。ルカは、それを理解すると、嬉しそうにソラの周りを旋回した。
こうしてソラは、陸での生活と、海での生活を、自由に行き来できるようになった。昼間は人間の姿で家族や友達と過ごし、夜になると人魚の姿で海に戻り、ルカをはじめとする海の仲間たちと交流する。
言葉を失ったことは悲しかったけれど、ソラは二つの世界を持つ喜びを知った。陸と海、二つの故郷を持つ彼女の冒険は、これからも続いていく。時には、海の仲間たちを陸に連れてきて、騒動を起こしたりするかもしれない。あるいは、陸で得た知識や経験を、海の世界で役立てることもあるだろう。