天国の罪人
アンナは狭くて、冷たい廊下を歩いていた。
周りを石に囲まれたその廊下は、閉鎖的で明かりさえも入らない。
地上からは遠く、地下に潜っているような感覚に陥る。
その上、向かう扉までは長く、また、重たい空気が漂っていた。
アンナは、その廊下を裸足でゆっくりと進む。
アンナが歩を進める度、腰から下げた重い鎖が、ジャラン、ジャランと耳に不快な音を届ける。
また、その廊下には爬虫類も這いまわっており、不潔さが目立ち、不快感を深めていた。
そんな心地悪い場所を歩かされているアンナだったが、その表情に感情はなく、心をどこかへ忘れてきたかのようだった。
(早く、楽になりたい。)
それがアンナがただ一つ、持っている感情だった。
長く冷たい廊下が終わりを告げる頃、目の前に鉄で作られた、冷たく重厚な扉が現れた。
その扉の左右には、二体の裁きの女神像が鎮座している。
一人は剣を持ち、もう一人は天秤を持つ。
アンナが立ち止まり、ぼんやりと女神像を見上げていると、目の前の重厚な鉄の扉が開かれた。
アンナはこれから向かう扉の向こう側から漏れる光に目を凝らす。
「罪人、アンナマリア.ファステリア。前へ。」
名前を呼ばれ、アンナはゆっくりと前へ進む。
「見ろ。血も涙もない女。アンナマリアだ。」
「自分の夫を殺すなんて、何を考えているのかしらね。」
「女が男を殺めるなんて。」
「恐ろしい女だよ。」
アンナが前へ進む度、両サイドの傍聴席から様々な声が聞こえた。
それらは全て、罪人、アンナを批判する発言ばかり。
傍聴人は、夫殺しの罪人、アンナがどの様な言い訳をし、どのような判決が下されるのかを、見届けに来ていた。
アンナの目に、高い場所からこちらを見下ろす、三人の老人が映った。
その老人達は、黒い服を身に纏い、首からは十字架を下げている。
彼らは厳格な瞳で、アンナを見下ろす。
なぜなら、彼らは塵の様な小さな嘘や不正も見逃さない、この国の最高裁判所の裁判官達だった。
真ん中に位置する場所に腰を据えている裁判長が、小槌を打つと、アンナの登場にざわついていた傍聴席が静まり返った。
「只今より、罪人、アンナマリア.ファステリアの裁判を執り行う。」
「アンナマリア.ファステリア。お前は夫である、アレク.ファステリアの胸を剣で刺し、殺した罪に問われている。」
裁判長からそう言われ、アンナは顔を上げた。
「間違いございません。」
アンナの透き通るような綺麗な声が、自分の罪を認めた瞬間、傍聴席から侮蔑と軽蔑の野次が飛び出した。
「ふざけるな!」
「この人でなし!」
「アレクが何をしたって言うのだ!」
収まらない傍聴席の民衆の声に、裁判長は再度小槌を鳴らし、皆を沈めた。
「アンナマリア、お前はなぜ、夫であるアレクを殺害したのか?」
裁判長からの問いに、アンナは答えた。
「私、アンナマリア.ファステリアは、働かない夫、アレクに対して、常より不満を抱いておりました。」
「アレクは働かないのではない!働けなかったのだ!」
「アレクは病人であった!お前もそれを知っていただろう!」
アンナの発言に、また、傍聴席から声が飛んだ。
「静粛に!」
裁判長の冷静な声が響き、傍聴席がまた静まり返る。
「私の夫は、病気でございました。しかしながら、我が家は貧しい家庭。私一人でアレクの分まで稼ぐのは、容易ではありませんでした。」
(そう。私達は、貧しさを強要された。)
アンナは心の中で、呟いた。
「お前の夫、アレク.ファステリアは、高貴なお家柄、ブリュースト伯爵家の3番目のご子息である。そのお方と駆け落ちまでした仲。ブリュースト伯爵のお許しのない生活に、苦労は仕方のないことである。」
裁判官の一人がアンナに告げた。
それは、同情の余地など無いことを意味していた。
(確かに私達は、認められない恋愛をし、駆け落ちをした。)
アンナとアレクが出会ったのは、ブリュースト伯爵家。
ブリュースト伯爵家の使用人であったアンナは、3つ年下のアレクの勉強を教える役目を担っていた。
伯爵家の中でも、気が弱く、内気な性格のアレクには最初、兄達と同じく、男の教育者が付けられていた。
しかしアレクはその教育者と馴染めず、勉強もどんどんと遅れを取っていた。
