(第二十一話)遠き日の歓楽街 中編
李々の父は、金持ちになってから変わり果ててしまった。周囲の者は、彼はおろか李々のことも、日に日に白い目で見るようになる。
「……」
人の目が気になる。かと言って、ここから離れる勇気もない。生活に以前ほどの華やかさがなくなり、李々は閉塞的な日々を送っていた。そんな彼女に、たった一人の心の拠り所がいた。それは幼馴染の暮充である。
「暮充……!」
暮充はある日、父の留守中に突然現れた。長らく疎遠になっていて、元居た家も引っ越したというのに、どうやってここがわかったのだろう。
「やあ、元気か?」
「ええ……」
李々の表情は沈んでいた。恙なく過ごしていると言って誤魔化すつもりだったが隠せなかった。そしてそれを暮充も察した。
「……お前、親父のことで悩んでるんじゃないのか?」
会ってそんなに経たないうちに自分の思いを悟られて、李々は目を丸くする。
「久しぶりに会ったんだからさ、お前が今どうしてるのか、話してくれよ」
暮充がそう言うと、李々は黙って彼を家に入れた。暮充はそれに促されつつ、心配そうな面持ちを崩さなかった。
「……成程、ほぼ噂で聞いていた通りだな」
「お前、あんなに横柄な親父のそばにいて、肩身が狭いんだろ?」
「……」
李々は首を縦に振りたかった。だが躊躇った。本人がいないこの場でも、父への恩を忘れた娘として振舞えないのだ。
「うーん……」
暮充は途方に暮れた。随分前に会った時の李々は、もっと明るくはきはきと話していた。それが今ではこの有様である。幼馴染の自分にさえ打ち明けられないのは、それほど悩みが深刻化しているということなのだろう。暮充は李々の苦悩を察し、何か言葉を掛けたかった。だがそれが見つからない。俯く李々の隣で、暮充は逡巡する。
「……なあ、李々」
暮充がそっと切り出す。李々は彼の方を向いた。
「俺でよければ結婚しよう」
李々が喜んだのも束の間、父が玄関をバタンと開けて帰って来た。
「おい、そいつは誰だ」
李々は違和感を覚えた。今のような暮らしぶりになる前、父は暮充に会ったことがある。その人柄もどんなものか覚えている筈だった。
「あ……お久しぶりです、お父さん」
「はぁ?お父さん、だと?」
父は暮充へ、明らかな軽蔑の目を向けていた。過去にあったことを忘れてしまっているかのようだった。
「出ていけ、よそ者が!」
「待って!!」
李々は叫んだ。父を止めようとしたのは、生まれて初めてのことかもしれない。自分でも驚いた。
「彼は暮充よ!私の幼馴染の。忘れたの!?」
「黙れ」
父は娘の言葉をすぐさま遮った。そして暮充の背後へ回ると、その背を掴んで玄関へ引き摺った。
「二度と来るな!この貧乏者が!!」
父に一矢報いたつもりが、このような結果になって、李々は呆然とした。
暮充は失意のまま帰宅していた。
(あいつが親父に何も言えないのを、俺は馬鹿にしていた……)
日が落ちる。影が長くなる。その影のように、暮充の思いも途方もないものになっていた。
(でも、俺も、あの時何も言い返せなかった……)
暮充は自身の不甲斐なさと李々への申し訳なさでいっぱいになった。
(……)
気がつけば辺り一面に山が広がっていた。家が近いのだ。
(……?)
何だろう。庭に両親の姿が見える。いつもは家の中にいるのに、珍しい。
「……ただいま」
暮充は両親に目も合わせぬまま帰りを告げた。
「李々に……結婚しようって言ったけど、駄目だった。親父に反対された」
両親は「やっぱり……」と言いたげな表情になった。あの父親がいる以上、こちらが何かしたところでどうにもならないとわかっていた。それに、親として、我が子がいつまでも気の沈んだままでいる様は見たくない。
「……暮充」少し離れて立っていた父が言った。
「気の毒だが、もう、あの子のことは忘れた方がいい」
「そうよ」目の前にいる母が続く。
「それにね。私たち、ここを引っ越そうと思ってたの。こんな山奥じゃ、碌な仕事にもありつけないし」
「……え?」
暮充にとっては寝耳に水だった。引っ越すだなんて聞いていない。まさか、珍しく外に出ていた理由とは、これだったのか?
「さ、あんたも早く支度しなさい」
暮充が家を追い出されてから数日後の昼下がり。
「暮充!暮充!どこ!?」
李々は父が留守の合間に山を彷徨っていた。幼い頃の記憶を頼りに、暮充の家を探していたのだ。
「痛っ!」
岩だらけの道を歩くのは何年ぶりだろう。李々は何度も転び、顔や手足を擦りむいた。血が滲みながらも、会いたい一心で暮充を探す。
「……あ!」
ようやく道が開けた。遠くに家が見える。間違いない、あれは暮充の家だ。
「……?」
そう喜んだのも束の間、李々は様子がおかしいことに気づく。玄関が少し空いていて、人影が全く見当たらない。
(暮充……?)
