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第7話

 見たくなかったものを見てしまったときのように。知りたくなかったものを知ってしまったときのように。気づきたくなかったものに気づいてしまったときのように、思わずため息を吐いた。明日も大学があるというのに、自堕落で生産性のない時間を過ごしてしまったことを後悔する。しかし、この後悔を人生で何度、繰り返しただろう。もう数え切れない。ここで自分の生活を改めることのできる者だけが、成功への挑戦権を手に入れることができるのだろう。ただ、それはあくまで挑戦権。同じ土俵に立っただけ。この土俵に立つことが難しいことは理解できるが、そこに立つ者の方が少ないだろう。だから、彼らは孤独なのかもしれない。僕とは違う系統の。


 結局、僕の人生は彼らを外から眺めるだけの人生に過ぎない。土俵の上に立ち、堂々とぶつかり合う彼らに対し、僕は外から野次を飛ばすことしかできない。いや、野次すら飛ばさないのかもしれない。その勝負に興味が無いのなら。もしかしたら、彼らに負けている自分を実感したくなくて見ないだけかもしれないが、それを受け入れることは無いだろう。人間誰しも矜持があるのだ。そこに格の違いが表れるのかもしれないが。たとえ、その矜持が人と比べ醜いものであっても捨てることは無いだろう。それが僕の核なのだから。


 自分を客観視する能力を持っていることは自覚しているが、それで視える自分というのは負の側面のみ。他人に勝るところなど、どこにもない。いや、本当はあるのかもしれない。誰か個人と比べたら。しかし、人間の社会はそうではないのだ。たとえ、僕から見える他人が一人だろうが、それを認識する僕の脳裏に映るのは、社会全体。その中で、比較した時、果たして自分の強みなど誇らしげに言えるのだろうか。その自信が無いからこのような精神なのだろう。そんな自分に嫌気が差すが、それを変えることもできない。せめてもの思いで、その怒りを、憎しみをぶつけるかのように脱いだ服を洗濯籠に放り投げる。後で皺がつこうが構わない。今さら、見た目を気にしようと中身が追い付かないのだ。


 やっとの思いで風呂場に入る。しかし、僕は鏡を見たまま動かない。そこに映るのは醜い身体をした僕。身体に傷があるわけでもない。分かりやすく太っているわけでもない。ただ、どこにでもいるような中肉中背の男の姿。それを他人がどう思うかは知らないが、自分から見て覇気が感じられない。幸福を感じられない。ただただ、生きている。そのような印象しか持たない。何のために生きている。そう、鏡に映る僕に自問自答したくなる。こうしている間も、時計の針は過ぎていくのだろう。それを知っていながら、僕の身体は動こうとはしない。生きているようで、生きていない。生気がこもっていない。残念だが、それを変える力を僕は持ち合わせていない。


 心の中の僕はこのままでいようと思っていたのだろう。ただ、脊髄反射のように手が勝手にシャワーに伸びて、お湯を出し始める。まだ、春だからこのまま時を忘れていてもいいというのに。ここなら、煩わしい時を刻む音が聞こえないから。その代わりに、シャワーによって、お湯が身体を伝わり、床に滴る音だけが聞こえる。そんな、昼の喧騒とはかけ離れた孤独の空間で、思わず叫びたくなった。日々の鬱憤を晴らすため。不甲斐ない自分と決別するため。しかし、アパートの壁が薄いという事実が僕に理性を働かせる。それを乗り越えることができれば、変われるかもしれないのに。そうやって、すぐにたらればを想像するのは悪い癖だ。それだけ、過去に後悔しているという裏返しなのかもしれないが。


 どれだけ、過去にやり残したことがあったとしても、そこに戻ることはできない。それがこの世の節理である。それを乗り越えようとしたいのか、それとも単純に過去を知りたいのか分からないが、世の中にはタイムマシンを発明したい変わり者もいるそうだ。彼らも僕には言われたくないかもしれないが。ただ、過去を知ったところでどうなる。過去を改変したところでどうなる。やり残したことをやり切ったところで、その先に幸せが待っているとは誰も保証してくれない。そして、人はいずれ死ぬのだ。この世に生まれた限り。それが定め。今のところ、それを逆らうことはできない。なら、その努力は無駄ではないか。その考えなら、いつまでも後悔している僕も、さっさと前を向いて生きるべきだろう。だが、そう人間誰しも強くないのだ。


