竜の結界と禁断の魔法書
魔法使いの長メルジストの元に報告があったのは、ジールズが竜の所へ行った日の昼過ぎ。すでに半日が経った頃だった。
竜の所へ赴いた魔法使い達が、洞窟の周辺に結界が張られて中へ入れない、と告げに来たのだ。
竜の結界を人間の魔法使いが解くことは、まず不可能。魔力の差がありすぎる。結界にあれこれ刺激を与え、魔法使いがここへ来ていることに気付かせようとしたが、いつまで待ってもまるで音沙汰がない。どうしようもないので戻って来た、と言うのだ。
「ラムアの山の竜が人間を拒んだことなど、これまでなかったというのに……。どういうことだ。誰か竜を怒らせたのか」
魔法使い達は、ささやかながら竜との交流をもっていた。
竜は色々な助言や知恵を授けてくれる、とても大切な存在だ。一人、もしくはほんの一握りの愚かな人間のために、その交流を絶たれることは絶対に避けたい。
「私が呼び掛けてみよう」
メルジストは数人の魔法使いを連れ、ラムアの山へ向かった。
「今日はやたら魔法使いが現れるな。俺達を一掃する下準備でもしてるのか?」
竜の元へ急いでいる時。嫌みを含むその言葉を聞いて、魔法使い達の足が止まった。
言ったのは、少し離れた場所からこちらを見ているキツネの魔物だ。
「被害がなければ、我々は無闇に魔物は殺すことはしない。やたら……とは、どういうことかね」
メルジストが尋ねると、キツネは人間の仕草をまねているのか、軽く肩をすくめた。
「そのまんまさ。夜遅くに来たかと思えば、陽が昇ってからまた現れる。やっとそいつらが帰ったかと思えば、またこうして来るんだからな」
魔法使い達はわずかに首を傾げ、互いに顔を見合わせた。
陽が昇ってから、というのは「竜の所へ行ったが中へ入れない」と報告した魔法使い達のことだろう。
だが、夜遅く、というのが誰のことかわからない。
危険な魔物がいて、それを退治してくれという依頼があれば夜の山へ入ることもある。そうでなければ、魔法使いだってわざわざ安全とは言い難い場所へ赴くことはないのだ。
「夜に魔法使いが来たのか?」
「魔獣に乗ってたから、そうだろ。精霊には見えなかったしな。闇に紛れたような姿だった。鋭い目つきをしてたぜ」
そう言うと、キツネは草むらに飛び込んで姿を消してしまった。
「やはり誰かがここへ来て、竜を怒らせたか」
「長、魔物が本当のことを言ってるかわかりませんよ」
「だが、我々を含め、今日になって魔法使いが二度ここへ来たことは本当だ。夜に来た、という話だけが嘘だとも思えん」
魔法使い達は足早に、竜のいる洞窟へと向かう。
そこへたどり着くと、目には見えなくても結界が張られていることが肌で感じられた。しかも、相当強い力でだ。
これは誰も入って来るな、という拒絶の表れなのだろうか。竜の所へとつながる岩の通路の入口は、いつものようぽっかりと口を開いている。なのに、透明な分厚い扉がそこにあり、鍵が厳重にかけられているかのような雰囲気さえあった。
「長、上からはどうでしょう」
当然ながら、竜はこの狭い通路を通って出入りしているのではない。普段いる場所には天井がなく、そこから出入りしている。
飛行が可能な魔獣に乗れば、魔法使いでもこの通路を歩くことなく直接竜のいる場所へ行けるのだ。
「恐らく無駄だろうが……確認してみてくれ」
二人の魔法使いが翼のある獅子を呼び出し、その背に乗って上昇する。しばらく待つと彼らは戻って来たが、暗い表情のまま無言で首を横にふるだけ。
「やはり、自分の棲処全体にこの結界を張っているのか」
「はい。いつも竜がいる場所の真上に行きましたが、霧がかかったように視界を遮っていて、中の様子がわからなくなっています。竜がいるのかどうかも……」
その後、長達は魔法の言葉で、中の竜に何度か呼び掛けてみた。結界で全て跳ね返されているようにも思えたが、何もしないで戻る訳にはいかない。
複数回呼び掛けたが、一度も返事はなかった。周囲の葉一枚、動いた様子もない。
「一度、戻ろう。夜にここへ来た魔法使いが誰なのか、調べねば」
重い気持ちを抱え、急いで山を降りた長へ次に知らされたのは、禁断の魔法書が開かれた、ということだった。
「だが、部屋の扉と本棚には、魔法がかけられていたはずだ……」
複雑な魔法がかけられているのだ、簡単に解けるはずがない。解く呪文を知っているのは、長であるメルジストを含めてほんの一握りの魔法使いだけ。
「ですが……根気よく解呪を続けていれば、解けないということはありません」
「呪文を知る魔法使いの誰かではない、ということか」
「はい、何度もかけられた痕跡があります。恐らく、繰り返し忍び込んでは解呪をしていたのではないかと」
立入禁止の札がかかった扉。魔法使いならその扉の向こうにある物が何かを知っているが、関係のない一般人にはわからない。しかし、そこが立入禁止ということであれば、良識ある大人は扉を開けようとはしない。
