(第二話)四方に桜咲く郷
”慚愧の怪”である可能性が高いとはいえ、用心を怠ってはいけない。彩蓮は慎重に近づいた。
「……」
自分が”慚愧の怪”―綺清那と、べるめろと、あともう一人―に会った時と同じ悲しみが、彩蓮に募った。殺された人間たちの死体の山、尋常ならぬ血生臭さ、殀鬼の醜悪な外見。数えるのも嫌になる程何度も見てきた、感じてきた光景だ。そうしたものには悲しみや怒りを感じながらもすっかり慣れてしまったが、”慚愧の怪”に出会う時の悲しみは自分自身の消せない痛みに思えて、ひしひしと、慣れることは今後一切ないのだろうと感じさせる。
「うう……」
異形は唸り声をあげる。視線の先にいる者は、いかにも人間らしい見た目で、化け物ではないようだ。武器らしきものも持っていない。でも安心はできない。黒光りする鋭利な爪に映るのは、自身の醜い姿である。相手は、目を引く栗毛と、何だかそれと釣り合わない粗末な印象の、枯草色の着物を纏う女性の姿をしている。こんな姿の者を受け入れる筈がない。懐に武器を隠し、隙を見て襲うかもしれない。異形は逡巡する。女性は何かを訴えるような目でこちらを見たまま、少しずつにじり寄ってくる。迷う余裕などない。
「!!」
異形は地面を蹴り、一瞬のうちに彩蓮に襲い掛かった。
生暖かい風が吹いた。異形の視界に広がるのは、果てしない闇。
「あれ?さっきいた女の人は……?」
違和感を覚え、異形は手の感触に引かれて右下に視線を落とす。何だか、感触が気持ち悪い。ぶにぶにしたものを掴んでいるようだ。そして、妙な生温かさがある。
「……!!」
視線の先にあったもの。それは”さっきいた女の人”だった。枯草色の着物が真っ赤に染まっている。しかもそこに、自分の爪が突き刺さっている!小刻みに動く爪が、女の人の体内で、肉をプルプルと動かしていた。
「気に……しないで」
女の人が声を絞り出すように言った。弱っているのは明らかだ。早く爪を抜かなければ。
「う……っ……」
爪を抜こうとした時、女の人が手を止めた。爪を押さえながらゆっくりと体を外す。するする、ぐにゃぐにゃ。嫌な感触の末に、するっと体が抜けた。女の人は、如何にも痛そうに傷口に手を当てている。
「……大丈夫ですわ」
女の人は微笑んでいた。異形にとっては怖かった。安心させるつもりなのだろうが、兎に角怖かった。
「あ……ぼ……僕は……」
爪が縮んでいく。真っ黒な手が人肌の色に変わっていく。そして、夜空が、遠く高くなっていった。
(ドサッ)
鈍い音を立てて、異形、ではなく、掬緒は倒れた。その間、女性の傷は静かに癒えていた。女性は掬緒を背負い、立ち上がる。そして天を見上げ、右手を高く掲げた。
「先生、結界を開けてくださいまし!」
すると、女性の足元に仄明るい結界が現れた。女性と掬緒は、光の粒となって消える。後には桜の花びらが残された。
「……ん……?」
掬緒が目覚めたところは見たことのない家、否、それよりもずっと大きいであろう、屋敷のような建物だった。天井のない屋根が、手の届かない程遠くに見える。
「……ん……?」
おかしい。何かが、いや、全てがおかしい。上下左右あらゆる方向に視線を移すが、その何処にも、故郷の面影がない。
「はっ……!!」
掬緒は目を覚ました。混乱して目を見開き、左右に視線を送る。自分のすぐ傍に複数の人影が見える。全く見覚えのない者の影が。
「気がつきました?」
声がした。聞き覚えのある、優しく穏やかな声だ。
「あ……あ、あなたは……!」
掬緒は瞬きした。そこに、自分を温かく抱きしめた女性がいる。
「あ……け、怪我は……?」
「もう治りましたわ」
そうだ。自分はこの人を傷つけた。脇腹をずぶりと刺したんだ。微笑んでいるけれども明らかに痛がっていた、あの顔。自分が深い傷を負わせたのは明確だった。
「……」
掬緒は恐る恐る視線を移す。女の人の脇腹は着物で隠れている。もし、その下から赤黒い傷跡が見えたら……。
「もう」
