(第二十二話)遠き日の歓楽街 後編
戻橋姫は橋の上で男を待っては殺していた。当初は男限定で襲っていたが、後に男と親密な女も襲うようになった。時折無性に腹が減り、殺した人間の肉を食うことがあったが、女由来のものだけを食べ、男の成分が少しでも入っているものは口にしなかった。
「……ぺっ」
誰もいない橋の上。夜の静寂に、戻橋姫が唾を吐く音が響く。数えきれない程殺した今では、男への恐怖心は消え失せた筈だった。それなのに、女の血肉だけを口にしても男の面影がちらついて、吐き捨てたくなるのだった。
(まさか……私まだ、男が怖いの……?)
信じられない。信じたくない。男が怖い筈などない。戻橋姫は何度も自分にそう言い聞かせたが、事態は一向に改善しなかった。それどころか、次第に自分が歯牙にも掛けない草や木にまで男の気配を感じ、狂ったように薙ぎ倒すのだった。
(私はありとあらゆる男に裏切られた。父親や幼馴染にさえ。男に心を許せば、私はまた不幸になる。だから私はこの道を選んだの。何も後悔はない。なのに、どうして……)
「……かっ、体がっ、ぅ、動か……ない……」
戻橋姫に挑んだ五供が、この日も倒された。その亡骸には蔓草が無造作に絡み付いていて、元の姿が判然としない。
「よくやった、戻橋姫」
戻橋姫がその声に振り向いた先には“トガ”がいた。いつもは本拠地に籠って外界の様子を伺っている彼が、戻橋姫に対しては珍しく、五供を倒す度に現れてはその活躍ぶりを褒めていた。戻橋姫もそのことにすっかり気を良くして、いつしか“トガ”に褒められたくて戦うようになった。
(この世で信じられるのは只一人、“トガ”様だけだわ……)
“トガ”に心酔しては恍惚の表情を浮かべる戻橋姫。その様子を見守る“トガ”は、心の中でこう呟いていた。
「ああいう奴は、優しい言葉を掛ければ簡単に心を開く。そして私の手下となるのだ。全く、人間は学ばないな」
人間に恐れられ、向かう所敵なしの状態だった戻橋姫。その状況が一変したのは、五供百五十部隊の羅呉と対峙した時である。『花』の力を駆使した戦術もさることながら、戻橋姫にとって最も脅威だったのはその目だった。攻撃を何とか躱して反撃しようとすると、決まって羅呉と目が合う。それは敵を必ず倒すという決意が漲っていて、連戦連勝の戻橋姫さえ怖気付く程のものだった。恐ろしくも気高さを感じる眼差し。戻橋姫はそれを見るとどういう訳か、人間だった頃の忌まわしい記憶を思い出してしまうのだ。
「あいつはどこだ、借金まだ返してもらってねえぞ!!」
「おい。お前、あいつの娘だろ?」
「借金は契約通り、お前の体で返してもらおう」
おかしい。自分でも理由がわからない。羅呉の目は、自分を金蔓としか見ていなかった男たちのそれとは真反対だ。なのに彼らと重なってしまう。安心なんて以ての外だ。怖い、怖い、怖い。
(助けて……)戻橋姫の目に涙が浮かぶ。
「助けて!“トガ”様!!」
戻橋姫が叫んで間も無く、“トガ”が現れた。これでやっと窮地を脱することができると思った戻橋姫だったが、駆け寄る彼女を前に“トガ”はこう言い放った。
「雑魚が」
「え……?」
呆然とする戻橋姫。“トガ”が去った後、腹にじわじわと痛みが走った。恐る恐る見ると、そこには薙刀が突き刺さっていた。
「!!」
気づいた時にはもう遅かった。手に、足に、黒い腕が次々と絡みつく。見えない背後では、地獄への扉が開いていた。
「きゃあああ!!!」
戻橋姫は動揺して頭が真っ白になったまま、地獄へ堕とされた。その後何をされたのかは、よく覚えていなかった。
数年後。戻橋姫はある農民の娘として転生する。明るい栗色の髪、さらには暗闇でもぼんやり見える、生まれながらに白粉を塗ったような肌という外見の彼女は、前世にも劣らぬ美貌を持っていた。両親は娘を可愛がっていたが、やがて二人揃って重い病気にかかってしまう。先が長くないと思った二人は、ある日の夜、娘を泣く泣く尼寺に預けた。
「この子をお願いします」
それだけ書かれた手紙を尼が見つけたのは翌朝のことだった。布に包まれた赤ん坊が泣いていた。
寺には他にも子どもが沢山捨てられていたが、その全てが女児だった。育てているのは一人の尼で、男は境内に立ち入りすらしない。彩蓮と名を与えられた女児は、そうした環境で育った為に、男というものを知らずに育った。当初は女だけで完結した世界を受け入れていたが、歳を重ねるにつれ、外の世界にいるという「男」がどんな存在なのか気になって仕方なくなった。
(男の人ってどんな方なのかしら……)
「姉様、姉様!!」
窓から差し込む光の下でぼんやり考えていると、年下の子たちに服の裾を引っ張られた。彩蓮は我に帰る。
「この問題がどうしてもわからないの。教えて」
「わかりましたわ、もう少し待って頂戴」
このようなやり取りは珍しくなかった。尼たちは働き者で面倒見の良い彩蓮に信頼を寄せていたが、この頃の彼女は側から見てもわかるほど夢見がちになっていて、その点だけが気がかりだった。
彩蓮は外界に憧れを持っていたものの、すぐに寺を出ようと思うことは全くなかった。寺での生活が、それを上回る幸せに満ちていたからである。
ある日の朝、彩蓮は庭で一人洗濯をしていた。
「きゃあああ!!!」
「!?」
境内から離れたところにいる彩蓮の耳にも届く程の悲鳴が聞こえた。こんな悲鳴は今まで聞いたことがない。何かよくないことが起きている。彩蓮はそう直感した。そして洗濯物を投げ出し、急いで寺の中へ戻る。
(……血の匂い?)
