(第五十一話)たった一人の子
「うっ……」
哀蝉は尚も頭痛に苦しめられている。顔を上げるのも苦しいが、自分の前には敵がいることもわかっている。
「くっ……」
痛みを堪え、重い頭を持ち上げる哀蝉。遠くの空では日が昇り、立ち上がろうとする彼の影を長く伸ばした。その影が掬緒の元に届こうとした時だった。
「!!」
届こうとした影を斬るかのように、新たな影が現れた。
「牛を逃がしてこんな小童如きに負ける奴なんて、”トガ”様が悲しむわん」
「あ……啞瞻……」
この場に似つかわしくない華美な服装と甲高さの声に、哀蝉は顔を顰めて振り返る。掬緒も新たな敵の出現を受け、警戒を強めた。
「もうお暇なさいん!」
啞瞻はそう言って怪光線を浴びせる。同胞である筈の哀蝉に対して、だ。哀蝉は頭痛を忘れ、咄嗟に避けた。地面に当たった怪光線は土を抉り、小さな穴をあけた。
「いつまで私たちの足を引っ張るつもりですのん!?」
「もう……失態を犯したくないんです」
掬緒は唖然とした。敵同士が戦うのを初めて見た。
「全くぅ、往生際が悪いですわねん!」
しかめっ面の啞瞻は、再び怪光線を向ける。哀蝉は必死に躱していたが、頭痛が後を引いているのか、躱す毎に頭を庇った。その間にも怪光線は哀蝉目掛けて放たれる。ぼこぼこ穴が開いていく草原。掬緒はわかっていた。啞瞻は最早、哀蝉を同胞として見ていないのだ。
「ぅあっ……!」
怪光線が哀蝉の膝を掠めた。膝に火が付き、哀蝉がいくら消そうとしても消えない。
「初一~ぃ」
再び声が聞こえた。
「ぅぁ……!?」
哀蝉はかっと目を見開いた。自分が”哀蝉”の名を与えられる前、初一という少年だった頃のことを思い出したのだ。
「初一が殀鬼に殺されてしまったらどうしよう……」
「そうだ……僕が教祖様、いや、”トガ”様についていったのは、お父さんとお母さんを安心させたかったからだ……」
まだ視界に入っていない両親を目指して、哀蝉は血が流れる足に力を込め、重々しく立ち上がった。
「……初一……」
掬緒は哀蝉の様子から悟った。彼が人間であった頃のことを思い出し、本当に自分にとって大切な存在の為に一歩を踏み出そうとしていることを。止めを刺そうという思いは消えた。ゆっくりと、しかし確実に進む彼を見守らなければと、思った。
(ガッ!!!)
哀蝉の体を、凄まじい光の一閃が貫いた。啞瞻がまたしても怪光線を放ったのだ。
「お馬鹿ちゃんですわねん、背中をがら空きにするなんて」
「うぁっ……」
哀蝉は悶えた。口から血が噴き出していた。このままでは事切れてしまう。痛みに乗って、死への恐怖が哀蝉を襲った。
「んもぅ、悪あがきも大概に―」
「やめろ!!」
次なる攻撃をしようとした啞瞻の前に、掬緒が立ちはだかった。その手には金色の弓が握られ、矢先はまっすぐに啞瞻に向いている。
「先にお前から地獄に送ってやる!」
「あらぁ、今度はお邪魔虫ですのぉん?」啞瞻は、呆然と立っていた掬緒が歯向かう様を見て露骨に不満げな顔をした。
「ならあんたも纏めて―」
「啞瞻!」
止めを刺そうとした啞瞻を呼ぶ声が響いた。姿は見えないが、啞瞻の腕輪がうっすら光っている。声はそこから聞こえているようだ。
「何ですのん、立平太」
「新たな人間どもの里を見つけた。だが強力な結界が貼られている。至急来て一緒に壊してくれ」
「んもぅ、仕方ありませんわねん」立平太の言葉を聞いた啞瞻は、あっさりと戦意を失った。
「さよならん!」
啞瞻は一瞬で姿を消してしまった。掬緒はまたしても止めを刺す機会を失い、その場に立ち尽くしていたが……。
(ドン、ドン)
背後から妙に重量感のある音が聞こえた。大地が震え、掬緒の体さえ震わせた。
「!?」
掬緒の視線の先には哀蝉―ではなく、球体に巨大な腕がぼこぼこと生えたような、何とも気持ちの悪い怪物がいた。
「うわぁぁ……ぐぁぁぁ……」
