42 俺の魂が全く知らないことでも『竜洞生徒』の体は覚えている
戦後軍隊史の講義をしながらの楓教官による“気をつけ”と“休めの”指導が続く。
「すっかり米軍式になった我が国の軍隊のその象徴的なものが気をつけだったり、休めだったりするわけなの。じゃあ……。すめっ!」
お、こんどは…、そうか、『休め』か!
手を後ろに回して足を開く。
「じゃあ、修正するよっ!」
さっき足の間に入れたブーメランを定規状に変形させ、開いた足の間に入れてくる。
「これが、休めのときの両足の間隔。二十五センチ。手はね、『休め!』という号令のときはここで一度手を組んでから、ここに下ろす」
俺の手を腰の位置で一度組ませて、ケツまで下げる。俺が最初にやった休めの位置だ。
「休め! って号令で足を開きつつ手を腰で組む。そして、足が決まったら手を下ろす。休め! 一、二って感じ。いい、何回かやるから見てて」
俺の前で楓が手本を見せてくれる。セルフ号令でな。
「きょつけッ! すめッ! きょつけッ! すめッ! きょつけッ! すめッ!」
ビシッ! ビシッ! ビシッ! ビシッ! っと、音がするくらいにきびきびとした動作で楓は気をつけこと、不動の姿勢と休めを繰り返す。
腰の後ろで組む手の動きに注視しているとどうしても、その下の濃紺色の着衣にも目がいってしまう。
だ、だめだ、だめだ、集中集中!
楓の気をつけと休めをしっかりと目に焼き付けて……焼き付けて……くふッ!。
「じゃあ、今度は前向いてやるからちゃんと見てて!」
きれいな回れ右で、楓が振り向き(このとき楓の胸が慣性の法則に従っていたのを俺は見逃さなかった)、再び『気をつけ』と『休め』をセルフ号令で数回繰り返した。
「じゃ、やってみよっか!」
「おう!」
「きょつけッ!」
俺は、習ったばかりの『気をつけ』こと『不動の姿勢』をとる。
我ながら、ビシッと音が聞こえそうな身のこなしだった。
「へえ…、やるじゃん。ちょっと教えただけで、これかぁ。やっぱ、体が覚えてっるてやつかなぁ……。すめッ!」
(ザッ一、二!)
足を開くと同時に腰の後ろで手を組んで、カウント二でケツの少し上に下げる。
我ながら、あまりの反応のよさに驚いた。
すげえな『竜洞生徒』の体。これが、体が覚えてるってことなのか? この調子なら、他のみんなに追いつくのも、そんなに時間がかかることじゃないかもしれない。
「うん! いいじゃん、すごい! すごいよ辰哉!」
楓が破顔する。
そのとき俺は『この笑顔を守りたい』と思った。そんな気にさせるとびっきりの笑顔を楓が俺に向けてくれたからだ。
「あ、長門が来る」
校舎に目をむけると、背の高い女性がこちらに向かってくる。
確かに。あの背の高さの女性を、他には鳳翔さんくらいしか俺は知らない。
「私が、気をつけ! 敬礼! って号令して挙手の敬礼をするけど、辰哉は不動の姿勢で、首だけを長門のほうに向けて、目をしっかり開いて長門を見て。あと、長門が何を言っても、長門が『これより私が指揮を執る』っていうまで、あたしの号令だけで動いて」
俺の右隣、腕の長さくらいの間隔を空けて楓が並び、次の行動の指示をする。
ああ、それひょっとして、それはカシラ何とかってヤツだな。待雪だったか、太刀浦だったかの家でテレビを見せてもらったときに見た記憶があるぞ。そして、今の俺の上官は楓だからそれ以外の命令は聞くなってことだな。
「わ、わかった。よろしく頼む」
とにかく、今は、楓の号令だけに従って、楓に褒められたことだけをやればいいんだな。
ってか、それ以外やったら駄目に違いない。
「それから、もうひとつ」
「ん?」
「長門が何を言っても、何をさせても、絶対に食ってかからないって約束して」
ああ、さっきみたいに、教官殿に向かって怒鳴り散らすなってことか。
「わかった。努力する」
「努力じゃなくて、絶対……」
楓ができの悪い弟に言いふくめるように言った。
ザッ! ザッ! 長門教官の足音がみるみる近づいてくる。
「では、始めよう!」
上下迷彩服に臙脂色のベレーを被った長門が、補習授業の開始を告げながら俺たちの前、二メートルくらいの場所に立った。
まるで、少女歌劇団の男役俳優のように、鉄の棒が入っているかのように背筋をピンとと伸ばし胸を張っている凛々しいという表現しか思い浮かばない立ち姿だ。
しかもこの迷彩服、特注なのかオトナの女性の体型をものすごく強調するようなシルエットだ。
(この迷彩服、乳袋つきなのか?)
