ラムアの山にて
魔法使い協会。
魔法使いとして仕事をする場合、この協会に登録していなければ正式な魔法使いとして認めてもらえない。
魔法使いだと思って魔物退治を依頼したのに、実は魔法を多少かじったことがある程度の悪徳ペテン師で、法外な料金を請求されて……。
こういった事件が、頻発するようになった。そのせいで、ちゃんと魔法を勉強した者まで同じ目で見られ、魔法使い側も被害を受けるケースが目立ってくる。
そんな事例が増えたため、およそ五十年前に魔法使い協会が各国で設立されたのである。
この制度ができてから、詐欺まがいの事件は極端に減った。依頼者が直接協会に仕事を頼み、協会に登録している魔法使いが赴くのでおかしなトラブルも発生しない。
仕事の仕方については文句が出る場合もあるが、それは個々の考え方の相違だから仕方がない、という部分がある。少なくとも、金銭トラブルが発生して役人が呼ばれ……ということはなくなった。
協会では仕事を請け負う職務部の他に、修学部と呼ばれる魔法使いになるための学校もある。魔法使いを目指す人間が、ここで日々修行に明け暮れていた。
ここテムオンは街としてはかなり大きい方だが、他の街からは高い山々に隔てられている。そんな地形の関係で、辺境の街などと呼ばれたりしていた。
よそで浸透していることが、テムオンでは二、三年、下手すれば十年近く遅れることもよくある。魔法使い協会もその一つだ。
この街で魔法使い協会ギルガースが設立されたのは、ほんの五年前。つい最近と言ってもいい。他の街ではもう当たり前になりつつある協会の存在も、テムオンでは「完全に馴染んでいる」とはまだ言い難かった。
ギルガースにはテムオンの街、ノーガの村、キュマの村、ハイラッドの村の出身で魔法使いになった者が登録している。現在の登録者は四十名いるが、他の協会に比べればかなりこじんまりした数字だ。
修学部に関して言えば、十名の見習い魔法使い。さらにこじんまりしている。
ラティーナは、そんなこじんまりした修学部に所属している一人。長い黒髪をポニーテイルにし、大きな緑の瞳が少し幼く思わせる十八歳だ。
家業が薬局ということもあり、彼女の希望は魔法使いと言うよりは魔法薬剤師である。
普通の薬草に加え、魔の力を持った植物をうまく組み合わせることで、さらに病気やケガを早く回復させる薬を作りたいのだ。
魔法使いの修行以外にも、薬草やそれらの効能の知識が必要になってくるが、覚える項目の多さにめげることなくがんばっている。
「まずいなぁ……」
修学部の勉強を終え、ラティーナが家に帰ってくると、父ゼアスのため息まじりのつぶやきが耳に入った。
「ただいまぁ。父さん、どうしたの?」
最近、頭頂部が涼しげになってきた、と嘆く父は、帰って来た娘に困惑の表情を向けた。
「ああ、おかえり、ラティーナ。傷薬を調合する時に使う薬草が、もうすぐ切れそうなんだ。こっちへ回って来る業者も、最近は在庫が少ないとかでなぁ」
「そう言えば、傷薬の出る量が最近多いわよね」
ここ数ヶ月、山や森などで魔物が人間の前に現れることが増えた。多くは人間をただ驚かせて逃げるだけなのだが、中には人間にちょっかいをかける者もいる。
荷物をよそへ放られてしまうくらいならいいのだが、ひどい時にはケガをさせられるのだ。
そうなると、人は診療所へ行く。治療する時に薬を使い、傷の具合によっては家で包帯を替える際にまた薬を使うこともある。こんな流れで、薬の消費量が増えるのだ。
あまりひどい状況になると、魔法使いが出てその魔物を退治するということになる。とどこおりなく任務が遂行されればいいのだが、そううまくはいかない場合も多い。
で、やはり医者や薬局の世話になる。魔法使いは治癒魔法を使うという手もあるが、多少の傷なら薬を使うことも多い。