怪物は哀蝉が変容した姿だった。「初一~ぃ」と呼ぶ声が両親のものであることを思い出した彼は、致命傷を負ったにも拘らず、あと少しで会えそうな両親の元へ歩いたのである。無理に力を使った哀蝉は、その代償として、本来とは似ても似つかぬ姿になり果ててしまったのだ。
「うわぁぁ……ぐぁぁぁ……」
怪物の後に、地面を這いながら掬緒が近づく。怪物の向こうにはひなびた民家があった。
「初一~ぃ」
掬緒には見えた。老夫婦の姿が。家へ近づく怪物は初めて見る姿だが、掬緒にはその正体が何となくわかっていた。
「うわぁぁ……ぐぁぁぁ……」
怪物の腕の動きが激しくなる。しかも、家へ一歩、また一歩と近づく毎に激しさを増している。
「まずい、このままじゃあの二人が……」
「初い―」
(ヒュン)
それは怪物と老夫婦が目を合わせる直前のことだった。朝日に照らされる黄金の矢が、怪物の額を貫いたのだ。
「……ぁ……」
怪物を朝日毎吞み込まんとばかりに、地獄への扉が開いた。禍々しい腕が消え、哀蝉、もとい初一は元の姿を取り戻す。その直後、地獄へ送られた。
「父さん……母さん……!」
初一の最期の言葉を、掬緒はしっかり聞いていた。そして驚いた。初一が呼んでいた老夫婦は、彼の両親だったのだ。遠くからでも目立つくらい皴が深く、髪は完全な白髪で、さらには腰が曲がっている。掬緒はずっと、老夫婦を祖父母だと思っていた。
(あの二人が……お父さんとお母さん?)
掬緒の手が震えた。足も力を失って、地面に膝をついた。
「……おかしいな……」
自分の体を傷つけられたことはどうでもよかった。それよりも重大なのは村のことだ。歌に洗脳され互いに殺し合った人々。心温まる長閑な風景が一瞬で血の海と化したこと。さらに、ゆずの両親を操って自分を襲わせた因縁もある。哀蝉のしたことには何一つ庇える点がない。許せない。なのに、その思いさえ、今は霞みつつある。
「どうして……『あいつは地獄に堕ちて当然』って言う気がしないんだろう……」
「あれ……?」
「あんたは……誰だい?」
老夫婦が掬緒の姿を捉えた。振り向いた彼の顔には涙の跡が残っていた。
「ぅっ……」
傷が疼き、掬緒は倒れてしまった。老夫婦は腰が曲がったまま、早歩きで近づく。そして掬緒の傷の深さに気づいた。
「酷い怪我だねぇ、家で休んでいきな」
日が差し込んでも尚薄暗い囲炉裏の傍に、掬緒と老夫婦が座っている。
「ありがとうございます。痛みが引きました」
「よかった。でもまだ傷が深いからね。無理はするんじゃないよ」
老夫婦は交代で掬緒の様子を見たり、部屋の奥からお茶を持ってきたりしている。二人は掬緒が安心できるよう気を配っているが、その見た目に違わず動作が重く、やっと体を動かしているような状態だった。深手を負ったとはいえ、老いた二人に面倒を見させてしまい、掬緒は申し訳ない気持ちになった。
「?」
掬緒が部屋を見渡すと、隅の棚に、車輪がついた小さな木馬があった。その隣には、鳥の形をした置物もある。
「あれは、何ですか?」掬緒は木馬を指さして老翁に聞いた。
「あれは初一……うちの息子が小さい時に遊んでたおもちゃだよ」
「その隣のは?」
「笛だよ。あれも息子がよく吹いてたんだ」
丁度そこへ、老婆が戻って来た。
「この笛が気になるのかい?」
「はい」
「これ吹いたら初一がすごく喜んでねぇ……いつか自分も、この笛みたいに綺麗な声で歌いたいと言ったんだ。それから初一は歌うことが大好きになった。歌で皆が笑顔になると、まるで自分も幸せになったみたいに、嬉しがってたんだよ……」
寂しげに語る老婆。掬緒は笛に関して、これ以上何か聞くのはまずいと思った。だが老婆は笛を取り、その場に座って吹いた。
「♬~♬~」
(あれ!?これは……)
老婆が吹いた旋律は、哀蝉が歌っていたのと同じものだった。他にも数曲吹いたが、全て哀蝉が歌っていたものだった。
「あ……ぁ……」
