婚約破棄は離婚式のあとに
指輪の輝きが陽光に溶ける。青空に翳した左手と共に。
指の隙間から溢れる春の陽だまりに目を細めながら、千冬は嘆息を吐いた。
今日でこの輝きは失われる。未来永劫、この薬指に戻る事もなく。
そうして名残惜しげにゆっくり左手を下ろしたあとに、千冬はこうなってしまった経緯を思い出しながら石段へとゆっくり足を掛けた。
*
それは突然の事だった。
夫である智久に「大事な話がある」と言われ、日課の植木鉢の水やりを終えたあと、ダイニングテーブルの対面に着いた。
それから「大事な話って?」と訊ねてみると、智久はいつになく厳粛な空気を漂わせたあと、重々しく口を開いた。
「僕と別れてほしい」
え、と千冬は表情を凍らせた。
別れてほしい。確かにそう言われた。聞き間違えや幻聴でない事だけはわかる。
しかし言われはしたが、すぐには理解が追いつかなかった。
頭の中では「何故」という疑問ばかりで埋め尽くされる。何が起きているかわからないと動悸が早まる。
智久とは大学の授業で知り合い、そこからどちらからともなく惹かれ合うようになり、智久からのプロポーズを受けて、卒業後にめでたく結婚式を挙げた。
智久は卒業後、地元の銀行で勤めるようになり、千冬は短時間のパートをやりつつ家事もこなしていた。智久の収入なら別段パートに入らなければならないほどではなかったが、自分の小遣いくらいは自分で稼ぎたいと思っての決断だった。
そうして、かれこれ四年。智久との夫婦生活はまずまず順調と言って差し支えない日々だったと思う。
もちろん共に過ごしている以上、一度も不満を持たなかったわけではないし、一緒に住むアパートを探す際は多少揉めたけれど、それ以外はケンカらしいケンカもない新婚生活だった。
さすがに四年も経つと新婚とは言い難いが、気持ちはいつまでも結婚したばかりの頃のままだった。それくらい智久の事を愛していたし、智久も自分の事を愛してくれていると思っていた。
だから智久から大事な話があると言われた時も、きっと将来を見据えてのマンション購入とか、もしくは仕事関係だろうと思っていた。
しかしながら智久から告げられたのは、寝耳に水もいいところの急な別れ話。
これまでの智久との生活は一体なんだったのだろうと虚無感を覚えるくらい、智久との記憶が次々に色褪せていく。可憐に咲いていた花が瞬時に萎れていくように。
「……理由は」
混乱した頭で、それだけは訊ねた。兎にも角にも、まずは理由を聞かないと返事の仕様がない。
「どうしてもやりたい事ができたから」
間髪入れずに返してきた智久の言葉に、千冬は眉宇を顰めて閉口した。思っても見なかった言葉にまともな反応すら出来なかった。
これがまだ、他に好きな人が出来たというのなら理解できる。決して納得はできないし、実際に離婚した際は絶対に多額の慰謝料を払ってもらうつもりではあるが、他の人を愛してしまったという事自体はどうしようもないと思っている。自分の感情に嘘は吐けないからだ。
もしくは、単なる性格の不一致というのであれば、それはそれで仕方のない事だ。千冬は千冬なりに一生懸命尽くしてきたつもりだったが、それが伝わっていなかったのだとしたら、互いの相性が良くなかったのだろうと諦めも付く。
だが智久はそのどちらでもなく、やりたい事があると端的に告げてきた。つまりそれは、千冬よりもやりたい事を優先したという事でもある。そんな素振り、これまで一切見せた事もないのに。
「やりたい事って何? まずはそれを聞いてからでないと、納得できない」
「それは……まだ言えない」
「言えないって……」
言葉尻を濁す智久に、千冬はテーブルの下でセーターの裾をギュッと握り締めた。
それまでは困惑するばかりであったが、言葉少なに離婚を迫る智久にだんだんと怒りにも似た憤りが体の奥底から滲み出てくるかのような気分である。
「きちんと説明もしてくれないまま離婚しろって言うの、智久は?」
「ごめん。でも離婚届を役所に届けるまでにはちゃんと言うつもりだから」
どうやら、智久の決意は相当に固いらしい。いつも温和で大概の事は相手に譲歩してしまう癖がある智久がこんな強情な事を言うなんて、にわかに信じられなかった。
それだけにショックだった。智久とはかれこれ八年近い付き合いになるのに、これだけの覚悟を内に秘めていたという事実に気が付きもしなかった自分が。
年数を重ねた分、相手を深く理解できるとは限らないが、共に積んできた時間は確かにお互いの愛を育んでいたと思っていた。それは千冬の勘違いだったのだろうか。すべては千冬の思い込みでしかなかったとでも言うのだろうか。
(ああ──私、まだ智久の事が好きなんだ)
これだけ無茶苦茶な事を言われているのに、それでもまだ智久の事を諦め切れないのは、未だ彼に対する想いが強く残っているからなのだろう。その事実を知ってより胸が締め付けられるように切なくなってしまった。通じ合わないお互いの気持ちに。
それゆえに、どうしてもこれだけは問い質しておきたかった。この感情に折り合いを付けるためにも。
「ねぇ。智久は私の事がどうでもよくなったの?」
「それは違う。今も千冬の事は好きだよ」
「好きなのに、私と離婚するの? 私だって、まだ智久の事が好きなままなんだよ?」
「ごめん……」
「考え直してくれる気はないのね……」
頑なに離婚案を引き下げない智久を見て、千冬はもうこれ以上何を言っても無理なのだろうと悟ってしまった。お互い、想い合ったままだというのに。
深い嘆息が肺から漏れる。いつしか、セーターの裾を握り締めていた手は力なく開き、ひんやりと熱を失っていた。春先とはいえ、まだ暖房を使っているにも関わらず、体の芯から冷えそうなほどダイニングは静まり返っていた。
「智久」
千冬の方から沈黙を破った。それまでとは打って変わって、感情の伴っていない声音で。
「ひとつだけ聞かせて。そのやりたい事に、私は邪魔だった? 一緒にはやれなかったの?」
「邪魔じゃないよ。それだけは決して違う」
何度も頭を振って否定する智久。そして申しわけなそうに眦を下げながらも、瞳だけは確かな意志の光を宿らせて千冬を真っ直ぐ見据えた。
「でも千冬とは一緒にやれない。これは僕一人でないと意味のない事だから」
#
ピアノソナタの静穏なBGMと共に、天井ファンが緩やかに回転する。シック調に設えた調度品はどれも落ち着いた色合いで目に優しく、決して広いとは言えない店でありながらも、まるで閉塞感のない空間が実に心地良い。カフェの雰囲気と相俟って、今飲んでいるコーヒーにすら沈静効果がありそうな気がした。
だと言うのに、千冬の話を聞き終えた目の前の彼女は、あからさまに顔を顰めて「はあ?」と語調を荒げた。
「何それ? いくら何でも勝手過ぎない? なんの相談もなくいきなり離婚だとかやりたい事があるとか言い出してさ」
「……うん。でも、智久も色々考えての決断だと思うから」
「千冬は甘いって! もっと怒鳴ってやればいいのよそんな男!」
「美香子。ここ、お店の中だから……」
千冬に諌められ、美香子と呼ばれた女性は眉間に皺を刻みながら、不承不承とばかりにティーカップを口に運んだ。
美香子は高校時代からの親友で、お互いに家庭を持ってからもこうして親交を続けている間柄だ。もっとも美香子は結婚してからも某大企業で精力的に働いているキャリアウーマンなので、向こうの方が断然忙しいはずではあるのだが、何かあればすぐに面と向かって相談に乗ってくれる美香子の事を、千冬は誰よりも信頼していた。
そういうわけもあり、智久との一件も美香子に相談してみると、すぐ会いに行くと言ってこのカフェに誘ってくれたのである。しかも今日は平日で、せっかくの貴重な昼休み中にも関わらずだ。感情的になりやすい部分はあるが、それを差し引いても余りあるほど心優しい親友だと思う。
「で、千冬はどうする気?」
スーツにコーヒーの滴が溢れないよう慎重にカップをソーサーに戻しつつも、依然として渋面になったまま美香子が口を開いた。
