64 手のひらサイズの猫がサーベルタイガーにメタモルフォーゼ
「梓! 梓!」
「……あ、兄さま。なに?」
梓がテーブルの上のリンゴを見つめ、しばらく動かなかった。いや、一分かそこらのことだったが、ロボが動かなくなると、故障したんじゃないかって心配してしまう。
「大丈夫か? なにか、フリーズするようなことでもあったか?」
コンピューターってヤツは能力以上のデータ処理をさせられると処理速度が極端に落ちて、ついには停止してしまうんだそうだ。
これを、専門用語では、ふりーずとかはんぐあっぷとか言うそうなんだが、ウルトラデラックスビギナーの俺にはなにがなにやらだ。
「問題ナシ。リンゴについてのデータの更新があっただけ」
「へえ、おいしいアップルパイの情報でもはいったのか?」
「該当する情報は約949000件、内、レシピは約531000件」
「ありがとう。今度教えてくれ」
「わかった」
そして、ロボ梓は再びアルジェンテと呼びかけた仔猫と、でかい骨で遊び始める。
廊下側のドアがノックされ、俺が返事をするのと同時に、メイドさんたちが入ってきた。
伊香鎚さんが、俺と梓の担当メイドさんの一隊を引き連れて戻ってきたのだった。
「まあ!」
「なんて!」
「ええっ!」
「まあ、まあ、まあ!」
「うそぉ!」
「ああっ!」
感嘆の対象は、ロボ梓と遊んでいる、アルジェンテとロボ梓が呼称した仔猫だった。
「アルジェンテ……」
梓付きのメイドさん……たしか、小林若葉さんって名前だったな。今、ロボ梓が着ている夏季体操服も小林さんのチョイスに違いない……が、ロボ梓が呼んだ仔猫の名前を掠れた声で口にした。
「なぁーう」
仔猫が返事をするように鳴いた。
ああ、もう、この仔猫の名前アルジェンテで固定されちまった感じだな。
梓によればアルジェンテっていうのは、フランス語かなんかで、銀って意味らしい。
たしかに、この毛並みは銀って雰囲気だ。
ロボ梓は常時接続しているネット上にある数多のデータから、この猫の毛並みから連想される単語を検索したのだろう。
「あ、あの、この仔猫はですね……ずっと三組の教室で飼育されていたんですが……」
俺は、何とかこの仔猫をここで飼えるようにお願いしようとした。
俺付きのメイドさんたちと梓付きのメイドさんたちの同意を取っておけば、『竜洞生徒』以外でこの家のトップである鳳翔さんに、なんとか口添えしてもらえるかもしれない。
「なんか、梓も仲良くなっちゃったみたいですし……。餌代なら俺がバイトして……」
そこまで言って、ふと、俺は、メイドさんたちの異様な雰囲気に気がついた。
メイドさんたちの梓と仔猫を見る目が、どう見ても飼い猫と遊んでいるお嬢様を見守っている使用人モードになっている。
「お嬢様……」
「アルジェンテ……よく……」
な、なんかしんないけど、この猫ここにいてもいい雰囲気になってるぞ。
すでにでかい犬がいるから飼えるかどうか心配していたんだが、この様子だと何とかなりそうだ。
「わあっ!」
「きゃあぁっ!」
「ふわぁっ!」
メイドさんたちが口々に驚きを叫ぶ。
「な、な、な……なんなんだ? これは」
俺も、目の前で発生した不可思議な事案に、目を見開いた。
「アルジェンテ!」
ロボ梓が、仔猫の名を呼んで、「それ」にダイブした。
白と黒の虎縞模様の毛皮に、ロボ梓が埋もれる。
「ぐるるるぉあーぉ」
猫科の獣がご機嫌なときに発するというゴロゴロという声。
その目は閉じられ、うっとりとしているように見える。
その毛皮は白黒というよりも銀と黒の方がより正確な表現だ。
そして、その口には特徴的な長い牙。
そこには、体長三メートルに達する巨体の、十万年前に絶滅したはずの猫科哺乳類にして頂点捕食者がいた。
「おいおい、うそだろ?」
体毛が銀色に輝くサーベルタイガーが、美少女と戯れているというシュールな状況が展開されていたのだった。
※※※※※
なんだ! なんだ! いったいなにがおこっている?
いや、起きていることは分かっている。目に見えている。ただそれを、事実として俺が認めたくないだけだ。
妹の姿をかたどってアダルティな目的のために製造されたアンドロイドと、さっきまで手の平サイズの仔猫だった頂点捕食者が、姉弟のようにじゃれ合っているなんて、正気を疑う絵面だ。
「お坊ちゃま、御前に立つ御無礼を!」
俺の目の前、俺と梓と猫の間に暁さんたちが立ちはだかる。梓付きのメイド、若葉さんたちも、いつでも猫に飛びかかれるように身がまえている。
メイドさん方は、いち早くパニックから立ち直り、俺とロボ梓を守るべく行動していたのだった。
なんてこった。
まだ変声期も始まっていないとはいえ、俺はこのお屋敷で唯一の男だ。この群の中で唯一のオスだ。
この群を守る義務が俺にはある。かつてこの屋敷の主だった『竜洞生徒』の人生を引き継いだ俺は、この家とそこにあるものを『竜洞生徒』に成り代わって守らなくちゃならないはずなのに……。
俺は、恥ずかしさと面目なさ、そして、自分への怒りに顔が火照る。
「お坊ちゃま、どう思われます?」
そんな俺の心内を知って知らずか、暁さんが俺に意見を求めてきた。
当然、梓と猫のことだ。
「うん、あのサーベルタイガーは、やっぱり、俺が三組から貰い受けてきた子猫が、何故かは知らないけれど、突然でかくなったと考えるのが合理的だと思う。あの、梓への懐きようから、俺たちに襲い掛かってくることは、まず、ないと思う」
あれだけ露骨に腹を見せて服従のポーズをとって、そこに梓を受け入れている。これ以上ないってくらい梓に懐いて服従しているに違いない。
「はい、私もそう思います……」
暁さんが同意してくれる。伊香鎚さんたちも頷く。
「はあ……」
俺は思わずため息をついた。
梓と巨猫はこちらの心配をよそに、モフモフを堪能し、堪能されご満悦だ。
白銀に輝く毛足の長い腹の体毛に埋もれる梓の姿は、まるで新雪にダイブしてはしゃいでいる幼女だ。
サーベルタイガーはサーベルタイガーで、モフモフされて上機嫌に喉を鳴らしている。
しかし、でかい猫の喉鳴らしは雷みたいで迫力があるな。
「問題は……、あいつをどこに住まわせるかだけど……。いつ、凶暴化しないとも限らないし……」
俺は、仔猫を連れてきた美洲丸の手や胸についた引っかき傷を思い出す。
あの猫は、懐いていない人間には敵意丸出しで威嚇し、加害することに躊躇がないという実績がある。
「仔猫だったら引っかかれても噛み付かれても、まあ、笑える範囲内だったけど……」
「あの大きさの猫科の牙や爪は凶器です。向こうにその気がなくても、単にじゃれ付いてきただけだとしても、重傷…最悪、致命傷を負う危険が……」
伊香鎚さんが、考えられる最悪のケースを口にした。
「そうだね。伊香鎚さんの言う通りだ。正直、こうしていても、いい考えが浮かぶとは思えない。情報が少なすぎる。そこで、使い魔に詳しい人間に相談してみようと思う」
「はい! それが最善かと」
「そうですね……」
暁さんと、『竜洞生徒』付きのメイドさんたちが同意してくれる。
俺は、スマホを取り出し、美洲丸の名前をタップした。
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