第6話
手洗い、うがいを行い、大学に持って行ったカバンをその辺に放り投げる。親がいれば小言を言われただろうが、この場にはいない。その自由があと2年で終わるのか、続くのか、それは誰にも分からない。現時点では。ただ、人によっては近い将来のことだと危機感を持っているのかもしれないが、僕はそういう部類の人間ではない。そのため、どうせ就活のスタートラインに立つのも人が走り始めた後からだろう。それを分かっていながら直さないのだから質が悪い。けれども、それが自分という人間なのだ。金に目の色を変えて飛びつくような人間にはなりたくないのだ。それが就活を始める時期に関係するのかは断言できないが。
そうして、投げられたカバンを横目で見て、自分はベットに飛び込む。今日一日の疲れやストレスを解消するため。月曜からこのような精神状況で大丈夫なのかという考えもあるが、もうこの生活に慣れてしまった。最初は不満に感じていようが、嫌々続けていくうちに適応していくのだろう。人間も、あるいはその他生物も。その期間は人それぞれであろうが、そこに適応していった者だけが生き残るのだろう。この生き地獄に。
大学生というのは、人によっては人生最後の夏休みなどと表現する者もいる。そんなことを発する輩を見ると僕が知っている大学生活とは違うのかとさえ思えてしまう。帰宅してすぐさまベッドに飛び込む僕の生活は、疲労困憊の社会人のそれと変わらないだろう。なぜ、こうも住む世界が違って見えるのだろう。同年代のはずなのに。同じ人間という生き物なのに。生き生きとしている彼らと僕の生活。何が違うんだ。
ただ、それを知ったところで僕は自分のスタイルを変えないだろう。今の僕が本来の僕なのだ。嘘偽りのない、ありのままの自分の価値観で生きている。たとえ、それが他人にとってつまらない生き方だとしても。そう自分の生き方を自分で肯定しなければ生きていけないようになってしまったのだろうか。そうなるのには、少し早すぎるのではとさえ思えてしまう。まだ、働いてすらいないのに。大学生という人生の中でも自由奔放に暮らせる時期というのに。
そうベッドに身体を預けながら考え事をしていても、躊躇なく場違いな音楽が聞こえてくる。それはそうだろう。ワイヤレスイヤホンをはめたままなのだから。至極当然のことだ。けれども、耳から聴こえてくる曲が今の自分の心情に合わず、外して思わず投げ飛ばしそうになる。しかし、このワイヤレスイヤホンもよく考えれば、高い方だし、どこかへ行ってしまえば探すのが面倒だと考え、なんとか理性を保つ。ただ、ここで何も考えずに投げ飛ばすことのできる人間の方が人生気楽に生きられるのだろうとさえ思える。考えすぎなのだろう。どんなことに対しても。本来であれば、思考に強弱があっていいはずだが、昔からそれが苦手だ。だから要領が悪いのだろう。はあ、自分が嫌になる。
ストレスから解放されるために、音楽を聴いていたこともあったのに、今の自分にとってはその音でさえも、自身の心を穏やかにさせることはできない。その事実に胸が痛む。音楽が好きだったから。それを満足に聴けない現状を恨む。ただ、そうして聞こえてくるのは周りの生活音。壁が薄いことが影響しているのか、隣の部屋か、あるいはどこかの足音や扉の閉まる音が聞こえる。聞きたくもないのに。それを防ぐため、音楽を聴いて心安らいでいた時期もあったのだろうが、今の自分はどうやらそうではないらしい。
この現状を変えるには、夢で見た理想郷に行くしかないのだろうか。しかし、インドア派の僕にとって、あのような美しい景色の場所は知らない。知っていても行く気がないだろう。そこへ到達するまでの面倒くささの方が勝ってしまう。あと、今日はまだ月曜日だし、明日以降も大学はあるのだ。これから、どこかへ出かけるなんて労力、使いたくもない。