 強くないから、無謀にも他者と比較するのだろう。自分よりも弱いものを見つけようと。ただ、そこに映る景色にはそのような者はほとんどいないだろう。傷を舐め合うような仲間さえも。だから、孤独を愛す。いや、自然と孤独になるのだろう。そうして、誰にも悩みを言えず、一人で抱え込み、他者との心の関わりを断つため仮面を被る。知らず知らずのうちに、心は傷つき、その症状の進行具合はもう誰にも助けられない域に行っているのだろう。だから、こうして、風呂場で一人でたたずんでいるんだ。時が過ぎるのを忘れるかの如く。現実を見ないように。


 ドラマのようにシャワーに浴びているだけで映える男ならどれほど良かっただろうか。彼らなら、その姿が画になり、注目される。勿論、彼らは彼らなりの生きづらさはあるのだろう。だが、それは僕には分からないし、分かりたくもない。どれだけ、他人になれればという理想を抱こうとその夢は叶わないのだから。その理想を心の内に抱き続けることのできたほうが楽なのかもしれない。変に、そこの違いを理解しているものだから、他者との比較で傷を負いやすいのだろう。ただ、傷を負うのにも慣れてしまった。もうそれで、涙が流れることは無い。傷を負ったところで広がるのは心の中の無という感情だけだ。もしかしたら、その感情こそが一番厄介なのかもしれないが。


 その無という感情が、いつまでも動かない今の僕を構成しているのかもしれない。残念だが、水道代を気にする母も、ここにはいない。相も変わらずシャワーからは気休め程度に心安らぐ温度のお湯が身体にかかるだけ。もう風呂場に入って何分経過しただろう。ただ、呆然としているだけで風呂場でシャワーを浴びる。何かに打ち込んでいる人からしてみれば、卒倒しそうな姿だろう。それを脊髄は感じたのか、無理やり僕の身体を動かして、髪を、顔を、身体を洗う。そうして、適当に風呂場も洗う。昔なら、父の仕事だったのに。一人暮らしのため、この風呂場を使うのは勿論のこと、僕ただ一人。この洗うという行為も、僕を呆然とさせる要因の一つなのかもしれない。


 自分の意志があった行動ではなく、脊髄反射のように、または学習された機械のように身体と風呂場を洗い終え、自分の髪をドライヤーを使って乾かす。いくらスマホ中毒になっていようと、この瞬間だけは、髪を乾かすという行為に集中する。別に長髪なためではないのだが。なぜだろう。他の場面であろうと、その物事に集中できればいいのにと思うが、そう思ったとしても変わらないのだろう。誘惑に勝つ強靭な精神は持ち合わせていないのだから。まあ、スマートフォンという誘惑に勝つために、それほど強力な精神を必要としているのは世界中探しても僕だけかもしれない。裏を返せば、それだけスマートフォンの製作者の術中にはまっていると言えるのかもしれないが、そのような人生のどこが幸せなのだろうか。


 ただ、短髪がゆえに、この時間は一瞬に終わりを迎える。そうして、自然とスマートフォンを片手にベッドに向かう。そこに意志があるのかどうかは分からないが、今までの習慣がそうさせているのだろう。部屋を暗くし、布団に入ってスマートフォンを見る。何も生産性のない時間だろう。しかし、無でいられるのはなぜだろう。どこが気が楽なのは。それでも、心のどこかでは危険信号を発していそうなこの時間は。