それを見かねた、ブリュースト伯爵は年が近く、牧師の父を持つアンナに白羽の矢を立てた。
それがきっかけで、二人は仲良くなっていった。
「アンナ、君は本当に聡明で、美しい。是非、私と結婚して下さい。」
アレクは片膝を落とし、アンナを見上げた。
アンナはアレクの嘘偽りのない瞳に吸い込まれそうになりながら、自分の立場を主張した。
「私はアレク様とは身分違いにも程があります。私などではなく、どうかもっとお美しく、ブリュースト家にふさわしい方とご一緒になってくださいまし。」
本当はアレクが自分が良いと言ってくれていることが、涙が出るほど嬉しかった。
しかし、3つ年上であり、自分の立場を理解しすぎているアンナは、自分の心に必死で嘘をついたのだ。
「いえ。私はあなたが良いのです!」
「でも、伯爵様はきっとお許しになりませんわ。」
アレクの将来を考えると、アンナは引かなくてはいけないと感じていた。
すると、アレクから予想外の言葉が飛び出した。
「それでは、私は伯爵家の名を捨てましょう。そうすれば、あなたと対等で居られる。」
そのアレクの覚悟を知り、アンナは彼との駆け落ちを決意した。
伯爵家を捨てたと言っても、ブリュースト伯爵は認めていない。
しかし、名誉あるブリュースト家の名を汚したとして、アレク及びアンナを許す事は出来ず、逃げる二人を追い回し、最終的に国の中でも一番の貧乏な村へと追いやった。
そこでは、皆自給自足の生活をしていた。
アレクとアンナは、二人で暮らせれば、何処だって幸せだった。
だから、貧しい村の生活にも文句を言わず、むしろ楽しんでいた。
そして、そんな二人を村の人達は歓迎し、仲間として接してくれていた。
その様子を知ったブリュースト伯爵は怒り、二人に更なる追い打ちを掛けてきた。
それは、二人が育てた農作物の内、7割を伯爵家に入れると言うものだった。
その代わり、二人の結婚を認めてやるとも言ってきた。
アレクは悩んだ末、認めてもらえるならと、その契約書にサインをした。
それが、二人の転落の始まりになるとも知らずに…。
ブリュースト伯爵と契約をしてしまった二人には、休む間などなかった。
育てた農作物を収穫の際に、毎回7割を持っていかれる。
そうすると、二人で毎日食事をする分を確保するのがやっとになってしまう。
そんな中、夫であるアレクの病気が判明した。
それでもアレクは、身を粉にして働いたが、疲れた体に、たっぷりと栄養を与えるほどの食事は作れず、日に日にアレクの状態は悪化していった。
「ごめん。アンナ。こんな筈じゃなかった。」
ベッドに寝たきりになってしまったアレクは、そんな後悔を滲ませていた。
「父上に、認めてもらえるはすだったんだ。でも、僕の考えが甘かった。父上は、思っていた以上に僕を憎んでいたんだ。…その事に気づけなかった…。」
そう言って涙を流すアレクに、アンナはいつも微笑み掛けていた。
痩せ細ったアレクの手を握りしめ、アンナは言った。
「謝らないで。私はどんなに苦しい生活でも耐えられる。私はあなたを失う方が、辛いわ。だから、気持ちを気丈に持ってね。」
二人は貧しいながらも、お互いを思いやり、生活していた。
そして、アンナはアレクの分まで必死で働いたが、アレクの病状は良くならず、一人で農作物を育てることにも、疲弊が出始めていた。
村の人達も、二人を何とか助けようと、畑を手伝ったり、アレクの看病をしてくれたりもした。
しかし、元々が貧しい村。
村人も自分達の事で精一杯で、二人を十分に助けることなど出来なかった。
アンナは目の前の裁判長を見上げて、言った。
「私は不幸でした。アレクの口車に乗せられて、結婚してしまった。しかしその事で伯爵様から目を付けられてしまった。苦しい生活を強いられる中、彼は病魔に倒れました。その時私は、神に救われた思いでした。アレクが死ねば、私は楽になれる。そう思いました。ところが、病魔に犯されながら、アレクはなかなか死んでくれなかった。」
「この人でなし!」
「お前は最低だ!」
「悪魔め!」
そんな傍聴席からの声に、アンナは微笑んだ。
(もっと、もっと、言って頂戴。私は罪人なのだから。)
ある夜、アレクが言った。
「アンナ。僕はもう、ダメだ。」
「そんなこと言わないで!」
