00 プロローグ
ここは、王立貴族学院と呼ばれる貴族の子女たちが集まる学院。豪奢な建物や美しい庭園が並び、国で一番金がかけられている学院である。
そんな学院の建物の中で一等大きな建物の窓際の廊下を、真っ赤な髪とルビーの瞳を持つ令嬢が歩いている。彼女は、ディヤメント王国第一王子シャーマナイト・コロラド・ディヤメントの婚約者アクアオーラ・アンスラックス公爵令嬢。
彼女の婚約者シャーマナイトは、元庶民のアリス・エレスチャルと言う男爵令嬢に夢中になっている。学園においてアリスは、アクアオーラの友人の婚約者にも囲まれて、所謂逆ハーレムと呼ばれるものを形成していた。
彼女はそんなアリスに注意を繰り返してきたが、シャーマナイトや他の婚約者はそうは取られなかったようだ。アリスがそう言って泣きついたと言うのもあるかもしれないが。
「アクアオーラ」
「なんでございましょうか、シャーマナイト様」
彼女は後ろから声をかけられたが、振り返らずに話しかけてきたのが誰かを的確に把握した。彼女のことを呼び捨てにできる人間は少ない。ここが貴族の子女の集まる学院であることや、最近は毎日のようにアリスのことについて言われていることも鑑みると、相手はシャーマナイト一人しかあり得なかった。
彼女はシャーマナイトの言葉に少しも耳を傾けていないのだが、それをまだ理解できていないらしい。
アクアオーラは、そんな残念な頭を持つシャーマナイトに心の中で溜息を吐いた。
「いい加減、アリスに嫌がらせをするのをやめないか」
アクアオーラが嘆息していることもつゆ知らず、シャーマナイトはアクアオーラに時間の都合も聞かずに本題に入った。
アクアオーラは、あとで父に報告しようとこのことを胸に留めた。
「身に覚えがないことをやめろと言われましても、何をやめれば良いのかわかりませんわ、シャーマナイト様」
それをおくびにも出さずに完璧な微笑を貼り付けて答える。
(注意と嫌がらせの違いもわからないだなんて、まるで何も知らない子供のようだわ。学院にいて大丈夫なのかしら…)
そして、シャーマナイトの話を聞き流しながら、真面目にアリスやシャーマナイトの頭と学院を心配していた。
「僕に近寄るなとか、他にもモリオンやアゲートたちにも近寄るなとも言ったらしいな」
モリオンとは宰相の息子モリオン・トパスを示し、アゲートとは騎士団の息子アゲート・トパゾスのことを示す。二人とも侯爵家嫡男でありシャーマナイトの腹心である。
「しかも、取り巻きの令嬢たちと取り囲んで。アリスは怖かったと泣いていたぞ」
アクアオーラもそのことに関してはほんの少しだけ悪かったと思ってはいるが、アリスはそうでもしないと貴族としてなっていない走り方で逃げてしまうのでそうする他なかった。エレスチャル男爵がもっとまともに貴族の仕来りやマナーを教え込んでいたらこうはならなったし、アリスが学んでいればする必要はなかったので、これは八割ほど彼女とその実家の責任である。
「わたくしたちは善意で言いましたのよ。婚約者のいる男性にあまり不用意に近寄っては貴女や貴女の家の評判を落としてしまいますわよ、と言うことのどこに問題があるのですか?わたくしたちは貴族としてのマナーが元庶民のアリス様にはわからないのかと思って言ったまでのことですわ」
「そんな言い方をするんじゃない。彼女は貴族になってまだ少ししか経っていないんだぞ」
「貴族になってからの年数は関係ありませんわ。貴族は貴族ですもの。そんなにわたくしたちに彼女を注意されたくないのであれば、シャーマナイト様ご自身で優しく注意されてはいかがでしょう」
アクアオーラは美しく微笑みながら、棘のある物言いでアリスを甘やかすだけのシャーマナイトを咎める。本来ならシャーマナイトはアリスの誘いを断り、適度な距離感を保つべきなのだ。
その事を理解していないシャーマナイトに遠回しに釘をさすも、シャーマナイトはアクアオーラの意図に全く気がつかない。
「あくまでも、態度を変えるつもりはない、ということだな?」
「ええ。どこに変える必要がありまして?」
アクアオーラはシャーマナイトが気づいていない事を理解し、馬鹿にするように鼻で笑った。
「もういい!!不愉快だ、消えろ!!」
「承知いたしました。失礼します」
シャーマナイトが本当のことをわからないだろうと思ってのことだったが、案の定シャーマナイト本人を馬鹿にしたものだとは少しも考えず、アリスを馬鹿にしたと激昂した。恐らく自分が馬鹿にされるわけがないと言う先入観と過剰な自信のせいだろう。
アクアオーラとて、初めからシャーマナイトをそのように扱ってきたわけではない。
幼少期から婚約者として付き合ってきたこともあり、最近まではシャーマナイトを支えようと尽力していた。どんなに勉強が出来なくても、どんなに愚かでも、婚約者である限り、国の為に、彼のために、支えていこうと思っていたのだ。
しかし、アリスに心酔してからはアクアオーラの扱いはどんどん酷くなっていった。本当に最低限贈られていたプレゼントは、誕生日を祝うカードすら贈られなくなってしまった。その誕生日に、婚約者への思いは凍てつく氷のように冷え切った。
(別に、恋人扱いをして欲しいだとは思っていないけれど。それでも、婚約者としての扱いくらいはして欲しかったですわ)
今まで、ただでさえ蔑ろにされて来たと言うのに、さらに扱いは悪くなった。彼女と親しい令嬢たちも、大方似たようなものだった。
(どなたもとても優秀な方だと言うのに、勿体無いことを致しますわね。アリス様よりは余程役に立てるはずなのだけれど)
シャーマナイトにアクアオーラの取り巻きと認識されている令嬢たちは皆、アクアオーラを筆頭に婚約者たちよりも頼りになる優秀な女性ばかりだ。
だが、捨てたのは彼等だ。アリスに心酔し、婚約者を蔑ろにする選択肢を選んだのは、紛れもなく彼等なのだ。
(そろそろですわね。堪え性のないあの方たちは、あと何日耐えられるのかしら)