そうこうしているうちに、時が経ち、窓から入ってくる陽の光も少なくなってきた。何もしたくないという気持ちを押し殺して、ベッドから立ち上がる。時を忘れ、思考の海に沈んでいたためか、時計を見るまで正確な時間を把握していなかった。ため息を吐いたところで現状が変わることは無いため、のそりのそりと動き出す。まずは、暗くなった部屋の電気をつけるため、部屋のレースとカーテンを閉め、電気をつける。今まで、暗かった部屋が急に明るくなったものだから眩しくも感じたが、すべて自分でやったこと。特に、特に不満もなくキッチンへ向かう。
今日の夕飯は何にしよう。そんな能天気なことを考えながら冷蔵庫のドアを開ける。目に映る食品の消費期限を気にしながら、今日のレシピを考え、動き出す。入学前に母に家事のいろはを叩きこまれたが、料理を作ることに関しては何も言われることが無かった。ただ、皿洗いなどの後片付けに関しては口酸っぱく指摘され続けたが。
料理だけは昔から好きだった。なぜ、始めたのかは知らないが。テレビに映る料理番組で料理人がおいしそうな料理をいとも簡単に作っていることに憧れを抱いたのか。遅く帰ってくる両親の負担を少なくするため、自分で出来そうなことをやり始めたからか。それとも、数少ない親と一緒にいられる時間を大事にするため、母と共に料理を作ったり、両親に不格好ながらも料理を作ったからか。始まりはどれか、もう忘れてしまった。
しかし、料理は僕にとって、数少ない能動的な趣味の一つとなっていた。
そんな、能動的であった趣味の料理は、今の僕にとって趣味の域から外れようとしている。それは悪い意味で。大学生になって、自由な時間が増えたことは事実だ。ただ、人間、自由な時間が増えると怠けてしまうのは普通のことだろう。それは僕だけではないはず。また、僕の生まれた時期にこの世にスマートフォンという最高の時間潰しの道具があったのが良くなかった。インドア派であり、集団生活が肌に合わず、金に興味が無い僕がバイトをやっても続くことは無かった。そのため、生まれた膨大な自由時間に僕はスマートフォンで、生産性の無いことをするだけ。どこかの誰かのように将来のために資格勉強をするわけでもなく。それは、労働に対しての忌避感からくるものだろうが。そうして、スマートフォンという時間を浪費していくだけの道具にのめり込んでいった僕に待っていたのは、趣味に十分な時間を取れないという生活だった。
スマートフォンという僕の自由を奪う道具の危険性を理解しながらも、それを手放せなかったのには理由がある。当然ながら、現代社会を生きる我々にとって、スマートフォンという存在はなくてはならない物だ。それが生活必需品の一つとなってしまっている以上。
しかし、それを使いこなす側になるのか、それを使うことに対して自制が利かなくなる側になるかでは、スマートフォンが個人に与える影響は大きく異なるだろう。今の僕は、後者であり、客観的に見れば悪影響を受けているに違いない。だが、その深い沼から自力で這い上がることは到底不可能だろう。もしかしたら、他者の助けを借りても無理なのかもしれない。周りが思うよりも、僕にとってその沼は居心地のいいものだから。たとえ、そこが底なし沼だったとしても。
他人がこの沼のことをどのように評価しているかは関係ない。同じように沼と捉えている人もいれば、浅瀬と捉える人もいるかもしれないし、もしかしたら人によってはそこに水は無い。ただの砂漠に見えるのかもしれない。僕にとってこの沼とは、砂漠化した人生のオアシスなのだろう。僕を救ってくれる音楽も、スマートフォンを手にしてからの付き合いだ。能動的な趣味だった料理でさえ、スマートフォンには多くの知らないレシピが眠っていて、退屈することが無い。もう、これが無くては生きていけないのだろう。一種の中毒だ。それを分かっていながらも、抜け出そうとしない。もしかしたら、他の中毒も同じかもしれない。
人間というのはずるい生き物だ。何のために与えられたのか分からない知能を自分が都合よく生きるために使うのだから。中毒というと、アルコール中毒や薬物中毒というのが真っ先に思いつくだろう。それに対して、その中毒に陥っていない人の方が多いはずだから、その危険性を正当に理解しているはずだ。少なくとも僕はそうだ。なぜなら、それらの中毒は下手したら死に直結するのだから。僕は天寿を全うする以外で死ぬつもりはない。それ故に、それらに対しての嫌悪感というか、距離感があるのだろう。
