第2話
昨年まではゴミ出しの際でも着替えてから出しに行っていた。しかし、慣れてくると面倒くさくなるものでいつの間にかパジャマの上に薄いコートを羽織ってゴミ出しをするようになっていった。最初の頃は同じアパートの住人に見られたら恥ずかしいというごく普通の感性を持っていたのだが、それは時間が消していった。というのも、このアパートに人は入っているのだが滅多に廊下ですれ違うことなど無いのだ。それならゴミ出しの一瞬ぐらいいいだろうとなってしまった。こういうところから人間だらけていくのだろうなと今になっては思うが。
今日もその習慣に倣ってパジャマの上にコートを着て、パンパンになったゴミ袋をゴミ捨て場に持って行く。朝起きてすぐに階段を昇り降りするのは面倒だがやらなくてはいけないことだから仕方ない。技術が進んだ今なら最適なタイミングで勝手にゴミ出しをしてくれるシステムなんてあればいいのにと思うがそれが存在したところで今の僕には使えないだろう。金が全てのこの世界において最先端のものに触れるのは富裕層よりも何年か後のことだ。だが、その世界に対して反抗する気力もない。どうせ死ねば金など何の意味もなくなるのだ。それに固執する人生に僕は魅力を感じない。それは金銭的に余裕があるから故の考えなのだろうか。
人それぞれの環境で意見が異なることに疑問を感じていても何も進まないのでその悩みを取り払うように、ゴミ袋を指定の場所に投げ捨てる。
しかし、慣れてきたのだろうか。投げ捨てた先にある景色に。そこには今日回収されるゴミ以外のものも平然と置いてあった。実家でゴミ捨てを手伝うときにはそのようなことは無かったのに。土地柄なのだろうか。それとも大学生が多く住んでおり、社会の決まりや暗黙のルールなどに興味関心が無いのだろうか。それでも決まりとしてその日に出すもの以外は捨てないでと張り紙があるのだから関係ないのだが。また、土地柄や大学生だからというのも勝手な偏見ではあるが。
自分が勝手に思い抱いている幻想なのかもしれないが、古くから続く伝統の日本人の清潔感というか社会の決まりを守るという当たり前が目の前で崩れているのを見ると何とも言えない気持ちにもなる。それは決して目の前だけでなくSNSからも感じ取れるが。まあ、これも時代の変化なのかもしれない。ただの一般人にはどうすることもできないのだから。
いつもに増して静かな環境の中ゴミ収集場の前で考え込んでしまった。それも普段はこんなに早く布団から抜け出せないからゴミ出しの日であってももう少し遅くなる。そうなると道路に面しているゴミ収集場の前からは見ることが出来るのだ。学校へ集団で向かう小学生たちの姿が。
横断歩道の傍に立っている交通安全のボランティアの地域のおじいちゃんやおばあちゃん、または旗当番の方に朝から元気よく挨拶する彼らを。彼らの目を遠くから見ていても分かる。彼らはどこか生き生きとしている。それが何故なのかは分からない。ただ、確実に会社へ向かう両親の目とは異なる輝きを彼らのほとんどは持っている。
それが何故年齢を重ねるにつれ消えていき、輝きを失うのか。この問いに対しては様々なことが考えられるだろう。しかし、それを思いついたところで再びあの頃の輝きを取り戻すことはできないのだろう。
ただ、思う。あの何にも囚われていないと錯覚していたあの頃こそ、生きているといえるのではないか。締め切りや人間関係に縛られた今の生活に比べて。将来に待ち受けている社会の藻屑となりただただ働くだけの生活に比べて。そう思ってしまう自分はおかしいのだろうか。それとも、精神が未熟なのだろうか。誰に聞いても、誰に説明されても納得のいかないようなことを朝から考えてしまう。
今日見た夢から何かおかしい。そう思いながらも自分の部屋に戻っていく。
