(第四十六話)忌まわしき萌芽、地獄にて
今から六千五百年前、無明絶孤地獄がだだっ広い荒地で、丁の区分けもなく、混沌とした場所だった頃のこと。
「うぅぅ……」
そこである者が生まれた。そしてその直後に魘された。片目を眼帯で覆った、人間に例えるなら壮年期の”男”のような外見の者だった。
「うぅぅ……」
彼こそが、後に地獄を統べることとなる閻魔だった。彼の夢の中では、血のような空と枯れた骨のような大地の間で、人間の形をした影が蠢いている。
「あああああああ……」
影はけたたましい断末魔をあげた後、一体、また一体と倒れていく。最終的には全ての影が倒れ、さらには彼らがいた禍々しい空間さえもが消滅した。
「我は、人間を護り、迷い子を救う為に生まれた筈だ……」閻魔は声を絞る。
「なのに、それが叶わないというのか……?人間は滅びる宿命なのか……?」
夢から覚めた閻魔はその後、暗い大地を当てもなく歩いていた。
「うっ……」
歩き始めて千五百年後、急に眩しい光が差し込んできた。閻魔が恐る恐るその方へ歩いていくと、そこには大きな池があった。”清浄”とは正にこのことだと思う程澄み切った水の上に、自分の背丈よりも大きな蓮が林立している。
「あれは……!」
閻魔の目を引いたのは、その中でも一際強く輝く蓮の花だった。他のものは花弁が薄紅色なのに、それだけは花弁一枚一枚が異なる色をしていて、まるで虹のようだった。花弁を数えると、全部で八枚ある。
「おお、何と見事な」
その花があまりにも美しかったので、閻魔はもっと近くで見ようとした。花の下に来た時、閻魔は好奇心から茎を揺すった。
「あっ!!」
立派だと思っていた花が、ほんの僅かな揺さぶりで裸になった。全ての花弁が落ちてしまったのである。
「ああ、何てことを……」
閻魔は後悔したがもう遅い。諦めようと思った、その時だった。
「!?」
八枚の花弁が、光を放ったままゆっくりと、人の形になった。
「……ぉ」
「お……」
「……あ~!」
自分より少し若く見える彼らは、その見た目に似合わない、赤子のような喃語を発した。言葉になってはいないとはいえ、自分の存在を認知しており、知性が全くないとは思えない。閻魔は新たに生まれた八体に手を差し伸べる。
「来るがよい。我が導いてやろう」
八体は閻魔に腕を伸ばし、その手を握りついていく。閻魔は彼らが一人前になれるよう心を砕いた。後に、閻魔は彼らを”八獄卒”と呼んだ。
八獄卒が難なく話せるようになった頃、閻魔は久しぶりに池を訪れた。
「……変わらぬな、あの日のままだ」
池を覆い尽くす、薄紅の蓮の花たち。虹色の花が咲いていたものは、今や高く伸びた茎の先に、小さな花托がついているだけの貧相な姿に成り果てていた。
「……ん?」
閻魔がよく見ると、花托に一枚、干からびた小さな花弁がついていた。池に吹くそよ風に情けなく揺れていたそれは、やがて力尽きたように落ちた。そして―。
「これは……あの八人と同じく、人の形になったではないか」
八獄卒のように、花弁はゆっくりと人の形になった。だが閻魔は、花弁が輝いていないという点を差し置いても、違和感を覚えた。
「だが、随分と小さいな。肌色もまるで汚泥のようだ。それに……何だか、この者からはとてつもなく不吉な気配を感じる。我がいつだったか見た、あの夢によく似た気配だ……」
新たに生まれた小さな獄卒は、閻魔から忌み嫌われていた。名前も、八獄卒と同じ教養や役割も与えられず、することといえば彼らの雑用のみだった。
「……ふん、我は余りものという事か」
獄卒が一人膝を抱えて座っていると、一の卒がそっと近づいてきた。
「これをやろう」
一の卒は数冊の書物を差し出した。それは彼が閻魔に下賜されたものだった。
「其方だけ我々と同じ教育を受けられないのは気の毒だと思った。このことは決して閻魔様には言わないから、安心して読むといい」
一の卒はそう言ってその場を去る。獄卒はそれを見送ったが、その目は冷たかった。
「まるで我が情けを求めたかのような行為を……随分と舐められたものだな」
