もしも願いが叶うならば
雨季に入り連日の雨が続いていた。
水を含んだ葉は柔らかくて、踏みしめるリーリエの足を不安定にさせた。水の膜に立つみたいに足元が固定されていない感覚。降りしきる雨がリーリエのブーツを濡らした。
天空から白銀の線となり針のように鋭く真っ直ぐに幾千幾万と降り落ちてくる雨に、リーリエは急ぎ足になったが。
ふと、リーリエは立ち止まった。
雨滴の隙間から馬のいななきが、耳に届いたのだ。
雨の飛沫を浴びて草花が拝跪するように波打っている中を、水底の藻みたいなユルリとした動きで馬が静かに歩み寄ってきた。背には人を乗せている。いや、乗せているというより青年を慎重に運んできたというべきか。馬上の青年に意識はなかったのだから。
黄金の飾りのついた馬具に高価な青年の衣装。
だが、その背中はザックリと深く切り裂かれている。血を流しすぎたのか、冷たい雨に体温を奪われたのか、青年のダラリと力なく垂れ落ちた手は指先まで白くなっていた。
瀕死の青年の姿に、ひとめで厄介事だとリーリエは直感した。
迷ったのは一瞬だった。
関わるべきではない、という心の声を押し退けリーリエは馬に手を伸ばした。立派な馬であった。ずんぐりとした農耕馬とは異なる、馬脚が長く筋肉質でしなやかな体つきの綺麗な馬だった。
「おいで。主人を守ってここまで逃げてきたのね、偉い子ね」
賢い馬は、リーリエの後ろをついてくる。
リーリエの家は村のはずれ、森の近くにポツンと建っている古くて壊れそうな小屋だ。母親を半年前に亡くして以来、リーリエはひとりで住んでいた。
小さな畑と森からの恵みで細々と暮らしていた。そんなひとり暮らしの16歳のリーリエの家に、誰ともわからぬ見知らずの青年を連れ帰ったのだから善行というよりは無謀で危険な行為であった。
けれども、仕立てのよい衣装に身を包んだ青年が他者から翻弄される自分と同じように感じて。見捨てることができなかったのだ。
リーリエの母親は、この村の村長の娘だった。
菫の花のように美しい紫色の瞳をした母親は、視察に来た若い領主の目にとまり、父親の村長の命令により領主の接待をした。そしてリーリエを身籠ったのだった。
若い領主にとっては数夜の遊びであっても、リーリエの母親には人生の全ての夜であった。
母親はリーリエを愛情でくるんで育ててくれた。さいわいにも父親の領主も無慈悲ではなかった。リーリエが暮らしやすいように、村の税率を下げてくれたのだ。
父親の村長も村人も喜んだが、それはリーリエの母親の犠牲があったからでこそ。
だがその犠牲も、税率の低いことが恒常化すれば感謝の気持ちも薄れて、村人たちから蔑みの視線を向けられるようになった。父親の領主が村を定期的に訪問していれば、母親とリーリエの立場も違っていたであろうが、領主は辺境のちっぽけな村に二度と訪れることもなかった故に、母親とリーリエは村から軽んじられる対象となったのだった。その底辺には、領主に一時的でも愛された母親を、領主の血を継ぐリーリエを貶める優越感も含まれていた。
結婚もせずに子を産んだ女、と。
リーリエは、父親のいない子だと。
そうして、追いやられるように母親とリーリエは村はずれの古い小屋に住むこととなったのだった。
リーリエたちを軽視する村とは、母親が生きていた時も亡くなってからも交流は皆無に等しかったが、最低限に必要なものは祖父である村長が差し入れをしてくれていたので不自由はなかった。
しかし問題は美しく成長したリーリエに村の若者たちが、リーリエが不快感を覚える関心を寄せ始めたことだった。
祖父が睨みを利かしているので無事だが、そもそも祖父は母親を自分の利権のために領主に差し出した人間だ。リーリエも、祖父が再び利を得るために誰かに与えられる可能性があった。
このまま祖父に従って生きていくのか。
一人旅の危険性と行く宛のない女性の末路を理解してなお村から逃げ出すのか。
リーリエは、迷い、決断できずにいたところで青年を助けることとなった。
