(番外編 その二)迷い込んだ猫
”トガ”が倒れた日から六十年後。
掬緒はゆずと結婚して二男一女を儲け、さらには八人の孫にも恵まれた。今は養祥寺から遠く離れた丘の上の小屋で、ゆず、そして数日前に保護したばかりの白い猫・水晶と暮らしている。今日は朝から、長男夫婦が二人の孫を連れて会いに来ていた。
「おじいちゃーん、さようなら!」
「またねー!」
「ありがとうございました」
「父さん、母さん、年が明けたらまた来るよ」
楽しい時はあっという間に過ぎ、四人は別れを告げる。
「気をつけて帰るんだよ」
「また美味しいお菓子用意して待ってるからね」
遠くの空に日が沈む。掬緒とゆずは、自分に向かって長く伸びる影を、いつまでも見送っていた。
翌日。
「ぅにゃぁ~」
「あら?」
縁側で水晶を膝に乗せて座っていたゆずは、聞き慣れない声を耳にする。草むらに目をやると、どこから現れたのだろう、黒い猫がそこにいた。
「この子より体が一回り小さいわねぇ……まだ子どもなのかしら」
「ウウウウウゥゥゥ……」黒い猫はゆずを睨みながら唸り声をあげる。その視線は水晶にも向けられた。
「しっしっ、あっち行きなさい!」
黒い猫が水晶を襲おうとしているように見え、ゆずは追い払おうとする。だが黒い猫はずっと唸ったままその場を離れない。
(こんなに荒々しい猫、今まで見たことがないわ……)
ゆずは黒い猫の気迫に怖気づくが、竹箒を持って恐る恐る近づいた。そして――。
「えいやっ!!」
竹箒の先端が、黒い猫の顔を掠める。黒い猫は流石に驚いて仰け反ったが、その足は四本ともしっかり地についていた。
「シャアァァァー!!」
黒い猫は威嚇の声と共に、竹箒を引っ掻いた。
「きゃっ!!」ゆずはとうとう腰が抜けてしまった。
「ゆず!!」
掬緒が駆け付けた時には、黒い猫はゆずに目もくれていなかった。代わりに水晶を見据え、唸り声をあげていた。
その時、何故か周囲が暗転した。掬緒もゆずもいない。周りの風景も見えない。
「ここは……?」
水晶がいた場所には、彼とは対照的な黒い髪の少年が立っている。自分の他に誰かいないかと、少年は周囲を見渡す。
「……!」
視線の先に、誰か、いる。
「兄ちゃん……?」
そこにいたのは、自分と瓜二つだが髪が白い少年だった。やがて二人の目が合った。
「玖煙……玖煙なのか?」
「そうだよ!玖煙だよ!兄ちゃんは……兄ちゃんなの?」
「ああそうだ。俺だ、玖英だ!」
玖英と玖煙――それぞれの足は無意識に動き、二人を近づける。
「兄ちゃん!兄ちゃん!!」泣きながら玖英の胸に顔を埋める玖煙。
「玖煙……」玖英の声には、嬉しさの中に一抹の寂しさが混じっている。
「でも変だよな。猫になったし、毛の色も逆だなんて。しかも、お前の方が先に生まれたんだろ?」
「それが何だって言うの!?人間として生まれても、兄ちゃんに会えなかったら嫌だよ!」
「え?」すかさず言い返した玖煙に戸惑う玖英。
「僕、地獄にいた時も、ずっと兄ちゃんを忘れなかったんだ!”また会える”って兄ちゃんが言ってたの、いつか必ず本当になるって……」「玖煙」玖英が静かに口を開く。
「俺もそうしてた……色々あったが、一番に考えてたのは、お前にまた会うことだ」
「兄ちゃぁん、兄ちゃぁん……」
泣きつく玖煙の頭を優しく撫でながら、玖英は言う。
「ここでの暮らしはどうだ?」
「とってもいいよ。ご主人様は優しいし、食べ物にも困らないもん」
「じゃあ、俺もここに住まわせてくれ。いいな?」
「もちろん!」
世界は再び現実に戻る。
「ちょ、ちょっと、水晶……」
水晶は固唾を飲んで見守る掬緒とゆずの前で、黒い猫にゆっくり歩み寄る。そして黒い猫に挨拶をして毛繕いをした。
「にゃっ!」
「にゃ!」
呆気にとられる掬緒とゆずを尻目に、二匹は並んで歩き、居間のちぐらで寄り添うように座った。今度は黒い猫が、水晶の毛繕いをしている。
「にゃ……」
「おやおや、これは……」
掬緒は尚も目を丸くしている。一方、ゆずは――。
「会ったばかりなのにこんなに仲良くなるなんて……まるで本物の兄弟みたいね」
竹箒で振り払おうとするまでに強かった警戒心が、今やすっかり消えていた。仲良くなった二匹に、感動さえ覚えていた。
いつの間にか水晶と黒い猫は寝てしまった。二匹を微笑ましげに見つめながら、ゆずと掬緒は言う。
「ねえあなた、この子も飼いましょうよ」
「うん、そうだね。名前はどうしようか」
水晶と黒い猫が前世で因縁のある存在だということを、掬緒は知らない――。