「まさか、まだそんな奴と一緒にいたいとか言わないわよね?」
「ううん、離婚はするつもり。もう何を言っても止まらない感じだったから」
「当然ね。千冬よりも別の事を選んだ男だもの、これ以上一緒にいるだけ不毛よ」
そんな身勝手な男だとは思わなかったけれど、と智久の姿を思い浮かべるように、美香子は険の籠もった表情で顔を逸らした。
美香子と智久は結婚前に数回だけ会わせた事がある。その時は互いに当たり障りのない対応で、別段どちらとも好印象とも悪印象とも言えない感じだったが、ここに来て美香子の智久に対する好感度は最悪方向に振り切ってしまったようだ。無理からぬ話ではあるが。
「まあ離婚はするとして、その後はどうするの? 千冬はずっと専業主婦だったし、働き口を探すのも大変そうね」
「うん。とりあえずアパートはそのまま私が使ってもいいって事だから、住むところは大丈夫なんだけど、私バイト経験くらいしかないから、働くとなったら苦労するかも……」
「けど慰謝料はけっこう貰えるんでしょ? 相手、銀行員なわけだし。だったらしばらくはゆっくり考えたらいいんじゃない? 何なら新しい恋を探すのもアリだし」
「新しい恋……」
まだ智久の事を忘れられないのに、早々に次の恋を探す気にはなれない。
などと言うと、またしても美香子に叱られそうな気がするので敢えて本音は口にしないが、しかしながらいつまでも智久に拘るわけにはいかないのも事実だ。いつかは智久への思いを断ち切る必要がある。
(いつ智久と離れ離れになるのかはわからないけど)
あの離婚話から翌日というのもあって、智久はまだ自宅のアパートにいる。荷物整理が済んでいないからだ。
昨日の時点で智久から「今からでもホテル暮らしにする」と提案されたが、そこは断った。別に嫌い合っているわけでもないのに追い出すような真似も変だと思ったからだ。なんて事を可奈に言ったら、絶対また「甘い」とか怒られそうではあるが。
そういうわけもあり、未だ智久と共に暮らしているが、以前までのような会話は勿論なく、気まずい雰囲気が漂ってしまっている。当然ながら今日の朝食も別々に取っており、交わした会話と言えば今朝の「行ってきます」と「行ってらっしゃい」の挨拶程度だ。
おそらくいつかは智久から具体的な離婚の段取りと引っ越しの話があると思うが、その事を思うと心臓に針を刺されたように胸がチクチクと痛む。
見るともなしに視線を落としたコーヒーの水面に、自分の傷心した顔が暗く映し出されていた。
美香子と別れてから、千冬は昼下がりの街並みを一人で歩いていた。
春になったばかりというのもあって、街路樹に僅かに新緑が顔を出し始めている。桜の木はまだ芽吹いたものばかりで開花するにはもう少しばかり時が必要になりそうだが、今日のような穏やか気候が続けば芽が開くのもそう遅くはならないだろう。
歩道脇にある店はどこも春のキャンペーンを謳うサービスを展開しており、特に洋菓子や和菓子を扱う店舗からは桜を彷彿とさせる甘い香りがあちこちから漂ってくる。満開の桜が待ち遠しくなる匂いだ。
そんな春の街並みを憂鬱とした思いで眺めながら、千冬はあてどもなく孤独に歩く。
いつも視界に入れていた景色が、まるでセピア色に褪せて見える。まるで遠い国の光景を古びた映写機で鑑賞しているかのような気分だ。自分がこれまで住んでいた街とはとても思えない。世間が春に浮かれている事すらどこか他人事めいて見える。
こうしている事に何も意味はない。今はただ、一人で歩きたい気分だった。単に一人寂しくあの家にいたくないだけというのもあるが。
(智久とこの街に来たばかりの頃は、あんなに胸が弾んでいたのに)
智久と歩いた街中を一人で追想するように巡っていく。無駄だと分かりつつも、過去の思い出に縋るように。それだけ、好きなのに別れなければならないという現実が、千冬の心に暗い影を落としていた。
そうして、どれだけ歩いた事だろう。気が付けばとある店先のショーウィンドウの前に立っていた。
「あ。テディベア……」
ガラスの向こうで陳列されている小さな子熊のぬいぐるみ。それもただのぬいぐるみではない。一目で高級と分かるブランド品だ。
一目で分かったのは、千冬に手芸の趣味があったからだ。特にテディベアは子供の子から好きで、昔はたまに自分で作っていたりもした。だからこそ、目の前のテディベアが安物ではないとすぐに把握できた。
改めて立て看板を確認すると、テディベア専門店と書いてあった。道理でどの棚にもテディベアが飾られていたわけだ。それもテディベア専門店なだけあってか、ヴィンテージ物からそうでない物まで多種多様なテディベアが。
ここは偶にしか通らない道ではあったが、こんな店があったなんて今まで知らなかった。いつもはバスを利用していたせいもあって、これまで気が付けずにいたのだろう。こんな素敵な店があったと知っていたら頻繁に足を運んでいたかもしれない。
「テディベア、か……」
今でもテディベアは好きだ。というより自分の部屋やリビングにもいくつか飾っている。ブランド品から自作も含めて。
けど、最近はめっきり自分でも作らなくなってしまった。結婚するまではあんなに嬉々として作っていたというのに。
それこそ、いつかは目の前にあるようなテディベア専門店を自分で開きたいと夢見ていたくらいには。
一体いつから、その夢を見ないようになってしまったのだろう──。
「千冬?」
と、ショーウィンドウ越しのテディベアを眺めながら過去の記憶を脳裏に浮かべていた最中、不意に横から自分の名前を呼ばれたような気がした。それもどこか聞き覚えのある声が。
郷愁にも似た不思議な感覚になりながら、千冬は声のした方をゆっくり振り向く。
「竜二……」
そこには、小学生の頃からの幼馴染。
そしてかつての恋人が、目の前に立っていた。
#
「吃驚した。まさかこんな所で千冬に会えるとは」
「私も。竜二がこの街に来ていたなんて」
近くにある噴水広場のベンチ。そこで千冬と竜二は横並びに座っていた。
昔は自由奔放というか、落ち着きがなくていつも遊びほうけている印象だったが、今はいくらか大人びて見える。高校の頃よりも背が伸びてガタイが良くなったせいもあるかもしれないが、高級そうなスーツ姿が様になるくらいには精神的に年数を重ねたのだろう。それでも瞳の奥に悪戯めいた光が浮かんでいるように見えるあたり、未だ野生的な部分は失くなっていないようだ。
竜二とは高校卒業して以来になるが、そういう昔の面影がほんの少しでも残っていてくれた事がどことなく嬉しい。竜二には一度だけ結婚の知らせを実家の方に送った事があるのだが、どうやらちゃんと読んでくれていたようで「なんか優しそうな旦那だったよな」と微笑みながら言ってくれた事も、まるで自分も含めて褒めてくれているような気がして気分が良かった。たとえ時期に別れる相手だったとしても。
「竜二はここに住んでるの?」
「いや、俺は仕事で偶々《たまたま》この街に来ただけ。千冬は結婚してこの街に住んでるのか?」
「うん。でもすごい偶然。竜二と再会できるなんて」
「そうだな。高校を卒業して以来になるから、もうあれから十年近くは経ってんだな」
そうね、と千冬は相槌を打った。
眼前で水が勢いよく噴き上がる。それに合わせて近くにいた子供達がキャーキャーと歓声を上げた。そばのいた母親達はずぶ濡れにならないかどうかと冷や冷やした表情をしているが、それでもある程度は仕方なくないと諦めが付いているのか、はしゃぐ子供達を見守りながら苦笑を浮かべていた。
「覚えてるか。小学生の頃、結婚したら子供は何人欲しいかって話」
噴水のそばで喜色満面に走り回る子供達を見つめながら、竜二がふと囁くように呟いた。その言葉に千冬は横目で竜二を一瞥して、
「子供の頃の話でしょ」
と淡白に応えた。
「まだ付き合ってもいなかった頃の、遊びの延長線上のような他愛のない話よ」