掬緒は言葉を失った。無辜の人間を多数死に至らしめた哀蝉。その悲劇の象徴ともいえる歌の数々が、彼が地獄へ堕ちる直前に見せた姿、初一のものへと塗り替えられていく。遂には老婆の隣で、興味深く笛の音を聞く初一の幻影さえ見えた。一切知らない筈の、在りし日の初一の姿が、ありありと目に浮かぶようだった。
「突然いなくなっちまって……本当に、何処に行っちまったんだろうなぁ、初一……」
笛の音と、幸せな過去を思い出しているかのように吹く老婆、そして隣で懐かしげに呟く老翁を見て、掬緒は涙を堪えられなかった。
(どうしよう……)
握られた掬緒の拳がぎりぎりと震えている。老夫婦は、かけがえのない息子が行方不明になり、その思い出を拠り所にして生きていたことが想像に難くない。真実を伝えるべきか。夫婦にとって、その真実がどれほど残酷なものかは明白だった。掬緒の葛藤は止まらない。
「あああぁぁぁぁぁ!!」
その頃、啞瞻は愕然としていた。哀蝉と戦う間、木に括り付けていた牛がいなくなっていた。残っているのは、無造作に引き千切られた縄だけだった。
「この私から逃げるなんてぇぇぇ!」
「啞瞻!おい啞瞻!」啞瞻の腕輪が光る。
「いつまで待たせる気だ!」
「はーい、今行きますわん!」
啞瞻は牛がいなくなったことばかり考えていて、立平太との約束をすっかり忘れていた。
「この私から逃げるなんて……次に会ったらただじゃおきませんわよん!」
啞瞻は苦い悔しさを抱え、立平太の元に急いだ。
掬緒がはらはらと涙を流していた時。
「モゥー」
外で鳴き声がした。牛が戻って来たのだ。
「!!」
掬緒ははっとして立ち上がり、窓から外を見る。遠くの方に、自分を迎えに来たかのように佇む牛がいた。
(行かなきゃ……)掬緒は老夫婦の方へ振り向く。
「ありがとうございました。そろそろ帰ります」
「傷は大丈夫かい?」
「大丈夫です。そ、それから……」
掬緒は拳の震えを抑える。葛藤の末、言うべき言葉が見つかったのだ。
「初一君にはいつかきっと会えます!だから、どうか初一君のことを、忘れないであげてください!!」
掬緒は老夫婦の袖を掴み、泣きながらそう訴えた。そして、その手を静かに下した。
「失礼します」
掬緒は玄関をこじ開け、牛へ向かって一直線に、振り向かずに走っていった。後には目を丸くした老夫婦が残された。
「力が戻って来たのか……啞瞻の束縛から逃れられた。早く掬緒を見つけないと……」
(タッタッタッ……)
「ん?」
草を踏む音がして、牛は顔を上げる。
「はぁ、はぁ……」
「掬緒!!」
息を切らして倒れかけた掬緒に、牛は駆け寄る。掬緒はそのまま、牛に頭を埋めた。
「あと少しでお父さんお母さんに会えそうだった子を、地獄に送っちゃった……」
「……」
「しかも、そのお父さんお母さんに、いつか会えるって言っちゃった……嘘、ついちゃった……」
「……」
「僕、これでよかったのか、わからないよ……」
「掬緒」牛はそっと呟く。
「そんなに自分を責めるな。殀鬼が生み出す悲しみとは、無辜の人間が命を奪われることばかりではない。”トガ”の傀儡となって殺戮を繰り返した挙句、大切な人に会えないまま地獄送りになる。それもまた悲しみなんだ」
「じゃあ、僕がすべきなのは……」
「”トガ”を倒し、悲しみの連鎖を一日でも早く止めることだ」
掬緒の脳裏に浮かぶ影。それは哀蝉のものだけではない。幻水兄弟の最期、竜と化した漣彌、そして羅呉の墓。人が殺される悲しみを絶つ為に戦っていた筈が、いつの間にか悲しみが増えている。無力な自分が憎くて、憎くて、呪いたいとさえ思った。それでも進まなければならない。もっと多くの悲しみが生まれる前に―。
「さあ、行こう」
「うん!」
掬緒は牛の背に跨る。牛は大地を蹴り上げ、山を越え谷を越えて、櫻蓮郷を目指した。
牛と共に櫻蓮郷へ向かう道中のことだった。
「……?」
周囲に青々とした木が広がっていた筈が、全く違う光景が見えた。
「……??」
朧げに浮かび上がる光景。そこには手が映っている。乗っているのは―粽だ。
「……!」




