10 アクアオーラの苦悩
唇を噛んで、殴りたい衝動に耐えたシャーマナイトは、アクアオーラの言葉で我に返る。
「そういえば殿下。公爵邸にどのようなご用件でしょう。生憎と両親は留守にしていますの。父か母へのご用でしたら、出直してくださいませ」
「…お前に用があって来た」
「まあ。いかがなされましたの?あの殿下がわたくしにご用だなんて」
驚いたような表情を浮かべるが、アクアオーラはわかっていてここに招き入れた。ひどくわざとらしいが、シャーマナイトのお飾りの目はアクアオーラが本気で驚いているように映る。まあどちらに映ったにしろ、相手の神経を逆なですることには変わりない。
「ふざけるなよ!いい加減、俺たちに謝れ!」
「わたくし、シャーマナイト様に謝らなければならないようなことはしていませんわ」
「アリスを令嬢たちでよってたかっていじめただろう!いいから謝れ!」
高圧的な態度でそう言ってくるシャーマナイトだが、先ほどの様子を見ていればそれを恐れるどころか失笑を誘う。
「わたくしたちはそんなことはやっていませんわ。わたくしたちが何かをしたという証拠はありますの?」
「アリスの証言がそうだ!」
「当事者の証言を証拠と認める馬鹿はいませんわ。出直していらして。要件がそれだけならお引き取りくださる?わたくしにも予定がありますの。マリアライト、殿下をお送りしてちょうだい」
「承知しました」
「要件ならまだある!」
アクアオーラは、もうこれ以上話をするつもりはないらしい。だが、シャーマナイトが大きな声を上げてアクアオーラを止めた。
「…わたくしも暇ではありませんの。手短にお願いしますわ」
「貴様が謝りさえすれば側室として迎え入れてやる。光栄に思え」
シャーマナイトの言葉に、アクアオーラの目が一瞬氷点下並みの冷たさになったがすぐに取り繕われたのでシャーマナイトは気づいていない。
「やっと殿下との婚約が解消されたと言うのに、再び殿下の妃になるだなんて御免ですわ。それでは、失礼いたします」
そんな彼にアクアオーラは、完璧な微笑みを浮かべながらそう答えた。呆然としているシャーマナイトを放置し、アクアオーラは客室の扉へと向かう。本来なら客を置いて退室する行為はマナー違反だが、そもそもシャーマナイトが急に訪問してくることがマナー違反となるので、予定の有無を聞かなかったシャーマナイトにそれを責め立てる権利はない。
「マリアライト、頼みましたわよ」
「承知しております」
アクアオーラはそう言うと、マリアライト以外の侍女を連れて部屋を出た。シャーマナイトとマリアライトのみ残された客室では、数秒後にシャーマナイトの絶叫が響いた。
「それにしても、本当に残念なおつむをしていらっしゃるわね、あの方。流石はあの小物令嬢に引っかかる方。わたくしたちの婚約の意味を、王に言い含められでもしたのでしょうね」
私室に戻ったアクアオーラは、ふう、とため息を吐いて羽ペンを握った。インクにつけて可愛らしい便箋にペンを走らせる。それは、彼女が両親に言いつけられていたことだった。もしもシャーマナイトが公爵邸に訪れた時は、会話や行動について伝えろと言われていた。アクアオーラは、どうでもいいと思ったことは基本誰にも話さない。それはシャーマナイトやアリスのことでも同じで、それを危惧した両親がそうする様に言い含めたのであった。
誰かに見られる可能性を考えてシャーマナイトの名前は出していないが、手紙が届いたことと口調が男性であることを鑑みると、両親にはしっかり伝わるだろう。
「お父様もお母様も、心配性ですわね」
「旦那様と奥様が心配性になるのも頷けます」
「まあマリアライトったら、ひどいですわ」
音もなく後ろに立っていたマリアライトに驚くこともなくその言葉に応えるアクアオーラだったが、別のことに驚いていた。
「それにしても、あの殿下がこんなにもすぐに引き下がるだなんて思ってもいませんでしたわ」
「呆然としている殿下は扱いやすかったです」
しれっと応えるマリアライトも、確か貴族の子女だった筈なのだが、あの王家に対しての敬意というのはこれっぽっちもないようだ。主従は似るのだろうか。
「いつもの殿下も扱いやすいと言うのに、さらに扱いやすくなってしまってはいけませんわ」
「殿下ですので、仕方がないかと」
「それもそうですわね」
やはり主従は似るらしい。アクアオーラはマリアライトと笑いあった後、手紙を全て書き上げてマリアライトによろしくと言って渡す。マリアライトはそれを受け取って、頭を下げて部屋を出た。
両親はシャーマナイトのことを一番警戒しているようだが、長い付き合いのアクアオーラはシャーマナイトが存外御し易い人間だと言うことを知っていた。だからこそアクアオーラは、ため息を吐いて思考を巡らせる。
(殿下よりも、騎士団長の息子と宰相の息子の方が厄介ですわ)