殺生が禁じられている寺では決してあり得ない筈の匂いだ。しかも―彩蓮はこれまで一度も嗅いだことは無かったが―これは畜類の血の匂いではないと感じた。人間の血だ。
(……?????)
何が起きたのだろう。彩蓮はいよいよ怖くなって足を止めてしまった。頭から足先まで、募る恐怖に感覚が消えていきそうだった。それでも僅かに残った感覚は、遠くに聞いたことのない声を捉えた。
「“トガ”様が仰っていた者とやら、何処にいるのだろう?」
声の主は未だ会ったことのない存在ー男のものである。明らかに女のそれではない。それに気づいた時、彩蓮の心に奇妙な好奇心が湧いた。
(男の……人……?)
彩蓮の足がそっと動く。一歩、一歩と廊下を進む程に、血の匂いが強くなった。やがて木や土の香りが完全に消え失せた時、彩蓮は愕然とした。
「!!!」
そこは一面畳が敷かれていた筈だった。だが今眼前に広がっているのは、一面の血の池。そしてそれすらも覆い隠さんとする屍の山だった。洗濯を始める前、ほんの先程までいた温かい仲間たちが、変わり果てた姿で横たわっている。彩蓮は言葉を失った。
(……)
彩蓮の体から血の気が引いた。否、元々自分の体内に流れていたものとは全く異なる血が流れたのだ。暑いとも寒いともいえない、悪い意味で不思議な感覚。彩蓮は血に映る自分の姿を見た。そこには恐ろしい怪物がいた。これは誰だ?……もしかして、自分なのか??
「お前か」
背後から声がした。先程聞こえた男の声だ。彩蓮は身構えるが、間も手を引かれる。
「これはこれは戻橋姫、久しいな。私は立平太だ」
(戻橋姫……?立平太……?何ですの、その名前は……?)
聞いたことのない名前で呼ばれ、混乱する彩蓮。そうだ。忘れていた。自分が恐ろしい姿に変わっていることを。
「“トガ”様がお呼びだ。来い」
立平太と名乗る男は、そう言って彩蓮ならぬ戻橋姫の腕をぐいっと引っ張った。腕に痛みが走った時、戻橋姫の心に忌まわしい記憶が蘇った。
「ほらさっさと歩けよ、身売りしか能のない女が!」
(そうですわ……私あの時、橋の上にいて……)
その後、戻橋姫は自分が何をしたのか覚えていなかった。唯一覚えているのは、遠くから「まだ“トガ”様にお見せするわけにはいかないが、覚醒はさせられた。いい報告ができそうだ」という男の声が聞こえたことだった。
「ああ……酷い……」
尼寺の外には、近所に住む男たちが集まっていた。男子禁制といえど、今回ばかりはそれを守る訳にはいかない。男たちは、荘厳な門の向こうにある尼寺について、質素ながらも美しい場所だと噂に聞いていた。それ故、壊滅した境内を見て皆言葉を失った。
「誰かまだいないか!?」
多くが呆然と立ち尽くす中、一人の男が声を上げる。そして境内へ駆け込もうとした。
(ズッ……ズッ……)
男は足を止めた。誰かの足音が聞こえる。熊かと思ったが、その割には軽い足音だ。何者か?
(……!?)
