(番外編 最終話)絶孤じまい
地上で“トガ”と呼ばれ、破壊と殺戮を極めた存在が無明絶孤地獄に堕とされてから、六億年の歳月が過ぎた。裁きの間には、深い沈黙が満ちていた。
「……」
かつてあれほどの傲慢さでこの世を支配した者の面影は、跡形もなく消え失せている。彼は今や、燃え尽きた灰のように、言葉を発する気力すら失っていた。
「……」
粗末な布を深くかぶり、覗くのは口許のみ。その口も、もはや動くことはなかった。だが閻魔と獄卒たちはわかっていた。
(彼は漸く、自らの罪を認めたのだ……)
殀鬼、即ち”トガ”の手下だった者たちは皆、とうの昔に転生を果たしている。うち何人かは”トガ”が判決通り一億年で刑期を終えることに反対し、結果として彼の刑期は六倍に延びた。駒として冷酷に扱っていた者たちに先を越された屈辱が、”トガ”の懺悔を促したようだ。
「”トガ”――否、名もなき獄卒よ。刑期が終わった。ここを出るがよい」
「……」
”トガ”は言われるがまま光に包まれ、他の亡者同様粒となって消えた。
「やっと……終わった」閻魔が静かに呟く。
「おそらく彼が、再び人間、或いはそれに類する存在として生まれることはもうないだろう。魂の奥底から、人間を恐れている」
「そうですか……」獄卒たちは一様に項垂れる。
「だが、それも彼にとっては救いかもしれない。もう二度と悪しき道に堕ちることなく、真の平穏を得ることができる。我々との縁が切れるかわりに、な」
(我々との……縁が切れる……)
八獄卒の脳裏に、”トガ”の前世の獄卒に世話を焼いていた日々が蘇る。殺されかけたこともあったというのに、それがどうでもいいと思えるくらい、不思議と懐かしい記憶ばかりが浮かぶ。命の危険がなくなった代償として、八獄卒は嘗ての仲間との和解の道を永久に絶たれたのだ。八獄卒の心には、途方もない寂寥が沁みていった。
「……さて」
異様な静けさの中に、閻魔の声が響く。
「ここで裁かれる者、責苦を受ける者はいなくなった。本日をもって、この無明絶孤地獄を閉める」
「!?」
獄卒たちは驚いた。何の事前通告もないまま、地獄の閉鎖が決まったのだ。
「ですがそれでは……閻魔様や我々はどうなるのですか?」
獄卒たちが心配そうに尋ねる。皆突然のことに落ち着かない様子で、静寂が瞬く間にざわめきに変わった。
「案ずるな。選ぶがよい。生命の輪廻に戻るか、それとも別の次元の地獄へ赴くか」
閻魔の言葉に、再び裁きの間は静まり返る。
「別の次元の……地獄?」
「地上では今も、悪しき心より生まれし魑魅魍魎が人間を脅かしている。それらが討たれた成れの果て、亡者の心の玻璃を探すのに、今いる獄卒だけではどこの地獄も手が足りないのだ」
「……」
「其方たちは長きにわたり、この地を支えてくれた。奇々衆としての務めを終え、人として戻りたい者は名乗り出よ」
誰もが名乗らずにいた。だがやがて――。
「いいえ、人の世には戻りません!」
「遠い昔に決めたのです!この久遠なる命を、万人の心の玻璃を見つけ出す為に捧げるのだと!」
「我も!」
「同じく!」
獄卒たちが次々に決意を表明する。皆、自分の決めた道から逃げるつもりがないことは明らかだった。閻魔はその思いを静かに受け止める。
「其方らはどうするのだ?」閻魔は両隣の八獄卒に目をやる。
「――」
八獄卒は皆、言葉もなく微笑んだ。それを見て、厳めしかった閻魔の表情も緩んだ。
「ではこれから、各地獄の主に、其方らが赴く旨を伝える。行き先の希望はあるか?」
「いいえ、ございません」
「どこへ行こうと務めを果たすのみでございます」
「うむ。では暫し待つがよい」
閻魔は裁きの間を、そっと後にした。
やがて閻魔が戻って来た。
「全ての地獄の主との話がついた。これより使者が参る。呼ばれたらそれぞれの火車に乗るのだ」
順に名が呼ばれ、獄卒たちは使者に導かれて去っていった。皆軽く会釈するのがやっとというくらいに急かされて、長年務めを共にした身には似つかわしくない、唐突且つあっさりした別れになった。
「さようなら……またいつか会う日まで」
八獄卒は閻魔の傍から動かず、仲間を一人、また一人と、流れ作業のように見送る。実は彼らは名前を呼ばれておらず、異次元の地獄へ行ったのは十以降の序数の獄卒たちだった。
「さようなら――」
最後の獄卒、百十の卒が裁きの間を去る。残されたのは閻魔と八獄卒だ。
「これを以てこの無明絶孤地獄を閉める。全ては間もなく無に帰すであろう」
「……はい」
「それを見届け次第、我と共に向かおう。新たな主、弥勒が統べる地獄へ」
(――シュウウウゥゥゥ……)
裁きの間が、一丁目~八丁目が、無明絶孤地獄の森羅万象が暗黒の中に呑まれていく。
「……」
閻魔と八獄卒は、その光景を静かに見届けた。
閻魔と八獄卒は、使者を頼らず自らの足で、新たな地獄へ赴いた。
「ここだ」
一行は黒い門の前に到着した。無明絶孤地獄にも劣らぬ荘厳な構えが、彼らの目を引いた。
「だが妙だな……門番が誰もいない」
「閻魔、そして八獄卒よ。待っていたぞ」
不意にどこからか声が響いて、閻魔と八獄卒は身構える。だが暫くして閻魔は気づいた。
「その声……弥勒か?」
「左様」
「門番も置かぬとは……随分と余裕だな」
「門番ならいるぞ」
弥勒がそう言うと、閻魔と八獄卒の周囲に突如霊体のようなものが複数現れた。だが彼らは、閻魔と八獄卒をじっと見つめるだけで攻撃する気配がない。
「あからさまに門番をつけるより、このような者を忍ばせる方が、外敵の不意を突き易いと思ってな」
「はぁ……」閻魔の口から溜息が漏れる。
「全く、六億年前の初々しさはどこへ行ったのか……」
「まあそう言わずに、早くこちらへ来るのだ。其方らに会いたがっているという新米の獄卒も、待っているぞ」
(我々に会いたがっている獄卒……?)