「そうだな。けど高校の時は実際に付き合った。結婚だって決して夢じゃなかった」
「卒業する前に別れちゃったけどね」
「あの時は受験が重なってゴタゴタしてたせいもあるだろ。それまでは上手くやってた。まあ受験だけのせいとは言わんし、他にもすれ違う理由はあったかもしれんが、少なくとも歪み合っての別れじゃなかったはずだ。どちらかと言うと自然消滅に近いっていうか、一度の喧嘩でなんか気まずくなってしまったていうかさ」
「うん。そんな事もあったね」
あの頃は若かったのだ。互いに譲歩する事を知らなかった。幼馴染という関係性もあって、そういった気遣いをいつの間にか忘れてしまっていたのだと思う。だからちゃんと話し合う事もできず、自然と心が離れていってしまったのだろう。
なんて事はない。よくある別れ話だ。
「だからってわけでもねぇけど、もしも千冬が結婚する前にこうしてまた出会えていたら、また違った結末があったんじゃないかって思うんだ」
「もしもの話でしょ。あんまり思い付きの話で人を口説くのはどうかと思う」
「思い付きじゃない。こうして出会えたのは本当に偶然だけど、千冬を想わなかった日はなかった」
竜二が真剣な面持ちで千冬を見つめる。その瞳に嘘偽りの気配は微塵も感じさせなかった。
「千冬と別れてから、何人か付き合ったけど、結局千冬の事が頭から離れなくて、気付いた時には自然と恋人解消ってパターンばかりだった。たぶん俺が他の女と比べていたのをなんとなく察してしまったんだろうな。それからはずっと独り身だ。連絡先も知らない幼馴染の事を想いながらな」
「そんな話、急にされても……」
「分かってる。でも俺の気持ちだけは伝えておきたかった。迷惑だとわかっていても」
ふと少し強めの風が吹いた。近くの木々に止まっていた数羽の小鳥が驚いたように空を飛翔していく。
その風を気にする素振もなく、依然として竜二が千冬の揺れる瞳を覗く。心の奥を探るように。
「本当に困るよ……」
逃げるように竜二の視線から顔を逸らした。幼馴染で、かつての元カレだった人が、今再び男の顔を想いを告げてきているという状況に、頭が追い付かない。
「私達、今はもうただの幼馴染でしかないんだから。告白されても、何も応えられない……」
「それも分かってるつもりだ。でもこうして出会えたのも何かの縁かもしれないだろ。だってお互い、何の連絡先も知らなかったのに偶然出会えたんだから。それも長年想い続けていた女と。もうこうなったら告白しないわけにはいかないって思ってな」
「単なる偶然だよ……」
「かもな。だが、この機をどうしても逃したくなかった。二度とないチャンスだったからな。この先後悔しないためにも」
「後悔……」
「おう。まあでも、別に離婚してほしいわけじゃないから安心してくれ。千冬はもう旦那がいるもんな。いくらなんでも人妻に手を出すつもりはねぇよ」
「……もう人妻じゃなくなるけどね」
無意識に吐露してしまった言葉に、千冬はハッとした顔で口を塞いだ。
だが時既に遅かった。耳聡く先の言葉を聞き逃さなかった竜二が「人妻じゃなくなる?」と怪訝に繰り返した。
「どういう意味だそれ。もしかして、近々離婚するつまりでいるのか?」
「えっと、それは……」
どうしようかと少しの間逡巡したあと、今更誤魔化しても無駄だろうと思い、仕方なくこくりと頷いた。
「そうか! そうか! あ、いや喜んじゃいけない事だよな。うん。千冬だって色々あった末の離婚だもんな。すまん……」
こういうデリカシーに欠けたところが俺の悪い癖なんだよな、と気まずげに苦笑する竜二。確かに昔からデリカシーに欠けるところはあったが、こうして自分から気付く事はなかなかなかった。千冬と会わなかった間に気遣いを覚えたという事なのだろう。
「別に、そんな骨肉の争いがあっての離婚ってわけじゃないから気にしないで。単なるすれ違いみたいなものだから」
「離婚届はもう書いたのか?」
「ううん。まだ相手の引っ越し準備とかあるから、ある程度落ち着いてからになると思う」
「そっか。じゃあそれさえ書いたら完全にフリーになるわけだな」
「まあ……」
おずおずと首肯する。期待に満ちた目で見てくる竜二に「これは改めて告白してくるな」と己の失言に後悔しながら。
「なあ千冬。さっきも言ったけど、俺、まだお前の事が好きなんだ。俺の事を嫌いじゃないのなら、一度考えてくれないか?」
「考えるって、恋人同士になるかどうかを」
「いや、俺と結婚するかどうかを」
付き合いという過程を超えて結婚という話が突然浮上した事に、千冬は目を見開いた。
「結婚って、急過ぎない……?」
「急じゃない。少なくとも俺はこれまでずっと千冬と結婚する事を考えてた」
「そう言われても、仕事とか生活面で色々考えなきゃいけない事もあるし……」
「衣食住なら問題ない。これでも俺、IT企業の社長やってんだぜ。それも年商一億の」
その言葉に、千冬はまたしても瞠目した。まさか竜二がそんなすごい存在になっていたとは思ってもみなかった。道理で質の良さそうなスーツを着ていたわけだ。
「社長がこんな所にいていいの? 社員の人が心配したりしてない?」
「みんなには既にメッセージを送ってある。それに社長だって偶にはこういう息抜きも必要さ」
それよりも、と竜二はそれまでの微笑から真摯な面相へと変えて、千冬の正面に立った。
「すぐに答えが欲しいとは言わない。だが離婚したあとでもいいからちゃんと考えてくれ。俺と結婚するかどうかを」
噴水が再び勢いよく水飛沫を上げる。
子供達の歓喜する声が、どこか遠くに感じられた。
#
『IT企業の社長? しかも年商一億? 何それ最高じゃない!』
竜二との再会のあと、そろそろ仕事も終えて自宅でゆっくりしているであろう時間を見計らって電話を掛けた千冬に、美香子は驚きの声を上げた。
『しかも竜二君でしょ? あたしも高校生時代に何度か千冬と一緒に会った事あるけど、あのお調子者だった竜二君が今や年商一億の社長だなんて、人生何が起きるかわからないもんねー」
そうね、と自室のベッドで座りながらスマートフォン片手に言葉を返す千冬。宵の口というのもあり、智久も帰宅しているが、今は千冬同様自室に引き篭っている。きっと今頃引っ越しの準備でも進めているのだろう。
『で、千冬はどうするの? 竜二君のプロポーズ。連絡先は交換したんでしょ?』
「交換はしたけど、急な話だし、すぐには返答できないよ」
『あら。じゃあ選択肢の一つとして考えてはいるって事ね』
千冬は敢えて黙した。否定できなかったからだ。
『あたしは全然アリだと思うけどね。だって社長よ社長。しかも年商一億。完全玉の輿コースじゃない』
「お金があればいいってものでもないから……」
『でもお金がないと生活もできないじゃん。いくらあっても困るものじゃないし。それに話を聞く限り、千冬だって満更じゃないんでしょ。気持ち的にはか』
「それは……」
確かに一度別れこそしたものの、決して竜二の事を嫌っているわけではない。むしろ幼馴染として今でも好意を抱いている。あくまでも恋愛感情としてではなく友情めいたものでしかないが。
しかしながら、一度はその友情が恋に変わった過去もある。故にこの先竜二と一緒にいて心変わりしないとは断言できなかった。
『それとも、他にやってみたい事でもあるの?』
美香子の言葉に、一瞬街中で見たテディベア専門店が頭を過ぎった。
だがあれはかつての憧憬のようなものだ。現実的ではない。
「そんな事はないけれど……」
『ふぅん。まあ、ゆっくり考えてみたらいいんじゃない。竜二君だってすぐに返事を欲してるわけじゃないんでしょ? あたし的には断然竜二君を選んだ方がいいと思うけれどねー。顔もまあまあ良くて、お金も持っていて、しかも十年近くずっと千冬の事を想ってくれていた男なんて、この先現れるかどうかもわからない好条件よ?』
「良い人なのは否定しないけれど……」
と曖昧に言葉を濁した時だった。不意にコンコンとノックされた。
