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慚愧の怪  作者: Masa plus


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(第五十二話)見えざる結界

 鬱蒼とした森の中で、立平太が痺れを切らしていた。

「遅い……啞瞻の奴、何やってるんだ」

彼はわかっていた。間違いない。自分の目の前には、見えない結界がある。掬緒の頭を掴み、この位置を引き出したのだ。

「奴らにばれたらどうするんだ……この、”トガ”様がお喜びになるであろう、またとない機会がふいになったら……」

立平太は苛立ちつつ、自分がここに至るまでの人生を振り返る。

 

 今から五十年前のこと。

「……」

ぽつんと立つぼろ家の片隅で、十代くらいの少年が蹲っている。その目はどこを見ているのかわからない。

「……あ……」

少年の傍には、口をあんぐり開けて横たわる母親がいる。一筋の光も入らない目で、ぼんやりと天井を見つめている。

「ちっぺぇ……魚が食いたい……あと寒いから毛布……」

「……はぁーい……」

ちっぺぇというその少年は嫌々そうに答える。横目で母を見る彼の表情には軽蔑が滲み出ていた。

(さっき魚食ったばかりじゃねぇか)

母は過食症だった。二年前に父が他界した後に心を病み、常に食べ物を口にしていないと落ち着けなくなったのだ。

(ケッ)

内申舌打ちしても、ちっぺぇには母に逆らえない理由があった。数か月前、母に思い切って不満をぶちまけたところ、こう返されたのだ。

「餓鬼の分際で、お母さんに逆らおうってのかい!?」

母は起き抜けのざんばら髪を四方に広げ、背景が見えなくなった。真っ黒な光景の中心には、艶のない肌、窪んだ眼をかっと見開いて、口を耳まで裂けんばかりに開けた母の顔がある。最早人の姿をした妖怪でしかない。

(ぁぁぁぁぁ……)

ちっぺぇはすっかり圧倒されてしまった。母があんなに恐ろしく変貌するなど、夢にも思わなかった。この日以降、ちっぺぇはどんなに不満があっても、母に逆らえなくなった。


 ちっぺぇは実家にも劣らぬぼろさの服を着て、桶を手に表通りを歩いている。

「食いもんくださ〜い、もーふもくださ〜い」

如何にも面倒臭そうな顔と声で、ちっぺぇは行き交う人々に物をねだる。哀れな身なりで睨むように見上げるちっぺぇを見て、ある人はこう言う。

「可哀想に。ほら、これあげるよ」

またある人はこう言う。

「どけよ餓鬼が!!」

別のある人はこう言う。

「おぉ!?いいの持ってんじゃねぇか。よこせよ、ほら!!」

ちっぺぇは母に物資を調達する歯車だった。毎日毎日物をもらい、邪険にされて蹴られ、一部の物はふんだくられる。ちっぺぇが家路につく頃には体中泥と怪我だらけで、服は日に日に擦り切れていった。母はそんな息子の有り様に気づかず、いつもと変わらないと思っていた。剰えこうも思っていた。

「毎日出掛けて帰って来れる分、あの子の方が元気なんだ。こちとら動くのも苦しい。早く何か食べたい。なんとかしてくれ」

母がちっぺぇを気にかけることは、全くなかった。


 五年後、母が亡くなった。

「……」

ちっぺぇは何も感じなかった。悲しみも、束縛から解放される自由も。歯車として生きるうちに、自分の感情をどこかに捨ててきてしまったようだ。

「……」

生きていた時と変わらない、天井を見て口をあんぐり開けたまま横たわる母の死体。そのまま放置されたので、日が経つごとに腐敗が酷くなり蛆虫が湧いた。それを見てちっぺぇは思った。

「いつもと変わんねぇな」

それでも腐臭には耐え切れず、遂にちっぺぇは家を出た。


 ちっぺぇは自由の身となったが、極貧生活の影響で碌な教養も技術も身につけていなかった。その為、行く先々で路頭に迷うこととなったのである。

「これ、何て読むんだ……?」

看板や貼り紙を見ても、何が書いてあるのかわからない。立入禁止の場所に入っては泥棒と誤解され、捕えられそうになることが度々あった。

「これは……?」

「ああ、これはね……」

稀に、行きずりの人が説明してくれる。だがちっぺぇにはそれでもわからない。言われたことを理解できる器がないのだ。

「……」

ちっぺぇは自分が世界から取り残されていると感じた。親切な者も、意地悪な者も、自分を対等な存在とは思っていないのが明らかだった。

「俺は……誰なんだ?」

ちっぺぇは、気がつけば譫言のようにそう言っていた。


「お前……この程度のこともわかんねぇのかよ」

「まぁ、こんな簡単な字も読めないの?」

漠然と『本当の自分』を求め、試しに簡単な仕事や手伝いをしようとするちっぺぇ。だが彼の知識や技術はとても人並と言えるものではなく、盗みを働いていたことを承知の上で雇ってくれる懐の深い者さえも呆れさせた。周囲の者からすれば、ちっぺぇは”体だけ大きい幼児”でしかなかったが、本人にはそれがわからなかった。