アンナは気弱になっているアレクに、活を入れた。
それは、死が近づいているアレクに、それを悟られないためでもあった。
元々気弱なアレクは、怖がりだ。
本当は病気になり、日に日に弱くなっていく自分が怖い筈。
アレクは死に、恐怖を感じている。
それが分かるのも、アレクの手を握る度、震えているのを感じているため。
「大丈夫。あなたは死なないわ。私が守ってあげるわ。」
アンナはそう言ってアレクの頬にキスをする。
そんなアンナの温もりと笑顔に、アレクは安心感を覚える。
しかし同時に、アンナを苦しめている事実もある。
アレクの心はいつも、揺れていた。
(僕さえいなければ。)
そう思うことも増えていった。
そして、ある時から死ぬことよりも、アンナを不幸にしていることに、苦しみだしたのだ。
「アンナ、お願いだ。私を死なせてくれないか?」
「何を言うの!」
「私はお前を苦しめている。生活も、体も、そして、気持ちも。」
「そんなことないわ!」
アレクは、痩せ細った手でアンナの手を握った。
「ほら、お前の美しい手も、農作業でこんなにマメだらけだ。僕は君にそんな辛い思いをさせたくないんだ。」
「辛くはないわ。あなたと一緒だもの。」
アンナは微笑んで見せた。
「君は本当に強い女性だね。そんなところも大好きだよ。…でも、僕はいずれ死ぬ。君を一人にしてしまうだろう。だから、この村を出るんだ。そして、町へ行くんだ。君の賢さなら、何処ででも働ける。君はまだ幸せになれる。僕は、そんな君の足枷になりたくないんだ。だからアンナ…。」
アレクは優しい笑顔でこう言った。
「僕を殺してくれ。」
アンナは両手を広げて、裁判長に言った。
「私は夫を殺して、自由になりたかった。他の町へ行き、新たな人生を歩きたかった。」
最後の夜、アレクが言った。
「アンナ、君は僕を刺してすぐにこの村を出るんだ。いいね。」
アンナは頷く。
そして、今度はアンナが言った。
「私はあなたが望むままに、あなたを殺して町へ行くわ。そして、必ず幸せを手にする。だから、あなたも約束して。」
アンナはアレクの頬に手を当てた。
「私が死んだ時、必ず迎えに来て。そして、天国で二人で幸せになりましょう。」
「あぁ、約束するよ。」
そう言うと、アレクは目を閉じた。
その表情は、病魔に犯されているとは思えないほど、穏やかだった。
そんなアレクの顔を見ながら、アンナは剣を持った。
泣いていることをアレクに悟られないように、アンナは明るい声で言った。
「アレク。愛してるわ。」
そして、アンナはアレクの胸に剣を突き立てた。
アンナは一つだけアレクとの約束を破った。
町へは行かず、冷たくなったアレクの側に居たのだ。
そこへ、村の仲間がアレクの様子を見に来た。
驚いている仲間にアンナは言った。
「これで、清々したわ。」
「アレクが可哀想だ!」
「お前が死ねば良かったのだ!」
傍聴席からはアンナを責める声が止まない。
(そうよ。私が死ねば良かったの。でも、それでは、アレクが悲しむ。…彼を一人にしてはいけない。)
「私はアレクが死なない事に苛立ちを覚えました。しぶとく生きるアレクに、嫌気が差したのです。」
(もう、これ以上、私に嘘を言わせないで。苦しい。アレクの事を悪く言うのは、苦しい。だから、早く…。)
「我慢できなくなった私は、この手でアレクを殺しました。今は穏やかな気持ちでいます。」
そう言い終わると、アンナは手を下ろした。
裁判長が小槌を三回叩いた。
「判決を伝える。」
辺りが静まり返る。
「アンナマリア.ファステリア。お前の身勝手な行動に、許される点は何処にも見当たらない。よって、お前を、死刑に処す。」
その判決を聞き、アンナは涙を流した。
(これでやっと、アレクと会える。)
アンナは心底ほっとした表情を見せた。
数日後、アンナの死刑は執行された。
アンナの動機について本当の事を知るものはいない。
しかし、アンナは天国でアレクと幸せになることを願った。
その為に、アレクに対して、心にもない供述を繰り返し、早く死ぬことを選んだのだ。
世間に嘘をつき、アレクとの愛を貫いたアンナは、天国で罪人と言う名前を背負うことになるだろう。
読んで頂き、ありがとうございました。