(第二十七話)坐胆の前世
「殀鬼は”トガ”の呪いから逃れられない。人を殺さずに生きることは許されず、抗おうものなら殺される。一度殀鬼になった者が元に戻る術はなく、人に討たれる以外に救いの道はない。そう、私のように―」
今から七十年前。海の近くの丘に、小ぢんまりとした長閑な集落があった。そこを治めていたのは、臥元という壮年の男だった。彼は朝起きて簡素な朝食を済ませると、城の外に出た。
「領主様!!」
領民たちが歓喜をもって出迎える。臥元は領民が満足して暮らせているか気にかけ、毎日領内を見て回っていた。初めはお忍びで回っていたが、ある時領民にばれてしまい、以降そのままの姿で出るようになった。それでも、領民は自分の前で繕っているわけではなく、本当に幸せに暮らせているようだった。
(今日も安泰か……)
回る度に領民が平穏に暮らせているのを確認する臥元。心の中で安泰を喜んだのも幾度に亘るか知れない。だが臥元は決して気を抜かず、子どもから大人まで、民一人一人の暮らしぶりを見て回っていた。そうした直向きさと穏やかな人柄から、領民は皆臥元を心から慕っていた。
その平穏が突然終わりを告げた。
「何だこれは……こんな大雨が降ったことは今までなかった」
その日、領内は記録的な豪雨に見舞われた。しかも、雨は一夜で止む気配が全くない。臥元は安全の為、領民を家に避難させ、一切の労働を禁じる措置をとった。数日経ってやっと雨は収まったが、豊かだった田畑の大半が壊滅状態に陥った。臥元は収入源を絶たれた民の為に備蓄米を放出するが、それでも彼らを満足させるには至らなかった。終いには、民の間で食糧の略奪が横行したのである。民は猜疑心を持たずに生きられなくなり、領内の雰囲気は以前に比べて明らかに悪化した。臥元はこの窮状をどうにかしたいと考えあぐねていたものの、有効な手を何一つ打てなかったのである。
豪雨被害以降、臥元は自らの力の至らなさに苛まれる日々が続いた。以前のように外へ出て領内を見回る気力もなく、従者たちが心配して部屋を訪れても素っ気ない対応しかしない。領内の治安の悪さは相変わらずで、臥元はおろか従者たちまでもが手詰まりを感じていた。そんなある日の昼下がりのこと。
「臥元……様」
部屋の窓の外から、不思議な声と共に細身の人影が浮かび上がる。声も影も見慣れたものではなく、臥元は懐に刀を構える。
「誰だ!?」
「まあそう声を荒げずに……私はあなたの力になりたくてここへ参ったのです」
「……??」
臥元は人影に警戒していた筈が、この一言で、逆に懐柔されてしまったのである。どうしてなのか、それはわからない。
「……???」
そう、わからなかったのだ。臥元本人は。だがその顔は、彼の心が動いた理由を示すかのように変貌しかかっていた。皴が深くなり、若々しさが失われている。しかもその皴には、痣にも似た青黒い筋がびっしりと入っていた。
「民皆から慕われていた領主が、こんなにも簡単に嵌るとは」
人影が窓の外でほくそ笑んでいる。だがその声は、臥元には届いていない。
外に出るのが億劫になっていた臥元は、人影に出会ってから一層外出を厭うようになり、体調を崩して寝込むようになってしまった。部屋に一日中籠りきりで、何とか入れた者も、その顔を見ることはできなかった。どういう訳か、臥元は起きている時も寝ている時も、何処から出してきたのかわからない仮面をつけるようになっていた。
「領主様……どうしたのだろう」
「心配だけど、全く部屋に入れそうにないわ」
ただでさえ部屋に入れる従者が限られていた中、臥元は日に日に制限を強める。遂には食事や着替えなど、必要最低限のことでしか従者を入れなくなってしまった。医師でさえ入れようとしなかった。その医師の代わりに頼るようになったのが、例の人影の男だった。