太刀浦資料にあった専門用語が頭をよぎる。
上衣がパンツインされていて、高い位置で細くくびれたのウエストを際立たせている。
そして細いウエストを強調するということは、すなわち、その上方に位置するものがさらに強調されるということで……。
楓よりもさらに巨大なバストが、ヒマラヤ山脈のように峰々を連ねていた。
さらに、カーゴパンツなのにぴったりと脚にフィットした迷彩ズボンは、しっかりとごついミリタリーな編み上げブーツにインされている。
こ、これは、エロい。おそらくは上級者向けのエロスだろうが、反応しそうになってしまう。
俺は、目の前に立っている長門教官殿から、なんとか目を逸らしたかったが、それは許されていることではない。
隣に立つ楓が、短く、しかし大量に空気を吸い込む音が聞こえる。
校舎の時計は6時55分を示していた。
※※※※※
「きょつけぇッ!」
楓の号令がとどろく。
間髪いれずに俺は不動の姿勢をとる。
周りで朝練を開始していた部活の連中が、つられて姿勢を正し、長門教官に向く。
「けぇれいッ!」
ザッ!
っと、音がするような勢いで楓が右手を挙げたような気配がする。ほぼ同時に俺は長門教官に向かって首を回し、目を見開いて見つめた。
周りにいた朝練の連中もその場で、同時に俺と同じ行動をとっていた。
ビッ!
っと、空気を裂くように右手を挙げ、長門教官が俺たちに向かって敬礼をする。
敬礼をしたまま上体をぐるりと回し、自分を見つめているいくつもの目を見返している。
やがて俺たちに向き直り、手を下ろし、気をつけに戻る。
「なぁれッ!」
頭の向きを正面に戻す。
「竜洞生徒と大和生徒以外は解散してよし」
長門教官がそう言っても誰も動かない。
楓が『私の号令以外では動かないで』というのは、こういうことか。
「解散!」
楓の号令で、部活の連中が各々の練習に戻っていった。
「楽にしろ」
楽にしろ? 休めのことか? だが、俺は動かない。楓の号令を待つ。
「すめッ!」
すかさず楓が号令をかける。
俺は、手を後ろに回し足を開く。
「ただいまより、本訓練分隊の指揮は私が執る!」
「大和生徒、長門教官に指揮権を移譲します!」
なるほど、ここから長門教官殿の号令に従えばいいんだな。
「をつけッ!」
たぶん『気をつけ』だ。左足を引き戻し、不動の姿勢をとる。
踵がぶつかってガツッ! っと、鈍い音がする。
『気をつけゲージ』を当てられた感触を思い出しながら、つま先の位置を調整する。楓に下を見るなと言われていたので、下を見ることはしない。
教官殿から、俺の不動の姿勢に対する突っ込みは……ん? 取りあえず無しか。
「大和生徒!」
「はいっ!」
「腕立て伏せの姿勢をとれ!」
すぐさまに楓が腕立て伏せの姿勢をとる。
「大和生徒! 私は竜洞生徒の基本教練を命じたか?」
「命じられてません!」
ちょっと待て!
「私の上位の者の誰かが命じたか?」
「命じられてません!」
ちょっと待て!
「いち!」
「いち!」
「にぃ!」
「にぃ!」
くそッ、こういうことか。
楓のヤツ、こうなることがわかってて、あんな約束させたな。
絶対、長門教官に食ってかかるななんて……くそぉッ!
「なな!」
「なな!」
「はち!」
「はち!」
だから、ちょっと待ってくれ!
「きゅう!」
「きゅう!」
「はち!」
「はち!」
ん? 俺の耳はおかしくなったか? 九の次が八になってるぞ。十だろ普通は!
「なな!」
「なな!」
何で『カウントダウン』を始めている!?
「ろく!」
「ろく!」
楓は長門の号令にあわせ、淡々と腕立てを続けている。
そんな楓を俺はじっと見つめているしかできない。
「竜洞生徒! 貴様どこを見ている。不動の姿勢のときは、どこを見ると大和生徒に教わった? 足元を見ると教わったんだな!」
「大和生徒でたらめを教えたな! 十回追加だ!」
「なッ! ちが……」
「竜洞生徒! 誰が口を利いていいと言った? もう十回追加だ大和生徒! ありがたいなぁ。貴様の筋トレを竜洞生徒が手伝ってくれてるぞ。お礼にもう十回だ! 礼を言うといいぞ」
「竜洞生徒! ありがとう!」
なんだこれは? なんなんだこれは? なんでこうなる?
さっきと違って、俺たちはちゃんとやってたよな。
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