「わっ!?」
閻魔と八獄卒は霊体に押され、門を抜け、滑るように進んでいく。
閻魔と八獄卒は、弥勒との謁見の間に連れて来られる。
「久しいな、閻魔。そして八獄卒よ」
「弥勒……」閻魔呆れながら言う。
「怪しくもない来訪者をこのように招くとは……聊か手荒ではないか?」
「はは、そうかもな」弥勒は苦笑いした。
「そう言えば、我々に会いたがっているという獄卒はどこだ?」
「こちらへ来るがよい。只今仕事に当たっていて、持ち場を離れられないのでな」
「……はあ」閻魔は唖然とした。
(こういう時は、本人をここへ連れてくるべきだろう……)
閻魔と八獄卒は地獄の一角へと連れて来られる。無明絶孤地獄同様、亡者があちこちで壮絶な責苦を受けていて、悲鳴が途切れることなく響いている。自分たちにとっては見慣れた光景とはいえ、やはりどこか異様に思える。
「こちらだ」
弥勒が手で示した先には、血の池が広がっている。その畔で、意地でも出ようとする亡者の頭を、冷徹な目で押さえつける者がいた。血の赤と土の黒が広がる空間によく映える、蛋白石にも似た不思議な肌色の、小柄な獄卒だった。
「……!」獄卒は閻魔と八獄卒に気づき、目を見開いた。
「お久しぶりです……!」
閻魔と八獄卒がこの獄卒に会うのは初めてなのに、その声や面立ちは、どことない懐かしさを感じさせる。
「もしや、其方は……!」六の卒が思わず叫ぶ。
「我はかつて、『鎧喝食』という名の殀鬼であった者、そして『掬緒』という人間であった者です」
「今は掬利大乗刹邏という名だ。数千年にわたる修行を経て輪廻を脱し獄卒となったのを、我が迎え入れたのだ。我も其方らと同じく、彼の六億年前の馴染みだからな」弥勒がさりげなく説明する。
「しかし……」閻魔は首を傾げる。
「何故其方は、人としての道を抜けてまで、獄卒になったのだ?奇々衆は、並大抵の覚悟で務まるものではあるまいに」
「……」掬利大乗刹邏は黙って俯き、亡者たちに目を向ける。
「彼らの罪は重く、とても地上での生で贖えるものではありません。でも……」
掬利大乗刹邏の目が静かに輝く。
「ここにいる全ての者に、遠い昔、我の世話になった者の気配を感じるのです」
「……!」
「罪を犯したからといって、魂まで穢れてしまったわけではありません。皆一度は善き生を歩み、その魂に玻璃を宿している。我はそう信じています」
「……」
「どれ程の時がかかろうとも、全ての亡者に寄り添いたい。そして彼らが生まれ変わった暁には、玻璃の輝きを取り戻し、慈悲と気高さをもって敵を討つ力になって欲しいのです。我があなた方の下で、道を見つけたように」
「……」
「奇々衆は遍く生を経て成る者。それは人間の傀儡でも、生贄でもない。魂の長き旅の果てで、全ての者に善なる心を見出すという形で恩を返す存在なのだと、漸くわかりました」
「掬利大乗刹邏……」嗚咽を堪えて声を出したのは、一の卒だった。
「其方は、我が同胞がついぞ見つけられなかった答えを、見出したのだな」
閻魔と八獄卒は深い感慨に包まれた。皆嬉し涙を堪えて微笑んでいた。こんな気持ちになったのは何年ぶりだろうと、言葉なく語るように。
「この身となってまだ五千年ばかりですが、どうぞよろしくお願いします」
閻魔と八獄卒は深く頭を垂れ、掬利大乗刹邏の手をそっと握った。互いの掌は、長い闇を越えた先の絆を、穏やかに、しかし力強く温めていた。
少し離れたところで、閻魔と弥勒が八獄卒と掬利大乗刹邏を見守っている。
「掬利大乗刹邏、か。いい名だな」
「我がつけたのだ。悪くは無かろう」
「うむ」
八獄卒と掬利大乗刹邏が和やかに語り合う様を眺めながら、閻魔は静かに呟く。
「弥勒」
「ん?」
「そろそろ、彼らにも名を与えたい。六億五千余年の間、識別に過ぎない番号の名前しか与えなかった。この名のままでいるのはあまりにも寂しい」
弥勒は微笑んだ。
「ならば、我と共に考えよう。新たなる時代の、最初の名を」
遠く、血の池の光が揺らめく。
その光は、確かに玻璃のように、穏やかに輝いていた。
~完~