そうとはいえ、獄卒は書物の内容が気になった。
「どれどれ……」
黙々と読み進める獄卒。だがある格言を目にした時―。
奇々衆たるもの、悠久の命を以て遍く亡者に仕えるべし。
私利私欲はあってはならぬ、己を常に戒めよ。
魂の玻璃を探し出し、次なる生への道を繋げ。
一人たりとも見捨てるべからず、然らずんば誅せらると覚えよ。
獄卒の中に怒りが沸いてきた。一層、自分が舐められていると感じた。書物を持つ手が震えた。遂には堪りかねて書物を投げた。
(一……こんなものを良かれと思って渡したのか?……許せん)
獄卒を不憫に思ったのは一の卒だけではなかった。二の卒以下、八獄卒全員がこっそり獄卒の元を訪れては様々なものを分け与えた。時には閻魔に教わった内容を直接教えることもあった。だがいずれも獄卒の心には響かなかった。それどころか彼は、八獄卒の気遣いを”自らの尊厳の破壊”として恨んだのである。やがて、その恨みは形となって現れた。
「……まったく、何ということだ」
枝端にいた一の卒の元に、頭を抱えた六の卒が現れる。
「あの者、中央広場を勝手に”九丁目”に変えた。通るなら贅を尽くしたあらゆるものを渡せと。できないなら其方を潰すとまで言った。中央広場は、全ての丁に繋がる大事な場所なのに……」
「……!」
一の卒は六の卒の背中をみて息を呑んだ。全く痛がる素振りを見せていなかったが、彼の背中には数本の釘が刺さっていたのだ。
「六だけではないぞ」
重い声と共に現れたのは四の卒だった。頬から肩にかけて皮を捲られ、赤黒い肉がむき出しになっている。六の卒も四の卒も、見るからに痛々しい姿だった。
(あの者が広場を占領して以降、我々は夕刻過ぎにこの枝端に来ている。だが今日はおかしい。二達がまだ来ていないではないか……)
一の卒は思った。中央広場で良からぬことが起きていると。
「……暫し中央広場へ行ってくる。六と四はここにいて欲しい」
「おい待て、それは……」
四の卒が言いかけたが、その時には一の卒の姿はなかった。
「うああああ!!!」
一の卒が着いた時、中央広場は凄惨な現場と化していた。二、三、五、七、八の卒が木の板に磔にされ、腹を裂かれたり杭を打たれたりしていたのだ。痛みに悶える仲間の後ろで、獄卒がご満悦と言わんばかりの邪悪な笑みを浮かべていた。
「これはどういう事だ!閻魔様にばれたらどうなるかわかっているのか!?」
仲間を気遣いつつ必死で訴える一の卒。だが獄卒は涼しい顔で、彼の言葉を全て受け流したようだった。
「話は後だ。まずは其方を磔に……ぁっ」
獄卒が気づいた時には、二の卒たちは束縛から解放されていた。同時に、獄卒の力が一時的に弱められた。一の卒が力を解放したのだ。
「……おい」
一の卒を睨みつける獄卒。暫くして彼は、獄卒の前に一人の人間―正確には人間”擬き”を置いた。
「これが何だかわかるか」
「まさか……”やがて我々が救うべき存在”……亡者か?」
「そうだ。我々が教えた、その亡者を模したものだ。其方に奇々衆としての自覚があるなら彼を―」
(ガッ)
一の卒が言いかけた途端、獄卒は亡者擬きを跡形もなく破壊してしまった。
「!」
「其方らは我を思って色々貢いだつもりだろうが」獄卒は一の卒らを蔑むように言った。
「我が求めているのは全てを支配することだ。この無明絶孤地獄も、そして人間界もだ。頂点に立つべき存在を憐れむとは、その者を下に見るのに同じ。これを侮辱と言わずして何と言うんだ?」
間。
「一、其方がいつだったか渡した書物にこう書いてあった。我々が悠久の命を持つのは、それだけ責任が大きいからだと。持てる命の全てを人間の為に使うことが求められていると。まるで我々が人間の生贄になれと言われているようなものだ」
そう言った獄卒は口をがっと開いた。驕りの極致というべき表情だった。
「馬鹿馬鹿しい!我は遍く世界を統べ、その理を超えるのだ!」
「……」
八獄卒は愕然とした。悲しいのか怒っているのか、はたまた違うものか。何とも収まりどころのない感情が込み上げる。恩を仇で返されたことなど、どうでもよかった。それ以上に、しなければならないことがあるのだ。
