(第四話)人ならざる者
「掬緒、夕飯だ。出てきなさい」
無尽闇の外から坐胆が呼びかける。だが掬緒は答えない。無心で、黙々と修行に打ち込んでいる。まるで何かに取り憑かれたかのように、坐胆の声に全く反応しないのだ。
「掬緒!!」
坐胆は声を大きくして呼ぶ。だが結果は変わらない。
「……仕方ない」
坐胆は呼ぶのを諦めた。五供の他の四人が、その間に夕食を済ませる。坐胆は簡素な菓子と茶を側に置いて、引き続き掬緒を見守っている。
「はあ……はあ……」
息が切れてきた。だが掬緒は、ここから出ようとは微塵も思わない。彼が狙いを定めるのは、いつの間にか的から黒い影の集団に変わっていた。その姿は仇敵・殀鬼に似ている。
「こいつらを、倒さなきゃ……」
収まる気配のない執念で、掬緒は影を次々に射る。しかし影は、射っても射っても現れる。
「はあ……はあ……」
いつまで続くのだろう。掬緒はふと疑問に思った。でも手を止めることはできない。油断すれば影が自分を襲おうとするのだ。
影を射り続けるうちに、掬緒は我を忘れていた。最早、ただ敵を射るだけの存在と成り果てていた。脳が、腹が、手足が、疲弊し切って悲鳴を上げているのも聞こえない。それが突然終わった。
「……消えた?」
闇が開け、白い霧の空間が広がると同時に影が消滅した。
「……終わったのか?」
掬緒は周囲を警戒する。だが足がふらつき、その場に倒れてしまった。忘れていた全身の痛みが、どっと降りかかったのだ。
「あ……」
霧の中に横たわる掬緒。その瞼はゆっくりと閉じられた。
(ぐぎぎぎぎぎ……ぶしゃっ)
掬緒は夢の中にいた。そこで、安息に浸る心に皴を入れるような、この上なく不快な音がした。何だろう、この音は。
(ぶわっっしゃああ)
掬緒はあまりの恐ろしさに目を覚ます。否、夢か現かわからない。ひょっとすると、夢の中で目を覚ましているのかも知れない。
「・・・んん・・・?」
自分は白い霧に包まれていた筈だ。だが、眼前に広がる色はそれではない。血のように、真っ赤だ。
「え……?」
嫌な予感がした。こういう時に限って、五感が冴える。次に異常を感じたのは鼻だった。
「血生臭い……」
直後、真っ赤に染まった光景を、斜め上から黒光りする爪が引き裂いた。
「あれ?これって……」
掬緒は思わず自分の手を見る。先程まではなかった筈の、妙な温かさを感じる。その温かさには、気味の悪い懐かしささえ感じた。
「あ……」
顔を上げる掬緒。その先には、内臓を抉られ血塗れになって倒れている母子の姿があった。掬緒は悟る。
「あの親子を殺したのは……自分なのか?」
否、そんな筈はない。事実だとしても受け入れられない。漆黒の爪は、村を襲った怪物を返り討ちにした時に見たものと同じだ。でも自分が倒したいのは殀鬼であり、神に誓って人間ではない。そんな自分が、まさか、人間を襲うなんて。
「……いや、嘘だ、嘘だ!!!」
だが、掬緒は今の姿をどこか否定できずにいた。
「でもあの親子、何処かで見たような気がする……。初めて見た筈なのに。おかしいな……」
掬緒は混乱で頭髪を搔き毟る。だが敵は待たない。隙ありとばかりに襲い掛かってきた。我に返った掬緒は、すんでのところで避ける。
「ひえっ」
肝が冷やされる思いだった。そんな掬緒をさらに追い詰める事態が起きた。全ての殀鬼が自分を取り囲んだのだ。
「あ……」
ぎらぎらと光る目で見下ろす殀鬼たち。掬緒は恐怖で体が凍る。やがて気づいた。ぎらぎら光っているのは、目だけではないことに。
「あの歯……」
その時だった。殀鬼の口が大きく開いた。刃のように尖った歯の隙間から、気味の悪いほど赤黒く染まった口腔が覗ける。
(……このままじゃやられる……)
最早逃げられない。逃げてはいけない。前にも後にも逃げ道はない。敵はすぐそこまで迫っているのだ。敵を討たなければ。そう感じた瞬間。
「……あれ?」
開けたと思った周囲が、またしても白い霧に包まれた。殀鬼の姿も見えない。先ほどまであまりに神経を尖らせていたからか、掬緒はどこか違和感のある安堵を覚えて立っている。もうこれでいいのかと思った矢先、遠くの方から声がした。
「えーん、えーん」
「あああああ!!!」
「許さない、許さない、許さない……」
悲鳴、憎悪その他阿鼻叫喚の声が入り交じり、掬緒は耳を塞がずにいられなくなった。直後、思わず閉じた目を徐に開ける。その先に立つ複数の影を見て、掬緒は驚愕した。
(……人間……?)
