(第十六話)一輪の雪中花
地獄にて。
「これは……」
地上の動きを見ていた八獄卒は、平静を装いながらも内心微かに動揺していた。中でも特に、六の卒は思うことがあったのか、他の者にも増して呆然としている。
「……」
「早まるな。まだ可能性はある」六の卒を案じ、七の卒が宥める。
「其方が落胆するのも無理はない。彼は元々、其方が受け持っていたからな」
「それもそうだが……」
間。
「彼が弥勒に選ばれた経緯がな……我の元にいた頃は、生まれ変わること自体に万の時がかかるとしか思えなかった」
「色々思うことはあろうが、しかし」三の卒が酷薄な表情で割り込んだ。
「我々に許されているのは、かように地上を見ることのみ。あれこれ思ったところでどうにもならない」
八獄卒は忽ち沈黙した。
新たに現れた『人でも殀鬼ではない者』の存在は、”トガ”も感じ取っていた。
「此奴……」
”トガ”は黒鏡で、得体の知れない新たな存在について思いを巡らせていた。
(もし此奴が俺の手下になれば、ここにいる奴らを凌ぐ有能な存在となるだろう。だがまだその点は未知数だ。手下を倒している以上、新たな脅威となる可能性も否定できない」
”トガ”は暫く考えた後、立平太を呼んだ。
「立平太」
「何でしょう、“トガ”様」
「この黒い霧を追え。そして正体を突き止めろ」
「はい、おおせのままに」
畏まっていた立平太は、新たな任務を与えられて喜ぶ。そして、すぐさま黒い霧の追跡に向かった。
「……」
立平太が去った後、頭を下げている他の部下には目もくれずに“トガ”は思った。
「もし奴が俺の力になれば、兼ねてからの計画が早く終わるだろう。そうすれば、あいつらを永遠に焼くことができるんだ……」
”トガ”が妄想する恐ろしい光景。その中では、複数の影が悲鳴を上げながら炎に焼かれている。
”黒い霧”は殀鬼の気配を感じてはその場に赴き、手当たり次第に倒す。そして決まって子どもを攫う。林道の果ての廃集落には、攫われた子どもが毎日連れて来られていた。
「心配するな。ここなら殀鬼は来ない」
そう言われても、子どもたちは誰一人として安心できなかった。「心配するな」という彼の目も、その口から発する声も、冷たく硬い石のようだった。そして何より、いきなり攫われ親から引き離されることが、安心なわけがない。子どもたちを案じて言ったつもりの”黒い霧”の言葉は彼らには全く響かず、恐怖を増幅するだけだった。
”黒い霧”はある村で殀鬼を殲滅した。そしていつものように子どもを連れて行こうとし、辺りを見渡した。
「ん……?」
全ての家屋を隅から隅まで探したが、子どもは誰一人として見当たらない。外へ逃げた可能性も考えて村の周辺も探したが、やはり見つからなかった。
「この村には元から子どもがいなかったのか」
子どもが一人もいないということに違和感を覚えつつ、”黒い霧”は廃集落へ帰ろうとしていた。そこへ、見たことのない、しかし今までとは比較にならない程の邪気を発する殀鬼が現れる。
「君か。”トガ”様が関心を持たれていたのは」
殀鬼はそう言うと、いきなり”黒い霧”に攻撃を仕掛けてきた。
「強い……このまま戦ったら、僕は負ける―」
今まで向かうところ敵なしの状態で勝ち続けてきた自分を圧倒する戦力に、”黒い霧”は太刀打ちできなくなる。攻撃を繰り出す手が鈍り、足も傷だらけで今にも折れそうだった。次第に逃げ一辺倒になる”黒い霧”。しかし殀鬼はしつこく追いかけてくる。
「このまま戻れば、子どもたちが危ない……」
そう感じた”黒い霧”は、廃集落から遠く離れたところへ逃げていく。殀鬼は、その後を一瞬の見落としもなくついて行った。