しかし、スマートフォンに対してはどうだろうか。スマホ中毒になろうと、死に直結するわけでは無い。そのため、アルコール中毒や薬物中毒と同列に扱ってはいけないのかもしれない。だが、スマートフォンを見ている間も時は進んでいくのだ。それが意味するのは分かるだろう。
今年で20歳になるが、時間が有限という当たり前に気づいていないはずがない。たとえ、それが集団行動が嫌いだからなどという考えは関係ない。天寿を全うする以外で死ぬ気は無いと意気込んでいるというのに、その限られた人生を楽しみたいのなら、この沼から抜け出す必要なのは誰の目から見ても当然だろう。しかし、僕はそうしない。そこにいることで心が安らぐから。見たくないもの、聞きたくないもの、知りたくないものなどから距離を取れるから。そんな場所から自分から抜け出す馬鹿などいないだろう。いるとしたら、僕は指をさしながら声をあげて笑うだろう。でも、自分も心の中では気づいているのだ。最期に笑っているのは、僕が馬鹿にした者たちだろうと。
そんな未来から今日も目を背けて生きる。キッチンに立つ僕の近くには当たり前かのようにスマートフォンが置いてある。そこに流れる動画を見ながら、ワイヤレスイヤホンを通して聴きながら、料理を進める。いつの日か、料理は生活の一部となっていた。それはそれでいいのかもしれないが、能動的な趣味と断言できるほどのものでもなくなってしまったのかもしれない。そんな有様だから、以前ならもっと素早く調理できたのも、画面に集中しすぎて手が動かないことなどざらにある。もはや重症の部類だろう。けれども、辞められない。薬物中毒者と何ら変わらないのかもしれない。法を犯していないだけ、他人に危害を加えていないという点を除けば。
そうして、できた料理をこれまたスマートフォンを見ながら食べる。両親がこの場にいれば叱られていただろう。しかし、そんな存在はここにはいない。その行為が習慣化してしまった。最後に食事を楽しんだのはいつだろうか。それすら覚えていない。労働に対する嫌悪感を抱きながらも、学生時代からスマートフォンという存在に縛られて生活をしているのは何か皮肉のようなものなのだろうか。そして、いつの日か気づくのだろう。あの時、こうしておけばよかったというありきたりな後悔の念を。それを思ったところで何も変わらないというのに。
昔は当たり前だった。「いただきます」と、「ごちそうさまでした」を言うことを。けれども、一人暮らしを始めたせいか。それとも、スマートフォンに縛られているためか。それを声に出さなくなった。あれだけ、教育されたというのに。別に一人で食べる分には声に出さなくてもいいのかもしれない。それでも、命や生産者に感謝を込めるためにも、心の中でそれを思えばいいのに。それすらしない。今の自分を両親が見たらどう思うだろうか。叱ってくれるだろうか、昔みたいに。それとも、見捨てられるだろうか。どちらにせよ、変わるには自分から変わらなければならない。しかし、その気持ちは今の自分には微塵も無いのだから、この堕落した自分は依然として続くのだろう。それにいつ危機感を持つのだろうか。変えようとするのだろうか。今ならまだ間に合うかもしれないが、死の直前に気づいたら最悪だろうな。そんな未来、今の僕には想像していないだろうが。今の僕は、目の前のスマートフォンに夢中なのだから。
食べ終わったところで、皿洗いをしなければならないのだが、自分の身体は動こうとはしない。それもそうだ。皿洗いが嫌いなのだから。ただ、それだけではないだろう。時間を忘れて、スマートフォンに夢中なのだ。以前なら、親が帰る前に風呂に入っておかなければという心理が働いたが、一人暮らしを始めた今の自分にそんな考えは微塵もない。そのため、気づけば時計の針は10時を指していた。