「千冬、ちょっといい?」
智久だった。すぐに「いったん切るね」と一言美香子に断りを入れたあと、スマートフォンの通話を切ってドアを開けた。
「ごめん。少し時間ある?」
気まずげに目線を逸らしながら伺いを立ててくる智久に、千冬も若干の戸惑いを覚えつつも首を縦に振った。
「ありがとう。じゃあリビングまで来てくれる?」
言われた通りリビングまで来てみてると、テーブルの上にA用紙程度の薄緑で枠取られた紙がポツンと置かれていた。初めて見る用紙だった。
「これ、離婚用紙。僕の分はもう書いてあるから」
椅子に座らず、テーブルの対面に立ちながら簡潔に告げてきた智久の言葉に、千冬はああと心中で呼気を吐いた。ついにこの時が来てしまったのだと。
「あとは君が書いてくれたら、役所には僕が届けておくから」
うん、と項垂れるように頷く。それから離婚用紙をそっと手繰り寄せた。
単なる紙でしかないのに、心なしか氷のように冷たく感じる。手が冷えているせいもあるだろうが、心のどこかで拒絶しているせいもあるのかもしれない。
こんな紙切れ一枚で、これまでの結婚生活が終わってしまうのだと。
「……これを書いたら、今度は紛れもない他人同士になっちゃうんだね」
思わず零してしまった呟きだったが、それが未練のようなものを感じさせてしまったのか、「千冬……」とか細く名前を呼んだあと、智久は顔を逸らして押し黙ってしまった。
それからどれくらい沈黙の時間が流れていた事だろう。ややあって智久が正面を向いて再度「千冬」と名前を口にした。
「なあ千冬。よかったらでいいけど、離婚式ってやつをやってみないか」
「離婚式?」
疑問を含めて繰り返してみると、智久はズボンのポケットからスマートフォンを取り出して何やら操作したあと、画面を千冬に向けた。
そこには披露宴のような場所で見知らぬ男女が互いにトンカチを持ちながら指輪を叩こうとしている写真が映し出されていた。
「こういうやつ。まあ結婚式の逆パターンって言えばわかりやすいかな。こういう式場を借りて、一瞬に指輪を潰したりするんだよ」
「それ、何の意味があるの?」
「まあ、一般的には自分の気持ちに踏ん切りを付けるためかな。あとはきちんと離婚したという事実を周りに認めさせるためって言うのあるらしいけど、まあこれは僕らには関係ないか」
「でもこれ、高いんじゃないの?」
「費用なら僕が全額持つから大丈夫。君は出席してくれるだけで構わない」
「けど私達、今から離婚するんでしょ? それなのにこんな仲良しごっこみたいな真似をするなんて……」
それを指摘されたら言葉もないけれど、と智久は微苦笑しつつ、「でも」と語を継いだ。
「さっきも言ったけど、踏ん切りを付けるにはちょうどいいと思うんだ。だって僕ら、別に仲違いして離婚するわけじゃないでしょ? それならこういうのをやってみるのもいいかなって、前々から調べてはいたんだ」
「……智久は、その離婚式っていうのをやってみたいの?」
「千冬さえよければね。君の事は今も好きだけど、自分の望みを叶えるには、いつまでも執着しているわけにはいかないから」
その言葉に、千冬は伏せ気味だった目線を上げた。
そこには、真っ直ぐこちらを見据えている智久がいた。一度も視線を逸らそうとせず、その先にある未来を覗こうとしているような遠い眼差しで。
(そっか。智久は前に進もうとしているんだ。たとえ自分や私を傷付ける事になったとしても)
「わかった」
智久の揺るぎない覚悟を垣間見て、千冬も決意を固めた。
私達はもう、別々の道を歩くべきなのだと。
「やろう、離婚式」
その日の夜、千冬は竜二と連絡を取って、プロポーズを受ける事を告げた。
電話の向こうで子供のようにはしゃぐ竜二に、千冬はこれでいいのだと自分に言い聞かせた。
何故ならこれが、みんなが幸せになれる最良の選択なのだから。
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離婚式は智久に離婚用紙を渡された日から二週間程度過ぎた頃に行われた。結婚式の時のようにもっと時間が掛かるものかと思ったら、案外そうでもなかったらしい。
智久曰く「今回は二人だけだし、それに離婚届を書いて指輪を壊す程度だから、割と早く離婚式場が借りられたんだよ。式場と言ってもお寺だけどね」と言っていたので色々とオプションを省いた末の事だろう。式場が早く借りられたのは運のおかげもある智久は言っていたが。
「離婚式を開くのに運が良いとかどうとか関係あるのかな……」
自分で言っていて首を傾げつつ、石段を一つずつ上って離婚式場に使われる寺を目指す。
ちなみに今日の事は竜二にも伝えておる。離婚式が終わったら迎えに来ると言っていたので、あとでまた連絡する必要がある。
(どうせならそのまま結婚指輪を買いに行こうって言ったけれど、あれって本気なのかな……)
いや、竜二ならやりかねないか。何故ならプロポーズを受けると言った次の日には婚約指輪を送ってきた人なのだから。結婚指輪を買う最良も迷いなく高そうな店を選びそうで、今から気が引けそうである。気持ちは勿論嬉しいが。
そうして石段を最後まで上り終えてみると、比較的新しく感じる漆塗りの寺の屋根が見えてきた。山門に掲げられていた看板には寺の名前だけで宗派のようなものは何も書かれていなかったが、これが普通なのだろうか。普段寺院にも行かなければそこまで仏教に敬虔でもない自分にはよくわからないが。
慣れない場所に恐々としつつも山門の前で一礼して中に入ってみると、綺麗に整備された境内が視界に映った。写真やテレビでよく見る石通路と砂利で敷き詰められた参道だ。
そのまま本堂へと続く石通路を歩いていると、階段の下で黒のパンクスーツを着た若い女性が一人佇んでいた。
「千冬様、お待ちしておりました」
千冬が本堂の前へと辿り着いたと同時に会釈するパンクスーツの女性。誰だろうと見知らぬ人に名前を呼ばれて戸惑う千冬に対し、パンクスーツの女性は微笑みと共に顔を上げて、
「わたくし、離婚式プランナーの冴島と申します。本日は智久様のご意向の元、わたくしが離婚式式の進行役を務めさせていただきます」
「あ、はい。よろしくお願いいたします……」
ペコペコと千冬も頭を下げつつ、冴島と名乗った女性から差し出された名刺を見てみると、確かに『離婚式プランナー』と記載されてあった。
「離婚式プランナー……」
「馴染みのない言葉ですよね」
胡乱に聞こえてしまったのだろうか、名刺に書かれてあった肩書きをそのまま口にしてしまった千冬に、冴島は気分を害した様子もなく、もはや慣れたとばかりに笑みを浮かべた。
「まださほど周知されていない職業なので、千冬様のように首を傾げる方も少なくないんですよ。簡単に言ってしまうと、ウエディングプランナーのようなものだと思ってもらえれば十分かと」
「ウエディングプランナー、ですか」
「はい。ちなみに、智久様からはどこまで聞いておりますか?」
「と、とりあえずスーツでいいから、あとは当日にこの寺に来てもらえばいいとだけ。あの、本当にスーツでよかったんですか? 他は化粧道具とか簡単な小物くらいしか持ってきていないんですけど……」
「問題ありませんよ。今回のプランはあくまでも形式的なもので、友人知人を招いたセレモニーをやるわけでもありませんから」
それでは早速行きましょうか、と先導する冴島の後ろを言われた通りに静々と付いて行く。
そういえば、こうしてお寺の中に入るのは初めてだなと所在なく周りをちらちら見ながら本堂の廊下を進んでいると、不意に冴島がこちらを振り返って、
「これから千冬様には別室に行って頂いて、そこで本日の離婚式の段取りなどをご説明させて頂く事になります。何かご不明な点やご不満な部分はごさいますでしょうか?」
「えっと、実は私、あんまり詳しい説明を受けてなくって……離婚式ってこういうものなんでしょうか? なんと言いますか、結婚式と違って私だけ何もしていないなあって思って……」