昨年1年間大学生活を体験してみて思ったことがある。自分が通っている大学特有のことなのかもしれないが、授業始まる直前ギリギリを狙って登校をする学生が多い。それに対して特に何も思わないが、集団で生活をすることが苦手な僕にとってはその時間をどうしても避けたいのだ。そのため、2限から授業開始ではあるがのんびりしているとその集団に巻き込まれてしまうため、1限から授業がある生徒が完全に登校し終わったタイミングを見計らって登校することを目標とする。そうすると、1年間という長いのか短いのか分からない間での自分が感じた統計ではあるが、ほぼ通学路に誰もいなく精神的に楽に登校をすることができる。
ただ、これにも問題はある。早く大学に着きすぎて何をやるか、何処に行くかということだ。それはそうだろう。本来授業のない時間に大学に行っても1、2回生の間では大抵やることは無い。そう思っていた。しかし現実はそうもいかず、意外とレポートなどに追われる日々なのだ。自由でキラキラした大学生活というのを耳にしたことがあるがそんなものは僕の大学生活には存在しなかった。それに憧れて大学に進学したわけでは無いのだが。
その集団回避のためにも自分の部屋に戻ったら着替え、髪のセット、朝食を同時並行で済ませる。最初はてこずったものだがもう慣れたものだ。元々ファッションにも疎く、着る服自体が少ないため着替えも同じ組み合わせをローテーションしていくだけなので慣れれば問題はない。朝食も朝から食べるタイプでもないのでチーズトーストで済ませる。両親からはもっと野菜を食べろと言われるが食べられないのだから仕方ない。時間も無いのだ。ただ、歯磨きだけは朝から念入りに行う。子供の頃から虫歯ができやすい体質なのかよく歯医者に連れて行かれたし、親からも目と歯は一生ものだから大切にしろと口うるさく言われていたから。そうは言っても年々視力は低下傾向であるのだが。こればっかりは生まれてきた時代のせいにしておく。
諸々大学へ向かう準備を済ませたらようやく家を出る。腕時計で時間を確認すると予定通りだ。この時計も本当はもう少し安いのを買おうと思っていたのだが、親から見栄えは大事と言われ泣く泣く高いものにしてしまった。今思えば両親の忠告に従っておいて良かったという部分もあるのだが、ファッションに関して興味関心が無いのに腕時計だけ良い物を付けていてもなあとも思ってしまう。大体人に見られることを前提に着たいものが着られないという心理が働くのも辛いものだ。その前に似合う似合わないがあるのは間違いないのだが。
それにしても、自転車に乗って大学に向かっている途中ではあるがこの時間は本当に人通りが少ない。通学、通勤の時間とも被っていないので誰かの視線を気にする必要もない。勿論、周りの人間が自分を見ているという自己意識過剰な奴では無いのだが、他人がいるとどうであろうと視線を感じてしまうものなのだ。それは昔からだから仕方ない。だから一人でいるのが好きなのだろう。他人を気にして仮面を被る必要が無いのだから。そもそも、他人を気にするなと思えば簡単なのだが生まれてこの方この性格なため、その思考には至らないだろう。
特に誰にもすれ違うこともなく大学に辿り着くことができて一安心だ。こんな日は自転車を漕ぎながら、あとは車と歩行者だけに気を付けてぼんやりと進んでいるだけなので気が楽だ。それが途中で知り合いにでも会うと話は変わってくる。付けていなかった外行き様の仮面を装着して相手のテンションに合わせて会話を続ける。大学に着いてからなら、気持ちを切り替えることができるのだが、本来気楽に過ごせるはずの登校中の時間を奪われるのはいくら親しい友といえど許せない。まあ、それを相手に伝えたことは無いのだが。そんなことをすれば、周りから寄ってたかっていじめられるだろう。そんな人生はいくら一人でいるのが好きな僕でも結構だ。
とにかく今日は誰にも知り合いに会わずに大学に着くことが出来た。それだけで朝の気分はいい。ただ、大学に着いたからといって安穏に浸りきることは、時に危ういものである。2限から始まる授業なのにそれよりも早くついているからといって知り合いに会わないことが確約されているわけでは無い。そのため、できるだけ一人でいたい者にとってはなるべく一人でいられる時間を確保できるような努力を欠かさない。他のことにも力を入れろと思われるかもしれないが、それとこれとは異なるのだ。なにせ自分の精神的な健康に関わることだから。