だから青年の背中の深い傷が、まるで自分につけられた傷のようで。
リーリエは、寝る間を惜しんで青年を看病したのだった。
熱にうなされ、
「兄上……、兄上……」
と繰り返す青年の震える手を握り、リーリエは青年の意識が戻るまで付き添った。
とはいえ貧しいリーリエは、高価な薬など持っていない。
雨の中、森に入り薬草を何種類も摘んで、潰して濾して煮立たせて冷ました薬草湯を意識が朦朧としている青年に飲ませた。喉に詰まらせないように、ゆっくりと少しずつ。母親が亡くなる前に祖父から貰った栄養剤も。沸騰させた水で傷口を清潔にして煮出した薬草で作った軟膏を塗りこみ、同じく身体も清拭する。熱を出した身体から流れる汗を吸った服とシーツを取り替え、再び傷口に軟膏を塗った。
病床についていた母親を長らく世話をしていたリーリエの手際は滑らかだ。
「頑張って食べて。生きるために食べるのよ」
穀物かゆを匙ですくって、雛鳥みたいに口を開ける青年に食べさせる。咀嚼して飲み込むのを見守り、手を添えてコップから水を飲ませた。
一日中、湯を沸かして拭ったり洗ったりして、雨なので干せない洗濯物を部屋の至るところで乾かした。青年に着させられるサイズの服はないので、シーツを巻きつけ、青年のシャツと下着を乾いた順番に着せた。
リーリエの献身的ともいえる介護により、傷口が膿んだり悪化したりすることもなく青年は順調に回復をしていったが。
ベッドに上半身を起こせるようになった青年の態度が最悪だった。
リーリエに対して文句ばかりを言うのだ。
降り続く雨によりリーリエの小さな畑の野菜は全滅してしまった。だからリーリエには手持ちにある屑野菜と干し肉を使ったスープくらいしか作ることはできなかったのだが。
「まずい」
と。
白煙のような雨の中で、やっとの思いで仕留めた兎の肉も、貧しいリーリエには調味料などなかったから、
「塩だけか? 肉の旨味が薄い」
と。
「丁寧に身体を拭け」
「洗濯したシャツにシワがよっている」
「薬草をもっと細かく濾せ。口の中がざらつく」
「足が冷える。湯たんぽを持ってこい」
「湯冷まし? 茶すらないのか」
「言葉遣いがなっていない」
「頭を下げろ」
一事が万事、嫌がらせの如く青年はリーリエをなじるのである。
太陽のような黄金の髪に川底で秘められた砂金のような金色の瞳の、芸術品の様な顔の造形の美しい青年は、全方位に下の者を容赦なく従わせる高貴な雰囲気を醸し出していて。貴族ならではの傲慢さはあるが青年なりに我慢に我慢を重ねているのだ。これでも。しかし青年とリーリエの生活環境が、天と地ほど異なるが故に不平不満ばかりを言ってしまうことになるのであった。
つまるところ青年にとって自分はベッドで寝て、家主であるはずのリーリエが床に藁を敷いて寝ることは当然であり、そのベッドが粗末であるにもかかわらず我慢している自分は称賛に価する、という考え方なのである。
常に全てが肯定されて。
青年の意を汲んだ周囲が万事を整え、青年の進む道には露払いされて小石ひとつない人生。憂いるものはなく、持つ者特有の傲慢さに気付くこともなく全面的に支えられている。それが今までの青年の毎日であった。
リーリエとて人間だから腹が立つには立つ。が、リーリエは育った環境が特殊すぎた。村人や祖父の村長から理不尽な仕打ちにさらされて育ったリーリエは、驚くほど忍耐強かったのだ。
髪も目もキンキラキンのお貴族様だもの、村娘なんて同等の人間とは思っていないよね、とリーリエは世をはかなむよりもサッサと現状を受け入れていた。
人にかしずかれて暮らす貴人と、草花を摘み畑を耕し狩りをする自分とは生きる世界が違うことをリーリエは知っていたのだ。会ったこともない父親の存在によって、残酷な現実を幼い頃から身に染みて経験してきたのだから。
それにリーリエは、怒りよりも青年に対して恐れの方が強かった。