「そうですね。本来の離婚式だとお二人の意見を伺ってから段取りを決める事が多いのですが、今回は格安プランという事もありまして、間違いなく離婚式に出席するというご意志さえ確認できれば、こちらとしては特に支障はありませんでした。一週間ほど前に弊社から千冬様にメールを送らせて頂いたのもそのためです」
言われてみれば確かに一週間くらい前に、冴島から受け取った名刺の会社名でメールが届いていた。その時は離婚式の日取りと出席の有無を確認する欄があったが、あれは最終確認だったというわけか。
「あの、格安プランだと片方だけの意見が通ってしまうものなんでしょうか?」
「必ずしもそうとは限りませんが、今回のプランは離婚届の記入と結婚指輪を潰す作業のみという事もありまして、敢えて千冬様に確認を取りませんでした。智久様からも特に確認を取る必要ないと伺っておりますが、今からでも協議されてみますか? 結婚指輪を潰す作業だけならまだ変更は効きますよ?」
「あ、いえ、そのままで大丈夫です」
どうせ離婚するのには変わりない。だったら結婚指輪なんて大した額で売れもしない物を持っているだけ枷になるだけだ。だったら智久の意向通り、一思いに潰してしまった方がいい。
「承知致しました。他にご不明な点はございますでしょうか?」
「他のプランナーの方は?」
「私とは別に、智久様の方にも弊社のプランナーが付き添っております。友人知人を招かない簡単な式という事もございまして、今回は私とそのもう一人の担当者のみとなっております」
「それも格安プランだからですか?」
「そうですね。なにぶん人手がほとんどいらない簡単な式ですから」
まあ確かに、離婚届を書いて結婚指輪を潰すだけなら、大仰な準備なんてほとんどいらないだろう。式を行うための会場さえ押さえられたら。
そう思うと、なんだか自分が安く見られているような気がしてきた。勿論離婚式の費用を全額で負担しているのは智久なのであまり文句を言えないが、とはいえ心情的には面白くない。
などという不満が我知らず表に出てしまっていたのか、ふとこちらを振り返った冴島が少し困ったように苦笑を滲ませながら、
「格安プランと言うと聞こえは悪くなってしまうかもしれませんが、あくまでも他のプランに比べたら断然安いというだけで、金額的に見たらそれなりに値は張る方なんですよ? ですので、決して相手方を見下しているという意図はないと思って頂けた方が何かとよろしいかと」
「……そうなんですか?」
「ええ。そもそも格安プランを利用される方のほとんどは、あくまでもケジメを付けたいだけで結婚式のような目立つ真似はしたくないという人向けのものなので。中にはご祝儀が集まるわけでもない式で無闇に費用を重ねたくないという方もいらっしゃいますが」
思わず「なるほど」と口に出して頷いた。言われても見ると離婚するのにあまり目立つような事はしたくない気持ちは千冬も理解できる。実際、結婚式の時のような派手な催しは一切したくないし、したいとも思わない。
「着きました。こちらが千冬様の控え室となっております」
あれからと話し込んでいた内に、いつの間に冴島が言っていた別室とやらに到着してしまった。進んで襖を開けてくれた冴島に目礼しつつ、通された八畳ほどの和室に足を踏み入れる。
「式までにはまだお時間がありますので、その間にお手洗いや身嗜みのチェック等、事前に所用を済ませておくようお願いいたします。こちらの準備が終わり次第、またお声掛けして外陣へと移動してもらいます」
「外陣というのは?」
「先ほど階段を上った正面にある広間の事ですね。この寺の御本尊が祀ってあります」
「あの、今更なんですが、仏様の前で離婚式なんてやっていいのでしょうか? 罰当たりとかになりませんか?」
「問題ありませんよ。こちらのお寺は縁結びと縁切りと扱っている所なので」
「そうでしたか……」
「はい。それではお声を掛けるまでゆっくりお過ごし下さい」
言って、楚々と襖を閉じる冴島。それから静々と遠ざかっていく冴島の足音を聞きながら、千冬はテーブルの前に腰を下ろした。
はあ、と緊張の糸が解けたように深い息を吐いたあと、千冬は見るともなしに未だ薬指にはめられている指輪を眺めた。
もうじきこの指から無くなる事になる、智久との誓いの指輪を。
#
「智久様、千冬様両名による離婚届のご記入を確認させて頂きました。この離婚届は式が終わるまで、わたくしどもが丁重にお預かりしておきます」
御本尊が祀られている外陣の中、そこで先ほど脚高めの木台の上で書き終えた離婚届を手にする冴島を前に、千冬は小さく嘆息を吐いた。
隣りにいる智久をそれとなく横目で窺うと、向こうも胸を撫で下ろすように安堵の息を零していた。それだけ緊張していたという事かもしれないが、それはこれまでの結婚生活を振り返って感傷にでも浸っていたからなのだろうか。だとしたら智久との生活がすべて無為ではなかったと思えて多少は救われる。
それにしても、離婚式とはこういうものだろうか。想像していたより淡々としているというか、離婚届を記入した際もまるで事務的な作業に近いものがあってか、なんとなく離婚式とやらをしている実感が持てない。お寺にいるはずなのに、住職や僧侶が見当たらないせいもあるのだろうか。
(これが結婚式なら、教会で神父さんに祝福を受けるところなんだろうけれど)
冴島の話ではあくまで一時的に寺を借りているという事らしいが、てっきり説法のひとつでもあるとばかり思っていた。別段離婚する事がいけない事でも不幸な出来事というわけでもないと思うが、どことなく据わりが悪い。褒められるような事でもないので、笑顔で迎えられてもそれはそれで微妙ではあるが。
まして、少し前にネットの動画で見た離婚式のような、参加者同士でパイをぶつけ合うような騒々しい真似事だけは絶対に御免被りたいところである。
「続きまして、最後の共同作業となります」
冴島の言葉と共に、もう一人の離婚式プランナーである若い男がトンカチと叩き台を運びながら千冬と智久の元へと歩んできた。
「それでは、お二人の結婚指輪を叩き台の上へお願い致します」
笑顔で言う冴島に、千冬はついにこの時が来たかと生唾を嚥下した。
こんなもの単なる儀式でしかないはずなのに、離婚届を書く時よりも動揺が大きい。離婚届のような紙切れよりも、いつも身に付けていた指輪の方が自分の一部のように感じられるせいだろうか。この指輪を外した瞬間に己の半身を失うような、そんな強迫観念めいた何かが千冬の中で渦巻く。
ちなみに智久は離婚届を書いた時と同様、緊張したように眉根を寄せつつも黙々と指輪を外そうとしていた。もう少し躊躇ってほしかったと内心残念に思いつつも、千冬も意を決して指輪へ手を伸ばし、ゆっくりじっくりと薬指から外した。
そして智久に倣うように、先に叩き台の上に置かれている指輪の横へと添えた。
「次はお二人でトンカチをお持ちください」
男性の離婚式プランナーから渡されたトンカチを、まずは先に智久が受け取る。それからそっと千冬の方へ柄の部分を向けた。
その無言で差し出されたトンカチの柄を、千冬はじっと見つめる。具体的には柄というよりも、柄を握っている智久の右手を。
(最後の共同作業……智久と直接触れ合うのも、これが最後になっちゃうのね……)
先ほど離婚届に名前を書いたばかりだというのに、まだ自分の中で恋愛感情が燻っている。この期に及んで智久との関係修復を捨てきれない自分にほとほと呆れ返る。どれだけ未練がましいのだと。
しかしながら、どれだけ智久の事を想っていようがいまいが、この関係が終わってしまうのは既に決定付けられている。いつまでも智久の手を凝視していられない。
そこでようやくとばかり、千冬は空いている柄の部分へと手を伸ばす。その際、上部を握っている智久の手にどうしても触れなければならないのを気まずく思いつつ、柄の下部を握る。
