2 油屋の庭
春が始まる頃、リコリスとアラーラはとある油屋の大きな屋敷に滞在していた。
「明後日には王都へ向けて出発しますから、十分に体を休めておいてくださいね」
「はーい」
「夕食には呼びに参りますからきちんとした装いをなさってて下さい」
そうは言ったものの、リコリスはローブ愛用者。
若干の不安を感じたアラーラは、やはり自分が傍について支度を手伝ったほうがいいかと思い口を開きかけたが、寸でのところでリコリスに遮られた。
「一人で着替える事ぐらい出来るよ。それにアラーラ、忙しいんでしょう?」
「まあそうですけど……」
実際アラーラは忙しかった。
移動中の消耗品の補充やら、天候や盗賊の類の出没情報の確認……。護衛を除くと実質的なリコリスの同行者はアラーラしかいないので、雑用の類を一手に引き受けなければならなかった。
アラーラもまさかお付きが自分一人だとは思わなかったが、王都の別邸にも使用人はいるのだからかそんなに人数はいらないか、と深くは考えなかった。
「では、私は失礼させていただきます。部屋でゆっくりしてて下さいね」
そう言ってアラーラは部屋を出ていった。
一人になったリコリスは部屋をぐるりと見渡した。そして寝台に頭から飛び込んだ。
「柔らかい……」
ここ暫らく馬車に揺られていたので、手足を伸ばせ、しかも柔らかく清潔な敷布のあるこの寝台はリコリスを癒してくれた。
領地と王都との中間地点にこの油屋の屋敷はあった。
この油屋は食用や薬用の油を取り扱っており、あぶらを持つ実を集めては潰して押し出して油を集めている。
オリーブ、くるみ、松の実、月桂樹……色々な油がいつも揃っていて、屋敷の規模からしてかなりの儲けを出しているようだ。
「お父様と知り合いだったなんて知らなかった」
寝そべったままそう呟く。
ここの主人とリコリスの父ダミアノスは懇意な間柄らしく、快くリコリス達の滞在を許可してくれたのだった。
これからどうしようかなー、夕食まで寝てようかな、と考えていると忘れていた痒みをリコリスは感じた。
馬車での移動中、どうしても外に出たいと言って野原で休憩していた時にうっかりうたた寝をしてしまったのだ。
おそらくその時に虫に喰われたのだろう。道中も時々痒みを感じていたのだ。
油屋さんに着いたらアラーラに言って痒み止めを貰おう。
アラーラに起こされはしたが、うたた寝をしていた時に虫に喰われたなんて言ったら、あの狭い馬車の中でアラーラのお小言を聞くことは必至。
それは懲り懲りだったので黙っていたのだ。
「さっき言っとけばよかったなあ」
そうは言っても痒みは治まる訳ではないので、リコリスは痒み止めを求めて部屋を出たのだった。
「どうかしましたか?」
リコリスが階段の辺りでうろうろしていると男に声をかけられ、声がした方に振り向く。
声の主は油屋の主人のアルキスだった。
アルキスは白髪まじりの中年男性で簡素な装いだが品のある出で立ちをしていた。
父であるダミアノスよりは年上に見えるが老人の域にはまだ達していない、ようにリコリスには見えた。
「あの、アラーラを知りませんか?」
「アラーラさんなら先ほど街の方に行かれましたよ」
街に行ったばかりなら当分は帰って来ないかなー、それなら自分で荷物を漁ってもいいかな、
と考えアルキスに礼を言って立ち去ろうとしたリコリスだったが、そうはいかなかった。
「手首の辺りに腫れがありますね」
アルキスが話しだしたのだ。
「腫れ、とゆうか痒くて……」
手首と腕の二ヶ所を喰われたようで、痒くて袖を捲っていたのだ。
領地で袖を捲っている所を誰かに見られてもどうもしなかったのに、
魅力的な好い年の紳士を前にするとさすがのリコリスも少々恥ずかしかった。
「蚊の時期にしてはまだ早いですし、虫か何かに刺されたんですか?」
「ここへ来る途中の野原で虫に喰われたんだと思います」
袖を下げつつリコリスは言う。勿論うたた寝の件は端折って。
「そうですか……。手首を見せてもらってもいいですか?」
リコリスが頷くとアルキスはリコリスの手首の腫れている所を軽く触ると呟いた。
「これ位ならパセリで十分でしょう」
「パセリ?」
「ええ。……そうですね、少し庭まで私と散歩をしませんか?」
そう言ってアルキスは頬笑んだ。
敷地の一画のこぢんまりとした庭の前にリコリスは立っていた。
庭と言うより菜園と言ったほうが合ってるかも、とリコリスは思った。
目の前にはハーブやらなんやらが所狭しと植えられていて、ここに来る途中に通った庭とは雰囲気が違った。
