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第8話

 眠れない日々というのは、僕に新たな視点を与えた。僕が実際に見聞きして得られる情報というのは、広い世界のごく一部でしかないのだと。それは当たり前のことであり、それを以前まで分かっていなかったわけではない。子供ながらに自分の視点に映るものというのは、世界的な視点で見てしまえばほんの一部であると。しかし、その考えは単に自分に意識がある状態の中のことだ。以前は自然に意識外のことを考えの中から省いていたのだ。


 眠れない中、両親の知らない面を知れた。しかし、それは能動的に行った結果得られたことではない。偶然の中で知れたことだ。それは何故か。普段、その時間は寝ていたからだ。それはそうだろう。人間、寝ている間、その周りで起こっている事象を把握することはできないはずだ。少なくとも僕の知る限り。


 この世界の全てを知っている全知全能のような存在では無いため、自分の考えが正しいかどうかは不確かだが、地球上に生きる全人類は平等に同じ時を刻むはずだ。そこに時差はあろうと。日本で過ごす1時間と他の国で過ごす1時間が異なるわけではないだろう。要は、誰であろうと、何処にいようと、過ぎる時間は同じなのだ。その時に各々が何をしていようと。相対論的に考えれば、光の速さで動くものにとっては、僕と過ごす時間が違うかもしれないが、そんな外れ値のような存在を考えるほど僕は高尚な存在では無いのだ。


 眠れない日々が僕にもたらした恐怖というのは、自分が知らない世界が、正確には時が存在するということである。脳科学者や睡眠の研究者でないため、自分の固定観念が正しいのかは分からないが、人間寝ている間は意識がないだろう。だからといって、世界は時を刻むのを止めない。そこで何が起きようと。まるで、自分自身が世界から切り離されたかのように感じる。そのことに対して、子どもながらに起きたこの眠れない日々というのは、自分の意識外で何が起きているのかという恐怖心を植え付けた。


 この恐怖心というのは、眠れない日々が終わろうと、年を重ねようと、僕の心の奥底に住み着いていた。そうして、年を取るにつれ、精神的な成長も起き、より深い思考ができるようになってしまった。それが年齢に合わせた発達ということなのだろうが、僕にとってみれば、知りたくないもの、考えたくないものに気づいてしまうという負の側面を強く感じ取ってしまった。それには、心の奥底にいた意識外で何が起きているか自分自身は分からないという恐怖心が、年齢と共に得た思考力により、より飛躍した恐怖心へと昇華したためである。


 自分の意識外というのは、睡眠時以外にも発生する。人間が五感を用いて捉えられる世界というのは本当に僅かなものだ。その捉えることのできる世界以外のものは意識外といっても差し支えないかもしれない。だが、そのとき自身には確かに意識があるのだ。そのため、睡眠というのは特殊なものだということが分かるだろう。ただ、これと一括りにしていいのか、それとも思考の飛躍と捉えればいいのか分からないが、生前と死後も意識外のことだろう。


 僕は死んだことが無い。当たり前だろう。現時点で医学的に生きていると証明することができるのだから。それに常識として、人生は一度切りであるから。これが本当は宗教的な考えにも含まれる、輪廻転生や前世というものが存在するのならば、僕はもしかしたら死んだこともあるのかもしれない。ただ、いくら僕がロマンチストであろうと、そこは現時点の科学を信じることにする。できれば死にたくないため、輪廻転生していればいいのにと思うのだが、そうした場合、生前の記憶が無いというのは不思議なことだろう。


 死んだ後の記憶も無いだろうし、勿論だが生前の記憶を持っているわけでもない。僕は、宇宙誕生から約138億年、地球誕生から約46億年という、大規模な時間スケールの中の瞬間的な時間に現れた人間の内の一人でしかない。だから、自分が何者なのかは当然だが分からないだろう。気づいてみれば生きているのだから。


 そうして、人間の定めとして、生まれた限り行く先は死のみだ。その死に方は人によって異なるのであろうが。であるならば、僕らは何のために生まれてきたのか。その答えがあるとするのならば、当然僕の意識外に存在するのだろう。


