3 知りたい
「戸口まで送ろう」
目的を果たしリコリスが礼を言って部屋に戻ろうとするのをヴィラスが呼び止めた。
断る理由もなかったのでリコリスはヴィラスと屋敷にむかって歩きだす。
「名前は?アルキスの所に何の用で来たんだ?」
「私はリコリスと言います。えっと、ここには……」
その先は続かなかった。
リコリスはこの全身を黒で纏った男と面識が無い。
自分の事を知らないようだから屋敷の使用人でもないだろう。紹介されてない。
最もヴィラスは使用人には見えない。何だか強そうだし、とリコリスは思った。
リコリスに無難に会話を続けるという選択肢を見つける事は出来なかった。
普段村娘の様にフラリと散歩するリコリスではあるが、ここ最近は自分が領主の娘だという事をそれなりに弁えていたので、素性のわからない男に詳しい事情を言うのは憚られる。
それでも名を名乗ったのはアルキスの知り合いのようで、先程自分の年齢を喋ってしまった為のばつの悪さもあったからだ。
だからこのヴィラスという男の事をもう少し聞いてから自分の事情を喋ろうと口を開こうしたリコリスだったが言葉を発することは出来なかった。
リコリスを眺めていたヴィラスは何かに気付いたかように口を開いたからだ。
「お前、エレクトアの娘のリコリスか?ゾーン地方の領主の娘のリコリス」
確信的な言い方だった。
「……そうだけど、じゃああなたは誰なのヴィラスさん」
母であるエレクトアの名を呼び捨てにするのに驚いたリコリスだった。父以外では初めて母を呼び捨てにする人間を見たのだ。
お母様に血縁はいないと聞かされていたから、養父母の方の知り合い?
……もっともお母様の養父母には会ったことはないけど。
ヴィラスを見つめ返すリコリスの眼差しは少し強くなる。
二人はいつの間にか歩くのを止めていた。
「ここで何を?」
「泊まらせてもらってるだけ。それであなたは誰?」
沈黙。
もう一度聞こうとしたが、ヴィラスの表情はどこか固くなっていることにリコリスは気付いた。
目の前の男はもう自分に意識を向けてはいないようだ。
リコリスが怪訝そうな顔をするとヴィラスは「送る」と口を開き歩きだした。
もう答えてくれる気はないんだと諦め、後でアルキスさんに聞けばいいか、と思い直しリコリスも歩きだした。
程なくして二人は母屋に到着した。
「……ここに泊まってそれから何処へ?」
ヴィラスが落ち着いた口調で訊ねてきた。
まだ話し足りないのだろうか?自分はこの男の名前以外は知らないと言うのに。
「どうしてそんなに聞いてくるんですか?大体私、ヴィラスさんの名前以外は知らないのに。私のお母様と知り合いなの?」
「……そうだな。俺は今のところ国に仕えている。君の母君とは旧識の間柄だ」
曖昧な返答だ。古い知り合いという事をだろか。
もう少し詳しく聞いてもいいかなとリコリスが思った所で、続けてヴィラスは喋りだした。
「これ以上引き止めてはパセリが無駄になるな。すまなかった。早く部屋に戻れ」
そう言うとヴィラスは今来た道を引き返していった。
残されたリコリスは釈然としなかったが今、一番重要なのはアラーラが戻るまでに腫れた腕をどうにかする事だと思い出して歩き始めた。
夜が深まる頃、リコリスは夕食を終えて部屋に戻っていた。
夕食の席にアルキスは姿を見せなかったので、ヴィラスの事を聞けなかったリコリスはいつ聞こうか考えながら寝台に倒れこんだ。
アラーラは用があると言って、しばらくはこの部屋に来ない。
無意識に腕を擦りながら考え込んでいた事に気付いたリコリスは軽く息をはいてうつ伏せになった。
結局、腕の事もアラーラに知る事となったのだ。
予定より早めの、夕暮れ前に屋敷に戻ったアラーラは腕を気にするリコリスの異変に気付いた。
ハンカチに包まれた揉んだパセリの残骸とリコリスを交互に見ると軽く溜め息を吐いた。
そしてリコリスはアルキスに庭に連れていってもらったこと、そこでヴィラスという男に会ったことをアラーラに説明することになったのだ。
アラーラから、ヴィラスという男は黒い服の人ですかと聞かれ、それに頷き、彼を知っているのかと聞いたら、どうも敷地内で見掛けただけらしい。
リコリスの母、エレクトアを知っているヴィラス。
ヴィラスを知らないリコリスとアラーラ。
お父様と結婚する前の知り合い?
旅の劇団にいたエレクトアを見初めたダミアノス。身寄りのない彼女はある男爵家の養子となった。そして結婚。
二人の馴れ初めをこのように聞かされたリコリスが導きだすヴィラスの正体は旅の劇団になった。
ヴィラスさんが劇団員。
……違うかな。
今は、国に仕えてるって言ってたし。
そもそも幾つなんだろう?アラーラよりは上だよね。あの威圧感!
お母様よりは確実に下だ。十ぐらい下かなー?
でもアルキスさんが年齢不詳に見えるから、同じ男だしヴィラスさんも見掛け通りとはいかないのかもしれない。
考えてみるとアルキスさんもどういう人かいまいちわからない。
お父様とお知り合いの油屋さんだから、家で使っている油の類はここの物?
思い浮べるのは秋に運び込まれていた油。いつもの倍の量だったような……。
リコリスは散歩の帰りにたまたま運び込まれるのを見ていたのだった。
あの頃って、油そんなに必要だったけ?豪雪の兆候ってあったけ?
ひとしきり、うんうん唸ったリコリスは寝台から起き上がり衣服を整えると扉に向かって歩きだした。
***
暗闇の中、弱い光が二人を照らしている。光の元は四面をガラスで張った置ランプだけだった。
アルキスは立ち上がった男にもう一度聞いた。
「―――会っていかないんですか。随分と顔を見てないのでしょう?」
「このままでいい」
「わざわざ単騎でここまできたのに?」
「偶々だ」
男の表情は闇にまぎれてわからない。
「ふぅ……。今日はいつになく珍しい方々が我が家に寄ったものです。その中でもとっておきはリコリスですね。可愛い子です。少しうねった感じの髪も貴方に似ていますし」
「どういう理屈だ。それにお前は今日が初対面みたいなものだろ」
それには答えずアルキスは立ち上がり話を続けた。
「貴方が大切に育て子です。きっと逞しい子でしょう。困難にもめげないね」
微笑んでいるのか、口調は柔らかい。
しかし、アルキスを見掛けで判断できない男。
それでもアルキスでなければ、それは只の気休めにしか聞こえなかったに違いない。
ダミアノスはそう思った。
リコリスは眠っていた。
アルキスに話を聞こうと彼を探してもらったが見つからず、結局アラーラに部屋に連れ戻されたのだ。
そして馬車での移動と昼間の事で疲れた身体はあっという間に寝台に沈んでいった。
リコリスは眠りの中で声を聞いた。
それは男性、聞いた事のある声。
――…お父様?―――
リコリスは頭から何かが離れていくのを夢現つで感じた。
夢を見たのだった。