「この一画は私が好きなようにやっているのです」
菜園の中に入りながらアルキスは言う。リコリスもその後に続いた。
「色んな種類のものが植えられているんですね。覚えるの大変そう」
見慣れない草花が植えられていてリコリスは辺りをきょろきょろしている。
「そんなことはないですよ。春の物、夏の物……ここで育つ種類は限られますから自然と覚えられますよ。あぁ、ここですね」
そう言ってパセリが植えられているところでアルキスは止まった。
「パセリには様々な効能がありますが虫刺されにも効果はあるんです」
「へぇ知りませんでした」
パセリは食卓を飾るものとしての認識しかなかったので、アルキスの話は新鮮だった。
「この生の葉をもんで肌に直接すり込むんですが……」
言い終わらないうちにアルキスは動きを止め、リコリスの方に向いた。正確にはリコリスの背後の人物。
いつの間にか誰か来てきたのだ。
「客が来てる、アルキス」
声の主は男だった。背の高い大きな男。
「客?誰でしょうか」
「王都からの使いの様だっが待たせない方がよさせうだぜ」
男は意地悪く笑って言った。
「そうですか」
そしてアルキスは軽くため息をついた。
「すみません、私は行かなくてはなりません。ここのパセリは好きなだけ使ってくれて構いませんからね。わからない事はそこのヴィラスに聞いて下さい。彼はやさしい男ですから答えてくれるはずです」
頬笑んでそう言うとアルキスは去っていった。
ヴィラスと呼ばれた男の「おい待て!」は認めずに……。
一連のやり取りを見て、大きな油屋の主人だけあって一筋縄ではいかない人なんだ、
と妙な感想を持ったリコリスだったが、ヴィラスと呼ばれた男と二人っきりにして欲しくはなかったと思った。
リコリスはちらりと男を見る。
黒い髪におそらく黒い瞳。それに着ているものは全身黒色でちょっと怖かった。
「なんだ、虫に刺されたのか?」
リコリスは頷いた。
「虫刺されにパセリか……刺された場所は?」
「手首と腕です」
そう言うとヴィラスは顔を少ししかめた。
どこか問題があるのだろうか?そう思ってヴィラスを見るリコリス。
まだ成長中だが同年代の中では背が高いほうのリコリスでも見上げないと男の顔がよく見えなった。
お父様より大きいわ。それに若い。悪い事するような人には見えなくないし。
そう思ったら先程の怖いという感情もどこかへ消えた。
リコリスは割と年相応に単純なのかもしれない。
ヴィラスはこちらをじっと見ているリコリスに気付いて口を開いた。
「パセリは緑だろ?良家のお嬢様が腕を緑色にしていいのか?」
「パセリで痒みが治まるんでしょう?なら気にしない」
それに着替えて夕食に行く迄にはまだ時間があるから平気。
そう続けて言って、リコリスはパセリを摘みはじめた。
しばらくリコリスが摘んでいるのを見ていたヴィラスだったが、リコリスが摘み終わると口を開いた。
「かしてみろ。指先まで緑にする必要は無いだろう?」
その口調からは皮肉なものは感じなかった。
リコリスからパセリを受け取ると、ヴィラスはその生の葉をもみだした。
「磨り潰してもいいが、早いほうがいいならこうだな。……これぐらいか」
ヴィラスがそう呟くのを聞いて、リコリスは袖を捲った。
ヴィラスは動きを止めたがそれは一瞬の事で、次の瞬間には平然と口を開いていた。
「おい。いくら子供だからって、そう易々と肌を露出するもんじゃないだろ」
どこか説教臭くなったが、かまわず言った。
「こうしなきゃ塗れないでしょ?それに私、子供じゃないわ。十三歳になったの」
リコリスはヴィラスに言われて先程アルキスに袖を捲っているのを見られたときの恥ずかしさを思い出したが、なぜか子供扱いされたことの方が気になってしまって少々強気で言い返してしまったのだ。
「子供じゃないなら尚更だが、十三はまだ子供だろう。少なくともお前はまだ子供に見える」
そう言ってヴィラスは笑っった。
「うー」
子供っぽい事はくれぐれも慎んで下さいねと、アラーラにも言われていたので、言い返すことは止めて袖をおろした。
「じゃあどうやって塗ればいいの?」
リコリスが言うとヴィラスはいつの間にか手にしていたハンカチで先程もんだパセリの葉を軽く包んだ。
ハンカチは白くて薄い清潔そうな物だ。
この人、どういう人?
「ほら、これを手首の腫れにあてて行け。腕は部屋で塗ればいいだろ?」
そう言ってヴィラスはリコリスにハンカチごと差し出した。
リコリスはそれを受け取った。
そして、アルキスさんが言ったようにこの人、やさしい人なのかも、
と思ったのだった。