掬緒は動揺しつつも殀鬼を探すが、その影は見当たらない。埒が明かないので、掬緒はとりあえず”人間”の声がする方へ向かう。白い霧が開けてきた。そこには人間が立っていた、筈だった。
「うっ……」
そこにいたのは、顔だけ人間、体は殀鬼という異様な存在だった。否、それだけではない。手、足、胴、一部だけ人間になっている中途半端な状態の殀鬼がいくつもいる。掬緒を最も震撼させたのは、憎悪に塗れ、今まさに人間から殀鬼に変身しかかっている者だった。
「殀鬼って、元は人間だったんだ……」
最早疑いようのない事実だった。だからこそ、掬緒の手は竦んだ。震える手から、弓矢がぽろりと落ちる。だが掬緒にはそれに気づく余裕などなかった。
「うわあああああ!!!」
掬緒は逃げ出した。
敵の影が消えたところで、掬緒は前のめりに倒れた。
「うう……嘘だ……」
体が起き上がらない。節々が痛い。だがそれ以上に、明らかになった真実が悲しくて、掬緒の目から涙が溢れた。
「殀鬼が元人間だなんて……しかも……僕も、殀鬼だなんて……」
蹲っているうちに地鳴りがした。殀鬼が追ってきたのだ。弓矢はまだ落としたまま。取りに行くべきか。
「……できない」
行けない。でもそれは殀鬼が怖いからではない。
「人間を射るなんて、できない!!」
人を食う恐ろしい存在といえど、元々人間だった者を射っていいのか。掬緒は呵責に苛まれる。
(ドス、ドス、ドス)
そんな間にも敵は迫っていた。気がつけば、掬緒の至近距離が敵の影で覆われていた。
「嫌だ!怖い、怖い!!!」
掬緒の声が木霊する。だが何かがおかしかった。
「誰だ?僕、ここにいるのに……」
そう、響いたのは確かに自分の声だ。でも、発したのは自分ではない。
「まさか……?」
掬緒の予測は当たった。振り向くと、そこには自分そっくりな白い影の姿があった。
「怖い!怖い!倒したくない!!」
掬緒は悟った。これは自分の心の写し鏡なのだ。元人間というだけで、殀鬼を倒すのを躊躇っている自分の姿だ。
「……そんなことをしていたら、父さんや母さん、皆の仇が取れない」
冷たい声で答える掬緒。その手にはいつの間にか弓矢がある。黄金色に輝くそれを、掬緒は血が滲むほどの力を込めて握りしめた。
「まず倒すべきは……お前だ!」
掬緒は徐に腕を持ち上げ、白い影を射る。けたたましい断末魔と共に影が消えた。弱い自分は、この時完全に姿を消したのだ。その後、掬緒は何の迷いもなく殀鬼に矢を放ち、瞬く間に全滅させた。
掬緒が敵を全て倒したのを見て、坐胆は彼を呼び戻した。そこには坐胆の他、先に夕飯を済ませた五供の仲間がいた。
「……真実がわかったな」
「僕が殀鬼だったということですね……でもまだ、受け入れられません」
沈んだ面持ちの掬緒を、一同は心配そうに見ている。
「僕、見たんです。自分が親子を手に掛けるのを。見たことのない親子だったのに、何処かで見たことがあるような気がして……」
「それはお前の前世だ」
坐胆が唐突に言った。前世と言われても、何のことかわからない。
「お前は今生のみならず、前世でも殀鬼だった。しかも前世では、今お前が持っている理性は欠片ほどもない」
言われれば言われるほど、掬緒の混乱は深まる。坐胆も、彼の表情を見てそれを察した。