女の人は察したのか、着物を捲る。恥ずかしくて目を覆いそうになる掬緒。覗けた肌は艶があった。傷などどこにも見られない。女の人は横たわる掬緒の頬を優しく撫でながら言った。
「まだ名前を教えておりませんわね。私は彩蓮と申しますわ」
「私は䯊斬丸だ」精悍な顔立ちの青年が言った。
「……綺清那」赤い着物の小柄な女の子がはにかんで答えた。髪は尼削ぎにしている。まだ元服の年ではないのだろう。
「べるめろ」女の子に割り込むように、さらに小柄な男の子が名乗った。髪は短く、項までしかない。こちらもまだ元服していないと思われる。
「私は坐胆。この養祥寺の主にして、この国櫻蓮卿の領主だ」
足の方から、見えなかった影が現れた。剃髪していて黒い袈裟を着ており、如何にも僧侶らしい出で立ちである。寺の主にして国の主でもあるという肩書に違わず、威厳のある立ち振る舞いをしている。掬緒はそんな坐胆を見て、どことない安心感を覚えた。
「……僕は、掬緒。十六歳です」
掬緒は、ここまで来たらもう自分も名乗るしかないと思った。周りにいる者が怪しいのか否か、考える余裕はない。何故か、聞かれてもいない年齢まで答えてしまった。
「十六?髪結いはしていないのか?」
そう。この世では男も女も、十六歳になったら元服を行う。その中で、両親に髪を結ってもらうのが習わしだった。
「誕生日に……あいつらが……真っ黒で大きい奴らが沢山現れて、皆を……」
掬緒は弱々しい声で答えた。その目には涙が浮かんでいる。
「本当は……お父さんとお母さんに、結ってもらう筈だったのに……」
浮かんでいた涙が一気に溢れ、掬緒は大声で泣いた。彩蓮はもらい泣きしそうになった。昨晩のあの凄惨な光景。異形と化した掬緒。本当はあの時、両親や村の者に誕生日を祝われていた筈だったのだ。それを一晩で奪われてしまったのだ。
「……殀鬼か」
䯊斬丸が言った。何やら自分と因縁があるかのような言い方だ。
「ここのところ、”トガ”に存在を知られていなかった村が、次々に襲われている。ここが襲われるのも、時間の問題だろう」
綺清那とべるめろが不安そうな顔になる。掬緒にも聞こえていた。周りにいる人が悪くなさそうで安心していたのに、そんな物騒なことを言うのか。只でさえ、村の皆を殺された悲しみが癒えていないのに。
「掬緒、といったな」
坐胆が掬緒に顔を向ける。二人の視線が合う。坐胆は掬緒のことを、とても気の毒に思っているようだった。
「ここ養祥寺を新たな家、そして今ここにいる皆を新たな家族だと思いなさい」
掬緒は思わず「えっ?」と零した。心の整理がついていないのに?でも掬緒はわかっていた。ここ以外に、居場所はない。
しばらくして、新たに二人の者が入って来た。
「ごめんなさい、遅くなって」
小柄な女性が言った。顔にうっすら皺が見られる彼女は、坐胆と歳が近そうに思えた。隣には、女性とどことなく顔立ちが似ている男性が立っている。無言で会釈をした後、女性と共に掬緒に近づいて正座した。
「あなたが新入りさん?」
穏やかで落ち着ける声。横には男性が俯き加減で座っている。相変わらず無言だが、垂れる頭から覗ける表情は、女性の声のように穏やかそうだ。少なくとも、怪しい人ではない。
「私は丙。ここの医師よ。よろしくね。それで、こちらが私の弟の……」
「乙と申します。庭師です。よろしくお願いします」
恭しく挨拶する乙。掬緒は思った。そうか、道理で顔が似ていると思ったら姉弟だったのか。
「掬緒です。よろしくお願いします」
いきなり日常を奪われ、右も左もわからない。そんな中で、小さいけれども確かな幸せを得られたと、掬緒は思った。
「……掬緒」彩蓮が言った。
「もしよろしければ、私が結上をしましょうか?」
夕方、養祥寺では掬緒の誕生日がしめやかに祝われた。両親に代わり、䯊斬丸と彩蓮が結上を行った。掬緒は一縷の喜びも感じていないのか、その目は暗く、虚ろである。わかるんだ、みんな自分のことを思ってくれているの