男の前に黒い影が現れる。伸び放題の黒髪が地面について引かれ、砂が混ざっている。顔は全く見えないが、男にはわかった。今目の前にいるのは女だ。真昼間にとても似つかわしくない、妖怪のような女。凍り付く男の体を、その女がぎょろりとした目で捉えた。
「わっ……」
男は怖くて仕方なかったが、女には彼の姿は見えていなかった。見えていたのは、その背後に群がる多数の男の姿だった。ぼんやりと見えていたそれがはっきり見えてきた時、またしても前世の記憶が脳裏を過る。女は一層目を見開いた。
「死んでしまえええええええ!!!!!」
「あの時我々が赴いていなかったら、お前はあの場にいた全員を殺していただろう」
冷たい声で䯊斬丸が言った。彩蓮もそれを自覚し、ゆっくりと頷いた。
「立平太の気配を感じて先生と共に向かったが、奴は既に逃げていた。それでも殀鬼の気配が残っているのを不審に思っていたら、お前が正に、あの場にいた者を襲おうとしていた」
「覚えていますわ……あなたの殺気立った目。先生がいなかったら、私は……」
今度は䯊斬丸が押し黙った。当然、自分があの時どんな目をしていたかなんて知らない。だが、”トガ”の配下でも特に強力な立平太をあと一歩のところで逃がしてしまったこと、戻橋姫を見てその悔しさを昇華させるが如く憎悪が湧いたのは、今でも克明に覚えている。
「先生はお前が”慚愧の怪”であると一目で見抜き、私を止めた。施助が去って以降、久しぶりに見つけた仲間だと仰ってな」
「あのようなことをしてしまっては……もう、あの村にはいられませんでしたもの。お母さまや妹たちに手を合わせられないなんて言う暇など、ありませんでしたわ」
彩蓮の目に涙が浮かぶ。䯊斬丸はそれを見て辛くなり、「もういい」とだけ言った。
「ここへ来たばかりの頃、お前は前世の記憶と寺の者を殺された悲しみとで、毎日泣き崩れていたな。だが今は滅多に泣かない。十郎が地獄へ送られた時も、綺清那やべるめろをずっと慰めていた。お前だって、本当は泣きたかっただろうに」
「……恥ずかしいと思ったからですわ」
「というと?」
「あなたも、先生も、ここにいる男の方々は皆いい人ですわ。だから私、いつまでも前世の自分に引き摺られて男の方々を疑い、めそめそするのが嫌になりましたの」
彩蓮の前世の話を聞いた時、あまりの波乱万丈ぶりに、䯊斬丸は当初それが本当になったとはとても思えなかった。而爛のような存在を目の当たりにするまでは、彩蓮は作り話をしているのではないかとさえ思ったのである。
「我々の存在が、前世から続く男への恐怖を克服する切欠になったのか」
「ええ。だから私、あなた達にはとても感謝していますわ。あなた達がいなかったら、掬緒を迎えに行く名乗りを上げるなんて、出来ませんでしたもの」
心地よい夜風が、彩蓮の髪を撫でるように吹いていく。
「もう男の人を怖がることなんてない、そう思いますわ。でも―」
「でも?」
「今日行った、あの街のような場所に行くと見えますの……何もかもを壊したかった、あの時のことが。そして、人間を蔑んでしまいたくなりますの……」
そう言うと、彩蓮は䯊斬丸の胸に飛び込んで泣いた。
「私……自分が怖い!!」
䯊斬丸は目を丸くした。いきなり胸に飛び込まれたからではない。耳に胼胝ができるほど彩蓮の過去を聞いたが、今でも尚心の中で前世の頃の怒りを秘めていることは初耳だったのだ。そして、それにどう向き合うべきか、未だに悩んでいることも。
しばらくして、どういうわけか目を覚ました掬緒がふらふらと本堂に入って来た。
「ん……んぇ、あれぇ?」
䯊斬丸と彩蓮を見ていた掬緒は、眠気に押し潰されたかのように倒れ込んだ。その衝撃で、眠気眼だった掬緒の目は完全に開かれた。
「痛ぁ……」
立ち上がろうとする掬緒。だが力が入らない。その筈が、体がふわりと浮かぶように持ち上がった。
「……姉さん?」
掬緒は相手の顔を見ていない。でもわかる。この温かい手は、間違いなく姉さんのものだ。
「……?」
何かが上から落ちてきた。ほんのりと冷たい、一滴の水。
(涙……?)
徐に掬緒が見上げると、彩蓮が自分を抱きしめたままさめざめと泣いていた。
(!?)
彩蓮は黙ったまま、掬緒を強く抱きしめた。どうしてそうしたのか、掬緒には知る由もない。