青年の眼差しが、暗く澱んでいたからだ。それは底のない沼のように、腐食した暗闇みたいであった。
一度だけ。
リーリエの母親も、青年の暗い目と似通った目をしたことがあった。
その時、母親は幼いリーリエを抱きしめて、高く切り立った崖の上に立った。何時間も。谷底から吹き上げてくる風がビョウビョウと鳴って。冷たい風が身の毛が逆立つほど寒くて。母親は、萎れて饐えた花のような病的な表情をして静かに咽び泣いていた。
リーリエは怖くて怖くて母親にしがみついて、必死に「お母さん、お母さん」と繰り返し呼び続けた。
子どもだったリーリエには、母親の精神が何に切り刻まれて圧し潰されかけていたのか、わからない。ただ母親は崖から飛ばすに古くて壊れかけの小屋へと帰り、二度と崖に立つことはなかった。
そしてリーリエの記憶にこびりつくように、谷底からの風音だけが残った。残ってしまった、絡みつく毒草の花の息づまりのように。
だからリーリエは、青年が恐い。
青年は、母親のように崖っぷちに立っているのではないか、と。青年の仄暗い目は、崖から奈落のような谷底を覗いているのではないか、と。
それがリーリエには恐かった。
母親の時は、リーリエは子どもで母親を慰める術を知らなかった。
リーリエは16歳になったが、お貴族様を労る方法などわからない。
現在、人生の岐路で苦悩しているのに、青年のことも加わってしまいリーリエの許容の範疇は容易に超えていっぱいいっぱいになった。そして悩んで逡巡した末にリーリエは、割とどうでもよくなってしまった。お貴族様の慰め方などわからないのだから悩むだけ無駄、という結論に達したのである。
ゆえに今まで通り青年の世話をして、そこに鞭と飴を投入することにしたリーリエだった。
キラキラの貴人である青年に内心ビビっていたが、天涯孤独に等しく喪う家族がいない、祖父の家族をカウント外とするリーリエはある意味図太かった。
「私は、若様の命の恩人です」
青年は自分の名前をリーリエに教えなかったので、リーリエは青年を若様と呼んでいた。
「なのでお礼を要求します」
青年は、尊大な態度で頷いた。
「よかろう。僕の上着の襟元についている飾りボタンは宝石だ。それをやろう」
洗濯されてプランと柱と柱の間を結んだ紐に吊るされている服を、青年は指さした。
「へぇ? 若様の命って、あの小さな宝石くらいの価値しかないの? あの宝石と若様の命は等価なの?」
そんなエラソーな態度なのに? とリーリエが鼻で小さく笑う。
普通の平民ならば平伏して両手を差し出して受け取る宝石を拒絶されて。しかも面と向かって鼻で嗤われて、青年は眦を吊り上げた。
「強欲な娘だ。では、欲しいだけの金をくれてやろう」
「──それって今すぐ私にくれるの?」
「今は手元にはないが」
「じゃあ、空手形と同じね。空手形って知っている? 実行されない約束みたいなものよ」
「この僕が空手形だと!? 望めばたいていのことが叶う、この僕が! 強欲なおまえの願いとて何でも叶えてやれる、この僕が!!」
「私の願いを何でも?」
「ああ! 叶えてやる、何でも!!」
「何でもね? じゃあ温かいお茶を今すぐ頂戴? お礼はそれでいいわ」
青年は、喉奥から迸りそうになった屈辱の言葉をギリギリと歯を噛みしめて呑みこんだ。
「お茶、私にくれないのね?」
悔しげに唇を引き結んで返事をしない青年に、リーリエはにっこりと微笑む。
「だったら、お礼は労働で返してもらおうかな。まだ身体を起こせる程度だから、ベッドでできる藁編みでもしてもらおうかなぁ」
「わ、藁編み?」
声が裏返る。青年の世界に、藁編みなどという言葉はどこにも現存しない。
リーリエが青年に対して強気なのは、リーリエが村から逃亡する決心をしたからだ。青年が馬に乗れるくらいに回復したら、無礼を咎め立てられる前にこっそり姿を消すつもりなので、リーリエは強気なのである。
