潮騒のソラ
天真爛漫な少女、ソラは、近所の利根川を庭のように駆け回る、まさにおてんば娘だった。
木登りは得意、泥んこ遊びも厭わない。男の子たちと競い合って、いつも一番にゴールテープを切っていた。
そんなソラには、誰にも言えない秘密があった。時折、川の水に手を浸していると、指先がじんわりと温かくなり、微かに脈打つような感覚を覚えるのだ。それはまるで、水と自分がほんの少しだけ繋がっているような、不思議な感覚だった。
小学五年生の夏休み。家族旅行で訪れた沖縄の海で、ソラの人生は大きく変わる。エメラルドグリーンの海に足を踏み入れた瞬間、今まで感じたことのない強烈な喜びが彼女を包み込んだ。波の音、潮の香り、そして何よりも、どこまでも広がる青い水の感触が、ソラの魂を激しく揺さぶったのだ。
その日、ソラは一人で海岸線を散歩していた。好奇心に駆られ、岩場の先へと進んでいくうちに、足を滑らせて深い海へと落ちてしまった。もがけばもがくほど、体は沈んでいく。息苦しさの中で、ソラの意識は遠のいていった。
「ああ、私、ここで死ぬのかな…」
最後に見たのは、太陽の光を浴びてキラキラと輝く海面だった。
しかし、ソラの意識が再び戻った時、彼女は信じられない光景を目にする。海底の砂地の上で、呼吸をしていたのだ。いや、正確には、陸上での呼吸とは全く違う、もっと深く、もっと心地の良い呼吸だった。
自分の体を見下ろすと、足は一本の滑らかな尾びれに変わっていた。エメラルドグリーンの鱗が、太陽の光を受けて虹色に輝いている。
ソラは、自分が人魚になったのだと悟った。あの時感じた指先の微かな繋がりは、この変化の前兆だったのだろうか。驚きと戸惑い、そして何よりも湧き上がる好奇心に突き動かされ、ソラは恐る恐る尾びれを動かしてみた。
驚くほど滑らかに、彼女の体は水中を滑り出した。目の前には、色とりどりの魚たちが群れをなし、見たこともない美しいサンゴ礁が広がっている。ソラは、自分が全く新しい世界に足を踏み入れたのだと、強く感じた。
おてんば娘ソラの、海での冒険が今、始まったばかりだった。
人魚になったソラは、しばらくの間、海底をさまよっていた。陸上での記憶はまだ鮮明に残っているものの、この新しい体と、目の前に広がる異質な世界に、戸惑いを隠せない。声を出そうとしても、喉から出てくるのは空気ではなく、水の中でぼこぼこと泡立つ音だけだった。
「どうしよう…お母さん、お父さん…」
不安に駆られたソラは、無我夢中で尾びれを動かした。どこへ向かっているのかも分からずにただ泳いでいると、やがて、奇妙な生き物たちが現れ始めた。
光を放つクラゲのような生物、ハサミを振りかざす巨大なカニ、そして、鋭い歯を持つ魚の群れ。陸上では考えられなかった光景が、次々とソラの目に飛び込んできた。
その中で、一匹の小さな魚が、ソラの周りをちょこちょこと泳ぎ回っていた。鮮やかなオレンジ色に黒い縞模様が入ったその魚は、時折、ソラの尾びれをつついてくる。
「なんだろう、この魚…」
言葉は通じないけれど、その魚の仕草は、ソラに何かを伝えようとしているように見えた。警戒しながらも、ソラはその魚の動きをじっと見守った。すると、その魚は、ある方向へと泳ぎ出し、振り返ってはこちらを見ている。
「もしかして、案内してくれているのかな?」
意を決したソラは、その小さな魚の後を追って泳ぎ始めた。魚は、複雑に入り組んだサンゴ礁の中を、迷うことなく進んでいく。ソラは、時折ぶつかりそうになりながらも、必死についていった。
やがて、魚は大きなイソギンチャクのそばで止まった。その周りには、同じ種類の魚たちが数匹、身を寄せ合っている。その様子を見て、ソラはふと、陸で飼っていた熱帯魚の水槽を思い出した。
(ここは、この子たちの家なのかな…)
その時、イソギンチャクの陰から、さらに大きな魚が現れた。体は青く、優雅なヒレを持っている。その魚は、ソラを警戒するようにじっと見つめている。ソラは、自分がこの場所に不法侵入してしまったのではないかと感じ、慌てて後ずさりしようとした。
しかし、その青い魚は、ゆっくりとソラのそばに近づき、頭を少し下げた。そして、口を開き、不思議な音を発した。それは、言葉ではないけれど、どこか優しく、安心させるような響きだった。
ソラは、その音に導かれるように、恐る恐る青い魚に近づいた。言葉は通じなくても、何か温かいものが、二匹の間には確かに存在していた。
おてんば娘ソラの、初めての海の仲間との出会いだった。