「今はまだわからないだろう。だがこれから、お前は前世のことを次々と思い出すことになる。間違いない」
間違いないって、どういうことだ?掬緒が疑問に思いかけたところで、五供たちが徐に服を脱いだ。彩蓮や綺清那といった女性たちも、躊躇せず脱ぐ。掬緒は恥ずかしくて目を逸らしかけたが、全員が一緒に脱いだことに只ならぬ気迫を感じて、再び四人の方に向き直ってしまった。
「これを見ろ」
䯊斬丸はそう言って背を向ける。それを見て掬緒ははっと息を呑んだ。そこには殀鬼と思しき者が、暗闇の中で涙を流している奇怪な構図の刺青が彫られていたのだ。
「あれ?でもこれって……」
思い出した。これは風呂で、兄さんとべるめろの背中に見たものではないか。無尽闇での修行の間にすっかり忘れてしまっていた。でも改めて見ると、やはりおどろおどろしさがある。掬緒はさらに思い出した。
「兄さんも、べるめろも、皆、刺青のことを隠してたよな……」
そう思いつつ他の四人の背中を見ると、同様の刺青が彫られていた。
「我々もお前と同様、前世で殀鬼だった。その記憶を持ち、今生に於いてその罪を償う殀鬼・”慚愧の怪”として、人々を殀鬼の脅威から守っている。この刺青は、”真実に暗く道を誤ったことを後悔し泣く殀鬼”を表している」
掬緒はようやく合点がいった。村を襲った怪物、自分が変身した異形の姿、そして断片的に思い出される、見たことがない筈の場所にいる自分。掬緒は真実を知って恐れを成すどころか、寧ろほっとした。同時に、自分がこれからどうしていくのか、軸が固まったと思った。
「先生、僕は”慚愧の怪”として戦います。刺青を入れてください」
決意は固まっている。もう迷うことはない。坐胆は掬緒の瞳から、彼の強い意志を感じた。
「戦いで得た悲しみや後悔は、全て終わった後に受け止めます。まずは戦いたいんです、ここと、それから故郷の、皆の為に」
坐胆は静かに頷いた。
「皆、離れに来なさい」
徒たちは坐胆の後についていく。
蠟燭の明かりが点々と灯る、暗澹たる離れの中。坐胆と”慚愧の怪”が囲む中に、掬緒が正座して座っている。やがて何者かが奥から現れた。右手に風呂敷を提げ、頭蓋を被っていて顔が見えないその者は、掬緒の目の前に座る。徐に上げられる頭蓋。その下から見える顔に、掬緒は息を吞む。
「あなたは……!」
目の前にいるのは、庭師の乙だった。
「ずっと明かさずにいましたが……私は養浄寺の庭師をするだけの存在ではないのです」
乙は風呂敷を広げる。中には手彫り道具一式が入っていた。視線を落とす掬緒は、この時、感じた。もう後戻りはできない。嫌だ嫌だと泣いて逃げることは、決して許されなくなったのだ。
「責任をもってさせていただきます」
「よろしくお願いします」
暗闇に浮かぶ白い背中に、乙が墨を入れていく。朧げな灯の中で確実に模様が彫られていく様子を、坐胆と”慚愧の怪”が瞬き一つせずに見守っている。
「うっ……」
無尽闇で受けた攻撃に比べれば、とても些細な一点一点。その筈なのに、掬緒は墨が入る度、背中を焼かれたかのような激しい痛みに襲われた。歯を食いしばっても痛みは消えず、ぎゅっと閉じた掬緒の目にはうっすら涙が溢れる。
「でも、でも、これさえ乗り越えればいいんだ。やっと、皆と戦える……」
”慚愧の怪”になりたい一心で、掬緒は痛みに耐えた。
「……あれ?」