何をするかというとワイヤレスイヤホンを装着して音楽を聴きながら図書館へ向かう。なんだそれだけかと思われるかもしれないが大事なことだ。五感の内の聴覚を外野の音ではなく自分の好きな音楽を聴くことに集中することによって、知り合いを発見する確率が減らせるのだから。多分。なお、キャンパス内だから安心してイヤホンを付けられる。外なら車や自転車などに気づかない可能性があるから、自転車に乗っているときは以ての外だが歩行中でも付けるのは憚れる。そうは言っても歩行中、例えば散歩中とか気分的に音楽を聴きたくなる時もあるため、そういう時は片耳だけイヤホンを付けたり、外音取込みの機能を駆使して音楽を聴く。
そうでもしないと人間やっていけない時だってあるのだ。社会人が労働に疲れて酒や煙草でストレスを発散するのと同じだろう。それでも解消されない場合は違法な行為に走る場合もあるかもしれないが。私には無縁の生活であることを願う。今の生活が檻籠の中で許されている自由であろうと、本当に檻の中に行ってしまっては意味が無いからだ。自由とは言えない生活かもしれないが、これ以上進んで縛られようとは思わない。愛する人を殺されたりしたら話は別かもしれないが。
音楽を聴くということだが、音楽にも様々なジャンルが存在する。生憎両親ともに音楽に対して興味関心が無い家庭に生まれたため、小さい頃から音楽を聴くという習慣は無かった。そのため、良く言う親の影響で聴き始めたアーティストというのは存在しなかった。そのためだろうか、高校入学と同時に買ってもらったスマホで音楽を聴き始めたときには、様々なジャンルの音楽に興味を持ち、音楽アプリのお気に入りリストは様々なジャンルが入り混じるというなんとも協調性の取れないものだった。
しかし、その協調性の取れていない雑多なものが集まったリストのおかげで気分に合った曲を探し出すことは容易だった。気分を上げたいとき。落ち着きたいとき。リフレッシュしたいとき。やる気が出ないとき。悔しいとき。死にたいとき。どんなときであれ音楽は僕を助けてくれた。ただ、神様は僕に音楽の才能を渡してはくれなかった。これだけ音楽を好きだというのに、満足いくように歌えないなんて、演奏できないなんて。
それを乗り越えた先に技術はついてくるのかもしれないが、環境や金銭面、時間など様々な要因が重なり合い自分で音楽を創造することはできなかった。別に若いのだからまだ諦めるような年齢でもないのだが。自分の中で音楽というのは才能がかなりの割合を占めるような分野のように思う。あくまで消費者のままでいたほうがいいのだろう。まあ、音楽の才能があればもう少し僕の人生が彩りよくなったのは間違いないという思うのだが。
問題はこの駐輪場から大学内の図書館までの長いようで短いような距離に何を聴くのかということだ。昨年の今頃は大学生になって心機一転頑張るぞという明るい気持ちで登校していたこともあり、明るいポップ調の曲をよく聴いていた。それも束の間、大学生活と一人暮らしの現実を実感して若干病んでいた時期もあった。別に病院に行ったり、誰かに相談したりしたわけでは無いので鬱だったかどうかはわからないが、そういう時は感傷に浸るようなバラード曲を聴いていた。その時間はとても長く体感的には感じていたが、それもいつの間にか終わってしまった。現実を受け入れたのだろうか。それともただ現状を変えるのを諦めたのだろうか。雑多なリストからランダムに選んで聴くという生活になっていった。そこには自分の意志というものは存在しなかった。好きなもののはずなのにこれほどまでに自分の色を出せないのは、なんとも気味が悪いことだ。それもあって今年度からは自分の意志で聴く曲を決めようと決意した。もっと他に決意しなければいけないことは山ほどあるだろうが、それは自分の目から遠いところに置いておいて心の安定を保つことにした。