”黒い霧”が向かった先は、廃集落とは真反対の方向にある高山だった。山頂付近を大きな雲が覆い、雪を静かに積もらせていた。一面真っ白なその地に、ぽつ・ぽつと赤い点が落ちている。
「うっ……」
”黒い霧”は足を引き摺りながら歩いていく。赤い点はその足から滲む血だった。一足ごとに雪を染めるそれは、”黒い霧”の視界には入らない。
「……」
”黒い霧”には自分の血が見えていない。目の前には白い雪と、いつの間にか日が沈んで暗くなった空しかない。
「……?……」
足取り重く歩いた先に、雪に紛れて何か赤いものが姿を現した。否、正確には”赤い”ではなく”紅い”というべきであろう。血のような生々しい色ではなく、ほんのり染まった頬のような、艶やかで優しさを感じる色だった。
「ん……?」
近づく”黒い霧”。それは雪の中から生えている、一輪の花だった。椿のようにふわりと広がる花弁、そして雪に隠れて見えなかった葉は石蕗のように深みのある緑色をしていた。花も葉も、白い雪や黒い空によく映えている。それらを真っ直ぐな茎が繋いで立つ様は、逆境でもめげない、気丈な人間を思い起こさせた。
「っ……」
”黒い霧”は膝を落として手を伸ばす。凛として咲く花を見て、「この花を折ってはいけない」という思いがふつふつと沸いたのだ。花に触れないよう、手を慎重に動かす”黒い霧”。このとき、彼の体力は限界に近づいていた。
「……!?」
突然、花の前に錆色の小刀が落ちてきた。落下地点があと少しずれていたら、花は確実に折れていただろう。
「これは……」
”黒い霧”が正体を突き止める間もなく、小刀は次々と落ちてくる。”黒い霧”は痛みを堪えて花を死守する。
(ふふふ……)
”黒い霧”は空を見上げる。雪で静まる空間に響く声。微かにしか聞こえなかったその声は、寒気がするほど底意地の悪さに満ちていた。
「まだ名を伝えていなかったな」目の前に降りてきた人影を、“黒い霧”はじっと見つめる。
「私は”トガ”様の御使、立平太と申す。見知りおけ」
穏やかな声だが始終威圧的な言動で、“黒い霧”は警戒を強める。
(何としてでもこの花を守らなければ)
“黒い霧”は花を庇おうとする。それを嘲笑うかのように、立平太は花をちまちまと攻撃した。当たりそうで当たらない位置にしつこく攻撃を加え、かと思えば“黒い霧”の負傷箇所に釘のように小刀を打ち込む。黒い霧”の足は、素肌の色を判別するのが困難な程に赤く染まっていた。
「……!!」
立平太の攻撃が花を掠めた。紅い花弁が捥げ、雪よりも軽くふわりふわりと落ちる。花弁も、そして花自体も、先ほどまでの凛とした姿を失って今にも倒れそう。”黒い霧”の心に、そんな不穏が過った。
「やめろ……この花だって、生きてるんだ……弱い者いじめを……するな……」
途切れ途切れの声で言う”黒い霧”。花を守りたい一心で何とか持ち堪えていたが、花弁が落ちたのを見て自身の非力さを思い知らされ、愈々戦う気力がなくなってきた。”黒い霧”が痛みに耐えられず体を縮める中、立平太はにんまりと笑って言った。
「ならば、”強い者”である君の相手をした方がよさそうだな」
次の瞬間、目にも留まらぬ速さの鉄拳が”黒い霧”を襲った。
「ふう」
立平太の前には、全身血塗れで瀕死の状態になった”黒い霧”が横たわっている。
「この程度の実力ならば、”トガ”様に会わせる必要など、全くないな。もっと張り合いのある奴だと思っていたのに」
未知の存在かと身構えていたのに、鉄拳で呆気なく倒れた”黒い霧”。立平太は時間の無駄だったとばかりに呆れ、その場を去った。
「ぅ……ぁ……」
真っ赤に染まる”黒い霧”の体に、雪は尚も降り続けている。