リーリエは青年に恩を売って、下女に雇ってもらうことも考えたが、青年の背景も平穏ではなさそうだったので逃亡一択となったのだ。それまでは、仄暗い目の青年が自暴自棄にならないように恩返しで縛ってセッセと働いてもらって。崖下を覗く暇など与えずに。無事に家に帰そうとリーリエは計画をしていた。
「藁編み……」
「そう、藁編み。教えてあげるから」
「教え……、藁編みを、この僕が……」
絶望的な表情の青年の姿に、リーリエはくすくすと息だけで笑った。
青年の悩みや怪我の原因は、リーリエにはわからない。会ったばかりのリーリエに話して解決する問題でもないだろうし、村娘にすぎないリーリエに解決手段があるはずもない。
けれどもガックリ肩を落とす青年は、ほんの少し崖から離れて、藁編みという青年にとっては絶望に思考を向けたようにリーリエは感じたのだった。
それからは。
「お馬ちゃんの世話をしてくるから、暖炉の火を見ていてね」
雨が地上の熱を奪い、空気が冷えていた。冬ではないが、病み上がりの青年のために火は欠かせなかった。朱く揺らめく珊瑚の枝のような炎の先で、火花がチロチロと生まれては消えていく。
「火を見ていればいいのだな?」
「見ているだけではダメだよ。見る、というのは消えないように薪を足して火の状態も見る、ということだからね」
まんま見ているだけのつもりだった青年は、取り繕うように、
「わかっているとも!」
と誤魔化すように胸を張ったり。
「薬草を分けるから手伝って」
「うむ、これは傷薬か?」
「そうよ。薬がなくて緊急の時は効果は薄れるけど、そのまま潰して使用するのよ。こっちが消毒用、こっちが傷薬用、葉っぱの形を覚えてね」
とリーリエが先生役となって教えたり。
「慣れると塩だけでも食べれるな」
「うん、たくさん肉を食べて早く元気になってね。明日も狩ってくるから、あ、鳥の巣を発見したのよ。卵も食べて」
「一個? リーリエは?」
「私はいらない。卵はね、一個しか取ってこなかったの。母鳥が悲しむから一個だけもらったの。若様は傷を治すために栄養が必要だから食べてね」
青年は卵を半分食べると、
「リーリエ、口を開けろ」
と命令した。
「え?」
「え、じゃない。開けろ」
リーリエが素直に口を開けると残りの半分を押し込む。
「卵泥棒の共犯だな」
と青年は嬉しげに笑い、自分でも気がつかないうちに潤んだ目を片手でゴシゴシと拭った。
「なんだろう? 卵が凄く美味しいんだけど、どうしてかな?」
少しずつ少しずつ距離を縮めて青年とリーリエは歩み寄り、お互いにポツリポツリと過去を打ち明けるほどの信頼関係を築いていった。
それに青年は、命の恩人であるリーリエに差別意識はなく、むしろ初めて視線を合わせた時から好意を持っていた──ぶっちゃけ一目惚れしていたのである、育ち故に青年の態度は横柄であったが。
その態度のせいで、リーリエには恋心が欠片も伝わっていなかった。仕方ない。青年は言い寄られたことは数多あれども、自分から告白をしたことはないのだ。初恋を自身で消化しきれずに、支配欲や独占欲が入り混じり、もどかしい気持ちをリーリエにぶつけてしまいたかったが、心の底から溢れ出る愛情にリーリエに酷いこともできない青年であった。
そんな青年なので、リーリエの行動を細かく観察という名前の監視をしていた。青年は貴族としては有能で、抜け目ない優秀さと的確な判断力を所有していたので、リーリエの逃亡計画も筒抜けであった。
「リーリエは迂闊なところも可愛いね」
青年は独り言を呟き、リーリエが猟で留守の間に、馬に手紙をくくりつけて放った。賢い愛馬は命令に忠実に、青年の屋敷へ向かって弓から射られた矢のごとき速さで駆けていった。
あの日も愛馬は速かった。
青年には、異母兄がいた。
正妻腹の青年は公爵家の後継者に、妾腹の異母兄は公爵家の家臣に、それは生まれた瞬間から決められた運命だった。
青年にとって異母兄は、兄であり親友であり忠臣であった。青年の手足であり、耳目であり、誰よりも信用する人間だった。
しかし、異母兄は青年を裏切った。
あの日。