掬緒が目を覚ますと夜が明けていた。外では鳥の声が響いている。そして妙に明るい。だが空気はひんやりとしている。掬緒は再び毛布に包まった。
「三日経ちましたが、お変わりありませんか」横には乙が座っていた。
「え、三日!?」掬緒は飛び起きる。「そんなに経ってたんですか……?」
「はい。痛みのほどはいかがですか?」
「大丈夫です……」
掬緒には墨を入れたのが昨日のことに思えた。痛みに耐えて以降のことが、全く記憶にない。
「皆は……?」
「いる」そう答えたのは䯊斬丸だった。「三日間、先生も含め皆、離れを出ずにお前を見守っていた」
離れに行った後のことを殆ど覚えていない掬緒。周囲を見渡して、今自分がいる場所が男廊であることを悟る。ふと、掬緒は䯊斬丸の『三日間、離れを出ずに』という言葉を気にして言った。
「まさか、その間、誰も殀鬼を倒しに行かなかったの!?」
「ああ」䯊斬丸は暗い声で答えた。「新たな“怪“となる者を寺の全員で見守るのが習わしだからな。気の毒だが、その間に縮地盤が輝いても対応はできない」
「兄さん」掬緒の声も、途端に暗くなった。「僕たちは人を救うことを第一にしてるんでしょ?いくら僕がこの通りだからって、習わしにばかり従っていたら……」
「掬緒」䯊斬丸は言う。その面持ちはさらに厳しくなった。
「誰かに変化が訪れる時、共に運命を背負う覚悟で見守る者がいないのは、後々とても恐ろしいことになる」
「恐ろしいこと……?」
「そうだ。新たな仲間を迎えるにあたってそれを怠ろうものなら、我々は遠からず殀鬼に滅ぼされるだろう」
「……」
掬緒は話についていけず、ただ頷くしかなかった。夜になっても䯊斬丸が言ったことの意味が分からず、悶々としていた。
「新たな”慚愧の怪”なる者が現れたようだな」
何処かで、くすんだ緋色の肌の者が言った。そこは掬緒たちが暮らすのとは全く異なる世界だった。真っ暗な果てしない闇の中に、浮かぶように燃える炎。尽きることなく禍々しい燃え方をするそれの中で、八体の異形が鏡を見つめている。人型だが肌の色はくすんだ山吹色や桃色などで、おまけに全身が極楽浄土を思わせる模様の刺青に覆われている。背中には壱~捌の漢数字。纏うのは天衣に似た柔らかい服のみ。各々が三叉戟を携えている。
「元々の落ちぶれた姿が嘘のようだ。なあ、六よ」くすんだ橙色の肌の者が、隣にいるくすんだ藍色の肌の者に視線を送る。
「……」六と呼ばれた者は俯いている。手には筆と巻物が握られている。
「しかし、つくづく思うは我らが身の上。この無明絶孤地獄に於いて我々は如何なる亡者をも見捨ててはならぬ。我々が地上に出ること、地上に干渉することもまた然り。理に順わぬなら、我々の存在は無に帰してしまう」
「とはいえ命を懸けて戦う者を間近に見ていながら何もできぬのは……これはまた何とも歯痒いものだな」菫色の肌の者が扇をはためかせながら言った。
彼らは、人間が”歩いていけない隣”の世界、無明絶孤地獄で亡者に責苦を与え改心・浄化を促す獄卒だった。山吹色の一の卒、桃色の二の卒、深緑色の三の卒、薄紫色の四の卒、橙色の五の卒、藍色の六の卒、緋色の七の卒、菫色の八の卒から成る彼らは「凡ゆる人間の心に美しい玻璃がある」として地獄を統べる閻魔に仕え、全ての亡者に責任を持って責め苛んでいる。