(第十七話)闇に響く歌声
降り積もる雪の中、”黒い霧”の意識は遠のいていた。
「もうだめだ……僕は、死ぬんだ……」
立平太に負けた”黒い霧”は瀕死の重傷を負っていた。体は暑さも寒さも感じず、それでいて動かない。真っ白な雪を染める血の池に溺れる自分を助けに来る者は誰もいなかった。
やがて”黒い霧”の瞼が下りる。雪さえない暗黒が広がる。何もなくなったと思った。だが何か違う。背中がごつごつしたものーおそらく岩であろうーに触れているのだ。しかも熱を帯びている。次第にその熱は強まって、背中を焼いた。
「熱い!!熱い!!!」
堪りかねた”黒い霧”は思わず叫んだ。目をかっと見開いた先には、劫火が天まで立ち上っている。早くこの場を抜け出したくて、”黒い霧”は必死でもがいた。だが四肢が岩に張り付いていてぴくりとも動かず、抜け出したいという意志だけが独り歩きしているような感覚だった。
「まさか僕、また……」
”黒い霧”は悟った。この悪夢のような光景の正体は、地獄だ。そして、熱さに悶えているのは前世の自分。辺り一面漆黒の闇の中、赤々と燃え盛る炎は不気味としか言いようがない。逃げたい。早く逃げたい。でも手が動かない。足も動かない。
「あ、ああ、あああああ……」
途切れ途切れの声。何を考え何をしたかったのかわからない。もう、どうしようもない。
「!!」
恐怖が極まり目が覚めた。視界がぐらぐらと歪んでいる。だが朧げに見える光景は、地獄のそれではなかった。
「……あれ?」
不思議だ。先ほどまでとは打って変わって、この場所には心地よい温かさが感じられる。ほんのり漂う木の香りも相まって、自分が何処にいるのかわからないことからくる不安も消える程の安心感を覚えた。
「気がついた?」
声が聞こえた。しかも、その主はすぐ隣にいる。何だろう。声色からして、相手は自分と歳の変わらなそうな女の子のように思える。
「ん……」
ゆっくりと上体を起こす。ふと「ちゃぷん」という音がした。目をやるとそこには水を湛えた盥があった。
(!!)
水面を見てハッとした。そこに映る顔は”黒い霧”のものではなかった。眼光の鋭さが消え、懐かしい穏やかな顔つきをしている。
「元に……戻ったのか?」
「え?あなたはずっとその姿のままだったけど?」
少女は目を丸くした。大きく見開かれたその目に映る顔を見て、掬緒は驚いた。
「え……ええ……?」
自分の頬が、林檎のように赤く染まっていたのだ。
少女が出した粥を食べて、掬緒は体力を回復した。
「味はどう?」
「……すごくおいしい」
正直なところ、粥は美味しかったが極めて素朴な味だった。だが寒さと孤独で体が冷え切っていた掬緒にとっては、本来の味を超えた、どこか温かく懐かしい感じがした。
「私はゆず。よろしくね」
「まさか、君が助けてくれたの?」
「偶々外に出てたら、あなたが倒れてて……体がすごく冷たかったから……」
何となく察した。外で気を失った時点で、自分の姿は元に戻っていたのだ。掬緒の頬元が緩む。
「ありがとう。僕は掬緒。よろしく」
掬緒がそう言うと、ゆずはそっと彼の手を握り、微笑んだ。
(温かい……)
掬緒は思わず、ゆずの手を握り返した。
暫く雑談していた二人の元に、ゆずの両親が帰って来た。だが様子がおかしい。何処かあたふたしている。
「ゆず、大丈夫か!?外に凄い量の血があったぞ!?」
「あっ、お父さんお母さんお帰りなさい」
雑談を楽しむ余り、ゆずはこの時まで、掬緒を見つけた時に血塗れだったのを忘れていた。ゆずの父と思しき男は布団を見て目を丸くした。
「おいゆず、そこにいるのは誰だ?」
「この人は掬緒。さっき外に出たら、倒れてたの。しかも、血が出てて……」
「勝手にお邪魔してすみません」
ゆずの両親を前に、掬緒はばつが悪くなった。
「この辺を歩いてたら、道に迷って……それで……」
掬緒は立平太のことを言うべきか迷った。この雪の中で殀鬼と戦ったなどと言えば、ゆず達を不安にさせてしまうかもしれない。自分が”黒い霧”だった時の記憶がまだ残っている。立平太の強さは、今思い出しても震え上がるほどだった。
「……襲われたんです」
「何に?」
「……覚えていません」掬緒は咄嗟に嘘をついた。