「こちらをどうぞ」男は懐から袋を出した。 包みを開けると、その中には丸薬が一つ入っていた。
「これを飲めば快復します」
現在の体調の悪さがこの男に起因することを、臥元は全く意識していなかった。そして丸薬を飲むと、言われた通り確かに気分がよくなった。だが数歩歩くと倒れてしまい、また寝込んでしまった。
「おい……どういうことだ。少しも快復していないではないか」
懐柔されていた臥元も、流石に男を疑い始める。だが男はそれを察した上でこう言った。
「明日、より優れた薬を持って参ります。今日は安静になさってください」
臥元は既に眠りに就いていて、男の言葉を覚えていなかった。
翌日、男は約束通り薬を持って現れた。臥元がそれを飲むと、昨日よりさらに長く歩けるようになった。
(少しずつではあるが、効果が現れているのか―)
薬の効果を確信した臥元は、すっかりそれに依存するようになった。男が薬を渡し続けて十日が経った日、臥元は完全に回復する。機嫌もすっかり良くなって、久しぶりに領内を見て回ろうという気が湧いてきた。
「さあ、行くか」
身なりを整え、笑顔で部屋を出る臥元。だがどこか違和感を覚えた。
「妙に静かだな……」
普段は従者の声や、彼らがする仕事の音が聞こえていた城の中。それが何故か、死んだように静まり返っている。臥元は不安を覚えるが、まずは外に出て領内を見回ることにした。
「……ん……?」
民は誰一人いなかった。畑は耕作途中で放棄され、家々は玄関や窓が開け放たれたままになっている。風が吹いて雑草が揺れ、扉が勝手に開閉する。あまりにも殺風景なその様を見て、臥元の不安は愈々頂点に達した。
「そんな……嘘だろ?」
臥元は家一軒一軒を隈なく見て回った。城の中や、荒れた畑の隅々まで見て回った。だが民は何処にもいない。絶望が押し寄せる中、風の向きが変わった。
(ん?何だ、この匂いは)
鉄のような、そうでないような匂い。領主として生きてきた中で、滅多に嗅いだことのない匂いだ。
(まさか……血か?)
匂いの正体がわかった途端、臥元は岬を目指して走り出した。そして崖に辿り着いた時に匂いが強くなり、恐る恐る下を見た。
「……こ、これは……」
そこには夥しい数の死体が転がっていた。散乱している服や装飾品は、全て従者や領民のものだった。信じ難い光景に青褪める臥元の前に、薬を差し出していた男が現れる。
「やあ、『癋獅噛』」
「お、お前は……」
「私は”トガ”。お前は今日から私の僕だ」
「な、何を言っている!?民に何をした!?」
「察しがつかんか?」”トガ”は涼しい顔で答える。
「どういうことだ」
「あの丸薬のことだ。躯をよく見るがいい」
臥元改め癋獅噛は死体を凝視する。するとそれらに共通点があることがわかった。体の一部が抉り取られたようになくなっていたのだ。
「……!」癋獅噛は薄々察したが、恐ろしすぎて声が出ない。
「あれはなあ、あいつらの体から出来てたんだ。お前が寝ている間にあいつらを攫って崖から落とし、血肉を拝借したというわけだ」
(”トガ”……)
恐怖の中で聞いたその名前を、癋獅噛は思い出した。前々から聞いたことがある。何かは知らないが、その強さは人間を遥かに凌ぐという、恐ろしい存在であると。
「貴様……私の民を返せ!!」
癋獅噛は”トガ”に殴りかかる。だが彼はそれをひらりと躱し、嘲るように癋獅噛の頭を掴んだ。
「言っただろう。お前は今日から私の僕だ」
癋獅噛は頭のみならず体全体を掴まれているような錯覚に陥り、抵抗も空しく”トガ”に洗脳された。
「人間を殺せ」