 その危険信号を受信して、早急に行動に移せる者なら、ここまで自己嫌悪に陥っていないだろう。ただ、僕が僕である以上、その選択を取ることはほとんどない。なぜだか分からないが、それが習慣なのだから。それは言い訳であるようで、今までの人生を表しているのだろう。人生100年時代において僕が生きてきたのは、そのうちのたった2割だが、人格を形成するのには十分な時間だろう。そこで形成された自分をどこの誰かも知らない輩の言葉で動くことなどそうそうないだろう。動く人間がいるのならば、変化を恐れない人間か、個を持っていない人間の二種類だろう。彼らがいいか悪いかは僕には分からない。分かるのは、自分がそちら側の人間でもなく、そして未来永劫そちらに行くことは無いということだけ。そう思う確固たる証拠は無いが、自信を持って言える。このようなことに対して、無駄に自信を持たなくてもいいのだが。


 相も変わらず、危険信号を受信せず、暗い部屋の中、輝きを放つスマートフォンをいじる。特に、理由もなく見続ける。それは今日も変わらず。そこに意志があれば、この物体は僕にいい影響を与えるのであろう。だが、意志の弱いものはこの物体を使いこなすことはできないのだろう。それは、技術的な問題ではない。スマートフォンを自身の意思で使うのか、それとも意志とは関係なく使ってしまうのかということ。僕は後者だ。それに危機感を感じつつも、その沼から抜け出すことはできないのだろう。その沼は心地よいのだから。


 流石に、一日のほとんどで音楽を聴いている僕とはいえ、寝る前にイヤホンを付けて音楽を聴くようなことはしない。一時期、そのような時もあったが、結局寝ることができなかった。睡眠の質を考えるのならば、寝る前にスマートフォンを見るというのも良くはないというのは分かっているのだが、止めることはできない。それほど依存しているのだろう。


 その一方で、寝ることに対して、一定の恐怖というものを持っている。昔から。この気持ちは誰にも分からないだろう。多くの人にとって睡眠という時間は、疲労を感じることの方が現代社会で唯一といっていいほど、心身ともに休める時間なのだから。


 僕にとってもある時期まではそうだった。それがいつの日だろうか。恐怖に変わった。その要因は分からないが。


 ある日。それは今からかなり前のこと。まだ、僕が小学生の頃だっただろう。その日も変わらず、両親は会社から帰ってきていなかった。そのため、一人で就寝の準備を済ませて、布団に潜り込んだ。まだ、当時はスマートフォンが無かったから、今よりもすぐに眠りにつくことができたのだが、その日は違った。どれだけ、目を閉じていようと寝ることができない。寝ようとする意志と寝ようとしない身体で格闘しているうちに、どうやら両親も帰ってきたようだった。残念ながら、その時間を確認する手段を持ち合わせていなかったため、何時か分からなかったが、普段なら寝ている時間に起きているというのは不思議な感覚だった。結局、その日は最終的には寝ることができたのだが、両親の物音や話し声で寝付くことが余計遅くなった。そのせいで、次の日の学校の授業中に何回あくびしたことか。


 この日から、布団に入っても寝付けない日々が続いた。それまで、睡眠不足というものを継続して経験してこなかった自分にとってはストレスにしかなかった。今なら、その時間をスマートフォンでつぶすこともできるが、その当時はその手段もなく、ただ目を閉じるという行為を繰り返すだけ。しかし、その無駄な努力を重ねたところで寝る時間はいつもより大幅に遅くなるだけだった。


 ただ、嫌なことだけでは無かった。今まで寝ていたから気付かなかったことに気づいたのは良かったのかもしれない。例えば、両親の子供の僕には見せない本音の会話。両親ともに普段は冷静な性格だが、やはり会社で働くと鬱憤も溜まるのだろう。それの愚痴の言い合いに両親にもこのような面があるのだと思った。それは、今まで通り寝ていたなら、気付かなかった、もしくは気付くのが遅くなったことだろう。それに少し危機感のようなものを子供ながらに感じた。いや、危機感というのが正しい表現かは分からないが、興味という表現の方が近いのかもしれない。


 いずれにしろ、子供ながらに実感したのだ。僕が何をしていようと世界は同じように時を刻んでいるということに。

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