「では、3、2、1のカウントダウンのあとにトンカチを振り下ろしてください。3、2、1──」
1という掛け声が聞こえたと同時に振り上げたトンカチを、智久と息を合わせながら叩き台の上に鎮座されている結婚指輪目掛けて勢いよく振り下ろした。
#
「お疲れでした。これにて離婚式は終了となります」
結婚指輪を粉砕する作業も終えたあと、千冬は智久と共に寺の階段下にいた。
そして冴島から返却してもらった離婚届を受け取った智久は、前に並ぶ離婚式プランナー二人に頭を下げて、
「本日はありがとうございました。良い式でした」
「いえ、こちらこそありがとうございました。つつがなく無事に終えられて、本当に良かったです」
笑顔を覗かせる冴島とそのパートナーの男性に、智久も口許を緩める。それを横で見ていた千冬も、表紙固めながらも小さく頭を下げた。
「わたくしどもはまだ片付けがありますのでここに残らせて頂きますが、最後に質問等はございますでしょうか?」
「いえ、ありません。千冬は?」
「私も特には」
「左様ですか。それでは、道中お気を付けてお帰りくださいませ」
最後に深々と低頭する離婚式プランナー二人に、智久と千冬も一礼したあと、踵を返して共に山門へと向かい始めた。
お互い一言も発さず、智久と共に黙々と石通路を歩く。てっきり最後は別々に時間を置いてから寺を後にするのかと思いきや、そうでもなかったらしい。
それにしても、と依然として沈黙を保ちながら千冬は思慮する。終わってみれば案外あっけない感じだったな、と。
特に結婚指輪を潰し終えた時は悲壮感よりも空虚感の方が大きかった。いくら大きめのトンカチで叩いたとはいえ、あんな簡単に指輪がひしゃげるものなのかと。あたかも誓いの証なんて案外脆いものだと目の前で正面されてしまったかのようで、無性に虚しさを覚えた。
ちなみに件の結婚指輪ではあるが、千冬の手元にはない。あとで離婚式プランナーが産廃として処理するらしく、今は向こうの手に渡っている。要望があれば潰した指輪を返却してもらう事も可能らしいが、別のアクセサリーに作り直す気も起きなかったし、智久も同じ考えだったようで、離婚式プランナーの方々に任せる事にしたのである。
のちに残ったものはと言えば、心にポッカリと穴が空いたような虚無感と、それでもこれで智久との関係を完全に清算したという、一仕事終えた時のような安堵間のみだった。
(安堵感と言うよりは、ようやく一息吐けるって感じの緊張が解けたような気分に近いけれど)
何にせよ、この先は別々の道を歩む事には変わりない。
もっとも千冬は、これからどの道に向かうか、未だに決まっていない状態ではあるが。
「思っていたよりあっさりしていたけれど、それでもやってよかったね、離婚式」
と千冬が思慮に耽っていた間、思い出したように智久が口を開いた。こちらには目を向けず、まっすぐ前を見つめたまま。
そんな傍らにいる智久を一瞥したのち、千冬は「そうね」と首肯した。
「私的にはどっちでもよかったけれど、これで思い直す事なく清々と別れられそうだから、離婚式をやった意味はあったのかも」
「そっか。そう言ってもらえて安心したよ」
千冬の返事に、智久が相好を崩す。別れ話を持ち出されてからは一度として見る事のなかった、いつもの穏やかな笑みで。
その笑顔にチクリと針で胸を刺されたような痛みを覚えつつも、自分の中で恋心が再び芽吹く気配はなかった。離婚式が始まる前はあれだけ自分の中で燻っていたものが、鎮火して時置いたあとの灰のごとく温度を感じられない。きっとあの結婚指輪を潰したと同時に、智久への想いに別れを告げたからだろう。彼方へ旅立つ巣立ちの燕を窓辺から見送るように。
そういえばさ、と山門をくぐった辺りで智久が不意に立ち止まって声を発した。
「約束してたよね。離婚届を役所に持って行く前に別れようと思った理由をちゃんと話すって」
「あ、うん」
智久の発言に生返事で答える。言われてもみればそんな約束もしていたような気もする。離婚式を終えた今となっては、割とどうでもいいような話題だった。
ちなみに当の離婚届は、現在智久が茶封筒の中に入れた状態で所持している。話を聞くに、これから役所に持って行くそうだ。その前に約束を果たすつもりでいるのだろう。
「遅くなっちゃったけど、今から言っていいかな?」
「別にいいけれど、それって長くなる? 待ち合わせしてるから、出来るだけ手短にお願いしたいんだけれど」
誰と待ち合わせしているかまでは敢えて言わなかった。婚約者である竜二と約束しているなんて、もう夫でもない智久にわざわざ教える必要もないと思ったからだ。そも教えたところで微妙な空気になるのは目に見えている。だったら告げるまでもない。
「わかった。なるべく手短に済ませるよ」
言って、智久は千冬と正面に向き直った。それを見て、千冬も真っ直ぐ智久を見据える。
「君に離婚しようって言った時、やりたい事が出来たからって理由を話したよね?」
「うん。その先ははぐらかされちゃったけれど」
「実はあれ、嘘ってわけじゃないけど、全部本音ってわけでもなくてさ」
「……? どういう意味?」
首を傾げながら訊ね返す千冬に、智久は少しの間逡巡するように視線を彷徨わせたあと、やがておもむろに口を開いた。
「僕が離婚しようと思ったのはね、君を解放してあげなきゃいけないと考えたからなんだ」
え、と千冬は固まった。
解放とはどういう意味なのか。今まで智久に束縛された覚えなんて一切ないし、夫婦でいた頃だって一度も窮屈な思いをした事なんて微塵もないのに。
などと当惑する千冬に、智久は少し困ったように微苦笑を浮かべて、
「やっぱり自覚なかったんだね」
「自覚……?」
「うん。千冬は気付いてなかったかもしれないけど、たまにリビングに置いてあるテディベアを切なさそうに撫でる時があってさ。もしかして大学時代に話していたテディベア専門店を開いてみたいって夢を諦めきれていないんじゃないかって」
「それは……」
その先は言葉を紡げなかった。決して智久が言うようにそんな未練がましくテディベアを撫でた覚えはないつもりなのだが、一片たりともかつての夢を想起しなかったかと言えば、完全に否定はしきれなかったからだ。
というより、テディベアを買う時やテディベアを一人で自作していた時も、心のどこかで自分の店を夢見ていた。智久と結婚した際に諦めたはずの夢を、瞼の裏に描いていた。忘れられないでいた。
その時の千冬の心情を、智久は日頃から感じていたとでも言うのだろうか。
「千冬のそんな寂しそうな姿を見ていたら、すごく申し訳ない気分になっちゃってさ。ほら、ちょうど就活期にプロポーズしちゃったでしょ? あの時僕は地元の銀行の内定が決まっていたけれど、千冬はまだ決まっていなくて。あの頃の千冬、テディベア専門店を開くのに少しでも稼ぎの良い会社に入りたいって話してたよね。実はあれ、すごく気にしててさ。もしもお互いに就職しちゃったら、時間が取れなくなっていつかは恋人同士じゃいられなくなっちゃうのかなって不安に思うようになって……それで気が付いたら千冬にプロポーズしてた。千冬が目の前から消える前に、どうしても僕のところに繋ぎ止めておきたかったんだ。ごめん。今さらだけど、すごく自分勝手な理由だね」
言われてもみれば、確かにけっこう勢い任せだったような気もする。何かを急いでいるような、そんな焦燥した表情で。
「でも私、素直に嬉しかったよ? 智久に結婚しようって言われた時、この人と一緒になるのも悪くないかなって。きっとすごく穏やかな結婚生活を送るんだろうなあって」
「けど、自分の店を開くって夢を完全に諦めたわけじゃなかったよね?」
「………………」
即答できなかった。自分では夢よりも智久を選んだつもりであったが、自分でも気付かない内に夢への未練を垣間見せていたなんて知らなかったから。
それでもと千冬は言葉を絞り出す。脳内にある語彙をすべて引っ張っり出すように思考を巡らせて。