「あの後、私は”トガ”の命ずるまま人間を殺した」
前世の悍ましい記憶を述懐する坐胆。人間の悲鳴と、それを歯牙にもかけず手にかけ、血に染まった自分の体。止めようにも止められない衝動に翻弄される日々が続いた。
「だがある時、私は”トガ”に本気で抗ったことがあった。傀儡になるまいという意志の力さえあれば必ず勝てると。そしてそれは―雀の涙としかいいようのないものだったが―叶いかけたことがあった」
癋獅噛は一時的に”トガ”の洗脳を自ら解くことがあった。だがそれは本当に僅かな時間だけだった。そこで、癋獅噛は介錯人や僧侶に成りすまし、罪人や死が近い天涯孤独の者を殺めることで、殺人衝動を完全に封じ込めようとしたのである。
「だが”トガ”は目ざとかった。私が支配を逃れようとするとすぐに現れ、より強力な洗脳をかける。最早意志の力ではどうにもならなかった。私には、死ぬ以外に解放の道は残されていなかった」
”トガ”は癋獅噛を「力が強く、矢鱈反抗的なところを除けば中々に優秀な殀鬼」と評していた。洗脳を強固にすれば自分の足として活用できると思っていた。だが程なくして、癋獅噛は五供に討たれ、地獄へ送られたのである。
癋獅噛は、地獄では七の卒に責苦を受けていた。普通、亡者は責苦に対し多少の反抗をするものだが、癋獅噛はその名の通り歯を食いしばって耐え続け、反抗的な態度を一切見せなかった。
「ほう。もしや、こいつは改心しようとしているのか?」
そう思った七の卒は、脚を折られ体中から血が噴き出している癋獅噛の前に幻影を展開する。そこに見えたのは自身らを見捨てた領主を非難する民と、癋獅噛に殺され、彼を憎む者たちだった。
「領主様、どうして私たちを助けてくれなかったんですか!?」
「この野郎、俺の命返せ!!!」
罵倒のみならず石や斧を投げられさえする癋獅噛。それでも彼は一切の悪態をつくことなく、足を引き摺りながら近づいて手を合わせる。
「どうか、あなた方の為に祈らせてください」幻影の動きが止まる。
「私は、あなた方を責めようとも、赦しを乞おうとも思っていません。せめて、あなた方の来世が幸多きものであって欲しいと、祈りたいのです」
それを聞いた幻影は砂となって消えていった。後ろで見ていた七の卒は癋獅噛が改心していたと確信し、「極めて模範的な亡者」と感心する。七の卒がこのことを閻魔に報告すると、癋獅噛は地獄を出ることを許された。
癋獅噛はとある領主の子として転生した。父はとりわけ広い範囲を治めているというわけではない、謂わば中堅の領主という立ち位置だった。それでもその実力や聡明さは名君と称される他の領主に引けを取らないもので、民には深く慕われていた。
「いつか私も、父上のような領主になって民を幸せにしたい」
父に憧れいつかその後を継ぐ夢を抱いていた息子。だがある日、殀鬼が領地に現れ、両親と民を次々に殺害。その惨状を見た景千代の中に、『癋獅噛』という名前を与えられて数々の惨劇を引き起こした忌まわしい記憶が蘇る。
「私は……私は……」
混乱して硬直していたところに、剣術の師匠・義定が駆け付け、景千代を連れて脱出した。命からがら逃げ出す中で、景千代の心に葛藤が生じる。
「私は一体……何者なんだ??」
それでも自分の手を握っている義定の存在は確かだ。彼を忘れてはいけない。そう思って必死でついていき逃げた先に、とうの昔に廃されたと思しき道場があった。それを見て息子は決意を固める。
「義定。今まで習っていない術も含め、持っている全ての技を伝授してほしい。父上と母上、そして民の仇を討ちたい」
義定はその言葉を受け入れた。そして廃道場を建て直し、付きっきりで面倒を見た。