だが、子どもは好奇心のおもむくままに、扉を開けようとする。
扉近くにある本棚で本を探していた魔法使いは、絶対開けられないのに、と思いながら何となくその様子を見ていたら扉があっさり開いてしまい、事件が発覚した。
そこには封印の魔法どころか、鍵さえもかけられていなかったのだ。
「魔法書が開かれた、と言ったな。持ち去られたのではないのか」
「魔法書そのものは残っています」
禁断の魔法ばかりが記された魔法書。環境に多大な影響を及ぼすものや、術者に強い反動が出て危険なものなど、色々ある。メリットは大きいがリスクはそれ以上だったりと、どちらかと言えば危険に分類されるような魔法が多い。
人間というもの、禁止をされるとなおさら欲望が高まるものだ。魔法使いの中には、この魔法書に興味津々な者もいるだろう。
そこまではわかる。
だが、中をゆっくり読みたければ、普通は盗み出すものではないのか。自分で使う、もしくは欲しがる魔法使いに売り渡すにしても、現物を残していては何もならない。
中をちょっと見るだけのために、ややこしい魔法を長い時間かけて解いたと言うのか。だとしたら、危険が大きすぎる。
理由がどうあれ、許可もなしに部屋と本棚の扉にかけられた魔法を解いたのだ。十分処罰の対象に、厳罰になるのはわかっているはず。魔法使いの一生を棒に振ることになるのに。
メルジストは、すぐに図書館へ向かった。
本来なら開館している時間だが、入口には閉館の札がぶら下がっている。例の立入禁止の部屋には、長以外に解呪の呪文を知る魔法使い達がすでに来ていた。他にも数名。
本棚の扉は、わずかに開いたまま。魔法書が並んでいる列の一部に、本一冊分の空間があった。一人の魔法使いが、問題の魔法書を持っている。
「長、竜は……」
メルジストがこれまで向かっていた場所を知る魔法使いが尋ねた。
「駄目だ。何度も呼び掛けたが、竜からの返事はない」
「でしょうね」
知ったように言われ、メルジストは眉をひそめた。
「……どういうことだ」
「禁断の魔法書の一部が、破り取られていました。それが」
「竜の眠り歌か……」
メルジストが思い当たることを言うと、相手は小さくうなずいた。
竜に関連する魔法と言えば、この魔法書の中には二つしかない。
「ごくわずかですが、紙の燃えかすのような物が床に落ちていました。証拠隠滅と言うより、捕縛時の生命の保証を得るためだと思われます」
「自分を殺したらこの魔法は永遠に失われるぞ、という脅しをかけるつもりか。頭の回る奴だ」
普段、人の目にほとんど触れることのない魔法書。そこにある魔法の呪文を覚えている人間が、世界にどれだけ存在するだろう。
魔法書から切り取って燃やすことで、現在その呪文は切り取った人間の頭にのみ存在することになる。強い攻撃を向けて死なせてしまっては、魔法使いの世界での大きな損失。
そうならないために、おかしなことはするなよ、という無言の脅しに取れる訳だ。
しかし、人間に対してならともかく、竜にはそんな脅しの効果などなかったらしい。
「結界があるのは、今後人間を拒絶する、という竜の意思表示か……」
それなら、どんなに呼び掛けても一切返事がなかったのも、うなずける。
恐らく、賊は「竜の眠り歌」を使って竜を眠らせ、何かをしようとした。だが、竜の結界があるところをみると、賊は失敗したのだ。
その賊がどうなったかはまだ不明だが、無事ではいられないだろう。ラムアの山の竜は穏やかな性格だが、殺されかけて何もせずに賊を解放する程に甘くはないはず。
眠りという言葉ではあるが、意識を奪って行動を完全に止めてしまう魔法だ。この魔法をかけられれば、死んでしまうのと大差ない状態になる。つまりは仮死状態だ。いつかは目覚めるかも知れないが、その辺りは本当かどうか定かではない。
「長、竜の結界に怒りは感じましたか?」
ある魔法使いに尋ねられた。長身で腰まである黒髪に緑の瞳の青年だ。すぐには名前が思い出せないその魔法使いからの思いがけない質問に、メルジストも少し詰まった。
「怒り? いいや、それは……感じなかったが」
結界は「怒りの現れ」と思い込んでいた。しかし、結界のそばに立っていても、そういった負の感情は読み取れなかったような。
「竜が人間に対して本当に怒り、拒絶したのであれば、ラムアの山から去ると思うのです。この広い世界で人間がいない場所など、いくらでもあるでしょうから」
「なるほど、ありえなくはないな」
テムオンの街は、ラムアの山のふもとに広がる。つまり、事情を知る知らないに関わらず、そこにいればまた人間がやって来ることは十分にありえるのだ。
山で手に入る物で、生計を立てている者もいる。それは竜も知っているはずだ。本当に人間を嫌ったのであれば、そんな場所に居続けることはしないだろう。
竜はその土地に縛られている訳ではない。どこへ行こうと、竜の自由だ。