商売繁盛と言えば聞こえはいいが、こういう職業は暇な方が平和でいいのだ。
とにかく、そんな状態なので薬が品薄状態になっている。今のままでは、品切れになる日はそう遠くない。
「ねぇ、ラムアの山なら、今必要な薬草が生えてるでしょ」
ふと思いついて、ラティーナはゼアスに確認する。
「あるが……まさかラティーナ、行く気なのか? 危険だ、行かなくていい」
「まだ陽は高いもん、平気よ。そんなに奥へ行くのでもないんだし。もし魔物が出て来たら、蹴散らして逃げるわ。あたしだって、退治できる力があるなんて思ってないもん。必要なんでしょ?」
「蹴散らす……お前がそう簡単に蹴散らせるのか?」
「失礼ねぇ。あたしだって、四年近くも魔法を習ってるのよ。それくらいできるわ」
確かに薬草は必要だ。しかし、たとえ小物であっても、魔物が出るとわかっている山。そんな所へ、好んで娘を行かせる父はいない。
「ティレンスはどうした? 一緒に帰ってないのか。行くにしたって、あいつが帰ってからでも」
ティレンスは、ラティーナの双子の弟だ。彼女と同じく、ギルガースの修学部で魔法を習っている。今日は調べ物があるからと言うので、ラティーナだけが先に帰って来たのだ。
「あの子はいつ帰って来るかわかんないもん。大丈夫よ、そんなに心配しなくても。行って来るね」
「あ、ラティーナ」
父の心配をよそに、ラティーナは薬草を入れるための麻袋を手にすると、帰ったばかりの自宅兼薬局を出て行った。
☆☆☆
ラムアの山は、食用になる木の実やラティーナが求める薬草などが、場所によって豊富にある。なので、こうして採りに来る人間も多い。
さらに付け加えるなら、その人間を目当てに現れる魔物も多いのだ。
ここへ来る人間は魔法使いでもない限り、何かしらの魔除けを持つのが普通だ。たまにニセモノをつかまされて魔物に襲われる哀れな人間もいるが、幸いにも死亡したという例は今のところ聞かない。
大物がいる場所まで行ってないということと、人間の前に現れるのはだいたい雑魚のような魔物だからだ。わずかな魔力で一般人を翻弄するくらいのことしかできない。
ラティーナはまだ見習い魔法使いだが、その程度の魔物が相手なら逆に驚かせ、その間に逃げるくらいは簡単だ。
もっとも、そうでなければゼアスも、娘が山へ行こうとするのをもっと強く止めただろう。
ラティーナは入れる所まで馬で進み、もう無理となった所からは馬を引いて歩く。乗って移動できるような魔獣を呼び出せるレベルではないので、今は普通の馬を使うしかない。
傷薬にする薬草が目当てだが、ラティーナは珍しい薬草を見付けるとそれも麻袋へ放り込んだ。せっかく来たのだから、採れるものは採っておけ、といったところである。
そうこうするうち、ふと気付けば……見覚えのない所へ来ていた。採取することに集中しすぎてしまったらしい。かなり奥まで入ったようだ。
「あらら……ちょっとがんばり過ぎたみたいね」
少々よくない状況ではあるが、ラティーナは慌てない。と言うより、十八年の人生で慌てたことがあまりなかった。おっとりと言うのか、のんきと言うのか。
これが弟のティレンスなら、多少なりとも焦るだろうし、それが普通。
「これ以上行くと迷い込むだろうし、遅くなるわね。帰りましょ」
馬に話しかけ、ラティーナは今来た道を歩き出した。馬が歩いたことで草が踏まれているから、それをたどれば自分にもわかる場所へすぐ出るはず。そんなにあちこち歩き回った訳ではないから……と、ラティーナは楽観的だ。
しかし、ほんのわずか進んだだけで、ゆっくり歩いていられなくなった。馬がいきなり暴れ出したのだ。ラティーナが手綱を持ってなだめようとしても落ち着かず、ちょっと手綱を離してしまった途端に馬は逃げ出してしまう。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どこ行くのっ」