 それに対する知的好奇心が無いと言えば嘘になるのだが、知ったところでどうするのだ。人間の末路は全て死、ただ一つであるというのに。そこに子孫を残すという考えもあるかもしれないが、今までの宇宙の歴史を見るからに僕らはいつか消える運命をたどるのであろう。それならば、何を生きがいに生きるのだろうか。


 そんな考えが、あの日から徐々に明瞭に脳裏にこびりつく。その考えを消し去ろうとしても、そう都合よく綺麗に消えてくれない。だから、今スマートフォンを見ている間でもふと思い出してしまうのだ。自分の存在とは何なのだと。そんな問いに答えてくれる人はいないだろうし、もしその問いの答えを得たところで僕が生き続けるかもわからない。僕らは苦しみながらもいつか来る死の瞬間を待つしかないのだろうか。そう思考の海に沈んでいくうちに自然と、頬に涙が零れ落ちた。それとともに僕は眠ってしまうのだが。


 起き上がって、いつも通り、カーテンとレースを開ける。そうして、部屋に太陽の光を取り込む。自然と、自身も日光に当たるが、誰だろうか。誰かが言っていたはずだ。朝起きてすぐに太陽の光を浴びるといいと。そうすることで体内時計が正常に動き出すとかなんとか言っていたはずだ。それを信じた母が始めた習慣だが、どうやら気づかない内に自分の中でも習慣化していたらしい。


 窓越しに見える空には雲ひとつない。ただ、青く澄み渡った空が広がっていた。それは自分の人生に疑問を抱いている僕にとってみれば綺麗過ぎた。それを紛らすためだろうか。自然と窓を開け、換気をし始めた。普段の僕ならこんなことしないのに。


 まだ、春先だから、部屋の中に入ってくる風は涼しく感じる。その影響かどこか脳がすっきりしたようだ。

 

 換気によっていつもの自分に戻れたような気がするが、そもそもいつもの自分とは何なのかという考えにも辿り着いてしまう。その考えに至ってしまうのは昨日の考えがあったからだろうか。ただ、この考えでさえ、今の自分を傷つけそうな気がして、顔を洗うと同時に洗い流そうとした。結局、洗い流すことができたかどうかは怪しいが、鏡に映る僕の顔は酷いものだった。それもいつからなのかは分からない。もし、この顔が今朝から出ないならば、いつも付けていた仮面は自分を隠せていただろうか。今日もこれからも、人付き合いは続くのだ。自分がどれだけ避けたいと思うと。僕が死ぬとき、その仮面の厚さはどのくらいになってしまうのだろうか。


 そんな不安も登校時間が差し迫ってくるにつれて消えていく。いや、心の奥底に格納されていくだけだろう。そうして気づかないうちに心を蝕み、気づいたときには後戻りできない状態になるのだろう。ただ、人間生きる時間が有限でないとするならば、無限に苦しむことも無いはず。いつか来るであろう死に対する不安の裏には、苦しみからの解放という救済が待っているのかもしれない。そんな考えが頭をよぎるが、どうせ自らそこに行けないのだ。そこまでの行動力があれば、もっと違う価値観を持ち、それに沿って生きていただろう。しかし、その生き方は僕ではないだろう。それはそうだ。今の価値観と異なるのだから。


 どうしようもない考えに囚われようと時間は待ってくれない。だから、今日も僕は家を出る。そうして、仮面を被りながらの時間を終え、心身ともに疲労をきたして帰宅する。そんな生活を繰り返す、そんな毎日。そんな日々に価値はあるのかと、授業中に考えることもあるが、目の前の黒板に書かれる数式がそんな思考に浸からせてくれない。


 そんな日々を送っていると気づけば金曜日の最後の授業も終わった。2日間、仮面を被らなくてもいいという事実が、僕の気を楽にさせる。友人に軽くさよならを告げ、駐輪場に早歩きで向かう。全ては仮面を外すために。