「もううんざりだ。出て行け!」

結局、殆ど何もできずにこう言われて追い出されるのがオチだった。


 ある日、ちっぺぇは沈む夕日をぼんやり眺めていた。

「俺はぁ……誰なんだ……ぁ……?」

彼は何か考えるのさえ億劫になっていた。夕日が美味しそうな饅頭に見えて、口をぱくぱくさせていた。

「あ……」

母の屍のように口を開けるちっぺぇ。このまま夕日を食べようとした。

「あ?」

夕日に目が出た。鼻が出た。耳が、口が出た。そして手や胴、それから足も……。


「可哀想に。お前は取り残されてしまったのだな」


「……あぁ」

ちっぺぇは無意識にそう答えた。はいでもいいえでもない。ただそう答えたのだ。

「お前の気持ちはよくわかる。私も嘗て、碌な教養も与えられず蔑まれていた頃があったからな」

「……あぁ」

「さあ来い。お前を一人前にしてやろう、『立平太』」


「”トガ”様……生まれて初めて私を認めてくれたお方だ。私の魂が、あの時やっと、救われたような気がした」

”トガ”は『自分も蔑まれていた』ことから立平太に同情し、反抗心が芽生えない程度に自分の持ち得る知識を与えた。殀鬼の力が見事適応した立平太は、その日を境に驚異的な学習能力を手に入れる。殀鬼になった時点でこの世の全ての文字が読めるようになっており、看板や張り紙はその内容を秒で理解した。遂には難読漢字塗れの古書まで難なく読めるようになった。

「取り残されていた私を導いてくれた。”トガ”様だけが、この世で唯一、私を裏切らないお方だった」

立平太の顔を、風がそっと掠める。

「だから私は決めたんだ。”トガ”様に永遠についていく、と―」

立平太は思いを馳せる。その間もただ時間が流れるだけだった。啞瞻は一向に来ない。

「やむを得ん……あいつが来ないなら、一か八か私一人で……」

痺れを切らした立平太は当初の計画を撤回し、単身結界を破ろうと、妖力を集中した手を伸ばす。

「うぅぅ……」

手応えを感じた。あと少しで結界を破れそうな気がした。その時。


「!!」


立平太の手から妖力が消えた。

「何だこれは……背中に妙な温かさを感じるな……」

温かさは、やがてじんじんとした熱さに変わる。さらには背中に、焼けるような痛みさえ感じる。


「諦めろ。お前に残された道は地獄へのそれのみだ」


痛みの向こうから声が聞こえた。立平太は振り向こうとした。だが首が後ろに向かない。自分の頭頂部の影の上に、見るだけで恐ろしくなる刀があった。その切っ先からは、ぽたぽたと血が滴り落ちている。

「立平太、お前はここで終わりだ」

冷たい声と共に漂う香り。立平太は吐き気を催した。

「我らが櫻蓮郷には指一本触れさせない!」

立平太の後ろにいたのは䯊斬丸だった。彼はさらに刀を振り上げて止めを刺そうとするが、あと少しのところで躱された。

「くぅっ……」

䯊斬丸が刀を薙ぐ度、全身を侵す香りが立平太の身を包む。吐き気で脳内がぐるぐるとかき乱され、立平太は何度もよろめいた。それでも”トガ”の信頼厚き殀鬼としてここで倒れるわけにはいかないという強い執念の元、全ての攻撃を辛うじて躱した。

「悪運の強い奴だな……」

䯊斬丸も䯊斬丸で、故郷を守る為に引けない。攻撃が当たりそうで当たらない。それが何度も続き、䯊斬丸は苛立ちともどかしさを覚える。それでも坐胆や”慚愧の怪”の仲間、丙や乙、そして愛する民の誰をも犠牲にしたくないという思いの元、䯊斬丸は戦う。

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