鷹狩りに異母兄から誘われて森へと入った。
周りの家臣たちは異母兄の味方ばかりで、異母兄に後ろから切りつけられた青年に剣を向けた。だが、異母兄たちは知らなかった。公爵家の直系のみに忠義を誓う影たちの存在を。一瞬で現れた影たちと異母兄たちの混戦の隙間を、愛馬が走り抜けた。
国一番の俊足を誇る愛馬の脚に、異母兄たちも影たちも追い付けるはずもなく、その結果、青年はリーリエに拾われたのだった。
「若様! 大変、お馬ちゃんがいない!」
猟から帰ってリーリエは、馬屋が空っぽなことに気付いて慌てて家に駆け込んできた。
「雨があがっただろう。運動のために走らせているんだよ。心配はないよ、賢い馬だから明日には帰ってくるよ」
青年は屋敷に連絡をとるために放したとは言わなかった。リーリエが警戒をするからだ。
「そうなの? お馬ちゃん、賢いのねぇ」
「そうだよ。凄く賢い馬なんだよ」
屋敷までは遠いが、おそらく屋敷に到着する前に青年を探す捜索隊に発見されるだろう、と青年は推測をしていた。
「それより、僕、スープを作ったんだよ」
リーリエが下準備をした具材を鍋に入れて混ぜていただけであるが、達成感から青年は得意顔である。
「わぁ、美味しそう。若様、凄い!」
「リーリエ、誉めてくれるの?」
「もちろんよ。若様は働き者だもの。態度はエラソーだったけどきちんと働いて、私のことも最初から村娘と蔑んだりしなかった。本当に傲慢なお貴族様とはぜんぜん違うわ。若様はとても立派よ」
リーリエは背伸びして 青年の金色の頭をナデナテと撫でた。
「若様、えらいえらい」
真実と誠実のない美辞麗句ならば、降る雨のように浴びてきた。だが、両親はもとより誰も青年の頭を優しく撫でた者はいなかった。常に公爵家の後継者としての振る舞いを求められることはあっても、慈しむように微笑まれて心からの褒め言葉を与えてくれた者はいなかった。
信じていた異母兄も青年を裏切り殺そうとした。
けれども、リーリエは。
名前さえ告げない青年を助けてくれて、看病をしてくれて、恩返しで縛って青年を一生懸命に生かそうと支えてくれた。
「リーリエ、僕の名前を知りたい?」
「ううん、若様の事情に巻き添えにならないように、わざと黙っていることを知っているから。若様の優しさに甘えて、このまま知らんぷりをするね。ごめんね、ズルくて」
優しいのは、リーリエだ。
ズルくなんてない。僕のことを配慮してくれているからリーリエは何も聞かないのだ。知ってしまって、リーリエが危険な目にあえば僕が悔やむから。
青年は、ぎゅっと拳を握った。
権力もある。財力もある。リーリエを守る力を青年は所有していた。そして、リーリエの人生を奪う力も。
この壊れかけの小屋で共に暮らすことも考えた。
だが、公爵家は青年を諦めない。青年の母親が王家の末姫である故に。
王家の血を継ぐ青年を、妾腹の兄が殺害しようとしたのだ。王家の怒りを鎮めるには青年が公爵家の当主となるしか方法はない。公爵家としても生死の境目なのだ。必死で青年を捜索していることだろう。
何より、この村にリーリエの幸福はない。
青年は、信頼していた異母兄に裏切られて泥沼に沈むように苦しみ。目の前が真っ暗になるほど暗然となって打ちひしがれて。
だから、大事なものを二度と失わないように、青年はリーリエを拐うことにした。
大切に囲って、異母兄のように誰かに誘惑されたりしないように、青年だけの豪奢な鳥籠に。
ごめんね、リーリエ。
我慢をしていたんだよ。
遠いどこかでリーリエが幸せになれるように手配をしようと考えてもいたんだ。でも、もう手離せないよ。
ごめんね、リーリエ。
僕といっしょに生きて、僕といっしょに死んで。
翌日。
雨季の終わった空は青く澄みわたっていた。
リーリエの小屋の側には細い小川が走っていて、雨季の間は冷たい雨水をざあざあと流していたが、今日はさらさらと風が吹くがごとき涼やかな音に変わっていた。陽の光が浅い川底まで届き、緑色の藻と銀色の魚の影が揺らぐ。光の結晶の中を透き通るみたいに泳ぐ魚の尾が、ひらひらと星が流れるように翻った。