「わ、私は後悔してないよ? だって自分で決めた事だもの。夢よりも智久を選んだ事を今でも間違った選択だなんて思ってない。それだけは絶対智久にも否定させない。してほしくない」
「うん。僕も間違いだったなんて思ってないよ。千冬との生活はとても穏やかで心地良くて、すごく幸せだった。夢のような日々だったよ」
「だったら、どうして……」
「でも、それはあくまでも僕の夢でしかないから。君が心の底から望んだ生活じゃないのなら、そんな独りよがりな夢からは覚めるべきなんだよ」
「独りよがりな夢なんて、そんな事……」
「じゃあどうしてあの時、自分の店を開きたいって僕に相談してくれなかったの?」
智久の問いかけに、千冬は再び俯いて口を噤んでしまった。痛い所を突かれたという表情で。
「あの時はまだ、僕が学生だったからっていうのもあったと思うけれど、結婚してからでもなんとか出来たかもしれないよね? 勢い任せにプロポーズした僕が言うのもなんだけれど、君がお店を開いてみたいって相談してくれていたら、僕はきっと協力してたよ。就職したばかりの頃は収入も心許ないし、千冬との時間をしばらくは大切にしたかったからすぐには了承できなかったかもしれないけれど、それでも仕事に慣れてきた頃だったら君の夢を応援していたと思う。今なんてまさに絶好の頃合いだったはずなのに、君は今日まで何も言わなかった」
「だ、だってそれは、智久の負担になるような事はしたくなかったから……」
「うん。千冬は優しいから、きっとそんな風に考えていたんだろうなとは思っていたよ。だからずっと専業主婦をやってくれていたんだろうなって。でもそれって、僕のせいで君の夢を邪魔していたって事になるよね? 実は今までずっと足枷にしかなっていたんじゃないかな?」
「足枷なんて一度も思った事ないよ」
今度こそすぐに返答できた。その事にホッと安堵する一方、智久の言葉をすべて否定しきれない自分がいた。
智久の事を足枷だと思った事は微塵たりともない。それは本音で断言できる。
だが智久を逃げ道にしてしまったという意味では、紛れもない事実とも言えた。
実際、就活期は何十社と面接を受けてはお祈りメールで落ち込む日々を送っていた。智久や友人には夢のために絶対良い会社に入ってみせると意気込んでいたが、実のところ半分以上は強がりだった。本当は肉体的にも精神的にも限界に近い状態だったのに、夢のためだと自分に言い聞かせて鞭を打っていたのだ。
そんな時に智久からプロポーズされて、このまま結婚するのも悪くないかもしれないと思ってしまった。叶うかどうかわからない夢を追うよりは安定した生活を望んだ方が現実的ではないかという利己的な考えが自分の中で生まれてしまったのである。
だから千冬は、夢よりも現実を選んだ。
夢を完全に捨てきれないまま、智久という安全圏に自分から庇護される形で。
そしてそれは、今にして思えば竜二からのプロポーズを承諾した時とまったく同じ心境だった。
(私、智久にしたような事を竜二に対しても……)
後悔の念が心を刺す。傷口に染み入る冷や水のように。
自分でも気付いていなかった心の内にショックを受ける中、智久は話を続ける。
「ありがとう。千冬は今までずっとそうやって自分を押し殺して僕に尽くしてくれたんだよね。でも、もうそんな風に自分を誤魔化す必要なんてないんだよ。千冬は千冬の進みたい道を進んでいいんだ」
「……だからなの? 私を自由にしたくて離婚しようって思ったの? 私のために?」
「千冬のためなんて傲慢な事を言うつもりはないよ。結局のところ、これは僕の我儘でしかないから。僕が頼りなくて弱かったせいで、君の夢をちゃんと応援する事ができなかった。君の話をちゃんと聞く機会なんていくらでもあったはずなのに、千冬から離れるのが怖くて何も訊ねられなかったんだ。僕達は夫婦のはずなのに……今までずっと一緒にいたのに……」
「智久……」
痛切な面持ちで目元を伏せる智久に、思わず左手を伸ばしかける。だが既に誓いの指輪を外した薬指を見て、千冬は思い留まったように宙を掴んで、そのまま手を弱々しく引っ込めた。
「ねぇ智久。今からじゃ遅いの? 智久は今まで通り仕事に行って、私は夢を叶えるために頑張って色々勉強して……そういう未来はもう望めないの?」
「無理だよ。さっきも言ったけど、君は優しいから。きっとまた僕のために自分を犠牲にしてしまう気がする。それじゃあダメなんだ。夫婦なのにお互いを気遣うばかりで何も本音で話せないなんて、いつか瓦解するだけだよ。だからこれでよかったんだ。いや、本当ならもっと早くにこうすべきだったんだ」
智久の瞳が真っ直ぐ千冬を映す。瞳の中の千冬は眉宇を曇らせているのに対し、智久は決意に満ちた男の顔をしていた。プロポーズしてくれた時よりも強固な意志を感じさせる眼差しで。
その真摯な顔に、千冬の中で消えたはずの智久への想いが再び灯る。今にも完全に溶けそうな蝋燭に火が宿るように。
「……智久。私、貴方の事が本当に好きだった……」
「うん。僕も千冬を愛してる。それは今も変わらないよ。でも、だからこそ離れるべきだと思う。これ以上重荷になる前に」
重荷……それは智久自身の事を指しているのだろうか。それとも千冬も含めての意味だろうか。
本当の夫婦だったならば、その重荷でさえも背負う事も出来たのだろう。だが千冬と智久には出来なかった。重荷を背負うだけの覚悟が無かったから。
(だから、別れるしかないのね……)
離婚式で指輪を潰した時には何も感じなかったはずの痛みが今更のように心を蝕む。あの時よりもずっと現実を受け入れられた心境なのに、胸が締め付けられるように苦しい。今にも涙が溢れ出てしまいそうなほどに。
「悲しそうな顔をしないで千冬。君が辛そうにしていると、僕も辛い」
必死に涙を堪える千冬の肩に、智久がそっと手を添える。その結婚前と変わらない優しさに、余計涙腺が緩みそうになった。
そんな千冬に、智久は「それにさ」と小さく微笑みを浮かべて、
「これは新しい門出でもあるんだよ。千冬が再び夢を追うように、僕も自分の夢を叶えに行くんだ」
「智久の、夢……?」
「うん。千冬には話した事はないけれど、僕、子供の頃から世界中を旅して回るのが夢だったんだ。これまでは仕事とか言語の違いを言い訳にして諦めていたけれど、離婚してまで千冬の背中を押しておきながら自分は何もしないなんて格好が付かないからね。だから僕も昔からの夢を叶えてみようと思う。千冬の道標になれるように」
「道標……」
「なれるかどうかはわからないけどね」
驚く千冬に、頬を掻いて苦笑する智久。それは今まで見た事もない、少年のようなあどけない顔だった。
「千冬。色々言ったけれど、君が夢を追うか追わないかは自由だし、僕が決めるような事じゃない。けどこれだけは約束してくれないかな?」
「何……?」
「今度はちゃんと自分に正直になって生きてほしい。それだけが僕の願いだ」
智久の飾りない真っ直ぐな言葉が千冬の胸に響く。
自分に正直になって生きてほしい。それは夢よりも智久との結婚を選んだ千冬にとって、厳しくも優しさに溢れた言葉だった。
(だから離婚式をやろうって提案してくれたのかな。私が後ろ髪引かれないように……)
おそらく智久に訊ねても「自分のためだ」と頑なに否定するに違いない。昔からそういうところだけは意固地な人だったから。
だから、敢えて問いはしなかった。その代わりとばかりに千冬は智久の顔を見つめ返して、
「出来るかな、私に。自分の店を持つ夢なんて……」
「出来るよ千冬なら。だって君は夢のためなら努力を惜しまない人だから。ちょっと回り道こそしちゃったけれど、千冬なら絶対大丈夫。自分を信じて」
「そんな簡単に信じてって言われても……」
「だったら僕を信じてよ。千冬なら必ず夢を叶えられるって信じている僕を信用してほしい」
「もう離婚したのに?」
「離婚はしたけれど、君への想いは変わってないよ。それとも元夫の言葉は信用できない?」