「これは私の推測ですが、その結界の中でどちらも動けない状態ではないでしょうか。竜に術がかけられていたとしても、完全に効果が現れるまでは竜にも多少の魔法は使えるはず。それであの結界を張った。賊の目的を遂行させないために。中にいる賊は外へ出ることもできず、竜と一緒にいる羽目になり……といったところだと思います」
黒髪の魔法使いの思いつきに、メルジストはありえそうだと考えた。
「ずいぶん面白い推測だ。しかし、眠ってしまえば、結界も消えてしまうのでは」
「相手は竜です。人間より強い力で張れば、そう簡単に壊れることもないでしょう」
他の魔法使い達も互いの顔を見合わせたりして、狭い部屋の中はざわついている。
「仮にその推測が当たっているとして……我々はどうすればいい? 結界の中にいる竜が眠っていようがなかろうが、放っておく訳にはいかないだろう。竜の結界を解けるのは、竜だけだが」
「残念ですが、竜の結界相手ではどうしようもありません」
「このまま、手をこまねいて見ていろと言うのか」
「……」
そうは言っても、メルジスト自身いい案がある訳ではない。
別の魔法使いから、他の地域の竜を探し出して結界を解いてもらうよう頼んだら、という意見が出る。
しかし、黒髪の青年が(誰だったか、まだ思い出せない)ゆっくり首を振った。
「ここでは竜が近くにいるのが当たり前のように思われていますが、こういう場所はそう多くありませんよ。他の竜を探し出そうとしても時間がかかるし、見付かったとしても事情を話せば断られるでしょうね」
「なぜだ? 結界を解いてもらうだけではないか。賊が……まだ今は誰かわからんが、その賊がしたことは人間の代表として我々が話をし、謝罪する。仲介してくれ、とまで頼む気はないのだぞ。竜にとって、ここまでの移動など大した労力でもあるまい」
竜は空を飛べる。その速さは、魔獣の比ではない。種族によっては飛行できないこともあるが、移動手段はいくらでもあるはず。
「中にいるのは、竜の眠り歌を知る魔法使いですよ。結界を解いてその魔法使いが現れ、自分にその魔法をかけられたら……。話を聞かされた竜なら、そう考えるでしょうね」
「それは……」
「下手すると自分も巻き込まれる。そんな危険を冒す程、この地域の人間に義理立てする竜もいないでしょう」
竜の眠り歌を完璧に知っているのは、現在その賊だけ。竜の結界を解くということは、竜にとって最悪の人間を解放させることになる。
使われる前に捕まえれば……と口では簡単に言えるが、状況によってはそううまくいかないこともあるだろう。
「待つしかないでしょうね。竜が現在どういう状況にあるかわかりませんが、少なくともその賊である人間よりは長く生きます。完全に眠っていなければ、その賊が死んだ時に結界を解くでしょうし、眠っていて解けない場合はその賊が亡くなった頃を見計らい、他の竜を探すなりすればいいと思います。我々が動いて現状を打破するのは……無理です」
賊である人間が確実に死んだであろう年月が過ぎれば、その時はよその地域にいる竜も協力してくれるだろう。
「しかし、それでは竜の眠り歌が失われてしまうじゃないか」
ある魔法使いが声を上げた。
魔法書のページは破られ、その魔法はその賊しか知らない、という状況なのに。
「眠り歌より、竜を失うことの方がずっと問題じゃありませんか? 今の時代に、眠り歌が必要な状況が来るとも思えませんが」
「それは……」
青年魔法使いに言われ、みんな黙ってしまう。
「本当に……今の我々にはどうしようもないのか」
良案の一つも出て来ないメルジストは、呻くように尋ねた。
話を聞いた時は、厄介だと思った。しかし、現実は厄介なんてものじゃない。自分の魔法使い人生の中で、最悪の事件だ。
「今の段階でよその竜が協力してくれるとは思えませんし、人間は竜の力に対抗しようがありません。今できることと言えば、賊を特定することくらいでしょう」
「エクトライド……すまない」
メルジストはがっくりと肩を落とし、ここにいない竜に謝罪の言葉をつぶやいた。
その数日後、招集がかけられたにも関わらず一切連絡がない、ということでジールズの犯行説が濃厚になった。もちろん、よそから来た魔法使いの仕業、という可能性も捨てきれない。
だが、禁断の魔法書がある場所を知っていること、何日もかけて解呪していたらしいこと、解呪されていたらしい期間に不審な魔法使いが街にはいなかったことから、よそ者説はすぐに消えた。
メルジストや数名の魔法使いがラムアの山で聞いたキツネの魔物の話から、黒髪の鋭い目つきをした魔法使いらしい、という点もジールズに通じる。
何より、普段から強い力を欲していた、という複数の証言があったことから、ジールズが一番クロに近い。
竜を眠らせ、その力を横取りしようとしたのではないか、という噂がまことしやかに流れたが、真相はわからないまま……三百年が過ぎた。