その小川を軽く飛び越えて、青年の愛馬が蹄の音を響かせて戻ってきた。後方に多数の人間と馬車を引き連れてる。青年の予測通り愛馬は捜索隊と遭遇したようだった。
リーリエと青年は、複数の蹄の音にお互いの顔を見合せ、小屋の外に出た。
「エドヴァルド様」
黒服に白い手袋の初老の男性が、完璧な所作で深々と頭を垂れた。公爵家の執事である。公爵家の業務を一部とはいえ代行するほどの権限を持つ執事が迎えの場にいる事実に青年は、異母兄一派の処刑が終わり、残すは青年の生存確認だけであるのだと悟った。
エドヴァルドと恭しく呼ばれた青年が、傷を見せることなく背筋を伸ばして優雅な立ち姿で満足げに頷く。
「おまえが来てくれたならば安心だ。リーリエの養女先は決まったか?」
「はい、公爵家と縁戚にある伯爵家に。婚約の慶事も数日中には正式に整うかと」
父親の弱味も母親の醜聞も把握しているエドヴァルドに逆らえる者は公爵家にはいない。ましてや今回の事件の後では尚更に。
リーリエは、パチパチと目を瞬かせた。
困惑の表情でエドヴァルドの顔を仰いでいる。
けれども頭の中では、カンカンと警鐘が鳴っていて自然と足がじりじりと後退っていた。踵を返そうとしたところで、ガシッと手首を掴まれて引きとめられた。
「逃がさないよ、リーリエ」
エドヴァルドの金色の瞳の瞳孔が狂熱と獰猛な独占欲を帯びてジワジワと開いていく。大天使のごとき美貌であるのに、禍々しい大悪魔のような雰囲気で笑った。
「リーリエは僕と結婚するんだよ。公爵夫人の仕事なんて何もしなくていいから。社交界にも出席しなくていい。僕の側にいてくれたら、それだけでいいからね。大丈夫、反対する者は誰もいない」
反対する者は誰もいない、ってどう言うこと!? 背筋を冷たい何かが侵食したがリーリエは気付かないふりをして、足掻いた。口は悪くてもリーリエには優しい青年が、もう目の前にはいないと理解をしていても。目の前に立っているのは、すでに大貴族の威厳を纏うエドヴァルドだとわかっていても。
「若様は知らんぷりしていい、って言った」
「その時はね。でも状況というのかな心境というのかな、自分でも手遅れと思うくらい変わってしまったから、僕はリーリエを絶対に手離さないと決めたんだよ」
「わ、私はただの村娘だし」
「そうだね、リーリエはリーリエのままで変わる必要なんてないよ。リーリエを害するものは全て僕が処分するから心配はないからね」
だから全て処分って! 処分って! お貴族様コワイと半泣きになりながらリーリエは自分の小屋を振り返った。
未練がましく壊れかけの小屋を見て、それから美しい容貌のエドヴァルドに視線を向けて、呼吸とともに溜め息をついた。繋がれた手からじんわりと体温が沁み込んでくる。あたたかい。この手を振り払って逃げ出したいとはリーリエには思えなかった。
だって、好きだから。
好きになってはいけない人だと自制をしてきたけれども、やっぱり好きになってしまったから。
「……若様は私が好きなの?」
「恋では足りないくらい愛しているよ。リーリエは僕のことを少しは好き?」
「……少しじゃない、大好き」
「っ! 両想い!? 婚約ではなくすぐさま結婚をしよう!!」
エドヴァルドは、しがみつくようにリーリエを強く抱きしめた。どくり、どくり、と高鳴るエドヴァルドの心臓の音がリーリエに伝わった。
母親に抱かれて崖の上で吹かれた風が甦る。
リーリエは、もう一度溜め息を蚕が糸を紡ぐみたいにひっそりと吐いて、心の底から祈った。
母親と同じく崖っぷちから戻れた若様が、二度と奈落の底を覗き込むことがないように、と。
でも、その時は一人ではない。
私がいっしょにいるから。
私が手を引っ張って連れ戻すから、と。
神様、頑張りますからどうか二人で幸せになれますように……。
読んで下さりありがとうございました。