08 学院と社交界の違い
叔父との遭遇により調査は一時中断されたが、しばらく雑談をした後で調査を再開し、このあたりにありそうだとあたりをつけていたところはあらかた見終わったところで、外がもう暗くなっていた。
10歳の誕生日に両親から貰った懐中時計を見ると、そろそろ切り上げなければ夕食に間に合わなくなってしまうかもしれない時間であった。本当はもう少し時間はあるが、もし何かトラブルがあった場合に困るからとと大人しく自宅に帰ることに決めた。
本を元の場所に戻そうと書庫に向かう途中、恐らく一番であってはまずい相手と鉢合わせてしまった。
「アクアオーラ様、こんなところで何をしているんですか?」
この城に出入りできる人間の中で…つまり貴族たちの中で、アクアオーラに対してこんな話しかけ方をする人間は一人しかいない。
シャーマナイトを誑かし、ロードライトに媚を売り、ジェダイトに我儘を言った、面食い男爵令嬢である。
学院では『公爵令嬢』と『男爵令嬢』という身分の差はあったものの、一生徒同士であったため許されていたことも、アクアオーラは学院をやめている上にここは王城。一生徒同士ではなくなると、『公爵令嬢』と『男爵令嬢』という身分の差しか残らない。
「アクアオーラ様!無視しないでください!」
貴族令嬢としてのマナーがなっていないアリスは、学院の外ではアクアオーラに相手にもされない。貴族界では自分よりも位の高い相手に話しかけることはタブーとなっている。貴族令嬢はそこまでではないが、自分より位の高い相手に話しかけて無視されても文句は言えない。
アリスの存在を完全に無視して、アクアオーラは書庫に向かう。アリスが喚きながら付いて行くが、書庫の中まで入る権限はないというのにどうするつもりなのだろうか。
「もういいわ、シャーマ様に言いつけてやるんだから!!!」
シャーマナイトを引き合いに出してアクアオーラに喧嘩を売っているつもりのようだが、アクアオーラにとって婚約者でもないシャーマナイトは気にかける必要もない相手だ。王子という立場に対して敬意を払いはするが、シャーマナイト本人には全く敬意を払う気は無い。全く聞こえていないかのような反応のアクアオーラに、アリスはさらにギャアギャアとうるさくなる。
いい加減煩わしくなって、アクアオーラはアリスに顔を向ける。それを見てアリスは、何かを叫ぼうと空気を吸い込んだが、アクアオーラが先に口を開いた。
「あなた、先程から迷惑ですわよ。猿のようにキーキーと喚いて…恥ずかしくありませんの?」
「なんですって!!!」
顔を真っ赤にしてそう叫ぶアリスをみて、アクアオーラはクスッと笑った。その含みのある笑みに、アリスはなによ!と叫ぶ。こんなに叫んでいるのに喉が痛くならないのが不思議だ。
「いえ、なんでもありませんわ。ええ、叫ぶことしかできないあなたが可哀想だなんて、ひとかけらも思っていませんわよ」
「誤魔化せてないわよ!」
「気のせいだと思いますわ。そう言うところ、あの殿下にお似合いですわよ」
敵視していたアクアオーラにそう言われ、アリスはぽかんと間抜け面を晒した。アクアオーラは、それを見て先ほどとはまた違う笑みを浮かべて踵を返した。書庫に行くのについてこられては困るのだ。
本を返した後、公爵邸に帰ろうと城の外へ向かうと、またアリスと遭遇した。今度こそ構うと長くなるからと見なかったことにして馬車に乗り込むと、アリスはまた喚いていたが気にする気にもなれずに馬車を出すように御者に伝えた。
「お嬢様、よろしいのですか?」
「ええ。彼女に気を遣う必要はありませんもの」
アリスをもはや名前で呼ぶことすらしなくなったアクアオーラは、窓の外を一瞥したあとでカーテンを閉めた。
恐らく王の私室や執務室から繋がっていると思われる道がありそうなところをメモした紙を読み返しながら、アクアオーラは思考に耽る。その頭の中には、もう既にアリスのことなど残ってはいなかった。
(王が逃げるための道だとしたら、城内のどこかではなく城外へと繋がっている可能性が高そうですわ)
今度は城の外周でも見て回ろうと思ったが、学院で通ったあの道の出口の扉はよく見てもわからないほど精密に隠されていたので、そんなことをしても無駄だろうとやめておくことにした。
「お嬢様、到着いたしました」
御者の声に我に返ったアクアオーラはそれに返事をして、開かれたドアをくぐって馬車を降りる。執事が開いた本邸の扉を通り抜け、そのまま自室に戻った。数人の侍女を呼び外出用のドレスから自宅用のドレスに着替えたあと、夕食の準備がされたリビングに向かう。
扉が開くと、既にロードライトとローズオーラは席に座って待っていた。アクアオーラに気がつくと、ロードライトとローズオーラはホッとしたように息をついた。
「おかえり、アクアオーラ」
「遅かったわね。何かあったの?」
「遅くなり申し訳ありませんわ、お父様、お母様。本当はもっと早くに終わるはずだったのだけれど、ジェダイト叔父様とお会いして話が弾んでしまいましたの」
そう言って微笑むアクアオーラを見て、ロードライトとローズオーラは顔を見合わせたあと上品に笑った。両親のその様子に、アクアオーラは首を傾げたが、数瞬後に心配されていたのだと思い当たった。
「ご心配をおかけしました。次からは気をつけますわ」
「そうしてくれるとありがたい。さて、そろそろ夕食にしようか」
「ええ」
そうして、アンスラックス家の晩餐が始まった。上品に、だが楽しそうに進む食事は、ひどく幸せそうだった。
(たとえ予定が押しても、お父様とお母様には心配をかけないように気をつけなくてはなりませんわね)