(この者は最早生かしておけない……)
「あぁぁぁぁぁやめろぉぉぉ!!!」
一の卒以外が磔にされた広場で、今度は獄卒が磔になっていた。彼の前には閻魔と、松明を掲げる八獄卒の姿があった。八獄卒は無言でにじり寄ると、獄卒の体に火をつけた。獄卒が悲鳴を上げる間もなく、全身が焼け爛れていく。
「この恨み、必ず……!」
その言葉を最後に、獄卒の姿は消えた。閻魔は獄卒が完全に消滅したと思った。だがそれで終わりではなかった。
「其方ら、我に隠れてあの者を教え導いていたとは……」
恐る恐る振り向いた八獄卒は、皆項垂れていた。なまじ情けをかけた為に自分たちは殺されかけ、挙句に獄卒を処刑する羽目になったのだ。
「其方らを心から信じていたが……金輪際それはできまい」
閻魔はそれ以降、三叉戟を通じて八獄卒を常に監視するようになった。しかも、三叉戟を決して手放せないようにさえした。この掟は、後に薄紅色の花から生まれた他の獄卒に対しても適用された。
権力欲に塗れた小さな獄卒が処刑されてから四千年後の地上で、ある屋敷の閑静な中庭に、一人の貴族が佇んでいた。
「……ん?」
木や花が枯れかかって殺風景な中庭をぼんやり見つめていた彼は、虫や鳥など小動物が集まってきたことに気づく。だが彼にとってはどこか忌々しい光景に見えた。和むなどとてもできない。
「ふむ……」
貴族は立ち上がり、部屋の奥から刀を持ってきた。刀身をひしゃげそうな程に握り、飛び上がると―。
(バサッ!!)
それはほんの一瞬の出来事だった。貴族は一振りで全てを切り殺してしまったのだ。
「……?……」
貴族の脳裏に謎の光景が浮かぶ。静かな興奮を覚えた彼の手には力が入りすぎて、刀身が潰れて凹んだ。
「……」
改めて周囲を見渡す貴族。元気に囀り羽を動かしていた生き物たちは無残な死体と化した。木や花も、枯れかけた中で辛うじて燃やしていた最後の命の灯を消されたように佇んでいた。
「いや、違う。足りない、まだ足りない……」
貴族は刀を放り投げ、またしても部屋の奥へ走っていった。戻って来た時、彼の腕には大きな甕が抱えられていた。
(ブワッ!!)
貴族は甕を力一杯揺り動かして、中の液体をぶちまけた。それは透明な黄金色に輝く、高純度の油だった。
「こんなもの……」
そう呟くと、貴族は油に火を放った。火は瞬く間に燃え広がり、庭の全てを焼き尽くした。やがて火は部屋の方にまで広がり、貴族を呑み込もうとするが、彼は気にも留めなかった。それどころか、ある種の快楽すら覚えた。
(そうだ、私は嘗て地獄で生を受けた。いつも同胞たちから蔑まれていた。そして処刑されたのだ、この光景にも似た炎の中で……)
貴族が思い出す走馬灯のような光景。それは自身の前世のものだった。貴族の心に、閻魔や八獄卒への怒り、憎しみ、そして恨みの感情がみるみる募る。記憶が負の感情一色に染まる中で、貴族はあることを思い出した。
「我ら奇々衆は、最後の亡者がここを出るまで決して離れない」
いつだったか閻魔と八獄卒が立てていた誓いだ。亡者を一人たりとも見捨てない為、そしてゆくゆくは全ての人間を救う為に立てたものだ。奇々衆が生贄になってまでも守りたい、彼らなりの人間への慈悲だった。
「この恨み、必ず……!」
地獄での最後の言葉を思い出した時、貴族は覚醒した。嘗ての同胞に復讐し、全てを自分の思うままにしようとする身として。
「人間を一人残らず殺してやる……。人間の気配が完全に消えたら地獄へ戻り、あいつらに『あの処刑、ひいてはお前らの慈悲が人間を滅ぼした』と言ってやる……。そうすればあいつらの後悔は計り知れないものとなるだろう。その隙にあいつらを磔にして、永遠に劫火で焼いてやるんだ……」
底知れぬ悪意に満ちた妄想が止まらない。やがて貴族は、今のままでは自身の野望にそぐわない存在であると思うようになった。
「私は人間も、そして奇々衆をも超越した存在になる。名は……”トガ”だ」