「そんな事ない」
間髪入れずに首を振った。揺るぎない意志で。
「自分の事はあんまり信用できないけれど、智久なら信じられる。だって十年近くも私のそばにいてくれた人だもの。信用しないはずがないでしょ?」
「そっか。それを聞けて今度こそホッとしたよ」
そう言って、智久がおもむろに手を伸ばしてきた。その手を数秒だけ見つめたあと、千冬は何も訊かずに智久と握手を交わした。
そのまま互いに閉口したまま手を繋ぎ続ける。言葉は不要とばかりに、微笑みだけを湛える。
どれくらい時間が過ぎただろうか。それまで無風だった山門に春らしい陽だまりに満ちた微風が二人の体を撫でたのち、どちらからともなく手を離した。
「じゃあ、僕はこれで。何かあったらいつでも連絡してくれていいから」
「うん。ありがとう」
「元気でね、千冬」
「智久も、体に気を付けてね」
笑顔で手を振る智久に、千冬も努めて笑みを浮かべて手を振り返す。
そうして踵を返して石段を下りていく智久の後ろ姿を、千冬は見つめ続ける。目を逸らす事なく、いつまでもずっと。
やがて、こちらを振り返る事もなく石段を下りきって去っていった智久を静かに見送ったあと、千冬は大きく深い息を吐いた。
まだ胸が痛む。再び発芽してしまった智久への愛がチクリチクリと千冬の涙腺を刺激する。
「泣いちゃ駄目。二人で決めた事なんだから……」
決壊しそうになる涙を強引に指で拭って、千冬は石段を一歩ずつ下り始める。
もう決めた事だ。智久とは別々の道で真っ直ぐ突き進むと。だから泣いていい時ではない。
それに、千冬にはまだやらなければならない事がある。
#
寺を後にし、数分ほど歩いた先にあるコンビニへと辿り着く。その脇にある駐車場で、待ち合わせ相手である竜二が赤いポルシェのフロントドアに背中を預けながら、一人缶コーヒーを飲んでいた。
「竜二」
手を上げながら声を掛ける。すると竜二が缶コーヒーから口を離して、屈託ない笑みを浮かべながら手を振り返してきた。
「ごめん。待たせちゃって」
「いや、適当に時間潰してから問題ねぇよ」
言いながら、竜二は手に持っていた缶コーヒーを運転席側のドリンクホルダーに置いて、千冬に歩み寄った。
「どうだった、離婚式」
「うん。無事に終わった」
「そっか。これで千冬も晴れて独身ってなわけだな」
すぐに俺と結婚する事になるけどな、と嬉しそうに目元を緩める竜二に、千冬もぎこちなく笑みを返す。
「とりあえず、中に入ろうぜ。外は肌寒いし」
「うん」
頷いて、助手席側のドアを開けて中に入る。それを見届けてから竜二も運転席に乗り込んだ。
「で、これからどうしようっか? 俺としては結婚に向けての準備をしておきたいから、式場の下見とか結婚指輪の購入とか色々行きたいところがあんだけど」
「竜二、その前に話しておきたい事があるの。どこか静かなところに行けない?」
途中で話を遮られた事に眉を上げて驚きを露わにする竜二だったが、すぐ気を取り直したように表情を緩めて「いいぜ」と快く了承してくれた。
やがて走り出したポルシェに揺られながら、千冬は竜二の運転の元、街中から離れた閑静な農業地帯へと入って行く。
ドアガラス越しに田圃はどこも入水したばかりなのか、視界には苗さえ見当たらない。一方、運転席側から見えるのは畑ばかりで、この時期らしくキャベツやさやえんどうなどが植えられていた。成長具合から見て、おそらく近日中には収穫が始まる事だろう。
などと考えていた間に、車は市内の川が間近に見られる土手付近に来ていた。確かにここなら人気もないので落ち着いて話もできるだろう。
それを分かってか、竜二は道の脇にポルシェを停めて、千冬の言葉を待つようにフロントガラスから覗ける川を黙って見つめていた。
いつまでそうしていたのだろう……何度も気持ちを落ち着かせるように深呼吸を繰り返したあと、ややあって千冬は「竜二」とぎこちなく口を開いた。
「とても大事な話があるの。聞いてくれる?」
「ああ。何でも言ってくれ」
「結婚の話、無かった事にしてほしいの」
静寂が落ちる。息苦しく、周りにある空気が鉛のようにも思える重々しい静寂が。
やがて、竜二が肺の中の酸素をすべて吐き出すように深く嘆息した。
「そっかあ。やっぱりなあ」
竜二の意外な言葉に、千冬は面食らいながら「やっぱり?」とオウム返しに訊ねる。
「いや、なんとなくそんな気はしてたんだよ。千冬が寺から帰ってきた時、やたら深刻そうな顔してたからさ。前の旦那との関係にケジメを付けた割には雰囲気が妙だってな」
「そう……。私、そんな顔してたんだ……」
「ああ。まあ正直、その前からこうなるような気はしてたけどな」
「えっ。どうして?」
「だって千冬、俺と話していてもあんま楽しそうに見えねぇんだもん。千冬からプロポーズの返事を聞いた時はめちゃ浮かれてたせいで最初は気付けなかったけどな」
千冬自身も気付いていなかった。自分では普通に振る舞っていたつもりだったのだが、まさか竜二の目にはそんな風に見えていたとは。
「……ごめんなさい。私、そんな失礼な態度を……」
「いや、いいって。色々あってナーバスになってたんだろ? それで俺のプロポーズもうっかりオッケーしちまったんだろうなっていうのが今なら分かるから」
「竜二……」
「けど一つ聞かせてくれ。俺との婚約を破棄したがっているのは、自暴自棄とかからじゃないよな?」
と、体の向きを変えて真っ直ぐ近距離から見つめて
くる竜二に対し、千冬も真っ直ぐ見つめ返してゆっくり頷いた。
「自暴自棄なんかじゃない。私が前に進むために本心から決めた事だから」
千冬のはっきりとした口調に、竜二は「そっか」と苦笑した。それから何度も自分に言い聞かせるように「そっかあそっかあ」と呟いたあと、竜二は悲しげに眉尻を下げつつも気丈に笑みを作って声を発した。
「だったら、しょうがねぇよな。俺との婚約は無かった事にしておく」
「いいの竜二……?」
「よくはねぇけど、千冬が前向きに決めた事なら何も言えねぇよ。嫌がっている女を無理強いしてまで引き留めるほど、野暮でも未練たらしい男でもないつもりだぜ俺は」
「竜二……本当にごめん」
「いいっていいって。自分の気持ちに正直なのが一番だもんな」
頭を下げる千冬に、竜二はニカっと破顔しながら言葉を返す。本当なら激昂してもおかしくない場面でありながら、そんな怒気も匂わせない明るい笑みで。
「さてと、じゃあ千冬の新しい門出祝いにどっか飲みにでも行くか?」
「ううん。私はここで降りるから」
「え、いいのか?」
「うん。近くに駅もあるし、それに一人で歩きたい気分だったから」
「そうか……じゃ、気を付けて帰れよ」
一切引き留める事もなく穏やかに別れの挨拶をしてくれた竜二に「ありがとう」と一言礼を述べたあと、千冬は助手席から降りて舗装路の上に立った。
それからフロントガラス越しに軽く手を上げてからポルシェを発進させた竜二に、千冬は手を振って見送る。
やがて林道の中へと消えていったポルシェを最後まで見届けたあと、千冬は呼気を吐きながら何気なく左手を青空に向けて伸ばした。
もうこの薬指にかつての輝きは無い。だがこの指の隙間から溢れる陽光もまた同じ輝きだ。未来への展望を示す祝福の光だ。
だが時には暗雲に遮られて光を見失う事もあるだろう。だが太陽が決して無くならように、この煌めきがいつまでも消える事はない。それを証明しようとしてくれている人がいる限り、千冬も前へと突き進める。希望の光に溢れた夢の道へと。
「私、頑張ってみるね。智久に負けないように」
誓いの言葉を青空に向けて告げる。どこかで智久が同じ空を見てくれていると信じながら。
その時、持っていたミニバックからスマホの鳴る男がした。ミニバックを開けてスマホを確認してみると相手は美香子だった。
美香子に今日の事を話したらまた色々言われるんだろうなと苦笑しつつ、千冬はスマホを通話に切り替えて清々しい青空の下を一人歩き始めた。