さすがにこれをのんびり見送る訳にはいかないので、ラティーナも馬が走った方へと走る。
「きゃあっ」
ラティーナの足が止まった。
急に痛みが走ったと思ったら、結っていた髪の一部がそばの木の枝に引っ掛かっていたのだ。しかし、それだけじゃない。
ラティーナが進んでいたはずの場所に、魔物が現れたのだ。
そのまま走っていれば、タイミングからしてちょうど襲われていた。髪が引っ掛かったおかげで、魔物の爪から逃れられたのだ。木に守られたのだろうか。
「えー、本当に出た……」
目の前に現れたのは、巨大化した山猫のような魔物だった。
黒と茶色のまだら模様で、どちらかと言えば薄汚い印象。肉食の獣なら牙や爪が鋭いものだが、さすがに魔物の鋭さと長さは普通の獣とは段違いだ。
身体も、ねこの顔をしているくせに、後ろ脚で立てば人間の大人より大きい。
あんなのに乗りかかられたら、細くはないが太くもない体格のラティーナなど簡単に押し倒されてしまう。馬が逃げたのは、きっと魔物の気配を動物の本能で感じ取ったからだ。
「あなた、新顔?」
山にはだいたい魔物がいるものだ。獣とほとんど変わらないような姿の魔物もいれば、遠目に見てもそうだなとわかる魔物もいる。
ここラムアの山にも魔物がいることは見たことも聞いたこともあったし、どんな魔物がいるかも修学部で習っているからだいたい知っている……つもりだ。
でも、こんな大きな身体をした魔物がふもと近くにいるなんて、今まで聞いたことがない。人間の街に比較的近い場所にいるのは、サイズで言えば普通の犬やねこくらいの魔物。大きくても、せいぜい鹿くらい。
それだって、見た感じがどこか弱そうな魔物ばかりだ。
それなのに、ラティーナの目の前にいる魔物はフォローしようもないくらい、どう猛そうな顔つき。こんな場所にいそうもない魔物ではあるが、それに対して「新顔?」という質問も間が抜けてる。
もちろん、相手に答える気はまるでなさそうだ。
「あたしは食べてもおいしくないわよ。食べる部位もそんなにないし」
魔物に出遭った人間が言ってしまうようなことを言ってみるが、魔物がそれで帰って行くような素振りは……当然しない。
巨大山猫の太い前脚が、じりっと動く。人間の腕よりも太そうだ。ラティーナもさすがに、まずいと感じた。
「喰われる気はないからね」
ラティーナは、素早く炎の魔法の呪文を唱えた。魔物の目の前で火が燃え、相手がひるんだ隙にラティーナは回れ右をして、その場から逃げ出す。今来た道を戻る訳だから、さらに山の奥へ向かうことになってしまうが、帰る道の方に魔物がいるからどうしようもない。
とにかく、今はこの魔物から離れなければ。
ガサガサと音がして、振り返れば魔物が獲物を目指して走ってくる。足では絶対に勝てない。
ラティーナは止まって向き合う格好になると、今度は風の魔法を起こした。風圧で魔物はひっくり返されたが、うまく回転して体勢立て直す。あまりダメージはない様子だ。
ラティーナの腕は、まだ中級レベル。それも見習いだから、一人前以下の力しかないのだ。
そんな彼女の出す炎や風では、この大きさの魔物を相手に戦うことは難しい。ゼアスに蹴散らすと言ったのは、もっと小さな魔物に対して、ということであり、この辺りならそういう低級の魔物しか出ないはずだったのだ。
「こんな所に出て来るなんて、絶対ずるいわよっ」
魔物にとっては「知ったことではない」文句もつい出てしまう。何を言われても、巨大山猫は獲物を逃すつもりはなさそうだ。
飛び掛かろうと構えるのを見て、ラティーナはもう一度風の呪文を唱えた。しかし、今度はその風をうまくよけ、魔物はラティーナに飛び掛かる。思わず頭を抱え、悲鳴を上げた。
