(第四十四話)若中将の地獄巡り 後編
六丁目にて。
「……五め……」
若中将から話を聞いた六の卒は苦々しい表情で答えた。その手には筆と巻物が握られている。
「あの時の我を茶化すようなことを言うとは……」
六の卒の蒼い顔が真っ赤になった。若中将は思った。これは怒りではなく羞恥であると。愈々弥勒との話が始まるという時に、傷だらけの亡者を背負い飛び入った六の卒の姿が目に浮かぶ。候補者たちの視線を一身に集め、何も思わなかったとは考えにくい。
「六の卒様が背負っていらっしゃった亡者は、何者なのですか?」
「あの亡者が候補者になるなど、あり得ないと思っていた。いつも悪態をついていて、罪を悔いる様子が全くなかったからな。だがある日、彼に異変が起きたのだ」
「異変……?」
候補者を火車に乗せた後、六の卒は筆と巻物を出して論文の執筆に取り掛かる。お題は”地上の人間の祈りと亡者の心の変化の関連性”で、彼が今最も関心を寄せているものだった。
「昨日は二丁目と七丁目で確認。二丁目の亡者には変化なし。七丁目の亡者には若干懺悔の気配有り……」
(ピカッ!!)
遠くで突如閃光が現れた。目を覆わずにいられない程眩しい光だ。六の卒ははっとした。
「まさか……悔悛光か!?」
(ぁぁ……ぁぁ……ぁ……)
誰かが声を詰まらせて泣く声が聞こえた。六の卒は筆を止め、声のする方へ向かう。
「あれは……!」
そこには鎧喝食が横たわっていた。怒鳴ってばかりで、眠りの時以外は落ち着いた様子のない彼が力なく倒れている。あまりの豹変ぶりに、六の卒は動揺した。それでも思った。何か大きな心境の変化があったのではないかと。六の卒は冷静に手鏡を翳す。
「……!!!」
玻璃が見える気配すらなかった鎧喝食から、眩いばかりの―否、燃えるような輝きを放つ玻璃が見えた。
「あのような玻璃は、これまで見てきたどの亡者にも見られなかった……」
六の卒は急遽鎧喝食を候補者にすることを決める。だが火車は出払ってしまった。時間が差し迫っていて、浄炎をする余裕もない。
「おい二十六!」六の卒は論文執筆を手伝っていた二十六の卒を呼ぶ。
「ひゃっ!?」
「この亡者を枝端へ連れて行く!その間ここを頼む!」
「えぇ!?でも火車は……」
「我自ら行くんだ!任せたぞ!!」
「そうだったんですね……」若中将は、あの時の光景を思い出す。六の卒が一心に亡者を抱え、必死に飛び込んできた姿を。
「六の卒様……」
「ん?」
「その、悔悛光とは一体何なのですか?」
「地獄でごく稀に起こる現象だ」六の卒は筆と巻物を置いた。
「贖いとは程遠い亡者が、ある日、何の兆しもなく閃光に包まれる。光が消えた頃、その亡者には懺悔の意志が窺える……というものだ。それで我が便宜上”悔悛光”と呼んでいるのだが、光に包まれる前後で、全く変化がない亡者もいる。改心を促す光とは、一概には言えない」
「一体、どこの誰が悔悛光を出しているのでしょうか?」
「わからない。少なくとも、閻魔様や我々獄卒ではないのは確かだ。ただ、一つ思い当たることがある」
「……といいますと?」
「悔悛光が現れる少し前に、地上で祈りを捧げている人間がいるらしいのだ。いずれの丁で見られるものにも、祈る人間の姿が確認されている」
「それはつまり……鎧喝食にも誰かが祈ったということなのですか?」
「おそらくな」そう答える六の卒の顔に陰が差した。
「だが亡者は大罪を犯した身だ。当然、人間からは憎まれている。その中で祈りを得るということは奇跡に等しく、それで心境変化が起こるということについての実例は殆どない。悔悛光は本当に、謎に満ちた現象なのだ」
「……」
”亡者は大罪を犯した身だ”―。候補者に選ばれたといえど、決して忘れてはいけないことだ。若中将は気を引き締める。
(ゴーン……)
遠い彼方で鐘の音が響く。
「もう夕刻か……」六の卒はそう呟き、背筋を正す。
「我から語ることはここまでだ。急げ。一が待っている」
「はい、ありがとうございました!」
