(第六十二話)祈りが齎した奇跡
”慚愧の怪”は倒れたまま、息をするのもままならなくなっていた。力がなくなると共に周囲がぼやけ、段々と黒い霧の中に紛れていく。五人は再び、謎の空間に取り込まれた。
(ガッ、ガッ、ガッ……)
幻影の”トガ”が、五人の頭を次々に踏みつけていく。そして、吐き捨てるように言うのだった。
「お前らは弱かった。だから負けたのだ」
足と共に”慚愧の怪”を甚振る”トガ”の言葉。でもこれを事実と認めざるを得ない。自分は前世で人間に負けた。地獄で責苦を受け、その心を認められて転生し戦うも、殀鬼にされた民に何もできない。そして今まさに事切れそうになっている―。
(もう……だ……め……)
”慚愧の怪”の心は瞬く間に絶望に染まった。さらには手から鉤爪が生え、目が黄色の禍々しいものになっていく。今まで一所懸命に戦ってきたというのに、最後の最後で何もできないまま、殀鬼になろうとしていた。
(……だせ!)
「……?」
ぎりぎりと、地にのめり込むまで頭を踏まれていた掬緒の耳に何者かの声が響く。誰だろう。”トガ”ではない。
(思い出せ!其方は何の為に選ばれた!?)
その言葉に、掬緒の目が開く。「六の卒……様?」
(粒選りの終わりかけに、其方の心に玻璃が見えた。それを無駄にしたくなかった。其方の存在は、必ずや誰かを救うと―)
「そなたが”人”として生まれし証をここに遺す。どうかどうか安らかに、死して尚この世を呪う存在とはならぬよう―」
声が聞こえた。生まれるより前に聞こえたあの声が。自分が人間として道を歩もうと思うきっかけとなった声が。
「……!!」
掬緒の心に突如、故郷での思い出が蘇る。
「おはようございます!」
「おはよう、今日も元気だねぇ」
「若えのが頑張ってんだからなあ、俺も頑張らにゃあ」
「おーい掬緒、ちょっと手伝ってくれ」
「きい兄、遊んで!」
「こらこら」
自分の誕生日。殀鬼が来る直前の出来事だ。掬緒はわかっていた。この光景がこの後、跡形もなく消え去ることを。でもそれはどうでもよかった。ただひたすら、この幸せの中に身を委ねていたいのだ。
「掬緒」
「掬緒……」
「きい兄!」
「きい兄ぃ……」
「掬緒!」
「掬緒くん!」
「掬緒さん……」
続いて聞こえた声。これは櫻蓮郷の人々のものだ。兄さん、姉さん、綺清那、べるめろ、先生、丙さん、乙さん―。
「あ……ぁ……」
掬緒の目から、温かい雨のような涙が流れる。こんな気持ちに、そしてこんな涙が流れたのは生まれて初めてだと思った。
(そうだ。僕はこんなにもたくさんの人に会えたんだ。僕のことを思ってくれる、優しい人たちに…)
「さあ、おいで」
嘗ての故郷と、新たな故郷の大切な人々が手を差し伸べる。お疲れ様、もう苦しまなくていいんだよと語りかけるかのように。
「みんな……」
掬緒の涙はいつの間にか止まっていた。僅かに残る水滴で潤む目で、掬緒は宙を見上げる。掬緒はゆっくりと腕を伸ばす。手を伸ばす皆の思いに応えようとした―。
「鎧喝食、お前は体が硬いだけで、本質は弱かった。だから負けた」
唐突に響く”トガ”の声。みんなが差し伸べた手を押しのけて、その汚い足で、掬緒を踏みつけようとしていた。
「それは今生でも変わらない。お前は弱いから、こうして、何もできずに死―」
(ガッ)
掬緒は伸ばしていた手で”トガ”の足をがっしりと掴んだ。”トガ”の足の皮がひしゃげる程力が籠っていた。
「違う。僕が負けたのは、弱かったからじゃない。人を知らなかったからだ!!」
「こ、こいつ……」
”トガ”は怯んだ。足を千切らんばかりに強く握る手。燃えるように自分を睨む目。それは猫を噛む負け犬のものではなかった。
「人を知らないのに力ばかり強くなったって、勝てるわけないん……だっ」
丁度その頃、”慚愧の怪”の他の面々も、八獄卒の声を聞いていた。䯊斬丸には、一の卒が語りかける。
「其方は我との約束を、生まれ変わっても覚えていてくれた……」
「……い、一の卒様……?」
「それをふいにしていいものか?」
「いえ、断じて!!」
彩蓮の元には三の卒の姿が映っている。
「醜い姿になってまで叶えたかった、其方の願いは何だ?こうして敗れ去ることか?」
「……っ!!」
「立ち上がれ。絶望を払えるのは、己の力のみだ」
綺清那は四の卒の幻影と向かい合っている。
「其方の心には、小粒ほどの玻璃しか見えなかった」
「もう……嫌だ……みんなも……じゅう兄も……いないのに……」
「だが、小粒でも確かに其方のものだ。それが何を意味するかわかるか?」
「何なのぉ……」
そこへ七の卒が現れる。「これを見るがいい」
「もう一度、みんなと戦いたい!!」
「……じゅう兄……!」
べるめろの前には八の卒がいる。
「其方が生まれ変わった目的を覚えているか?」
「……”ま……ま”……」
「そうだ」
「でも……”まま”はもういない……」
「それはご愁傷様というところだな。でも其方の歩んだ道は無駄ではなかった。その、”まま”と呼ぶ者の伴侶が、まだいるだろう?」
「……ぁ……!」
「其方たちの力は、そして心の玻璃は、この程度で割れるものではない筈だ」
八獄卒全員の、厳しくも温かい声が、”慚愧の怪”の身を包んだ。
(フワアァァァ……)
その時、奇跡が起きた。”慚愧の怪”が闇を脱したのだ。しかも、その外見は白銀の髪と衣を纏った、静謐且つ神聖な存在へと変わっていた。
「そ、その姿は……」
次々と起こる予想外の事態。その極致ともいうべきことが起きた。”トガ”はたじろいだ。”慚愧の怪”は今や、人も殀鬼も超越した存在になろうとしていた。
「ぁ……」
目を丸くする”トガ”。だが五人は誰一人として彼に関心を向けない。天高く昇った彼らは、穏やかな面持ちで下界を見下ろす。視線の先には、五人に目を奪われる禍々しき怪物の姿がある。
「あなた方はまだ間に合う。だからどうか、人の誇りを捨ててくれるな―」
慈しみのこもった声で五人が言った後、手に淡い金色の粒が現れた。五人がそれを振りかけると、殀鬼の黄色い目が、ゆっくりと黒みを取り戻していった。爪も、牙も、引っ込んで小さくなった。肌も、つややかで温もりあるものへと変わっていく。殀鬼から邪鬼が抜け、人間の姿に戻ったのだ。
「これは……これは、何というご慈悲……」
殀鬼から人間に戻りつつあった者たちは、得も言われぬ美しさ、そして慈悲深さの光に涙を流した。