李々は無我夢中で走った。そして暮充を探す。だが家の周りにはどこにもいない。少し空いた玄関から中に入り、李々は愕然とした。家の中が蛻の殻になっていたのだ。
「……そんな……嘘、噓でしょ……?」
李々はずっと思っていた。暮充だけは最後まで自分の味方でいてくれると。決して自分を見捨てないと。だが現実は違った。信じていた幼馴染は、自分に何も告げず家を出てしまったのだ。
「ううっ……」
李々は玄関前で膝をつき、さめざめと泣いた。
李々が帰宅した時には日が暮れていた。
「何処に行っていた」
無言の李々に対し、父は目を合わせず暗い声で返す。
「新しい案件が来たからよろしく―!?」
父は李々の方を向くなり目の色を変えた。顔や手、目に見える範囲だけでも明らかにたくさんの傷がついていたのだ。
「おい、何だこれは!?お前の美しさが台無しだ!」
激しく問い詰められる李々。顔を上げずに無言のままだった彼女は、その手が身体に届こうとした直前に家を出た。
「何処へ行く!?」
答えぬまま李々が向かった先は倉庫だった。そこから片手で抱えられるくらいの小さな壺を持ち出すと、追いかけてきた父の顔目がけて中身をぶちまけた。
「わあああああああ!!!」
星一つない夜空に、父のけたたましい叫び声が響き渡る。壺に入っていたのは強酸性の毒薬だったのだ。
「あああああ!!顔が……溶ける!!」
その言葉通り父の顔はどろどろに溶け、一瞬で目も当てられない程酷いものになった。張り詰めた表情で見つめる李々が確認できるだけでも、目、鼻、口が潰れている。のたうち回りながら李々に近づく父は、娘が助けてくれると期待していた。
(??)
目の前に娘がいた筈だった。だが今の自分に見えるのは、何一つない無の世界だった。
(……あ……)
父は倒れ込んだ。事切れていた。その首には、白い帯がきつく巻かれていたのである。
「はあ……はあ……」
手を伸ばした瞬間に、李々は父の首を腰帯で思い切り締めたのだった。服が緩んで開けた今の姿は、誰が見てもはしたないとしか言いようのないものだったが、今はそんなことを気にする余裕はない。
(このままじゃ私が疑われるわ)
そう思った李々は、倉庫の脇に急いで穴をあけ、父の遺体を埋めた。李々の体は泥だらけになった。
李々の胸中は複雑だった。これでやっと自由になれると喜びたい。でも泥まみれの体を見る度、父の遺体の重さを思い出して、罪の意識に苛まれる。取り敢えずできることは、ただ一つしかない。
(必要なものだけ持って、逃げましょう)
李々は玄関に戻ろうとして、目の前の異様な光景に目を疑った。見知らぬ男が大勢集まって、家に殴り込もうとしているのである。
「あいつはどこだ、借金まだ返してもらってねえぞ!!」
「まさか逃げたんじゃねえだろうな!?」
(な、何……?)
次々と聞こえる怒号に怖くなって逃げようとした李々だが、足音に気づいた男に見つかってしまった。
「おい。お前、あいつの娘だろ?」
暗がりでもはっきり見えるにんまり顔。それは如何にも邪な思いに溢れている。逃げようと思っていた李々は、その白い腕を掴まれてしまった。
「泥まみれだが、洗えばましになるだろう。しかもその服の開け具合、如何にもその気があると言わんばかりだ」
「……な、何のことですか……?」
男は懐から契約書を取り出す。それは何処かの娼館のものだった。署名は、何と父の筆跡で書かれている。
「借金は契約通り、お前の体で返してもらおう」
男は他の男たちに向かって叫んだ。
「おーい皆、借金はこいつが返すとよ!もう少し待っててくれ!」
男はそう言うと、李々の手を引いて娼館へ連れて行った。嫌がる李々の声は、男たちに掻き消されてしまった。
「お願いです、離してください」
李々は何度も嘆願したが、男は聞く耳を持たない。それどころか腕を引く力をどんどん強めて、李々を急かせる。
「お前の父親が言ったんだよ、『借金は娘の体で返す』ってな。あいつ、借りた金を返さないくせして、周りには『仕事がうまくいってる』とか吹かしてたんだ」
李々の顔は真っ青になった。父は自分を愛してなどおらず、金づるとしか見ていなかったのだ。父を諫めなかったことを今更になって後悔した李々だったが、もう遅い。
「ほらさっさと歩けよ、身売りしか能のない女が!」
ある橋の上に差し掛かった時、男は手に一層力を込めた。李々の腕は、千切れそうな程痛くなる。その時だった。
「可哀想に。私の僕になるなら助けてやろう―」
李々は安心できなかった。それどころか不安が増した。これは自分の手を引いている男の声ではない。優しい言葉に聞こえるが、男とは異なる邪悪さが漂っている。
(あなたの……僕?)
僕。李々はその言葉にどことない恐怖を覚えた。だが腕の痛みが耐え難いものになるのにつれて、自分の逃げ道がここにしかないと思うようになった。つい先程まで不安でいっぱいだったのに、それが瞬く間に安堵へと変わっていったのである。
「……はい」
「我が名は”トガ”。これからお前は『戻橋姫』と名乗れ」
李々の顔が熱くなった。熱い。熱い。だがそこには不快感も恐怖もなく、新たな道が開かれたかのような喜悦を覚える。”トガ”に力を授かった李々の顔の皮が剥がれ、傷一つなく美しい、しかし嘗ての面影がなく悪に染まりきった顔に変貌する。この瞬間から、李々は殀鬼『戻橋姫』へと生まれ変わった。そして手を引く男を殺し、家を物色していた他の男たちをも皆殺しにして、”トガ”に心酔する形でついていった。
「”トガ”様。私はこれからどうすれば―」
「目に映る人間全てを殺せ。心の赴くままに」