「そうか……」ゆずの父は訝しんでいるようだが、一応は納得した。掬緒の体に巻かれたさらしに、広範囲にわたって血が滲んでいるのが見えたのだ。今の彼には、こうして体を起こすのがやっとなのだろう。
「雪も深いからな。ここでゆっくり休むといい」
「寒かったら教えてね。布団はまだあるから」
ゆずの両親にも気を遣ってもらい、掬緒は安心した。二人はそれぞれ瑠阿武砦、葡つ美と名乗る。
それから程なくして。
(♪〜)
「ん?」
突然、外で歌声が聞こえた。美しいが不気味で、聞いていて不安になる歌声だった。瑠阿武砦が外を見る。だが人影はない。
「何だ?」
万が一の事態に備え、瑠阿武砦は鎌を持って外に出、雪の中を恐る恐る進む。
(♪〜)
また歌が聞こえた。先ほどよりも長く、家の中にいる掬緒にもはっきりわかるくらい声を張り上げている。瑠阿武砦は出たまま、声すら聞こえない。
「気味が悪いわね……」
瑠阿武砦を心配し、葡つ美が竹槍を持って外へ出た。歌声は尚も響いている。やがて葡つ美の声も消えた。
(この歌声……やっぱりおかしい……)
そう思った掬緒は、体の痛みも忘れて外に飛び出した。
「待って!まだ傷が……」
ゆずが呼び止めたが、掬緒の耳には届かなかった。
「お前か」
薄々感じていたが、そこにいたのは殀鬼だった。しかもそれは、倒れるまで戦っていた立平太ではなく、自分と歳の変わらなそうな少年だったのだ。そんな彼が放つ冷徹な瞳に、掬緒は身構えた。
「あなたですね、牛に何かしたのは」
言葉遣いは丁寧なものの、瞳に違わず冷たい声。これで歌われたら不気味に感じるのも無理はない。
「何をするつもりだ」
「私は哀蝉。全ての人間を救いに来たのです」
信じ難かった。先ほどの歌声を聞いた時の、凍えるような不安感。それで人を救うなんてあり得ない。
「嘘つけ!あんな歌声で救うなんて……」
言い終わらぬうちに、哀蝉は再び歌い出す。すると瑠阿武砦と葡つ美が、ふらふらしながらも早い足取りで走ってきた。その手には鋭利な鎌と竹槍が握られている。
「二人に僕を襲わせるなんて卑怯だ!!」
掬緒はそう叫んだが、哀蝉の歌声に掻き消された。
「ううっ……」
頭が痛くなった。もしや、自分も操られかけているのか?掬緒は耳を押さえつつ、必死で歌に抗う。だがその間にも、瑠阿武砦と葡つ美が襲い掛かって来た。
「どうしよう……あの二人に手を出すわけにはいかない」
掬緒は二人の攻撃を躱しながら応戦する。そして知らないうちに、ゆずの至近距離まで迫ってしまった。
「まずい!」
咄嗟に横に逸れ、注意を引きつけようとする掬緒。だがその時、哀蝉の歌が変わる。
(♬〜)
そしてそれに合わせるかのように、瑠阿武砦と葡つ美がゆずに襲いかかった。ゆずは家の中に追い込まれ、必死で逃げ回る。すると瑠阿武砦と葡つ美は家のありとあらゆるものを破壊し始めた。やがて囲炉裏が破壊され、火が瞬く間に燃え広がる。
「……ぁぁぁ……」
ゆずは愈々逃げ場を失い、腰が抜けてしまった。火と両親、どちらが先に襲ってくるか、不安でならないゆず。そこへ声が響いた。
「危ない!」
壁を突き破り、鈍重な、しかし機敏に動こうと必死な声の主は、黒光りする鋼に身を包んだ巨大な化け物だった。広がる炎をものともせず、右腕にゆずを抱えて脱出を図る化け物。家では尚も瑠阿武砦と葡つ美が暴れていた。化け物は彼ら二人もまとめて助けようとするが、瑠阿武砦の鎌が足に当たったのに反応してうっかり彼の顔を引っ掻いてしまう。
「うあっ!!」
顔を血で真っ赤に染めた瑠阿武砦は狼狽え、近くにいた葡つ美も動揺する。化け物はその隙に、左腕に瑠阿武砦と葡つ美をまとめて抱え上げ、炎の中を脱した。化け物がゆずを見つめる。ゆずもそれに気づいて化け物を見つめ返した。
「……」
ゆずが見つめるその瞳には、化け物ではなく、掬緒の顔が映っていた。
宙に浮いて歌を歌っていた哀蝉が一部始終を見ている。
「……殀鬼?」
哀蝉は歌うのをやめ、ゆずの家で地響きをあげながら動き回る怪異に関心を向ける。彼は見ていた。怪異が、ほんの少し前まで自分と同じくらいの年の少年の姿をしていたことに。
「もしや……」哀蝉は何かを思い出す。
「これは、”トガ”様に報告しなくては……!」
哀蝉は姿を消す。同時に、歌に操られていた瑠阿武砦と葡つ美も解放された。




