(第十三話)半鬼の誕生
掬緒は木々が枯れ果てた山を彷徨い歩いていた。無我夢中で走った後であり、周囲の空気も薄い中で、ぜえぜえと息遣い荒く歩いている。休もうにも、休めそうな場所がない。
「ここは……一体……?」
目的地を確認せず縮地盤を使ったせいで、文字通り右も左もわからないところに来てしまった。それでも暫く歩くと、曲がり角の向こうに黒い岩が見えた。白い雪によく映えるその岩は、平たくて大きさもそこそこで、座るのに丁度よさそうだった。
「やっと座れる……少し休むか」
掬緒は腰掛ける。岩から四本の細長いものが伸びていることに気づかずに……。
「ぶぉっ」
「ひゃぁっ!?」
突然聞こえた唸り声に、掬緒はびっくりして飛び上がった。さらに彼を驚かせたのは、岩が激しく動いたことだった。恐る恐る下を見ると、細く黒いものが四本、その先には白くて硬そうなものが雪に紛れている。よくよく見ればそれは蹄だった。
「そういえば、さっきの声……」
掬緒は察した。聞こえた声は何処か悲しさを滲ませていたが、確かに、故郷にいた牛に近いものだった。
「ま、まずい……」
掬緒の脳裏に故郷での苦い思い出が蘇る。他家で飼われていた牛を枝でつついたら、牛が怒って暴れたのだ。幸い怪我はなかったが、大騒動になって両親共々家の者に謝罪する羽目になった。それ以降牛に手を出さないと決めていたのに、自分はなんて失態を犯してしまったのだろう。牛に襲われても文句は言えない。動揺して混乱する掬緒。逃げる余裕も失い足が竦み、恐る恐る下を見る。そこには雪中を凝視してやっとわかるくらい真っ白な二本の角と、それとは対照的な真っ黒の顔。頻りに吐く息の向こうに見え隠れするその顔は、正真正銘、牛のものだった。顔立ちは非常に整っていて、まるで眉目秀麗な青年のようだった。掬緒は、牛が弱りきっているのも忘れてその美しい顔に見惚れていた。
「何て綺麗なんだろう……こんなに綺麗な牛、見たことない」
掬緒は牛の顔に手を伸ばす。艶のある毛は柔らかく、掬緒の冷えた体をじんわりと温めた。体が無意識に暖を求めていたのだろう、掬緒は牛の体を優しく撫でた。
「お前、どうしてこんなところにいるんだ?寒いだろ?」
掬緒は寄りかかるようにして牛の体を見る。すると、足に赤く染まった真一門の線があった。血だ。血が静かに流れていたのだ。
(怪我してる……動けなかったんだな)
掬緒は懐からさらしを取り出し、牛の足にきつめに巻いた。
「これで血が止まる」
血は確かに止まりつつある。だが牛は痛がって動けない。
(このままこいつを一人にするのは……何だか偲びない)
牛の傷を見て掬緒は思った。第一、寒い。それにここが何処なのかもわからない。自分はここを離れたところで、雪景色の中を凍えながら彷徨い歩くだけになるのは目に見えていた。
「……そばにいるよ」
掬緒は牛に寄り添い、そっと目を閉じる。
「うぅ……」
眠っている掬緒の耳に、突然唸り声が響くいた。それは一瞬しか聞こえなかったが、後を引く妙な違和感がある。
「今の……牛の声じゃない!」
掬緒が聞いたのは、紛れもない”人“の声だった。掬緒は動揺する。
「誰かいるのか?」
掬緒は警戒を強める。自分が、牛が、攻撃されたらたまらない。仲間と離れている今は、これまで以上に気を引き締めないといけない。掬緒はそれを本能的に理解していた。
「……?」
戦闘体制で構えていた時、掬緒の背後から黒い霧が立ち昇った。それもただの煙ではない。
(何かよくないものを感じる……)
咄嗟に逃げようとする掬緒。だが霧はそんな彼を妨害するかのように纏わりついてくる。足をとられ、胴体をとられ、掬緒は瞬く間に霧に呑まれてしまった。五感が失われていく感覚。目も、耳も、外界に繋がる全てが閉ざされようとしていた。
「わああ!ごめんなさい!ごめんなさい!」
突然、霧を裂くような声が響いた。
「ごめんなさい!ごめんなさい!!」
何だかおかしい。初めはそう思っていた。だが、それは間も無く恐怖に変わる。
「これ……僕の声だ」
声の正体に気づいた時、霧がゆっくりと形を変えた。自分と同じ声のそれは、少年の姿をしている。初めて見る者だった。だが掬緒にとって、それは何故か、ほんの数年前のことのように思われたのだ。混乱しそうになると、また霧が形を変える。右の方から大きな拳が現れ、少年を何度も殴打した。何事かと思い視線を移すと、そこには中年男性のような影があった。少年の父親だろうか?
「呑気な面しやがってこの野郎!」
少年の父と思しき男は、今度は足まで出して、怒りに任せて殴る蹴るの暴行を加えた。あまりの光景に、掬緒の額からは脂汗が流れ、目は瞼が引き裂かれんばかりに開かれた。掬緒は薄々気づいていた。
「これ、前世の、僕か……?」
恐ろしい真実が眼前に広がる。前世と思いつつも、掬緒の記憶は錯綜していた。混乱を極める心を読んだかのように、霧は目まぐるしく形を変える。
「助けて!」
「あ……ああ……」
「怖い……人間が怖い」
掬緒の心を撹乱させる言葉の数々。悲鳴、慟哭、様々な声が響いた果てに、おどろおどろしい声が聞こえた。
「いつの世も、人間は弱き者を虐げる。それが後で、とんでもないしっぺ返しとなることに気づかずに。人間は愚かだ」
掬緒は気づいていなかった。聞こえた声を、自分の口からも発していたことに……。
やがて霧が消えた。そこから現れたのは掬緒、否、彼の姿をした別の何かだった。視線は鋭く、これまでの面影はない。額には第三の目が開き、両肩には黒い角が生えている。
「弱い者虐めは許さない……」
何者をも寄せ付けない眼差しで、しかし何かに囚われているかのように、それは呟いた。
「!!」
その時、気を失っていた牛が目覚めた。
「うう……」
何か思うことがあったのか、牛は体を持ち上げる。だがそこには、果てしない闇と、疎らに降る雪だけしかなかった。
“トガ”の本拠地にて。
「……」
謁見の間の地下に隠された秘密の牢獄で、青白い顔をした、掬緒と殆ど年が変わらなそうな少年が立っていた。彼の前にあるのは、錠が外れた鉄扉。格子の向こうには、乱暴に外されたからなのか、激しく折れ曲がった枷が転がっている。
(チッ)
赤黒い炎が灯る牢獄の中で、少年の微かな舌打ちの音が響いた。