同時に、魔物の悲鳴もラティーナの耳に飛び込む。顔を上げてそちらを見ると、魔物が地面に転がっていた。素早く起きあがり、新手の登場に牙を剥きだして威嚇する。
「早く木の陰に!」
言われるまま、ラティーナは近くの木の陰へ隠れる。
魔物の動きを止めたのは、ギルガースの魔法使い達だった。壮年の男性魔法使い二人が、ラティーナに魔物の牙が届くギリギリで魔物の身体を吹き飛ばしてくれたのだ。
短い赤髪で長身の魔法使いと、長い金髪でがっしりした体格の魔法使い。名前は知らないが、彼らの顔は何となく見たことがある。
相手もどこかで見たような、という顔をしていたが、今はゆっくり自己紹介をしている場合じゃない。
魔物はまず面倒な魔法使いを始末しようと考えたのか、そちらに向き直った。
すぐ襲って来るかと思いきや、近くの木の枝へ飛ぶ。そこから魔法使いの一人に飛び掛かった。
二人が同時に風を起こして魔物の体勢を崩したが、ねこのようなしなやかさで回転しながら着地する。すかさず魔法使いが風の刃を飛ばしたが、動きが早くて逃げられてしまった。
炎や水など、魔法使いはあれこれ手を変えて攻撃するが、ほとんどをかわされてしまう。まずは動きを止めなければ攻撃しても空振りするとわかっているが、なかなか魔物を止めることができない。
あたしじゃ、相手にならないはずよね。魔物退治の経験がある魔法使いだって、あんなに振り回されてるんだもん。
やはり低レベルの魔物ではなかった。どうしてこんな所にこんな魔物が現れたんだろう……などとあれこれ考えるが、今はそんな場合じゃない。魔法使いの攻撃がかわされてるどころか、だんだん押され気味になってきている。
これでもし一人が攻撃を受けてしまったら、もう一人とラティーナでこの魔物を抑える……なんてことは到底できない。
魔物は魔法使いの攻撃をかわしながら地面を蹴り、フェイントのつもりか飛ぶ方向を変えた。
その方向には、ラティーナがいる。
えええっ、どうしてこっちへ来るのっ。
言われた通り、木の陰に隠れていたラティーナだが、そのままでは魔物の牙に喉や肩を割かれてしまう。
それがわかっていながら、ラティーナは動けない。
あちらで「しまった」という声が聞こえたような気がする。もう悲鳴を上げる時間もなかった。魔物の顔がすぐそこまで迫る。
魔物の喉の奥まで見えたような気がした次の瞬間、ラティーナの視界から魔物の姿が消えた。
恐らく、時間にすればあっという間だったのだろうが、ラティーナが「あれぇ?」と思ってしばらくしてから、ようやく魔物の悲鳴が響く。
そちらを見ると、魔物が地面に転がっていた。何かわからないが攻撃をまともに喰らったようで、すぐには立ち上がれないでいる。
どちらかの魔法使いがやったのかと思ったが、二人とも驚いた顔で魔物を見ているので違うらしい。
「きみ達の任務は、魔物退治かな?」
そんな声がして、新しい影が現れた。腰近くまである長い黒髪をゆったり束ねた、長身の青年だ。見たところ二十代後半、といったところだろうから、魔法使い達と年齢はそんなに変わらないだろう。
街へ戻れば、彼のような青年はいくらでもいる。その顔が信じられないくらいに整っている、ということを除けば。
「あ……ああ、この辺りで人を襲う魔物の退治だ」
問われて、赤髪の魔法使いが答えた。仕事内容によっては秘密厳守のものもあるが、魔物退治の任務が秘密にされることはまずない。場所や状況によっては、こういう魔物を捜しているが知らないか、と聞き回ることもあるくらいだ。
「そうか。それじゃ、そいつは間違いなく対象だね」
ようやく復活した魔物は、さらなる新手に牙をむく。ラティーナも二人の魔法使いも、もう眼中にない。恐らく、彼を「自分の敵」と認識したのだ。
姿勢を低くし、構えると地面を強く蹴る。その牙と爪は青年に向けられて。
「あぶないっ」