若中将は一礼し、走り去っていった。その背中を、六の卒は無言で見送った。
一丁目では、一の卒が黙々と書物をまとめていた。
「これでようやく……」
一の卒は予てから決めていた。自分の背丈に迫る高さ目で積み上げられたこの書物を、時間が許す限り若中将に見せることを。
「一の卒様!」
一の卒ははっとして声の方を向く。遠くから見覚えのある者が走ってくる。若中将だ。
「……来たか」
若中将を迎える一の卒。嬉しい筈なのに、その表情はどこか物憂げだった。
「これは……」
若中将は一の卒の元に来るなり、膨大な量の書物に目を奪われる。覚えている範囲では、一の卒が何かを執筆している様子はまるで見当たらなかった。
「其方のことを纏めた資料だ」
「あの……読んでみてもいいですか?」
「勿論だ。これから番号順に読め」
一の卒が手渡したのは、「若中将についての所感 その一」という表題のものだった。若中将は恐る恐る手に取り、そっと表紙を捲る。
(すごい……こんなに細かいことまで……)
若中将はその二、その三……と、書物を夢中で読み進める。そこには人間だった頃の自分、殀鬼になった経緯、そして地獄でどのような心の変化があったかということまで、何もかもが詳らかに記されていた。若中将の脳裏に、過去の記憶がありありと蘇る。
その昔、ある国に斉王丸という青年がいた。亡き父に代わり領主を務める母に大切に育てられた彼は、読書を何よりの趣味としていた。書斎のありとあらゆるものに金銀がふんだんに使われていて、彼方此方が煌めいている。
「……ふむふむ」
母は斉王丸が望む本を何でも買った。おかげで斉王丸は博識になったが、読書に夢中になるあまり、城に籠りがちだった。
「……ほう」
斉王丸が時折窓を開けて外界を見下ろすと、そこには汗水流して働く領民の姿があった。
「哀れだなあ。襤褸を着てあんなことをするだけとは」
窓を開けて領民を見る度、斉王丸は嘲りの言葉を呟いていた。そして窓を閉め、先程まで自分が読んでいた、難しい漢字がずらりと並ぶ本を見て言うのだった。
「あいつら、誰もこれが読めないんだろうな」
数日後。斉王丸がいつものように本を読み耽っていたときだった。
「……ん?」
階下が妙に騒がしい。その音は瞬く間に大きくなった。
(ドンドン、バラララ)
今までに聞いたことのないような破壊的な音。さらに、耳が震えんばかりの大声。それも一人、二人が発しているようなものではない。
「きゃああ!!」
斉王丸が音の正体を探ろうと立ち上がったその時、母の悲鳴が聞こえた。
「母上!」
今すぐ母を助けなければ。自分はこれまで数え切れない程の本を読んで知識を蓄えたのだ。ここで何も手を打てなければ、その自負が崩壊する―。
「母上!!」
思ってはいる。思ってはいるのだ。今動かなければ母が危ないと。だが足が動かない。口だけしか動かない。
(何故だ、何故足が進まない……)
それでも勇気を出して一歩踏み出そうとした時、肩に生暖かい感触を覚えた。
(……?)
驚いて目をやると、そこには青白い手があった。骨が浮き出る程痩せた、不気味な手。おかしい。自分以外誰もこの部屋にいなかった筈だ。
「お前は……誰だ?」
視線の先には、不自然な程大きく見開かれた黄色い目。見るからに意地の悪そうな表情の男がいた。
「折角踏み出した一歩を無駄にするのは勿体ない。力を貸そう、『若中将』」
読了するまであと僅かというところまで巻数を進めた若中将は、そっと本を閉じて物思いに耽る。
(あの男が、本で読んだ恐ろしい存在、殀鬼の首領”トガ”であるのを知ったのは大分後になってからだった。力を授かった後、私の国は跡形もなく消えていた。母上も、家臣も、そして領民たちも。私が全てを壊したのだ……)
一面炎に包まれ、崩壊した家々と、それに貼りつく様に転がる死体が目に浮かぶ。想像しただけで震えあがる光景だ。
(若中将となった私は、”トガ”の命ずるまま人を殺した。何もかもを破壊した。そしてある日、名もなき五供に討たれ、ここへ堕とされたのだ……)