 その道中で聞こえてくる、サークルの勧誘の声、バイトの愚痴、飲み会の話。どの声も自分にとっては耳障りだった。どれも人付き合いの話。人間一人で生きていくのは困難なため、集団で生活するのだろうが、適切な人間関係を築けなければ、それは毒にもなるのだろう。僕の場合は人を見る目も無いし、自分が人に合わせることも難しいのだ。そんな人間が現代社会で気楽に生きていくことは保障されていないのだろう。


 別に自分がこの社会で生きていくことに対して向いていないからといって、他人が不幸になってほしいという感情は生まれない。せめて、その社会に向いている人には辛い思いをせず、楽しく生きてほしいものだ。僕のような向いてない者の代わりにも。そうして、話したことも無い人に自分の理想を託すのだ。なんとも偉そうな感情だろう。


 だからといって、これ以上他人を嫌いになりたくないんだ。誰かが言った。人を嫌いになるのは簡単だと。好きになることの方が難しい。それはそうだろう。そうでなければ、時々ニュースで流れてくる人間関係による事件など起こりようがないのだから。


 まあ、無理して人の好きなところを見つける必要も無いと思う。そこに労力をかけるよりも、自分の本当に好きなことに時間をかけたほうが生産的だろう。あと、寿命は有限なのだ。嫌いなもののために限りある時間を使う必要も無いだろう。


 そう関わりも無い赤の他人のことを心配しながら、いつもより早歩きで駐輪場に行き、自転車にまたがって自宅へ向かう。これから待っているであろう天国を夢見て。


 しかし、人間楽しい時間は早く過ぎると感じるのは正しいのだろう。自分にとっての天国である2日間はあっという間に経過してしまった。そして、やってくるのは仮面を被らなければならない地獄。後者の方が心なしか時間が過ぎるのを遅く感じるのはなぜだろうか。時間は誰にとっても、いつでも平等に時を刻むというのに。誰かが裏で操作しているのではないかとさえ思ってしまう。あまり、オカルト的な思考は好きではないのだが、誰かが時計の針の進むスピードをこちらの心情に合わせて変化させているとしか思えない。


 自分の中では天国の2日間だと思っているのに、振り返ってみると特段何もしていないのはなぜだろう。大学生という人生の中で最大の自由時間であるのにもかかわらず、していることとすれば自宅のベッドに寝転んでスマートフォンを眺めているだけ。隣人に迷惑をかけないように、相も変わらずワイヤレスイヤホンを付けながら。そうして、画面上に流れる情報に一喜一憂するだけ。客観的に見れば、なんとも生産性のない日なのだろうか。それでも、この習慣から抜け出せないのは、この時間が自分にとって居心地がいいのだろう。


 地獄の日々は有限であるはずの人生の中でなぜこんなに辛い、楽しくもない日々を過ごさなくてはいけないと思うというのに。天国の日々は人生がまるで無限であるかのように錯覚する。なんとも自分勝手な解釈だ。まあ、人間らしいと言えばその通りだろう。無駄に知能を持った生物の行く先はこんなとこなのだろうな。


 そうして、変わらずに大学に向かって仮面を被る生活が五日間も続く。そこで、友人らは土日にどこどこへ遊びに行ったなど、バイトで疲れたなどという話で盛り上がる。しかし、こちとら家に引きこもっていただけの48時間だった。そんな話を聞きながらも愛想笑いをするしかない。そうしてしまうのも、世間体を気にしているからなのだろう。人生一度きりと思えば、自分の信念に沿って生きればいいというのに、友人という、いつ赤の他人になるか分からない存在にまで自分の見え方を気にする。なんとも惨めな人生だな。そう心の中で自身を蔑んだところで現状は何も変わらないだろうに。


 だから、生きるとは何かという答えの無いようなことばかり考えてしまうのだろうか。目の前の彼らはそんなこと一切考えてなさそうな、純粋な目をしているが。それでも、これほど生きていれば分かるんだ。彼らだって、僕のように仮面を被っているのだ。僕も含め、人々の本心はどこに行ったのだろう。少なくとも自分自身はその行く先を分かっていればいいのだが。

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